『エアン』
「どこ行ってたんだよ!」
怒鳴りながら、俺はエアンのうなじを抱いた。薄い朝靄が彼を包んでいる。冷たい。
うつむいた彼の肩に押し開かれた、アパートの軋んだ扉は、ぎぎぎと音を立てながら閉まる。淡い暗闇に飲み込まれた。
「……ごめん」
「心配、したんだぞ」
「ごめん」
突き放し、顔を見る。と彼の瞳は背の低い靴箱を映しながら、濡れていた。
「エアン」
そっと頬を撫でる。冷たい。
「僕、もう……時間がないんだ」
「え?」
「お別れ」
嘲るように吐かれた言葉は巡って彼自身を傷つける。彼はむせた。
「そんな、馬鹿なこと。……せっかく、せっかく二人でここまで逃げてきたんだぞ」
「そうだね。逃げてきたのに」
「……エアン」
掠れた彼の叫び声は悲しいくらいに小さくて。それは、きっと葛藤の表れ。
――俺だって別れたくないんだぜ。
ただ、その一言が、砂利を押し込んだように苦い喉の奥に引っ掛かって出てこない。無理やり出そうとすると、膿んだ傷口に触れるようで、痛い。言わなきゃいけないのに。言わなきゃいけないのに。
どうして出てこない。どうしても、言えない。
「王宮を逃げ出して、君と出会って、今まで色んなことがあった。僕は君から色んなことを教えてもらった。楽しかった。自分の身分を忘れるほどに。自分の運命を呪うほどに。だからこそ向き合わなきゃいけないって。負けちゃいけないって」
「エアン」
淡々と語るしぐさが似合わない。
「君が僕に手を差し伸べてくれたから。今なら僕は弱い人間を助けられる、優しい王になれる。そんな気がするんだ」
やわらかく揺らいだベージュのカーテンをすり抜けて、朝日が迫るほどに清々しい笑顔。それは決意の表情。凛として精悍な、高貴な顔立ち。
――でも、気付いていたか。お前、頬が引きつっていたんだぞ。まつ毛が濡れていたんだぞ。俺にはとても辛そうに見えたんだぞ。
なぁ、エアン。
あれから数年。
俺は元通りの生活を送っていた。何も変化がないフリーター暮らし。ただ一つ前とは違っていたのは、良くニュースを見るようになったことくらい。とはいえ、三畳一間にテレビを置いてる余裕なんてないから、もっぱら電気屋のショーウィンドーを覗いたり、定食屋のブラウン管を見つけたり。
――どこへ行く時も、ずっとあいつの顔を探していた。
「おい、そろそろじゃねえか」
「あ。ホントだ」
それはバイトの昼休憩だった。先輩達の何気ないやり取りが聞こえてきたのだ。
「何か、始まるんすか?」
「知らねえのか。あのお騒がせ皇子の戴冠式だよ。新聞とか報道でちょくちょくやってただろ」
「うち、新聞とかとってないもんで」
へらへらと先輩に向けた愛想笑いを程々にして、俺はテレビの液晶に食い入る。麺が伸び過ぎたカップラーメンなんて、この際忘れることにした。
書類の山に埋もれた小さなテレビは、まさに新国王の所信表明を映し出していた。
相変わらず、人見しりの癖が直ってないようで表情が硬い。それでも風貌はどこから見ても立派な国王だ。
――俺の知ってるあいつはもう……。
「この度、ニホン王国国王に就きましたエアニス・グレンディンです。まず初めに一言だけ。わたくしを、いえ、僕をエアンと呼んでくれた君。この放送を見てくれていますか? 僕はようやく国王になりました。君から教えてもらったこと、楽しかった思い出、僕は一生忘れません。絶対に忘れません。だから、君も僕のことを『エアン』のことを忘れないでいて下さい――」
小さな画面の中には馬鹿馬鹿しいほど世間知らずで俺に迷惑しか掛けない、でも一生懸命で一途でいつも微笑みを絶やさない、俺に生きる目標を与えてくれた『エアン』がいた。
「……ああ、忘れねえよ」
とても近いようでとても遠い隔たりに阻まれて、俺たちは笑顔を交わす。「エアン」という呟きはもう届かなかった。
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何やってんだろ……。
色々やることあるのに……。
まぁ息抜きってことで。
書いてみたら、BL風味が抜けていた件について。仕方ないよ。このジャンル書いたの初めてだし、何を書けばいいか分からない。誰か萌えポイント、教えてください。
それでは。