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いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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秋田県湯沢市 皇室献上の稲庭うどん 佐藤養助総本店

2023年09月09日 14時38分04秒 | 秋田県

佐藤養助稲庭うどん店総本店。秋田県湯沢市稲庭町稲庭。

2023年6月2日(金)。

横手市増田町の佐藤養助・漆蔵資料館を見学すると、従来併設されていたうどん店は物販だけになり、40年ほど前に食べた角館の稲庭うどん店も物販だけになったという。ただし、近くの稲庭町に佐藤養助稲庭うどん店の総本店があるというので食べたくなった。これから、川原毛地獄近くの泥湯温泉に行くというと、ちょうどルート上にあるといい、旅行ガイドの記事を思い出した。11時から営業開始なので、ちょうどいい。10時45分ごろに駐車場へ戻り、佐藤養助稲庭うどん店総本店めざして出発すると、開店時刻の11時直後に着いた。店内に入ると、3人の家族連れが先にいただけだった。

席に着くとすぐに、「かけうどん850円」を注文した。余分なものを付けても高いだけだ。稲庭うどんの味だけ味わいたいだけなら、これでいい。

日本三大うどんとは、①稲庭うどん(秋田県稲川町)②讃岐うどん(香川県)をメインに、③五島うどん(長崎県五島列島)④水沢うどん(群馬県渋川市)⑤きしめん(愛知県名古屋市)のうち一つという。④を除けば、いずれも現地で食べたことがある。讃岐うどんは有名店を10店ほど食べ歩いたが、太くてコシがある。稲庭うどんは、細いなりにコシがあるうえに、滑らかな上品さが加わり、最高級といえる。

稲庭うどんは、手延べ製法による干しうどんである。やや黄色味かかった色をしており、冷や麦より太く、断面は平たくなっている。製法としては、うどんというより、そうめんに近い。打ち粉としてデンプンを使う。ひねりながら練るという独特の製法により、麺の内部に気泡が生じ、中空になっている。そのため滑らかな食感が得られる。

レジで会計をすると、「稲庭ふしっこ」をお土産に渡された。売店でも売られている。「ふしっこ」とは「端っこ」のことで、うどんを裁断するため桁に掛けていた部分である。

うどんのように茹でても、油で揚げてチップスにしても食べられるが、帰宅後は、そのまま食べてしまった。

せっかくなので、奥にある工場の見学と史料の展示を見た。

稲庭うどんは、寛文年間以前に久保田藩(秋田藩)領の稲庭村小沢集落の佐藤市兵衛によって始まると伝えられている。藩主が他藩への贈答品としたり、紀行家・菅江真澄が著書に賛辞を記したりなど、古くから名品として知られていた。1972年、それまで稲庭家(佐藤家)の秘伝とされていた製法が公開され、製造量が大幅に増えたことにより、一般市民が口にする機会が増え知名度が向上した。

佐藤養助商店の創業は、万延元年(1860年)である。稲庭干温飩の原形が稲庭に伝わり、当家の宗家である稲庭(佐藤)吉左エ門によってその技術が受け継がれ、研究と改良が重ねられ、製法が確立したのは寛文五年(1665年)と言われている。秋田藩主佐竹侯の御用処となった干温飩の技法は、吉左エ門家の一子相伝、門外不出。しかし、一子相伝の技が絶えることを心配した吉左エ門によって、特別に二代目佐藤養助に伝授され、万延元年(1860年)の創業となる。

明治に入り、当家三代目が、当時の元老院議長で日本赤十字社の創始者である佐野常民と交流した事に始まり、内国勧業博覧会に出品して以来、宮内省御買上げの栄を賜わる事になった。

 

「稲庭干温飩」は、材料の選定から出荷前の検品に至るまで、手抜きを一切許されない完全なる手作業で作られている。子から孫へと伝えられ、160年守り続けてきた伝統の技が、適度な歯ざわりとつるりとした感触の極上のうまさを醸し出している。三日間におよぶ全ての工程は、現在もなお職人による手作業である。

清く澄んだ水と厳選された塩でつくられた塩水、そして専用粉をてのひらで繰り返し繰り返し練り続け、粉から徐々に団子状にまとめる。

一旦寝かされて熟成の時を過ごした後、さらに何度も練り続け生地をつくり上げていく。こうして丹念に練り上げていくと、機械練りでは不可能な、空気穴をたくさん含むうどんができる。この気泡は、ゆでた後も長時間にわたって保たれる事が、秋田県総合食品研究所の研究によって分かり、これこそがコシの強さを生む一因と考えられると発表されている。

熟成を繰り返しながら職人の手作業により、練る、綯う、延ばすの工程を経て、乾燥の作業へと移る。

その日の天候や湿度により乾燥時間は微妙に変わる。それは熟練職人の永年の勘であり、ほんのわずかな湿度や時間の差であっても、でき上がりのうどんの味を左右してしまう。

稲庭うどんは乾麺に仕上げることで、艶のある乳白色にゆで上がり、コシが強く、生麺には無い、喉越しの良い食感となる。伝統の味を守り続けるため、手づくりにこだわり、手間暇をかける必要がここにある。

 

稲庭城跡。湯沢市稲庭町古舘前平。

佐藤養助稲庭うどん総本店を出て、泥湯温泉・小安峡方向へ向かうと、すぐに稲庭城跡の麓に着いた。二の丸跡の模擬天守近くまでスロープカーがある。雨天で眺望もなさそうだし、余分な出費もしたくなかったので写真だけ撮った。

稲庭城は、鎌倉時代の初めから戦国時代にかけての約400年間、仙北地方(現在の秋田県南部)を領有していた小野寺氏が居城としていた城で、標高約704mの大森山の西の尾根にあった典型的な山城である。

東の最も高い場所に主郭が、その西隣に二ノ郭(下館)があった。小野寺氏はもとは下野(現在の栃木県)の武将で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し、その功績により羽後国雄勝郡の地頭職に任じられて、この地に根を下ろした。この城を拠点として勢力を広げ、秋田県南部の大勢力となった。室町時代末期、小野寺氏は沼館城、次いで横手城に居城を移した。稲庭城には城代が置かれたが、間もなく当主小野寺泰道の二男の晴道が城主となり、以降稲庭氏を名乗った。1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥羽仕置で、小野寺氏はその領地を大きく削られ、1595年(文禄4)には雄勝郡の領有を主張する最上義光が小野寺領に侵攻し、稲庭城も最上氏の攻撃により1598年(慶長3)に落城し、その後すぐに廃城となった。

12時15分ごろ泥湯温泉奥山旅館に着いて、13時ごろまで日帰り入浴を楽しんだのち、三途川渓谷経由で横手市の道の駅「十文字」へ戻り、売店で横手焼きそばのパックを購入して食べた。

その後、雄物川郷土資料館へ向かった。

秋田県横手市 重伝建・増田地区③まちの駅福蔵 漆蔵資料館


秋田県横手市 重伝建・増田地区③まちの駅福蔵 漆蔵資料館

2023年09月08日 12時27分44秒 | 秋田県

まちの駅福蔵(ふっくら)。秋田県横手市増田町増田中町。横手市増田伝統的建造物群保存地区。

2023年6月2日(金)。

まちの駅福蔵(旧佐藤與五兵衛家)は、9時30分ごろ通ったときは開いていなかったが、重文・佐藤家住宅の見学を終え、漆蔵資料館へ向かうと開店していたので、内部を見学した。現在は、お休み処だが、骨董品店のように物が置いてある変わった雰囲気の土蔵造りだった。

まちの駅福蔵(旧佐藤與五兵衛家)の建築年代は、主屋が明治後期~大正期、座敷蔵が明治12年。旧佐藤與五兵衛家は、代々の地主であり、戊辰戦争では御用金を献納した名家で、明治には増田銀行設立時に監査役の一人となった。大正期に増田勧業社を設立し、セメントやトタンなど建設資材を扱う商いをしていた。

主屋は、棟札から明治18年の上棟であることが確認された。商いを開始するのに合わせ南隣に入母屋造り二階建ての建物を増築し、店舗に改修したのではないかと推測される。

座敷蔵は二階建て切妻造りで、棟札から明治12年の上棟であることが確認された。正面の妻壁や鳥居枠、土扉は黒漆喰仕上げとなっているが、角を欠き込んでないところからも建築年代が古いことが窺われる。内部は太い柱が一尺間隔で配置されており、二階の小屋組は重ね梁となっている。欄間は、麻の葉模様の組子で仕上げられ、また一階の木部は総漆塗りとなっている。

 

佐藤養助・漆蔵資料館(国登録有形文化財)。横手市増田町増田本町。

建築年代は、座敷蔵が大正10年、旧米蔵が大正後期。入場は無料。

座敷蔵は大正10年(1921)に建設された。基礎・土台には院内石、煙返しの踏み段に黒御影を使用し、土蔵の側廻りは白黒の漆喰塗りを施し、開口部を磨き漆喰で仕上げる贅を尽くした造りとなっている。

また、主要な部材は杉、欅、栗材で構成され、4寸8分の栗の通し柱を1尺5寸間隔に並べ、磨き漆喰の塗込壁で仕上げとしている。

1階座敷から外庭方向。

座敷蔵2階へ昇る階段。

座敷蔵2階。洋小屋組(トラス構造)。

座敷蔵2階「釣りキチ三平」で知られる地元増田町出身の漫画家・矢口高雄の展示があった。

小屋組も他の土蔵とは異なり、洋小屋組(トラス構造)を意識した大寸法の梁・母屋・棟木を組合せた合掌構造としている。現在では入手不可能な良質な材料を惜しげもなく使用し、大工や左官工の技術の粋を結集させ造り上げられた究極の蔵と呼べる土蔵といえる。

西洋技術の伝播に伴い増田の土蔵建築も大正期以降、和洋折衷様式へ変化して行ったことを物語る変革期の土蔵の一つといえる。

座敷蔵の横を通り裏側へ。

座敷蔵の裏側。

座敷蔵の裏側から眺める外庭。

旅行ガイドでは、稲庭うどんの営業をしていることになっているので、女性職員に尋ねると、現在は商品販売のみ、という。40年ほど前に食べた角館の稲庭うどん店も商品販売だけになったという。ただし、近くの稲庭町に佐藤養助稲庭うどん店の総本店があるという。これから、川原毛地獄近くの泥湯温泉に行くというと、ちょうどルート上にあるといい、旅行ガイドの記事を思い出した。11時から営業開始なので、ちょうどいい。10時45分ごろに駐車場へ戻り、出発した。

秋田県横手市 重伝建・増田地区②重文・佐藤又六家住宅 現天皇見学地


秋田県横手市 重伝建・増田地区②重文・佐藤又六家住宅 現天皇見学地

2023年09月07日 13時13分44秒 | 秋田県

重文・佐藤家住宅。秋田県横手市増田町増田中町。横手市増田伝統的建造物群保存地区。

2023年6月2日(金)。

重伝建地区では、たいてい1軒または複数の住宅が重文に指定されているので、見学するようにしている。観光物産センター蔵の駅(旧石平金物店)の見学を終え、通りの斜め向かいに重文・佐藤家住宅があり、有名人の見学写真が紹介されていたので、料金300円を支払って見学することにした。

2014年の現天皇(当時皇太子)の見学写真。

案内は当主である。

佐藤又六家住宅の建築年代は、主屋が明治4年ごろ、文庫蔵が明治初期で、横手市増田伝統的建造物群保存地区のほぼ中央、南北に貫く旧小安街道(中七日通り)に東面する。増田特有の細長い敷地に縦長に家屋を配置した姿を現在に伝えており、増田地区最古の店(見世)蔵が現在も現役で使用されている。

間口8.7m、奥行111mの東西に長い敷地の南側を下タ堰が西流する。

佐藤又六家住宅の最大の特徴は、主屋の中にその店蔵が組み込まれているところにある。主屋は,長大な土蔵造の居住部にミセノマや居室を収め,装飾の施された覆屋で覆うという,類いまれな構成をもつ住宅である。また明治初期に遡る主屋と文庫蔵は,当地方の住宅の伝統形式を伝えるとともに,明治中期に行われた覆屋の拡張や装飾化などに増田の隆盛期における趣向をよく示しており,価値が高い。

当家の屋敷の奥行きは50間もあり、中ほどに主屋と繋がる明治前期の建造と思われる天井の低い文庫蔵と、そしてその奥に現在では解体されて現存にいないがもう一棟土蔵が建っていたという。

増田地域に残る数少ない店蔵、そしてそれを造ったのが宮大工であることをうかがわせる社寺装飾で飾られた豪華な主屋は、明治前期の増田商人の隆盛を後世に伝えている代表的な家屋となっている。

佐藤又六家は江戸時代から続く旧家で、明治28(1895)年、当町で創業された増田銀行(現北都銀行)の設立発起人の一人として創業時の取締役を務めた地域の名士の家柄である。

外見上は他家と同様に、木造の屋根の妻を張り出した大きな切り妻屋根の商家造りであるが、内部は土蔵造りで、いつ蔵に入ったか分からない不思議な感覚に陥ってしまう面白い構造となっている。

店舗部分は、その時代によって改修が行われたが、この家屋を後世に残したいとの当主の考えで再び改修が行われ、柱や梁を表した創建当時をうかがわせる姿に復旧されている。

仏間。神棚。

仏間、オエ、居間。

仏間、オエ、居間と通り土間。

オエ。

オエ、居間。

居間。

附属屋。水屋部分に進むと、背後に開かれた掛子塗の土戸と座敷が現れ、初めて今まで蔵の中にいたことが分かる。また、土蔵と取り付きとなる水屋の上部は吹き抜けとなっており、古の職人達が考え出した、豪雪地帯特有の井桁に組まれた太い梁や桁を望むことができる。

文庫蔵。板敷を基本とし、南西部に8畳の座敷を設ける。

なお、現天皇は時間の都合により、2階は見学していない。

附属屋2階への階段。

「店の間」上の2階への階段を昇った板敷廊下。

板敷廊下から見下ろす仏間。

2階。店の間と通りの上部を20畳の座敷とし、北に床の間を設ける。

2階。東の土戸両開きの開口からは下屋上部の縁への出入りを可能にしている。

2階。東の土戸両開きの開口部。

2階。下屋上部の縁部。

2階。下屋上部の縁から見下ろす中七日町通り。

このあと、通りを戻って「町の駅福蔵」の内部を見学した。

秋田県横手市 重伝建・増田地区 吉永小百合と蔵の駅 湯沢市 名水百選「力水」


秋田県横手市 重伝建・増田地区①吉永小百合と蔵の駅 湯沢市 名水百選「力水」 

2023年09月06日 14時42分30秒 | 秋田県

名水百選「力水」。秋田県湯沢市古館山。

2023年6月1日(木)。

山の上にある川原毛地獄・川原毛大湯滝を見学後、泥湯温泉奥山旅館の日帰り入浴をしようとしたら時間外だったので、失意のうちに山を下り、見学予定地の名水百選「力水」に向かった。旧湯沢城跡の麓に来れば分かると思ったが、電話番号でナビ指定できず迷った。スマホで大体の位置を確かめ、18時ごろ湯沢市役所の駐車場に着いた。車を降りて城跡へ向かうとようやく発見できた。

名水百選「力水」は、江戸時代初め、佐竹南家が現在の湯沢市役所のある場所に館を建てたときから佐竹南家の御膳水として明治25年ごろまで使用され、近所の人たちが昼食や休憩のときにのどを潤したり、この清水のお茶は特別にうまいといって飲まれていたが、だれということなく、この水を飲むと力が出るというようになり、その後、力水の石碑が建てられた。

水は年間を通じ、湧出量毎分約11リットル、水温13度前後と安定している。また、水質も良好な状態を保っている。

近所の女性らしき人が水を汲みにきた。

このあと、横手市南部の道の駅「十文字」へ向かい、車中泊。翌朝は、泥湯温泉再訪の前に、南東近くの増田地区へ9時過ぎに立ち寄り、佐藤養助・漆蔵資料館近くの無料駐車場に駐車した。

横手市増田伝統的建造物群保存地区。中七日通りの街並み。横手市増田町増田七日町。

2023年6月2日(金)。

2013年にこの地区の約10.6haが重要伝統的建造物群保存地区として選定された。

日本有数の豪雪地帯である秋田県横手市の南東部に位置する増田は、成瀬川と皆瀬川が合流する地点に立地し、江戸時代以前より人と物資の往来でにぎわった地域で、江戸時代の増田は生糸や葉タバコのほか様々な物資の流通に伴って県内有数の商業地であったが、明治・大正時代になっても商工業活動は活発であった。

その商業活動の舞台となったのが現在の中町、七日町商店街通り(中七日通り)で、当時の繁栄を今に伝えるものが、短冊形で大規模な主屋と「内蔵(うちぐら)」とよばれる土蔵である。

内蔵は、この地方独特の呼称で、主屋の背面に建てられ、土蔵そのものを鞘となる上屋で覆っている。雪害から保護するためにこのような造りになったともいわれ、雪国に広く所在しているという。

増田の内蔵が注目を集めるのは、通り沿いの狭い範囲に集中して立地し現存していることである。

内蔵は、内部に床の間を配した座敷間を有する「座敷蔵」が最も多く、内蔵全体のおよそ65%を占めている。この内蔵が建てられた始まりは、物品を収納するための「文庫蔵」がほとんどだったと推定されるが、増田地区では明治に入ってから、座敷蔵の数が格段に増加し、文庫蔵を座敷蔵に改装した例も多い。

こうした座敷蔵は、1階の入口を入ると手前に板の間、奥に座敷間を配する2室構成となり、2階は板の間の1部屋構成で、什器類を収納する文庫蔵としての機能を持っている。

内蔵の用途として、他の土蔵との違いは、そこに生活空間を持つという点であり、多くはその家の当主あるいは特定の家族の居室として利用され、冠婚葬祭に利用された例も見られる。こうしたこともあり、内蔵は日常的に不特定多数の人間が立ち入る空間ではなく、家族以外の立ち入りは制限されていた。このため、外から見えない内蔵は、長い間、家長及びその子弟限定の施設として、所在について隣家に知られない場合もあったという極めて特殊な施設として現在に伝えられてきた。

内蔵を所有する家の多くは商家で、明治から戦前期までは家族も含めて多い時には20人前後もの人々が1軒の家で暮らしており、商店街である通りにはその頃の昼間人口は1000人を超えていたという。

まちの駅福蔵(旧佐藤與五兵衛家)。

建築年代は、主屋:明治後期~大正期、座敷蔵:明治12年。旧佐藤與五兵衛家は、代々の地主であり、戊辰戦争では御用金を献納した名家で、明治には増田銀行設立時に監査役の一人となった。大正期に増田勧業社を設立し、セメントやトタンなど建設資材を扱う商いをしていた。

主屋は、棟札から明治18年の上棟であることが確認された。商いを開始するのに合わせ南隣に入母屋造り二階建ての建物を増築し、店舗に改修したのではないかと推測される。座敷蔵は二階建て切妻造りで、棟札から明治12年の上棟であることが確認された。

観光物産センター 蔵の駅(旧石平金物店)。

建築年代は、主屋:明治中期、文庫蔵:明治中期。

明治大正期に金物商などを営んだ石田家から横手市に寄贈され、現在「観光物産センター蔵の駅」として伝統的建造物の公開をはじめとする増田町の観光案内所兼物産販売所として運営されている。入場・見学は無料

この家屋は、間口が狭く、奥行きが極端に長い増田の町割りの姿が残っており、増田の町屋の特徴を知る格好の家屋となっている。

道路に面した正面に店舗を配し、その奥に神棚のある次の間、座敷、居間、水屋と繋がる部屋割りは、増田の商家家屋の基本的な配置で、各部屋の南側に店舗から裏口まで延びるトオリも残っている。

また、他家と同様に覆い屋に包まれた土蔵が主屋の水屋に繋がり、主屋と土蔵(内蔵)が一体となった増田特有の造りとなっている。

この家屋は内蔵を含め、3回の増改築で現在の姿になっている。

一番古いのは水屋部分で、梁と桁を重ねた小屋組や釿(ちょうな)削りの痕跡を見ることができる。次に古いのが内蔵で、周囲を飾る鞘飾りが素朴であり外壁の水切りに装飾が施されていないことなどから、明治20年代の建築と思われる。

一番新しい部分は店舗から座敷までの前部で、水屋部分よりは柱間が広くなり、天井が張られ、大正の前期に撮られた写真にも現在と同様の姿で写っていることなどから、明治中期以前の主屋を残したまま、内蔵を新築し、後年(明治後期)に水屋部分を残して、店舗を含む主屋前部を新築したものと考えられている。

吉永小百合のポスター。

1階の座敷。

1階の座敷から望む庭。

内蔵2階。

内蔵2階から1階入口を見下ろす。

外蔵。

トオリから外蔵方向。2階部屋への階段がある。

 

次に、道路を隔てて南向かいにある佐藤又六家(国指定重要文化財)を見学した。

秋田県湯沢市 川原毛地獄 川原毛大湯滝 泥湯温泉奥山旅館


秋田県湯沢市 川原毛地獄 川原毛大湯滝 泥湯温泉奥山旅館

2023年09月05日 17時09分22秒 | 秋田県

川原毛地獄(かわらげじごく)。秋田県湯沢市高松番沢。

2023年6月1日(木)。

川原毛地獄方面へのアクセスは事前に旅行ガイドで下調べしていたが、北東・中央・南西三方向からアクセス道路があり、どれを取るか迷った。翌日にかけ、3路線を経験したが、中央の湯沢横手道路・須川ICから秋田県道51号湯沢栗駒公園線が予想外にしっかりしていた。湯沢市街地から小安峡温泉へ向かう国道から分岐してからの道路は冬季閉鎖されるような道路である。

院内銀山異人館からは西の国道108号を進み、秋の宮温泉郷手前から北へ入る道路が近いが、冬季道路閉鎖が長期間続くようだ。異人館の女性職員が地元の知合いに電話で確認すると、数日前に開通したと分かったので、14時ごろ院内異人館を出て川原毛地獄を目指し、国道108号を進むと、国道の右側に菅義偉の生家があるという集落が見えたが立ち寄らなかった。標識に従って川原毛地獄方面へ分岐する道路に入ると、数日前まで閉鎖されていたというにふさわしい山岳道路だった。途中パイプ管が見えたが地熱発電所からのものだった。14時45分ごろ川原毛地獄を過ぎるとP1駐車場があり、駐車した。数人の観光客に出会った。

ここの見学予定地は、川原毛地獄だけでなく、川原毛大湯滝と近くの泥湯温泉が目的地だった。

川原毛大湯滝は滝壺が温泉になっており、7月上旬から入浴可能という情報があり、入浴はできないとしても温泉なのか確かめたいと考えた。

泥湯温泉奥山旅館は「日本秘湯の会」所属の温泉旅館である。1990年代後半に登山を始めたころに知って、母親と秘湯の会の旅館に6軒ほど宿泊しスタンプも貯めていたが、母親が病気になって以来宿泊は止めて、日帰り入浴だけを楽しみにしている。昼前に象潟で、泥湯温泉をグーグルマップで確認したとき、17時までという情報があったので、電話して確かめると17時まで営業という返事があったので、そうかと思いこんだが、実は泥湯温泉の別の旅館だった。

事前に予定表に印刷しておいた情報では日帰り入浴の受付が13時30分までとなっていたので喜んだのだが。本命の奥山旅館のほうはやはり13時30分までだった。

川原毛地獄は、青森県の恐山、富山県の立山と並ぶ日本三大霊地の一つといわれている。近くに川原毛大湯滝がある。標高は約800m。塩酸酸性の熱水噴出により、溶結凝灰岩の源岩が珪化し、灰白色の景色を呈している。

川原毛地獄は、三途川カルデラのほぼ中央部に存在する。この三途川カルデラは約600万年前の大規模火砕噴火で形成された。

川原毛地獄は、火山活動ののちに発生した水蒸気噴火が繰り返して形成された爆裂火口である。周辺では至る所で硫化水素を含む火山ガスの噴気が見られ、噴気孔周辺には硫黄結晶が析出している。1623年から1966年にかけて硫黄の採掘が行われていた歴史を持つ。ゆざわジオパークのジオサイトに認定されている。

現在でもカルデラ内は高松岳を中心に地熱温度が非常に高く、小安峡温泉や泥湯温泉などの温泉資源に恵まれるほか、地熱エネルギーを利用して地熱発電所が設置・稼働している。

川原毛地獄上部の遊歩道は立入禁止になっていた

川原毛大湯滝へ通じる遊歩道があるので、17時までには泥湯温泉に入れるだろうと思い、徒歩で向かうことにした。大湯滝P2駐車場まで700m。下り20分。上り30分。

15分ほど歩くと、堰堤の先にP2駐車場が見えた。そういえば、大湯滝専用の道路と駐車場があったなと思いだした。

P2駐車場には地元の作業用軽トラ3台がいて、近づく前に帰っていった。

P2駐車場手前から上流の沢と滝。

川原毛大湯滝手前の駐車場の案内板。ここから大湯滝まで500m。下り15分。上り20分。

川原毛大湯滝。

上流の湧出地から流れ下る比高20m程度の滝が温水となっており、滝壺を温泉として利用できる。豪快な野湯という点では、北海道のカムイワッカ湯の滝と並び称される。標高は700m。

湯尻沢の上流で湧出する約96度の源泉が沢水に混入しながら流れ下り、適度な温泉となって断崖を一気に落下するもので、2つの滝壺が天然の露天風呂となっている。この源泉は世界に3つしかない強酸性温泉で、飛沫を浴びると目がかすかにしみるような刺激がある。皮膚炎や外傷に効能を持つ。

川原毛大湯滝と滝壺。手を入れるとぬるい。温泉だが、まだ適温には達していなかった。

川原毛大湯滝の夏季簡易脱衣所。季節外なので整備されていない。

ここから、必死に上り坂を川原毛地獄の入口まで登ったが約1時間かかった。17時過ぎに着いたP1駐車場には私の車しかなかった。車で数分先の泥湯温泉奥山旅館に着き、何とかなると思って玄関のドアの貼り紙を見ると、日帰り入浴の受付は13時30分までと書いてあり、間違いを悟った。

仕方ないので翌日に入浴することにして、中の道の県道を進んで山を下ると、三途川渓谷に「川原毛大湯滝」行きの狭いアクセス道分岐が表示されていた。ガイド雑誌の感覚では山から分岐していると思ったが、かなり山麓地点から入り込むことになる。その夜は道の駅「十文字」で泊まった。天気予報は翌日雨模様だった。

翌朝起きると、小雨が降っていた。泥湯温泉奥山旅館の日帰り入浴は10時30分からなので、まず、横手市の重伝建・増田地区を見学し、稲庭町で稲庭うどんを食べてから、北東の国道398号線経由で泥湯温泉へ向かった。

泥湯温泉奥山旅館。湯沢市高松字泥湯沢。

宮城県と秋田県の県境に湧き、開湯1200年ともいわれる山懐の秘湯。昔、病に苦しむ乙女が透明な湯に入るのをためらっていたところ、天狗が現れ、米のとぎ汁のように白く濁してくれたという伝説が残っている。

玄関を開けて入ったら、日帰り入浴の受付は別の場所といわれた。

日帰り入浴の受付は左の仮小屋。日帰り入浴700円。

「天狗の湯」入口。

混浴の露天風呂。高低差をつけて配した2つの湯船があり、どちらも硫黄温泉の「天狗の湯」がかけ流しになっている。

男女別の大露天風呂。入口。

男女別の大露天風呂。秘湯の雰囲気が味わえる。

麓は単なる雨だったが、標高800mとなると雨・風は強く、川原毛地獄は視界がないと思われた。大湯滝までの道はかなり泥道になっていると思われ、昨日、無理して川原毛大湯滝まで見学して大成功だった。

秋田県湯沢市 院内銀山異人館 日本一の銀山・院内銀山