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秋田県横手市 後三年合戦金沢資料館①金沢柵跡と清原氏

2023年09月14日 16時34分01秒 | 秋田県

後三年合戦金沢資料館。背後が国史跡・陣舘遺跡。横手市金沢中野字根小屋102-4。

2023年6月2日(金)。

16時ごろ国史跡・大鳥井山遺跡の見学を終え、北の美郷町方向へ向かい、16時15分ごろ「金沢(かねざわ)の柵」の故地である後三年合戦金沢資料館に着くと、雨が一層激しくなった。

後三年合戦金沢資料館は、奥州藤原氏登場や中世武家社会誕生のきっかけとなった「後三年合戦」の最終決戦が繰り広げられた金沢地区にある。「後三年合戦絵詞」(戎谷南山筆、重文模写)、秋田県指定文化財の経筒、遺跡発掘調査時の発掘品、金澤八幡宮の宝物などが展示されている。入館料100円。

11世紀、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、康平5年(1062年)に前九年の役で滅亡した。この時、戦役の最終局面で参戦して国府側戦勝の原動力となったのが、清原氏の清原武則である。

永保3年(1083年)に後三年の役が始まるまでの東北地方の政治状況ははっきりしないが、清原氏の当主の座は前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則を経て武則の息子・武貞、さらにその嫡子・真衡へと継承されていた。

武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻を自らの妻としていた。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。

 

前九年合戦(1051~1062年)と後三年合戦(1083~1087年)。

永承6年(1051)前九年合戦起こる。11世紀に入って奥六郡を中心に勢力を拡大した安倍氏の出自と政治権力の形成過程については明確ではないが、在庁官人でありながら、官職に基づかない「酋長」を自ら称していた。安倍頼良の時に奥六郡の南限であった衣川を越えて国府領の岩井郡の支配に着手、国府多賀城との摩擦が生じた。1051年、陸奥守藤原登任(なりとう)は秋田の平重成(たいらのしげなり)の軍を動員して安倍頼良を攻撃した。しかし頼良は現在の宮城県大崎市鳴子で迎え撃ち大勝、前九年合戦)が始まった。

朝廷は同年、源頼義を陸奥守に任命し、1053年には慣例を破って鎮守府将軍も兼任させ、安倍氏制圧を命じた。頼義の国府着任後すぐに大赦があり、頼良も罪を許されたが、1056年、陸奥守の任期を終えた頼義が鎮守府将軍として胆沢城に赴いた帰途に、頼時の長男貞任(さだとう)が頼義一行を襲い、合戦が再開された。頼義は奥六郡の北の支配者である安倍富忠(とみただ)を味方につけ頼時を討つが、その後は貞任軍に苦戦、形勢は不利となった。頼義は秋田の清原武則に援軍を要請、1万の兵を合流した頼義軍は一気に盛り返した。

康平5年(1062)9月、清原・源氏連合軍が厨川柵を包囲して陥落させ前九年合戦終わる。安倍貞任斬死、藤原経清斬首

康平6年(1063)、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられる。

永保3年(1083)清原真衡が一族の長老吉彦秀武の怒りをかい対立。真衡が秀武を討つため出羽に出兵するが、清原清衡・家衡が真衡の館を襲撃する。秋、真衡が急死。源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える。

応徳3年(1086)奥六郡の配分をめぐり家衡と清衡が対立家衡、清衡の館を襲い妻子同族を殺害。義家・清衡連合軍、家衡の本拠地沼柵を攻撃するが大敗する。

寛治元年(1087)、8月義家の弟義光が都から駆けつけ参戦。9月義家・清衡連合軍が沼柵から金沢柵に移った家衡軍を包囲し、兵糧攻めに持ち込む。11月糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走し、家衡・武衡は討ち取られた

寛治2年(1088)義家、陸奥守を解任される。清衡は奥六郡を与えられて陸奥押領使に任ぜられる(この頃、藤原の姓を名乗る)。

長治2年(1105)平泉に移った清衡は中尊寺の造営に着手する。

清原光頼。

前九年の役の雄、清原武則の兄で、横手市大鳥井に本拠地をもつ豪族で俘囚主(ふしゅうしゅ)

安倍氏に苦戦を強いられた源頼義は安倍氏を討つ現地勢力を味方につけようと「出羽山北(でわさんぼく)の俘囚主清原光頼・舎弟 武則(たけのり)」に白羽の矢を立てた。しかし、近隣の豪族として安倍氏と交わりがあった清原氏は数年にわたる頼義の贈り物攻勢にもかかわらず、執拗な協力要請を拒否し続けた。しかし、「協力に応じてくれれば輩下に下る」という懇願に負けてついに挙兵。弟の武則が総大将として参戦する。

 

後三年合戦は、清原氏が朝廷に対して反乱を企て、朝廷が源義家を遣わして、これを討った戦いとされることが多いが、もともとは清原氏一族の内部抗争であり、戦いの途中に陸奥守に赴任してきた源義家が介入することで、事が大きくなった。

分裂していた清原氏の一方の側(清原清衡・吉彦秀武)に源義家が加担し、他方の側(清原武衡・家衡)を滅亡させた事件にすぎず、このとき朝廷は清原氏が反乱を企てたという認識はなく、源義家は翌年に陸奥守を解任されている。このことからも、「役」ではなく「合戦」という。

「後三年合戦」で勝利者の側についた清原氏の一方の側の中心人物が、平泉藤原氏の初代(藤原・清原)清衡であったことで、清衡は清原氏が有していた力を東北地方北部に発展的に継承することができた。

一方、朝廷は源義家の行動を私戦とみなしたので、東北地方に源氏の拠点を築くことはできなかったが、源義家を中心とする源氏の躍進はめざましく、「後三年合戦」は日本史における中世武家社会形成の要因と位置付けられている。横手市を舞台に展開された、「後三年合戦」や清原氏の存在なくしては、平泉藤原氏の時代や源氏の時代はなかったといえる。

国史跡・大鳥井遺跡附陣舘(じんだて)遺跡と金沢城跡。

2017年、後三年合戦の決戦地、金沢柵推定地の1つである陣館遺跡が国の史跡大鳥井山遺跡に追加する形で史跡指定された。

陣館遺跡は、国道13号に面した後三年合戦金沢資料館の近くにあり、通称「陣館」と呼ばれる独立した小丘陵に立地している。遺跡の東側には旧羽州街道を挟み金沢城跡があり、いずれの遺跡も日本史に大きな影響を与えた後三年合戦の決戦地である金沢柵の推定地として伝えられてきた。

横手市教育委員会では、この金沢柵の場所を特定するために、陣館遺跡において2010年から2014年までの5か年にわたり発掘調査を実施し、大鳥井山遺跡と同様の段状地形や、大鳥井山遺跡の四面廂付掘立柱建物跡と同時期・同規模の建物跡、街道から建物跡へ至る道路跡などを発見した。また、当時貴重品とされた内耳鉄鍋や短刀など、後三年合戦と同時代の11世紀代の遺物も出土した。

以上のことから、陣館遺跡は大鳥井山遺跡と同じく、当時この地を支配していたと考えられる清原氏に関連する遺跡であり、奥州の中世社会の成立を知る上で重要であると認められた。

金沢柵跡・金沢城跡。

徳政夜話によれば、前九年の役の頃までは清原武則の居城で、後三年の役において清原家衡・武衡が沼柵から移り、源義家がこれを包囲し食糧攻めによってようやく陥れた古城址である。中心は四面断崖絶壁の岩山からなり、天然の要害をなしている。この柵は古くは先住民族のチャシ(砦)として、近くは城柵として幾度か利用されたものと思われる。

 

金沢柵から金沢城へ 島田祐悦(横手市教育委員会) 抜粋

1.金沢柵とは

後三年合戦の最終決戦地であり、源義家・清原清衡軍と清原武衡・家衡軍が金沢柵を舞台として戦った場所である。『後三年合戦絵詞』などに叙述され、描かれた金沢柵は日本で最も古い柵(館)の様子がわかるものの、その場所については未だ特定されていない。

陣館遺跡は、現在は金沢柵の中の寺院と想定するに至っている。現在、金沢公園の主体をなす金沢城跡の目視される景観は、15 世紀後半以降の姿であり、中世金沢城であることや古代の柵としては標高が高すぎるとの指摘がなされてきたが、陣館遺跡だけでは金沢柵としては規模が小さすぎるとの指摘がある。金沢柵が高い場所にあってもおかしくないとの結論に至り、再度、金沢城跡の中で、金沢柵の館部分を確認する調査を現在も継続中である。

金沢柵の成立背景と金沢柵の想定。

金沢周辺で遺跡が確認されるのは9 世紀からであり、金沢柵推定地の南西側で古代の集落遺跡や窯跡群などが展開している。横手盆地の須恵器生産は、8 世紀中頃から 9 世紀前半までは官窯で城柵官衙遺跡等への供給を中心としているが、9 世紀後半になると、官窯的性格も薄れ、在地有力者層が、ロクロ土師器とともに須恵器生産を担うようことから、その地域権力も集まるようになる。

金沢周辺の周辺には山本の地名が残り、古代山本郡と非常に関わりが深い場所と思われる。山本郡にある払田柵が、山北三郡と北緯40 度以北の内陸北部を管轄していたのに対し、山本郡の管轄として山本郡衙の存在も考えられ、この地域がそれに該当する可能性もある。

沼柵推定地として第1 次雄勝城とも考えられる造山地区があり、沼柵周辺地域が律令国家側における横手盆地の最初の拠点地域だった可能性が高い。

9 世紀段階では金沢柵・沼柵各周辺では、古代律令国家と関わりある遺跡が多いのに対し、大鳥井山遺跡周辺では遺跡が少なく、平鹿郡の中心地は手取清水遺跡・オホン清水遺跡に代表されように塚堀地区周辺に多くの遺跡が展開している。沼柵が平鹿郡西部、大鳥井山遺跡は平鹿郡東部、金沢柵は山本郡南部であり、在地有力者がその地域を掌握していったと考えられる。

東の奥羽山脈東縁丘陵に大鳥井山遺跡を構築していることから、金沢柵と沼柵は古代からの地盤を引き継いだが、大鳥井山遺跡は地域拠点を引き継ぐというよりも、柵(館)の立地条件を重視したこととなる。この理由としては、古代城柵官衙遺跡払田柵の景観と類似する場所を求めた結果と思われる。

9 世紀末葉から10 世紀前葉に、金沢柵推定地で初めて遺跡が確認される。陣館遺跡では十和田火山噴火という天変地異に伴い、地鎮行為をしたのではないかと想定される。10 世紀中葉から後葉については様相をつかみきれていない。

11 世紀前半までに金沢城跡の尾根上に複数広がる竪穴建物が構築された。この時期は、秋田城や払田柵の終末期及び大鳥井山遺跡の初現期にあたるが、金沢においては、在地有力者が金沢山の尾根上に区画集落を構築していたのではないかと思われる。

11 世紀代前半でも中頃に近い時期の金沢城跡本丸奥南東尾根部区画集落で薬研堀が埋められた形跡があり、金沢柵を構築していったとみられる。金沢城跡西麓部でも柵を大規模に造り直しており、これが金沢柵の柵であるならば11 世紀末葉頃の構築であるから、それ以前に造られた柵(館)の大規模改修がなされ、前九年合戦後から後三年合戦前に、柵(館)の防御機能を緊急的に増強したように思われる。

後三年合戦当時の清原氏の柵(館)と勢力分布を確認してみると、清原光頼・頼遠一族の大鳥井山遺跡及び吉美侯武忠等吉彦一族の虚空蔵大台滝遺跡清原家衡が入った沼柵と清原武衡・家衡連合の金沢柵となる。前九年合戦後の前者の勢力範囲は出羽山北三郡及び秋田・河辺二郡で出羽国に留まった清原一族、後者の勢力範囲は奥六郡で陸奥国に向かった清原一族である。遺跡内容がある程度わかる大鳥井山遺跡と虚空蔵大台滝遺跡は大規模改修を行っている。金沢柵と沼柵については、未だ不明なところは多いが、金沢柵推定地金沢城跡西麓部では柵(柱穴列)は規模を大きく作り直されている。陣館遺跡の段状地形も含めて考えると、11 世紀後半には金沢柵(館)というものが存在していたが、緊急的に柵(館)を防御するために土塁と堀を大規模に構築する時間がなく、柵のみを強化したのではないだろうか。

要するに出羽国住人の柵(館)である大鳥井山遺跡と虚空蔵大台滝遺跡は柵(館)の大改修まで3~4 年の時間があったのに対し、陸奥国住人であった清原武衡と家衡には、自ら率先して沼柵を改修する時間はほとんどなく、金沢柵では半年の改修時間だけであったと思われる。

このように考えれば、現在目視できる姿は大鳥井山遺跡Ⅲ期と虚空蔵大台滝遺跡Ⅱa 期の柵(館)の大規模改修は1083~1087 年、金沢柵の柵改修は1087 年と憶測だが考えられる。

秋田県横手市 国史跡・大鳥井山遺跡 奥州清原氏の本拠地 山城の原点


秋田県横手市 国史跡・大鳥井山遺跡 出羽清原氏の本拠地 山城の原点

2023年09月13日 15時55分54秒 | 秋田県

国史跡・大鳥井山遺跡。駐車場から北方向。秋田県横手市新坂町3−1。

2023年6月2日(金)。

横手城跡の見学を終え、北近くの高台にある大鳥井山遺跡の駐車場に15時40分ごろ着いた。

大鳥井山下駐車場から南方向。中央奥の山頂に横手城が見える。

管理棟から駐車場へ帰る途中から南方向。

横手市歴史的風致維持向上計画 2018年・2023年 抜粋

◆大鳥井山遺跡と金沢柵

大鳥井山遺跡(横手地域)は、発掘調査によって、寺院の可能性が高い四面廂建物跡巨大な土塁と堀、櫓、柵列などの遺構、大量の「かわらけ」と呼ばれる素焼きの器が出土したことから、前九年合戦(1051-1062)や後三年合戦(1083-1087)にその名がみられる清原氏に係る遺跡として、平成 22 年(2010)に国の史跡に指定された。

また、大鳥井山遺跡は、日本列島史における武士の居館及び山城の最も早い事例の遺跡としても高く評価されている。前九年合戦では、大鳥井山に居を構える清原光頼が源頼義の懇願を受けて1万もの軍勢を派遣し、陸奥国の豪族・安倍氏一族を滅亡に導いている。後三年合戦は、沼柵(雄物川地域〔推定地〕)と金沢柵(横手地域〔推定地〕)を主な戦場とする戦いで、各地に伝わる伝承も多く市民にとってもなじみが深い。

金沢柵を源義家と共に攻め落とした清原清衡は、のちに姓を藤原に戻し、現在の世界遺産平泉の基礎を築いたことで知られる。清衡が平泉に造った館である柳之御所遺跡は、大鳥井山遺跡と立地や構造が類似しており、本市域と世界遺産平泉には深い繋がりがあると考えられている。

従来、武士によって築かれた山城の出現は14世紀を遡らないと考えられてきたが、それを200年以上も遡ることが明らかとなった。城郭史専門の千田嘉博は、戦国時代の城郭に匹敵する規模であることを指摘し、さらに、その防御施設は「土でつくる城の最高レベル」と評している。

遺跡の広がりは南北方向に680m、東西方向に200mである。

川に面していない三方向を土塁と堀で囲んだ構造である。土塁は、幅10m、高さ2m、堀は幅8m内外、深さ約3.5mと、いずれもきわめて巨大である。

外側から内側に向って土塁 - 空堀 - 土塁 - 空堀の順で、最大の空堀は幅10m、深さ3mにも達する。千田嘉博は、東側斜面の竪堀を「うね状空堀群」と呼び、従来、15世紀から16世紀にかけての時期にようやく出現する構造であると考えられてきたとしている。

空堀の内側には柵列が見られ、この柵に沿って物見櫓と思われる建物跡が確認されている。また外側の堀に土橋が架かっていた場所が特定されたほか、掘立柱建物跡や竪穴建物跡等が検出されている。

大鳥井遺跡は、市役所本庁舎から北東約2㎞の横手市大鳥町にあり、小吉山、大鳥井山、台処館と称される三つの丘陵の上にある。

この遺跡は「陸奥話記」により、清原氏の一族(嫡宗家)大鳥太郎頼遠の本拠地と考えられ、安倍氏の鳥海柵とともに確実性が高い城柵のひとつである。

昭和52年から7年にわたる発掘調査が行われ、小吉山東部(標高約75m)での調査により、土塁・空堀が二重に巡る防御性の極めて高い城柵であることが明らかになっている。

土塁・空堀の内側、すなわち居住域の外縁には柵列も作られている。また、柵に沿って物見櫓と考えられる建物も存在し、外側の堀には土橋が架かる場所も検出された。

これらの施設で区画された内部には掘立柱建物跡や、竪穴住居跡などが作られており、掘立柱建物跡は、1間×1間または1間×2間と比較的小規模である。竪穴住居跡にはカマドはなかった。

大鳥井柵の遺跡の特徴は、「後三年合戦絵詞」の金沢柵の様子からイメージできる当時の柵と大鳥井柵跡が類似している。また、平泉の国史跡柳之御所跡(藤原氏の政庁跡と推定される遺跡)の空堀との類似性が指摘されており、藤原氏が清原氏の技術を引き継いでいる可能性があることも注目される。

遺物は、椀と小皿のセットとなった「かわらけ」が300点近く出土しており、全国的にもこの時代のものがまとまって見つかった例はほとんどない。その他に、中国製の白磁器・硯などが出土している。硯はほぼ完全な形で出土しており、柳之御所跡でも同様のものが発見されている。その精巧な作りから、藤原氏の存在も見え隠れしている

遺跡の時期は10世紀後半から12世紀代とやや幅があるが、この間断絶することなく遺物を確認できることから、200年近く継続して使用されていた柵ということが分かる。大鳥井柵跡は、文献と考古資料の整合性のある遺跡であり、その解明が、金沢柵と沼柵にもつながるものと期待されている。

 

後三年合戦金沢資料館の入館は16時30分までなので、雨天でもあり短時間の見学となった。

秋田県横手市 横手城跡 戦国大名・小野寺氏


秋田県横手市 横手城跡 戦国大名・小野寺氏

2023年09月12日 14時19分07秒 | 秋田県

横手城跡。横手市城山町。

2023年6月2日(金)。

雄物川郷土資料館見学後、横手城跡へ向かい、模擬天守下の駐車場に15時40分ごろ着いた。

二の丸広場

横手城は、その昔朝倉城といい、1550年頃、現在の秋田県南部に勢力を築いた小野寺氏によって造られたと伝わる。横手城は朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山、また山と奥羽山脈につづく独立した一箇の要害に建てられた平山城である。城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので、別名「韮城」ともいう。

関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことから徳川家康に西軍方とみなされたため、慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏の手に渡る。慶長7年(1602年)、久保田城に佐竹義宣が転封されてくると横手城も佐竹氏の所有となり、城代が入れられた。城代には伊達盛重、伊達宣宗に続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連(戸村義国の嫡孫)が入城して以降、代々「十太夫」を称す戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めた。元和6年(1620年)、一国一城令によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れた。

1868年の戊辰戦争の際に、東北地方で佐竹氏は孤軍官軍側につく。仙台藩と出羽庄内藩の軍勢が戸村義得(大学)の籠城する横手城を攻撃し、慶応4年8月11日(1868年9月26日)の夕方に落城した。

横手城跡は、現在横手公園として整備されている。本丸跡には焼け残った横手城の遺構を使って建立された「秋田神社」などがある。本来の横手城に天守はなかったが、1965年に郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に岡崎城をモデルに三層の模擬天守(通称:横手城)が建設された。

城址南東の一角に「本多正純公の墓碑」がある。元和8年(1622年)、当時の江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多上野介正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、寛永14年(1637年)に亡くなるまで過ごした。

横手市歴史的風致維持向上計画 2018年・2023年 抜粋

横手市の区域は、地理的環境から奈良時代に現在の市域とほぼ同じ区域で「平鹿(ひらか)郡」が設置されたことに端を発し、古代から一つの地域としてまとまって来た。市内には、旧石器時代から近世までの遺跡が途切れることなく、現在まで600ほどが確認されている。

3.中世(鎌倉時代 - 安土桃山時代)

文治5年(1185)、源頼朝が平泉の藤原氏を奥州合戦で滅亡させた後、秋田県域には新たに鎌倉御家人が入部する。横手では尾張国(愛知県)から松葉惟泰が入部し、平鹿郡を本拠として平賀氏を名乗り、平鹿郡地頭職を確立した。

同じように雄勝郡(湯沢市・羽後町域)などの地頭職を得た小野寺氏は雄勝郡稲庭(湯沢市)を本拠とし、室町幕府との関係を強化させ、やがて幕府を支える有力者を指す「屋形」と呼ばれるようになり、横手盆地のみならず最上郡や由利郡にまで勢力を拡大した。

小野寺氏の本格的な本市域への進出は、稙道が大永年間(1521-1528)に稲庭城を晴道に譲り、自らは平鹿郡西部の沼館城を本拠地に定めたことによる。沼館城は、後三年合戦の戦場となった「沼柵」を改修したものとも伝わり、面積約20万㎡の自然地形を利用した大規模な平城である。沼館へ移った稙道は横手盆地の盟主として支配を広げていった。稙道の子・輝道が朝倉城(横手城)を完成させたのは諸説あるが、天正7年(1579)頃ともいわれる。

この他にも小野寺氏は、金沢城(横手地域)・増田城(増田地域)・浅舞城(平鹿地域)・大森城(大森地域)などに一族の者や重臣を置いて支城とし、平鹿郡における足場を拡大していった。横手城はもちろん、こうした支城が置かれた集落は地域の中心となる中心集落や在郷町となり、現在の本市の都市形成の基礎は小野寺氏によって築かれたと考えられる。

その後、豊臣秀吉の奥州仕置や太閤検地によって、自領であった雄勝郡及び増田を含めた平鹿郡南部が山形庄内を本拠とした最上氏の勢力下となるなど、小野寺氏の支配域は変容していく。

4.近世(江戸時代)

徳川家康の命に背いたことにより、慶長6年(1601)に小野寺氏が改易されると、秋田は佐竹義宣の領地となった。佐竹氏の祖は、後三年合戦において、都から兄である源義家のもとに駆けつけた源義光である。義宣は自らの本拠地を海に近い久保田(秋田市)の地に定め、久保田藩(秋田藩)の政治を行うこととなる。そして広大な領地を治める藩政の一拠点として横手には須田盛久など直臣を配置して支城とした。5代からは戸村氏が横手城代となり、以降、幕末まで戸村氏一族が城代を勤めることとなる。

 関ヶ原の戦い後、横手にあった城はほとんどが廃城となり、残されていたものは横手城のほか金沢城・増田城・浅舞城・大森城であった。これらの城は南北・東西の主要街道沿いにあり、さらに雄物川に流れ込む支流沿いに位置しており、河川交通も意識したものと考えられる。慶長 20 年(1615)の一国一城令発令の際には横手城のみ存続するが、他は城が破却されるも、それぞれが地域の主要都市としてあり続けた。

 

小野寺氏は、出羽国において勢力を誇った豪族である。本姓は藤原氏とされ、家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。多くの分流を生み出し、東北地方を中心に広く分布した。それらの諸家の中でも出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏の家系がもっとも有名である。

小野寺氏は平安時代後半に下野国都賀郡小野寺(現・栃木市岩舟町小野寺)を「一所懸命」の地としていたのが始まりと言われている。文治5年(1189年)の奥州合戦による戦功で出羽雄勝郡などの地頭職を得た。各地の所領に庶流の子弟を代官として派遣し、惣領は鎌倉に常駐し出仕していたと見られる。

南北朝時代に、惣領家も狭小な本領から広大な所領である出羽雄勝郡稲庭に移住したと見られる。小野寺氏は、鎌倉公方の支配に反発した他の有力国人と同じく、室町幕府の京都御扶持衆となり、鎌倉府に対抗した。また、歴代当主は将軍より偏諱を賜っている。

戦国時代に入ると、小野寺氏13代にあたる景道のときに、雄勝郡をはじめ平鹿郡、仙北郡の仙北三郡から由利郡・河辺郡・最上郡にまで勢力を広げる有力な大身となり、「雄勝屋形」と称されて最盛期を迎えた。

景道の子・義道の代になると、戸沢氏、本堂氏、六郷氏など仙北諸将が離反し、天正18年(1590年)の奥州仕置時には5万4000石余に換算できる横手城主であったが、奥州仕置で所領3分の1を削られた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成、上杉景勝らの西軍に味方したため、慶長6年(1601年)には改易されたうえ石見津和野に預けられ、戦国大名としての小野寺氏は滅んだ。

 

小野寺氏と戦国時代の東北 竹井英文(東北学院大学)令和5年度後三年合戦沼柵公開講座 2023/08/20

はじめに

・小野寺氏…鎌倉期、下野国御家人の小野寺道綱が雄勝郡地頭職に任じられ、四代後の経道が現地に入部。仙北地域の領主として成長

・御所・屋形秩序…15 世紀半ば(室町末・戦国期)、小野寺氏は「屋形」の地位かつ京都御扶持衆

・16 世紀(戦国期)の状況…周囲には由利十二頭、戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、鮭延氏、和賀氏、稗貫氏らが割拠。16 世紀後半になると最上氏や大宝寺氏、檜山・湊安東氏との関係も深まる

・一族の割拠…稲庭氏、西馬音内氏、川連氏、三梨氏など

居城の変遷…16 世紀(戦国期)、稲庭城 ⇒ 沼館城 ⇒ (湯沢城) ⇒ 横手城

 

※沼館城が小野寺氏の居城となった 16 世紀の小野寺稙道、輝道、光道、義道の四代の動向

1.小野寺稙通・輝道・光道・義道の事績

①小野寺稙道

・室町幕府第 10 代将軍足利義稙の一字拝領(偏諱)により稙道を名乗る。同時期に上洛?

・天文 2 年(1533)「小林寺」左衛門佐の存在…稙通か、前代の誰かか

・伊達稙宗朱印状写の「小野寺中宮亮」。数少ない伊達氏との通交関係史料

・居城を稲庭城から沼館城へ…雄勝郡から平鹿郡へ進出。山城から平城へ

・天文 15 年、横手光盛・金沢金乗坊と戦い、死去(「平城の乱」)

②小野寺輝道

・「平城の乱」で羽黒山に逃亡。羽黒山衆徒、庄内の大宝寺義氏、由利衆らの援護により復帰

・輝道は、天文 24 年段階では「次郎」。弘治 2 年(1556)に室町幕府第 13 代将軍足利義輝から一字拝領し、輝道・遠江守に

居城を朝倉城(横手城)へ移転。沼館城には家臣照井氏を城代として置くという

・「郡中」・「洞」。六郷・本堂・戸沢氏らが「道」の一字偏諱。相互紛争の一方で地縁・血縁による領主連合的な側面。中人制の前提

・和賀氏と小野寺氏…時に合戦し、時に上洛の際の通り道として便宜を図る

・織田信長・豊臣秀吉との通交

③小野寺光道・義道

小野寺光道…輝道の嫡男「四郎」。署名「道」の文書=唯一の文書。天正 14 年(1586)頃に家督相続、同 17 年 7 月以前に死去。その間の天正 15 年 10 月頃から翌年にかけて「仙北干戈」の勃発

小野寺義道…輝道の次男「孫十郎」。光道死去後に家督相続。輝道は大森城⇒吉田城へ隠居

・天正 18 年奥羽仕置…「上浦郡三分の二」を与えられ豊臣大名として存続。上浦郡、中郡、北浦郡の誕生

 

平賀氏は、鎌倉時代には出羽国平鹿郡を本領としており、安芸高屋保(東広島市)の所領の支配にあたったのは庶子家であった。南北朝時代、高屋保にあった平賀共兼は足利尊氏に属し、功があった。ところが、共兼の弟で惣領にあたる平賀直宗との間で家督をめぐる抗争があり、勝利をおさめた直宗が高屋保に下向、所領の支配にあたるようになった。出羽国にも一族が残ったようだが、南北朝の争乱のなかで平鹿郡は失われ、平賀氏惣領家の所領は安芸国の高屋保・入野郷が主となった。

小野寺氏は平賀氏勢力の弱体化を衝いて、平賀郡域へ進出したとみられる。

 

雨天および時間がないので、資料館には入館せず、北にある国史跡・大鳥井山遺跡へ向かった。

秋田県横手市 雄物川郷土資料館②縄文時代 オホン清水A遺跡出土 石棒


秋田県横手市 雄物川郷土資料館②縄文時代 オホン清水A遺跡出土 石棒

2023年09月11日 13時25分28秒 | 秋田県

横手市雄物川郷土資料館。横手市雄物川町沼館字高畑。

2023年6月2日(金)。

 

横手市歴史的風致維持向上計画 2018年・2023年

横手市の区域は、地理的環境から奈良時代に現在の市域とほぼ同じ区域で「平鹿(ひらか)郡」が設置されたことに端を発し、古代から一つの地域としてまとまって来た。市内には、旧石器時代から近世までの遺跡が途切れることなく、現在まで600ほどが確認されている。

1.原始(旧石器時代 - 弥生時代)

旧石器時代から縄文時代前期の遺跡は、盆地中央部では確認されず、奥羽山脈及び出羽山地のまわりの低丘陵や台地で確認される。

縄文時代草創期から早期(約 14,000-6,000年前)の遺跡としては、日本最古の石匙が出土した横手川の河岸段丘上にある岩瀬遺跡(山内地域)などがある。

縄文時代前期(約 6,000-5,000 年前)の遺跡は梨ノ木塚遺跡(増田地域)などがあり、竪穴住居からなるムラが生まれ、定住生活がはじまる。

縄文時代中期以降になると一段低い段丘面や丘陵裾野のから、やがて盆地の沖積地内にムラが形成されるようになる。こうしたムラは、中央広場を取り囲むように住居が配置された「環状集落」が一般的になってくる。中期(約5,000-4,000 年前)の遺跡としては神谷地遺跡(雄物川地域)などがある。

晩期(約 3,000-2,300 年前)になると盆地内に遺跡が点在し、遺跡数が最大になる。

弥生時代(約 2,300-1,800 年前)になると、大陸から九州に伝わった稲作農耕が次第に北へ広がり、本市域においても稲作が行われていたことが想定されるが、発掘調査では確認されていない。弥生時代の遺跡は、手取清水遺跡(横手地域)などのように沖積地に分布し、確認される土器には縄文がある。この時期は寒冷な気候であったため、縄文時代的な生活を続けながら、稲作を受け入れる過渡期と考えられている。

5世紀になると古墳文化が北進し、本市域でも確認されるようになる。オホン清水B遺跡(横手地域)や一本杉遺跡(平鹿地域)など、竈を持たない竪穴住居からなる集落が営まれるようになった。オホン清水B遺跡では、都に近い地域のものとみられる県内最古の須恵器有蓋高坏や土師器が大量に出土した。一本杉遺跡では、中央政権と繋がりのある人々によって営まれた5棟の建物からなる集落跡が秋田県内で初めて確認された。

2.古代(古墳時代 - 平安時代)

飛鳥時代(7世紀)は、日本が律令国家として始動した時期で、本市域においては7世紀中頃、盆地中央部の微高地に、長い煙道の竈を持つ方形の竪穴住居で構成される集落が形成される。100 年間継続したと考えられる釘貫遺跡(雄物川地域)が代表的なものである。

奈良時代になると、律令国家の地域支配が進み、天平宝字3年(759)には同時に雄勝・平鹿二郡が設置され、本市域を指す平鹿郡が初めて史上に現れる。文献上、横手には雄勝城と平鹿郡府(役所)の存在が考えられる。

平安時代のはじめ、律令国家の影響力は横手盆地北部まで伸び、律令国家の役所として払田柵(大仙市・美郷町)が造られた。中山丘陵では、須恵器を焼く窯の数がピークを迎え、さらに北陸からの伝播と思われるロクロ土師器窯も確認されるようになり、生産量・器種数ともに北東北随一の規模を誇る焼き物の生産地となった。

新道1遺跡

小吉山遺跡出土 線刻石製品

小吉山遺跡は縄文前期∼後期の集落跡としても知られ、後期初頭の土器とともに線刻を有する石製品が数多く見つかっている。小吉山遺跡は平安時代清原氏の城柵遺跡である国史跡・大鳥井山遺跡の一部である。

オホン清水A遺跡出土 石棒

縄文時代後期後葉(およそ 3300 ~ 3000 年前)の両頭石棒である。横手地域のオホン清水A遺跡から出土した。柄頭部の一部を欠いているものの、石棒製作時点で欠損していた可能性も推定される。長さ 82cm、幅 3.1 ~ 5.6㎝、厚さ 2.5 ~ 3.6㎝、重さ 2,830 g、粘板岩質である。平成 15 年(2003)の発掘調査において、祭祀遺構と推定される土坑から出土した。同じ場所からは石棒のほか、翡翠の玉などの特徴的な遺物が出土し、クリ・コナラなどの炭化した種実や、獣類の焼けた骨片も出土している。

 

廻舘1遺跡 弥生土器

 

七ツ森経塚出土 中世陶器

七ツ森経塚出土 岩偶類

郷土資料館見学後、横手城跡へ向かった。

秋田県横手市 雄物川郷土資料館①蝦夷の末期古墳・蝦夷塚古墳群 雄勝城 沼の柵


秋田県横手市 雄物川郷土資料館①蝦夷の末期古墳・蝦夷塚古墳群 雄勝城 沼の柵

2023年09月10日 15時13分39秒 | 秋田県

横手市雄物川郷土資料館。横手市雄物川町沼館字高畑。

2023年6月2日(金)。

横手市の道の駅「十文字」で、横手焼きそばを食べてから、リーフレットで知った雄物川郷土資料館へ向かった。2022年初夏の北海道江別市の北海道式古墳見学以来、興味をもった蝦夷の末期古墳である蝦夷塚(えぞづか)古墳群の出土品を展示しているからである。

雄物川郷土資料館は、2005年の合併前は旧雄物川町の資料館であったが、現在は横手市内の資料館施設の中心施設に位置づけられ、県指定の玉類をはじめ、歴史・考古・美術・民俗・自然の各分野にわたって展示を行っている。入館料100円。民家苑の木戸五郎兵衛村が隣接する。

考古学から見た古代蝦夷 工藤雅樹 1994

古代蝦夷については,アイヌ説と非アイヌ説の対立があることはよく知られている。戦後の考古学研究の成果は,東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行なわれていたことを証明し,近年の発掘調査によって奈良,平安時代の東北北部の集落が基本的には稲作農耕をふまえたものであることも確実とされるに至っている。このようにして蝦夷日本人説は一層の根拠を得たと考える人もいる。

しかし蝦夷非アイヌ説の問題点のひとつは,考古学的にも東北北部と北海道の文化には縄文時代以来共通性があったし,7世紀以前の東北北部はむしろ続縄文文化の圏内にあったと考えられ,アイヌ語地名が東北にも多く存在することなど,蝦夷アイヌ説が根拠とすることのなかにも,否定しえない事実があることである。

もうひとつの問題点は,蝦夷非アイヌ説が稲作農耕を行なわない,あるいは重点を置かない文化劣った文化と見なす考えを内包していることである。この点を考え直し,古代蝦夷の文化の縄文文化を継承している側面を正当に評価する必要がある。

従来の蝦夷非アイヌ説は地理的には畿内に,時間的には稲作農耕の光源で東北の文化を見た説,蝦夷アイヌ説は地理的には北海道に,時間的には縄文文化に光源を置いて蝦夷の実体を照射した説,と整理しなおすことができる。しかし二つの異なる光源でそれぞれに浮かびあがるものは,どちらも東北の文化の実体の一側面にほかならない。

北海道縄文人が続縄文文化,擦文文化を経過して歴史的に成立したのが アイヌ民族とその文化であると見るならば,これは東日本から北日本にかけての典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道のひとつということになり,早くから稲作文化を受容し,大和勢力の政治的,文化的影響を受けた,もうひとつの典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道と並列させることができる。古代蝦夷は両者の中間的な存在で,最後に日本民族の仲間に入った人々の日本民族化する以前の呼称とも,北海道のアイヌ民族を形成することになる人々と途中までは共通の道をたどった人々とも表現できる。

このように考えると,現段階では蝦夷がアイヌであるか日本人なのかという議論そのものが,意味をなさないといっても過言ではないのである。

横手市の古墳時代遺跡群 島田祐悦(横手市教育委員会)

① これまで秋田県では古墳時代の様相が不明で、続縄文文化圏の範疇とされてきた。しかし、一本杉遺跡の発掘調査成果から、これまで断片的であった古墳文化圏が形成されていたことが明らかになった。

② 古墳時代前期から中期前半の、古墳文化の遺跡の発掘調査事例がなく、表採資料で日本海側の宮崎遺跡では器台・甕が、隣接する井岡遺跡では子持勾玉が出土している。山形県庄内地方の事例からも秋田県沿岸部まで古墳文化の影響下に入っていた可能性が高い。

続縄文文化の遺跡は、後北C1 式期の下田遺跡、後北C・D2 式期の続縄文土器が出土した寒川Ⅰ遺跡と川端山Ⅲ遺跡があるだけで、これらは弥生時代後期から古墳時代前半の範疇である。

古墳時代中期後半(5世紀後半)から、突如として古墳文化の遺跡が急増する。日本海側では男鹿半島まで一気に北上する。西目潟周辺の宮崎遺跡と男鹿半島八郎潟周辺の小谷地遺跡・潟上市乱橋遺跡・北野遺跡が存在するが、面的な広がりでなく点的なものである。

⑤ それに対して、内陸の横手盆地では盆地中央部の横手市域内に古墳時代の遺跡が密集している

⑥ その立地は河川沿いの微高地に展開している。雄物川中下流域では古墳文化の遺跡が未確認であることにより、古墳文化の流入は西目潟や子吉川河口域から石沢川を経由して横手盆地へ流入したことも考えられる。この道は古代の雄勝城と関わりがあると想定される。

⑦ しかし、これら古墳文化は長続きせず、5世紀末葉から 6世紀前葉までには秋田県内では古墳時代の古墳文化の遺跡が確認されなくなる。

⑧ 古墳時代後期(6世紀前半~7世紀前半)の田久保下遺跡(横手市)では、続縄文文化の土坑墓が継続的に構築されるが、それに副葬された遺物は古墳文化のものが主体である。

⑨ 飛鳥時代から奈良時代(7世紀後半から8世紀)にかけて、古墳文化とほぼ同一の地域で、竪穴建物で構成される集落が展開するようになることから、故地としての場所は認識されていたと思われる。

蝦夷塚古墳群。

奈良期~平安期の群集墳。横手盆地南西部,雄物(おもの)川右岸の沖積平野中に立地する。小字名を遺跡名とするが,大字名は造山(つくりやま)で「秋田県の考古学」では「造山古墳群」とする。未発掘調査。江戸初期開田により勾玉が出土。その後も耕作等により,玉類・刀子などを発見。採集された遺物は勾玉・管玉・切子玉・玻璃丸玉・玻璃小玉・茄子玉・刀子・土師器等があり,京都国立博物館と雄物川町が所有する。

古墳は円墳らしく,地元民の話ではかつて遺跡所在地は高台で盛山が多数散布したという。規模の大きな群集墳であった可能性が大きい。遺跡の位置・時期・性格などから,雄勝(おがち)城などにかかわりが深いものと見られる。三上礼子「秋田県における古墳遺跡について」(秋田考古学34・35合併号,昭和53年)。

熊田亮介(秋田大学名誉教授)「被葬者は朝廷に従った蝦夷であると考えられます。」

報告⑦蝦夷塚古墳群(えぞづかこふんぐん)「あきた 埋文」2020年5月6日 

<調査地:横手市 調査主体:雄勝城・駅家研究会

 蝦夷塚古墳群は、昭和59・60(1984・85)年と平成14(2002)年に3度発掘調査が行われ、8世紀代の円形周溝をもつ古墳が計17基検出されています。昨年10月、雄勝城・駅家研究会(おがちじょう・うまやけんきゅうかい)では雄勝城の所在地特定を目指し、4度目の調査を行いました。研究会は同年4月発足の民間団体で、『続日本紀』天平宝字3(759)年9月条に、“陸奥国桃生城(ものうじょう)と出羽国雄勝城を造営する”として国史上に登場するも未発見である「雄勝城」や官衙(かんが)(役所)、寺院などの関連する遺跡を特定するとともに、横手盆地に置かれた城柵などが古代の地域社会に及ぼした影響を究明していくことを目的としています。

 雄勝城探査のための調査を造山(つくりやま)地区にある蝦夷塚古墳群に絞り込んだ理由は次の3点です。

 ❶横手盆地内における雄勝城が造られた8世紀代の集落は横手市内、特に造山地区に集中すること。❷城柵での出土例がある丸瓦・平瓦や円面硯(えんめんけん)が造山地区から発見されていること。❸材木塀跡(ざいもくべいあと)が蝦夷塚古墳群から長さ100.4mにわたり検出されていたことです。材木塀は、雄勝城と同時期に造営された桃生城外郭(がいかく)でも確認されており、城柵の外郭をなす重要な区画施設となります。

雄勝城(おがちじょう/おかちのき)は、出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった古代城柵藤原朝狩が天平宝字3年(759年)に築造したとされる。

現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」である。現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみである。

現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。今後、これらの雄勝村周辺遺跡の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待されている。

天平5年(733年)12月26日 - 出羽柵を秋田村高清水岡に移設し、雄勝に郡を置いて民衆を移住させた。

天平9年(737年)正月陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった大野東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。

天平宝字3年(759年)雄勝城の造営が行われた。所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8,180人が春から秋にかけて作業にあたったので、これらの者は淳仁天皇より税の免除が認められた。また、雄勝に驛が置かれた(雄勝驛のほか、玉野、避翼、平矛、横河、助河、嶺基にも驛が新設された)。

天平宝字3年(759年)9月27日 - 坂東八国(下野国、常陸国、上野国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)と越前国、能登国、越中国、越後国の4国の浮浪人2,000人が雄勝柵戸とされた。また、相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野の7国が送った軍士器を雄勝桃生の2城に貯蔵した。

天平宝字4年(760年)1月4日 - 孝謙天皇により雄勝城造営を指揮した按察使鎮守将軍正五位下の藤原朝狩が従四位下に叙せられた。このほか、陸奥介鎮守副将軍従五位上の百済足人、出羽守従五位下小野竹良、出羽介正六位上百済王三忠が1階級進級となった。

天平宝字4年(760年)3月10日没落した官人の奴233人と婢277人の計510人を雄勝城に配して解放し良民とした。

天平神護元年(767年)11月8日 - 雄勝城下の俘囚400人余が、防衛にあたることを約束し内属を願ったためこれを許した。

 

沼の柵 横手市公式サイト

沼の柵は後三年合戦(1083~1087年)の激戦地で、当初清原家衡は沼の柵にたてこもり、源義家の加勢を得た清衡軍を迎え撃ちました。四方を水で囲まれた水城と呼ばれた沼の柵は冬まで持ちこたえ、連合軍は、寒さと飢えで多くの兵を失い戦線を維持できなくなり、陸奥へ撤退していきました。

現在、沼柵の位置は、一般的には本丸の土塁や堀の一部などの城郭の跡が残っている蔵光院付近と言われていますが、考古学的には実証されていません。蔵光院以外の推定地は、兵部ヶ沢地区(清原光方の官職が兵部大輔)、造山地区(奈良時代の遺跡が集中し、瓦、円面硯、風字硯が出土)、千刈田・高畑地区(989年銘文の八稜鏡が出土)で、いずれも沼館地域内です。可能性として、角間川街道を挟んで蔵光院地域と千刈田・高畑地区の両方に柵が広がっていたのかもしれません。

沼柵の最有力候補・沼舘城跡 横手市公式サイト

市役所雄物川庁舎から北へ約2㎞の距離にある沼館地区沼柵が沼館地区にあったことは間違いないと思われますが、それがどの場所にあったのか、現在まで特定はできていません。沼舘城跡がその候補地として、今まで沼柵と考えられてきました。沼舘城跡は標高45m。雄物川の流れによって形成された河岸段丘上に立地しています。

当時の公家の日記である「康富記」には、沼柵の戦いの様子が記録されています。「清衡、太守に参り、此の歎きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発向す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ」とあり、清原家衡が源義家を退けた戦いであることがわかります。

また、「後三年合戦絵詞」には、清原武衡と家衡が沼柵で会談している場面が描かれており、陣営が沼柵から金沢柵へ移動したことが確認されます。現在まで、沼舘城跡内での発掘調査は行われていませんが、木戸五郎兵衛神社近くの千刈田遺跡では、永延3年(989)の銘がある和鏡が出土しています。残念ながら現在行方不明ですが、発見されれば国宝級と考えられています。10世紀末頃から11世紀のものと思われる鏡の所有者は、清原氏と関連ある人物の可能性が高いでしょう。

秋田県湯沢市 稲庭うどん 佐藤養助総本店