
豊饒の海の三巻目に当たる作品ですが、諸事情により9月中に読んでおきたかった一冊。
豊饒の海の作品を通して認識者として存在する本多邦繁がこの巻では主役になります。
富を手に入れ、老いた本多が、清顕、勲の生まれ変わりと思われるジン・ジャン姫に出会ってからその破局までが本巻のストーリーです。
久しぶりに読み直すと、人間の老いについての描写と、認識の成れの果てである窃視に溺れるさまが、特に印象的です。
タイトルの「暁の寺」ですが、その意味は漠然と、転生したのがタイのお姫さまなので、タイ(バンコク)を代表するワット・アルン(暁の寺)をタイトルにしたんだろうな、と考えていたのですが、そんなに単純なものではない^^;ことは、平野啓一郎の三島由紀夫論を読んで理解しました。
暁の寺は、唯識の話なのですね。三島は、虚無のメタファとして夕暮れを用いていますが、夕暮れの対称である暁を唯識とし、暁の寺をタイトルにしたと触れてありました。なるほど、暁の寺においては、本多が唯識やオルペウス教の思想から輪廻転生を思索するのが、暁の寺のメインとなるべきところです。
その理解を深めようと、三島由紀夫論の、IV-10~IV-15を読みましたが、これがまた難解で、すべて理解しようとすると大乗仏教や上座部仏教などの知識が必要で、何度か読み直しても完全な理解に至っていません。時間を置いてまた読もう^^;
同じ本でも、時間を置いて何度も読み直すと、前とは違ったところが琴線に触れたり、それまで理解していたつもりのものが間違っていたり、あらたな発見がいくつもあります。
こちら書誌情報。
文庫化は1977年。初出は新潮1969年9月号~1970年4月号。
p.s. 明日は南西風か...
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