
三島由紀夫の自選短編集。単行本の発行は1971年。当初、三島が自作解説を書く予定だったのが、1970年の自死により自作解説は無し、代わりに高橋睦郎が解説を書いています。そのときの題名は『獅子・孔雀』で、1971年の文庫化の際に『殉教』と題名が変更されました。
自選の第三短編集とありますが、第一が『花ざかりの森・憂国』、第二が『真夏の死』かな。
『軽王子と衣通姫』
1947年、三島22歳、終戦間もないころの作品です。日本書紀の『衣通姫伝説』の本歌取りと思われる作品ですが、三島らしい絢爛な文体が特徴的です。禁断の愛が究極的には死に収束するという、これも三島らしい死の美学がみられます。三島は戦中戦後を通して1970年の自刃にいたるまで一貫したテーマを貫き通しているということを改めて感じます。『憂国』が三島のエキスなら、この作品もまた三島のエキスだと思う。
巻末の高橋睦郎の解説は、三島の残した創作ノートを元に解題を試みているのですが、それによると「貴種流離」が本作のノートになります。貴種流離譚とは、天上の存在が罪を犯すことにより下野し流離の果てに神上がる、という話だそうです。本作の場合は、犯した罪が近親姦で流離するのが伊予国になります。
『殉教』
1948年。文庫本のタイトルチューンで、男子寄宿舎という閉鎖社会における青年の残酷性と美性が描かれた作品。無邪気な残酷さにおいては『午後の曳航』を想起させます。また、リーダー的存在の畠山については、『仮面の告白』で登場した大見を感じます。三島の少年時代の思想が亘理に反映されているのだろうか、と思わせる作品。
『獅子』
1948年。高橋睦郎の解説によれば、主人公の繁子はギリシャ悲劇の『メーデア』の世を隔てた近親で、愛のためにその愛の対象まで滅び尽くす、とありますが、わたしはずっと、憎悪のためにその愛の対象まで滅び尽くす、と読んでいて、最後の最後で裏切られました。『メーデア』は未読ですが、機会をみて読んでみたい。文体の調子は、後年の三島戯曲を彷彿とさせます。
この作品の中に、印象的な一文があったので記しておきます。「彼には人間一般の苦悩への浅はかな蔑視がある。深い蔑視ならよい。西洋皿のように浅はかな蔑視なのである(P137)」圭輔の浅はかな蔑視こそ、現代のネット社会に蔓延している冷笑派の態度そのものだと感じます。
『毒薬の社会的効用について』
1949年。三島24歳。1998年に出版されたというX氏の伝記は、50年前のX氏が24歳だったときの体験談から始まった。このX氏は三島自身を表しているのでしょう。「動物園に於いてしか社会的な観念を感じられない」というX氏は、観念から逃れるために動物を殺そうと毒薬を手にした。観念から逃避するための破壊行動?本作は『金閣寺』のモチーフになっているのだろうか?本作ではX氏は75歳まで生きるが、三島もこれを書いた当時は、老いた未来を想像していたのかもしれない。以前に読んだときはよくわからない作品だったが、いま読み返してみると、その味がわかるようになったと感じた作品。
『急停車』
1953年。三島28歳で、世界一周旅行が終わって遍歴時代が終了したとされる2年後の作品。この短篇には三島自身が描かれています。戦時の死と隣り合わせの時間の輝き、戦争末期の痴呆的な明るさ、一寸ばかりの芸術性の汚らわしさ、駅から家路に帰る勤め人の情景、作品の破壊による精神の開放、などなど、三島の心情が随所に感じられる短篇です。三島のノートには、本作品は「反社会的孤独」と書いてあったとのことですが、戦後の時代に馴染めなかった三島の姿が杉雄を通してひしひしと伝わってきます。
『スタア』
1960年。35歳の三島は、文筆活動の他に演劇、映画、テレビとひっぱりだこの時期だったと思います。そんな時期に、実像と虚像の二元論をもってスタアを論じた作品。三島ノートによればテーマは「現代の貴種と流離」とあります。虚像のなかのスタアが貴種であり、そこから離れて現実に戻るのが神上がりかとわたしは解釈したのですが、高橋睦郎の解説を読むとそれが間違いと気づきました。
スタアすなわち「僕」自身が貴種であり、流離は「老い」とのことです。言われてみればなるほど、そう考えると最後の加代のセリフが腑に落ちます。三島が恐れていた「老い」を表現した短篇ですが、映画の撮影シーンなどリアルで、また主人公の独白からは虚構と現実の乖離がリアルに伝わってきます。
『三熊野詣』
1965年。ノートは「老人の異類」。老いに対する外見の醜さを書くのは容易ですが、さらに内面の醜さ加味してエンディングに持っていくのが三島独自のアプローチに思えます。藤宮先生の精神的な崇高さに傾倒している常子が、最後に藤宮先生の真意を推しはかるまでの心理の変化が最も印象に残ります。熊野三社の情景描写も魅力的で、これを読むと熊野詣に行きたくなります。
『孔雀』
1965年。ノートは「美少年の孤立」。少年時代の美を失った男が、美の化身ともいえる孔雀へ思いを寄せる物語。孔雀の美はその死をもって完成するというのは、三島美学がしばしば語るところです。孔雀の美の描写が三島らしい豪奢な表現で書かれています。ラストに孔雀殺しの正体がわかるシーンがミステリアスな読後感を与えてくれました。
『仲間』
1966年。この作品はわからなかった。ノートは「化物の異類」。高橋睦郎は、化物の親子と解説していたけど、あまりにも唐突で筋がわからない話であり、わたしには理解不能でした。文体もこの小説だけ異なるし、シュールリアリズム作品の中になにかしらの寓喩があるのではないかと思いながら読んだのですが、さっぱりわからなかった。もっとも三島らしくない作品だと思います。自作解題を実に読んでみたいのですが、今やそれも叶わず。
巻末に高橋睦郎の解説がありますが、これがとても役に立ちました。わたし、あまり文庫本の巻末解説は読まない(好きな作家、ドナルド・キーンなどは除く)のですが、この解説は、読者の理解を助けてくれる、とともよい解説だったと思いました。
この本、『殉教』は、十代の頃、三島を乱読している頃に読んだ一冊なんですが、当時のわたしの読解があまりにも浅薄であったとつくづく思います。話のあらすじはそこそこ覚えているのだけど、作者の真意をほとんど理解していなかった。恥ずかしながらこの歳になってやっと、三島の短篇の味わい深さがわかるようになったと思います。やはり読書というものは、スローリーディングや再読が重要です。速読乱読、ダメ、ゼッタイ。タイパなんてことにコダワるのはバカの極み。
新潮文庫の三島の自選短篇集は三冊あるのですが、もう一冊も再読してみよう。
作者プロフィール。
書誌事項。
p.s. 今日は妙に透析疲れがでて、昼寝しすぎた。2700引いて200残し。