「ひどけい しおどき」和紙 16x23cm 江戸中期末(寛政頃=18世紀末) 高井晒我 識 下谷竹町 花屋久治郎 新板(?)
大辞林によると,「時計」は中国周代に用いられた立てた棒の影の長さを測る粘土製の緯度測定器「土圭」に由来した当て字とのことです.高井蘭山(晒我)はここでは洒落て原語で書いていますね.「しおどき」もこのままでは現代ではなかなか読めません.
高井蘭山(1762-1839)は,与力が本業だったのですが,寛政の頃から俗解書(一般向けの手軽な諸事解説,たとえば寛政四年の「訓蒙天地弁」),読本や往来物の作者として知られ,「江戸大節用海内蔵」といった節用集や「天保改正御江戸大絵図」に至るまで,翻訳や編書を加えると著作は100点以上,また,北斎の版画でも有名な「新編水滸画伝」は初め滝沢馬琴が手がけたものの初編のみで投げ出したため高井がこれを引き継ぐなど,とくに板元受けする編集者としての才能が豊かだったのだといわれています.
さて日時計として折って立てて影を見るための黄土色の紙は,とくに左寄りのほうは折られた形跡が無かったので,ほとんど使用されてはいなかったものではないかと思います.このようなものですから,一度旅に持っていったら捨てられるかもしれないし,なかなか大事に保管しておこうとは思われない筈で,200年経った現代では珍品でしょう.裏は白紙で回転盤の中央を止める紙縒りが貼り付けられているだけ,紙は比較的薄手で,携帯するためにか二つ折りないし四つ折に折られていた様子からみると,なにか和本の付録のようなものではなかったかと考えていました.
そのような折,千葉大学文学部の高木 元 先生が高井の著作目録をお作りになっていらっしゃり,2006年の千葉大院社文研研究プロジェクト報告収載の「高井蘭山著編述書目(覚書)」には,「日土圭潮汐時」はまだ掲載されていませんでしたが,寛政九(1797)年刊の「野馬臺詩国字抄」の巻末広告に「日土圭潮汐時」が記載されており,単体刊行されていたことがわかりました.広告が作られた時期は本文との刊行年代と一致しているとは限りませんが,花屋の出版なので,さほど時代は下らないと思われます.下谷竹町の花屋久治郎(星運堂)は高井の著作の初版においてある時期しばしば共同制作をしていました.
残念ながら,国会図書館で高井の著作の原本を相当当たってみたのですが,同館所蔵本の「野馬臺詩国字抄」の巻末広告は1頁(半丁)分しかなく,その他も含めて高木先生の資料と同一のものを確認することは出来ませんでした.ただ,文化13(1816)年4月に出版された高井の「農家調宝記」附録(嗣編=第2編のこと)にも「畧日時計并潮汐を闇記に繰」とあり,高井の関心のほどが伺えます.ほかに早稲田大学図書館本「野馬臺詩国字抄」も文政の山城屋による再版でした.
農家調宝記 嗣編「畧日時計并潮汐を闇記に繰」(刊本図像より合成)
余談ですが,国会図書館では,閲覧システムがリニューアルしたそうで,まだ移行期とのことですが,NDL-OPACから検索して館外でも閲覧できる貴重書が昨年末から随分増えたそうです.
このような江戸時代の紙製日時計は旅の携帯用として広く普及していたようで,日本に関するケンペルの有名な著作の中にもそのようなことが記されています.ただ,曇天・雨天では使用できないので,聞こえるところでは寺の鐘で時を知っていたようですね.
webで確認できる同類の紙製日時計は2~3種ですが,この「日土圭潮汐時」は確認できませんでした.使い方は以下のサイトで紹介されています.作者と制作年代が特定できるものは他にはなかなか見つけるのは難しいようです.
・セイコー時計資料館 日時計の使い方の解説
・江戸時代、明治時代、大正時代の日時計(富山市天文台のサイト)
・江戸の紙日時計の紹介
・「新潟古時計物語展」の紹介記事
・「時の資料館」 紹介記事と日時計の使い方
・「日時計の部屋」
ここでは,「しおどき」のほうがvolvelleとなっています.回転盤を回し,月の上の白点を朔から晦日までの外周に併せると,月齢による月の満ち欠けが窓に図示されますが,この機構は西洋の柱時計と表示のメカニズムは共通しているので,裏付けはありませんがそれが基になっているのかもしれません.旅や航海には潮時が重要だったのですね.東西とあるのは月の向きを示すためです.白点のの180度反対側の波間の中に開けられた窓に「大・中・小」潮と,差し引きの時間?が表示されています.
崩し文字を読むのが難解で,また読めたらご報告します.