血筋
今日は午前から、ガイドヘルパーさんとJR大阪駅の駅ビルの11階にある映画館ん、大阪ステーションシティーシネマへ。映画、国宝を見るため
目の見えない、網膜色素変性症な私、盲人ウエカジ。この映画、国宝には音声ガイドがつく。ハロームービーというアプリをiPhoneにいれていき、外音とりこみ昨日ある、イヤホンをつければ、手持ちのiPhoneから音声ガイドがながれる。
これはとってもよい制度。健常者も視覚障害者も同じ映画館でみられるというのはいいこと。昔は、視覚障害者だけの上映会で音声ガイドつき映画をみるというのがあった、しかも、古い映画。それが今では、新しい映画、最新作も、スマホとインターネットと外音イヤホンのおかげで、オンタイムで映画がみれる幸せ。こんなことが視覚障害者もできるようになったのは、ここ10年のこと。
10時25分スタート、正確には10時36分スタートでおわったのが13時35分。3時間の映画。国宝。平日の朝なのに、客は8割もいた。そのほとんどが、60最上のおばさんおばあさん。女性が8割以上。今回の映画は、歌舞伎を題材にした、立身出世の物語。しかもおんながたが主役。なので女性客がおおいのかな。
主演は、宮本佳林の彼氏役をつとめたこともあるヨシザワリョウ、そして、今のNHK大河ドラマべらぼうの主役ヨコハマリュウセイ。この2人が主役。
デスペア的映画、国宝の見るポイント
1、4部作
3時間の長編映画。なぜかというと、ひとりの少年んが人間国宝になるまでの50年の物語だから。
それにくわえて、この映画は、4分割できる。第1部が、ヨシザワが歌舞伎界でのしあがっていくものがたり、第2部が、そのヨシザワがゴシップで歌舞伎界からほされてどさまわり、3部がヨシザワがヨコハマに再度ひきあげられて歌舞伎の世界へ、最後の第4部が、ヨシザワが年を取り人間国宝になる話。この4つの話が、ひとつの映画になっているから、3時間もかかるし、、ちまたの評判がいいのも、見る人どれかには感動できる、共感できるから。
ある人は、ヨシザワの立身出世に目が行き、あるいは、あるひとはヨコハマの敗者復活うに共感し、ある人は、ヤクザのおおたちまわりのアクションに感動、また、ある人は、歌舞伎のしなやかな古典のおんながたのはなやかさにひかれる。だれもがどこかには共感できる映画。それが国宝。
これから、こういった、映画が増えていくかもね。
映画のストーリーを簡単にまとめると。1964年、中学3年生のヨシザワ少年、長崎のヤクザの組長の息子、組長の趣味で、ヨシザワ少年はイナカ歌舞伎の女形で、セキノトを演じる。それを見に来ていた、歌舞伎スターワタナベケンが、その才能を見出す。その後、ヤクザの組長は構想でころされ、天涯孤独になったヨシザワ少年をひきとったのがワタナベケン。ワタナベケンの子供で、将来の歌舞伎スターとしてそだてられる、ヨシザワ少年と同い年のヨコハマ少年。チスジのヨコハマ少年と、芸のヨシザワ。この2人の対決そして友情がメインテーマ。ワタナベケンの大名跡をつぐのは、ヨコハマか、ヨシザワか。そして、人間国宝になるのは、どちらか。それがメインテーマ。
ヤクザのこどもと、歌舞伎役者のこどもの、友情ストーリー。でもここでなぜ、ヤクザなのか疑問。でもそれは、昔の工業、地方でなにかコンサートとか部隊をやる場合は、まずは、そこのヤクザに許可をいれないといけない。そういった工業とヤクザのからみがあるみたいね。なので、ヨシザワはやくざの組長のこども。
さらに、言えば、このヤクザも歌舞伎役者もどちらも、世間からは、はみでた存在。17世紀に京都ではじまった歌舞伎。差別される身分の歌舞伎役者。風紀がみだれるということで、歌舞伎には女はいれてはいけないという幕府のおきて。なので、そこから歌舞伎は男の世界、女も男が演じるようになる。またヤクザの親分子分、歌舞伎の指定関係。よくにている。親分、師匠には絶対服従。にているね。
ヤクザも何代目組長だし、歌舞伎も何代目なにがし。それぞれの伝統をだれかひとりがうけつぐというところも似ているね。
2、糖尿病
チスジのヨコハマか、芸のヨシザワか。最終的に、ワタナベケンは、ヨシザワを後継者に指名する。チスジよりも芸を選んだ、ワタナベ。本来なら、ここで物語はおわってもいいのだが、これが第1部。
その後、ヨコハマは歌舞伎界をはなれ、10年間いくえしれず。dでも、その間、役者であることはわすれないヨコハマ。温泉宿などで、大衆演劇。
そして10年後ヨコハマがもどってきた歌舞伎界。ヨシザワは花形スターになったものの、親がヤクザで、背中にイレズミがあるということを週刊誌にスッパヌカレテ、どんどん仕事がなくなる。一方、ヨコハマは、チスジのうしろだてをえて、今度はヨコハマが歌舞伎界のスターへ。
ヨシザワには、芸者にうませたこども、女の子、一方ヨコハマは、ホステスの間の子供男の子。ヨシザワはチスジをのこせず、ヨコハマはチスジをのこす。対照的。
ここで、物語はおわってもいいけど、おわらない。第3部で、ヨコハマのチスジが騒ぎ出す。糖尿病のため、左足切断、そして、右足もエシ、そして若くして死んでしまうヨコハマ。
私が、この物語で一番共感したのは、ヨコハマの演技。糖尿病になり、左足をうしない、義足になっても、年月をかけて、再度歌舞伎の舞台にもどってくる。そして、右足もエシの状態でも、舞台にあがりつづける。その舞台の相方としてあがったのは、ヨシザワ。義足の女形のヨコハマが花道で、たおれる、ちかよって、たすけようとするヨシザワ、くるなと目で訴えるヨコハマ。よろよろになりながら舞台にもどる。その前のシーンで、ヨコハマのエシした右足を、いとおしく、愛撫するヨシザワ。ヨコハマが曽根崎信重のオハツで、ヨシザワがその相手役んのトクベイ。トクベイがオハツの足を、いとおしくなでる。エシした足。
視覚障害者の私にとって、このシーンが一番の泣き所。障害をおっても、義足になっても、舞台にあがりつづける。昔のようななめらかさはない義足のヨコハマオハツ。オハツは、かなわぬ恋相手のトクベと、心中する物語。この世で結ばれないなら、あの世で結ばれよう。いのちをかけても、手に入れたいもの。それがオハツにとっては、トクベイ。
そして、ヨコハマもエシした左足、そして右足。舞台にあがるということのために、左足、そして右足をうしなう。それをうしなってでも手に入れたいもの、それが歌舞伎役者として舞台にあがること。オハツとヨコハマが実にシンクロする。
部隊の最後では、ヨシザワ演じるトクベイが、オハツの首筋に、コガタナをつきさし、その主観で、幕がおりる。とくべいがオハツの命をおわらせ、そして、ヨシザワがヨコハマの舞台人生をおわらせる。お芝居と現実がうまくからみあっている。すばらしいね。
はたして、私に、オハツや、ヨコハマのように、自分の体、命とひきかえでも、手に入れたいものはあるだろうか。私にはないからこそ、オハツとヨコハマが神々しく見えた。
3、歌舞伎とアイドル
栄光と挫折をくりかえす、ヨシザワとヨコハマ。第4部では、ヨシザワがとしおいて、人間国宝になったところからはじまる。
取材をうけるヨシザワ国宝、そのカメラマンがなんと、昔、芸者にうませた女の子、もうおばさんになっている女の子。久々の対面。いままでのうらみを言うカメラマンにたいして、動じないヨシザワ国宝。
カメラマンが小さいころ、ヨシザワにつれられた神社でのおもいで。なにをおねがいしてるの?とたずねるこども、ヨシザワは、アクマと取引をした、日本一の歌舞伎役者にさせてくれと
そして、40年後、その女の子がカメラマンになり、ヨシザワ国宝に、あのときの願い通り、あくまと取引して、あなたは日本一の歌舞伎役者になれましたね。といやみをいうかめらまん。
でも、そのあと、そのカメラマン。そんなにくいあなたの舞台、あなたの舞をみていると、まるで、正月がきたかのよな新しい気持ちになれる。日常をわすれさせてくれる。あなたの舞をみていると、まるで、私も、待っているかのような、空をとべるんじゃないかとおもえる。毎回あなたの舞台を見に行っている
このカメラマンの思いは、まるで、アイドルファン。私も、まだ目が見えているころ、ステージのアイドルのきらめき、胸がキュンとなる感覚、生きる力をもらえる非日常。アイドルファンは常にこういった感情をアイドルからもらっている。だから、何度も繰り返しステージを見に行く。歌舞伎の世界もそれとおなじなのね。
そう思えば、歌舞伎も、何代目から何代目のうけつがれていく、アイドルも卒業、そして加入をくりかえす。人はかわっても、そこに受け継がれているなにかはかわらない。それを伝統というのか、革新というのかわからないが。何かがあたらしくなり、そして受け継がれていく。歌舞伎の世界、アイドルの世界。まるで相似形。涙がでる。
国宝は、歌舞伎好きのおばさまがただけでなく、ハロプロ好きのハロプロファンにも見てほしいね。初代宮本佳林、そして、あと何十年後かには、2代目宮本佳林。そうやって、いつかハロプロも歌舞伎になっていくのかな。17世紀にうまれた歌舞伎がいまものこているとしたら、20世紀にうまれたハロプロも24正規にまでのこってほしいな。その力がハロプロにはあると真意汁。
カメラマンが、ヨシザワ国宝のサギムスメに、うつくしさと生きる力をもらったように、私も、目が見えているころは、ハロプロから多くをもらった。Berryz工房のライバル。サビのライバルは弱気で後ろ向きな私。メインボーカルの菅谷梨沙子のうしろで、バックダンサーの須藤茉麻。色白の肌、腰までのびたストレートの黒髪。その黒髪が、まーさが、前向きから後ろ向きに半回転する、そのステップのたびに、黒髪が、不思議な重量感をもって、ゆれる、長い髪の毛がピョンピョンおどる。実にうつくしい。ため息がでるほどうつくしい。m胸がキュンとなる。いまから。15年ほど前のこと。
今日7月3日で、須藤茉麻も33歳。まーさがおばさんになっても、私が目が見えなくなっても、あのまーさの黒髪のおどりは、死ぬまでわすれないだろう。
お誕生日おめでとうまーさ。
今日は午前から、ガイドヘルパーさんとJR大阪駅の駅ビルの11階にある映画館ん、大阪ステーションシティーシネマへ。映画、国宝を見るため
目の見えない、網膜色素変性症な私、盲人ウエカジ。この映画、国宝には音声ガイドがつく。ハロームービーというアプリをiPhoneにいれていき、外音とりこみ昨日ある、イヤホンをつければ、手持ちのiPhoneから音声ガイドがながれる。
これはとってもよい制度。健常者も視覚障害者も同じ映画館でみられるというのはいいこと。昔は、視覚障害者だけの上映会で音声ガイドつき映画をみるというのがあった、しかも、古い映画。それが今では、新しい映画、最新作も、スマホとインターネットと外音イヤホンのおかげで、オンタイムで映画がみれる幸せ。こんなことが視覚障害者もできるようになったのは、ここ10年のこと。
10時25分スタート、正確には10時36分スタートでおわったのが13時35分。3時間の映画。国宝。平日の朝なのに、客は8割もいた。そのほとんどが、60最上のおばさんおばあさん。女性が8割以上。今回の映画は、歌舞伎を題材にした、立身出世の物語。しかもおんながたが主役。なので女性客がおおいのかな。
主演は、宮本佳林の彼氏役をつとめたこともあるヨシザワリョウ、そして、今のNHK大河ドラマべらぼうの主役ヨコハマリュウセイ。この2人が主役。
デスペア的映画、国宝の見るポイント
1、4部作
3時間の長編映画。なぜかというと、ひとりの少年んが人間国宝になるまでの50年の物語だから。
それにくわえて、この映画は、4分割できる。第1部が、ヨシザワが歌舞伎界でのしあがっていくものがたり、第2部が、そのヨシザワがゴシップで歌舞伎界からほされてどさまわり、3部がヨシザワがヨコハマに再度ひきあげられて歌舞伎の世界へ、最後の第4部が、ヨシザワが年を取り人間国宝になる話。この4つの話が、ひとつの映画になっているから、3時間もかかるし、、ちまたの評判がいいのも、見る人どれかには感動できる、共感できるから。
ある人は、ヨシザワの立身出世に目が行き、あるいは、あるひとはヨコハマの敗者復活うに共感し、ある人は、ヤクザのおおたちまわりのアクションに感動、また、ある人は、歌舞伎のしなやかな古典のおんながたのはなやかさにひかれる。だれもがどこかには共感できる映画。それが国宝。
これから、こういった、映画が増えていくかもね。
映画のストーリーを簡単にまとめると。1964年、中学3年生のヨシザワ少年、長崎のヤクザの組長の息子、組長の趣味で、ヨシザワ少年はイナカ歌舞伎の女形で、セキノトを演じる。それを見に来ていた、歌舞伎スターワタナベケンが、その才能を見出す。その後、ヤクザの組長は構想でころされ、天涯孤独になったヨシザワ少年をひきとったのがワタナベケン。ワタナベケンの子供で、将来の歌舞伎スターとしてそだてられる、ヨシザワ少年と同い年のヨコハマ少年。チスジのヨコハマ少年と、芸のヨシザワ。この2人の対決そして友情がメインテーマ。ワタナベケンの大名跡をつぐのは、ヨコハマか、ヨシザワか。そして、人間国宝になるのは、どちらか。それがメインテーマ。
ヤクザのこどもと、歌舞伎役者のこどもの、友情ストーリー。でもここでなぜ、ヤクザなのか疑問。でもそれは、昔の工業、地方でなにかコンサートとか部隊をやる場合は、まずは、そこのヤクザに許可をいれないといけない。そういった工業とヤクザのからみがあるみたいね。なので、ヨシザワはやくざの組長のこども。
さらに、言えば、このヤクザも歌舞伎役者もどちらも、世間からは、はみでた存在。17世紀に京都ではじまった歌舞伎。差別される身分の歌舞伎役者。風紀がみだれるということで、歌舞伎には女はいれてはいけないという幕府のおきて。なので、そこから歌舞伎は男の世界、女も男が演じるようになる。またヤクザの親分子分、歌舞伎の指定関係。よくにている。親分、師匠には絶対服従。にているね。
ヤクザも何代目組長だし、歌舞伎も何代目なにがし。それぞれの伝統をだれかひとりがうけつぐというところも似ているね。
2、糖尿病
チスジのヨコハマか、芸のヨシザワか。最終的に、ワタナベケンは、ヨシザワを後継者に指名する。チスジよりも芸を選んだ、ワタナベ。本来なら、ここで物語はおわってもいいのだが、これが第1部。
その後、ヨコハマは歌舞伎界をはなれ、10年間いくえしれず。dでも、その間、役者であることはわすれないヨコハマ。温泉宿などで、大衆演劇。
そして10年後ヨコハマがもどってきた歌舞伎界。ヨシザワは花形スターになったものの、親がヤクザで、背中にイレズミがあるということを週刊誌にスッパヌカレテ、どんどん仕事がなくなる。一方、ヨコハマは、チスジのうしろだてをえて、今度はヨコハマが歌舞伎界のスターへ。
ヨシザワには、芸者にうませたこども、女の子、一方ヨコハマは、ホステスの間の子供男の子。ヨシザワはチスジをのこせず、ヨコハマはチスジをのこす。対照的。
ここで、物語はおわってもいいけど、おわらない。第3部で、ヨコハマのチスジが騒ぎ出す。糖尿病のため、左足切断、そして、右足もエシ、そして若くして死んでしまうヨコハマ。
私が、この物語で一番共感したのは、ヨコハマの演技。糖尿病になり、左足をうしない、義足になっても、年月をかけて、再度歌舞伎の舞台にもどってくる。そして、右足もエシの状態でも、舞台にあがりつづける。その舞台の相方としてあがったのは、ヨシザワ。義足の女形のヨコハマが花道で、たおれる、ちかよって、たすけようとするヨシザワ、くるなと目で訴えるヨコハマ。よろよろになりながら舞台にもどる。その前のシーンで、ヨコハマのエシした右足を、いとおしく、愛撫するヨシザワ。ヨコハマが曽根崎信重のオハツで、ヨシザワがその相手役んのトクベイ。トクベイがオハツの足を、いとおしくなでる。エシした足。
視覚障害者の私にとって、このシーンが一番の泣き所。障害をおっても、義足になっても、舞台にあがりつづける。昔のようななめらかさはない義足のヨコハマオハツ。オハツは、かなわぬ恋相手のトクベと、心中する物語。この世で結ばれないなら、あの世で結ばれよう。いのちをかけても、手に入れたいもの。それがオハツにとっては、トクベイ。
そして、ヨコハマもエシした左足、そして右足。舞台にあがるということのために、左足、そして右足をうしなう。それをうしなってでも手に入れたいもの、それが歌舞伎役者として舞台にあがること。オハツとヨコハマが実にシンクロする。
部隊の最後では、ヨシザワ演じるトクベイが、オハツの首筋に、コガタナをつきさし、その主観で、幕がおりる。とくべいがオハツの命をおわらせ、そして、ヨシザワがヨコハマの舞台人生をおわらせる。お芝居と現実がうまくからみあっている。すばらしいね。
はたして、私に、オハツや、ヨコハマのように、自分の体、命とひきかえでも、手に入れたいものはあるだろうか。私にはないからこそ、オハツとヨコハマが神々しく見えた。
3、歌舞伎とアイドル
栄光と挫折をくりかえす、ヨシザワとヨコハマ。第4部では、ヨシザワがとしおいて、人間国宝になったところからはじまる。
取材をうけるヨシザワ国宝、そのカメラマンがなんと、昔、芸者にうませた女の子、もうおばさんになっている女の子。久々の対面。いままでのうらみを言うカメラマンにたいして、動じないヨシザワ国宝。
カメラマンが小さいころ、ヨシザワにつれられた神社でのおもいで。なにをおねがいしてるの?とたずねるこども、ヨシザワは、アクマと取引をした、日本一の歌舞伎役者にさせてくれと
そして、40年後、その女の子がカメラマンになり、ヨシザワ国宝に、あのときの願い通り、あくまと取引して、あなたは日本一の歌舞伎役者になれましたね。といやみをいうかめらまん。
でも、そのあと、そのカメラマン。そんなにくいあなたの舞台、あなたの舞をみていると、まるで、正月がきたかのよな新しい気持ちになれる。日常をわすれさせてくれる。あなたの舞をみていると、まるで、私も、待っているかのような、空をとべるんじゃないかとおもえる。毎回あなたの舞台を見に行っている
このカメラマンの思いは、まるで、アイドルファン。私も、まだ目が見えているころ、ステージのアイドルのきらめき、胸がキュンとなる感覚、生きる力をもらえる非日常。アイドルファンは常にこういった感情をアイドルからもらっている。だから、何度も繰り返しステージを見に行く。歌舞伎の世界もそれとおなじなのね。
そう思えば、歌舞伎も、何代目から何代目のうけつがれていく、アイドルも卒業、そして加入をくりかえす。人はかわっても、そこに受け継がれているなにかはかわらない。それを伝統というのか、革新というのかわからないが。何かがあたらしくなり、そして受け継がれていく。歌舞伎の世界、アイドルの世界。まるで相似形。涙がでる。
国宝は、歌舞伎好きのおばさまがただけでなく、ハロプロ好きのハロプロファンにも見てほしいね。初代宮本佳林、そして、あと何十年後かには、2代目宮本佳林。そうやって、いつかハロプロも歌舞伎になっていくのかな。17世紀にうまれた歌舞伎がいまものこているとしたら、20世紀にうまれたハロプロも24正規にまでのこってほしいな。その力がハロプロにはあると真意汁。
カメラマンが、ヨシザワ国宝のサギムスメに、うつくしさと生きる力をもらったように、私も、目が見えているころは、ハロプロから多くをもらった。Berryz工房のライバル。サビのライバルは弱気で後ろ向きな私。メインボーカルの菅谷梨沙子のうしろで、バックダンサーの須藤茉麻。色白の肌、腰までのびたストレートの黒髪。その黒髪が、まーさが、前向きから後ろ向きに半回転する、そのステップのたびに、黒髪が、不思議な重量感をもって、ゆれる、長い髪の毛がピョンピョンおどる。実にうつくしい。ため息がでるほどうつくしい。m胸がキュンとなる。いまから。15年ほど前のこと。
今日7月3日で、須藤茉麻も33歳。まーさがおばさんになっても、私が目が見えなくなっても、あのまーさの黒髪のおどりは、死ぬまでわすれないだろう。
お誕生日おめでとうまーさ。
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