泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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レンブラントの宗教画(2)revised

2009-08-23 20:26:23 | オランダ絵画の解説
承前

 後半がManuthの受け売りになってしまったので,レンブラントの真作と多くの研究者が認めている作品で,聖書主題の油彩画を年代別に拾い出してみることにした.あわせて,B.Broosによる1996年の時点での総説(Grove's "The Dictionary of Art",Vol.26,pp.152-179)により内容を修正した.

 インスピレーションや発注も含めて,恐らく工房の運営がうまく行っている時期に作品数が増えるのであろうと思われるが,それ以外では1661年の使徒連作は異例である.
 旧約聖書の中でカトリックでは聖書正典とするがプロテスタントでは外典として扱われる書物は第二正典といわれ,トビト書(記)・ユディト書などが挙げられ,エステル書の一部やダニエル書の一部(スザンナの節などヘブライ語聖書に含まれない部分)もこれに含まれる.例えばトビト書は,ユダヤ教では外典として,カトリックでは旧約聖書の続編として(1546年トリエント公会議の決定),プロテスタントでは聖書ではなく文学として扱われている.ただし,1618年のドルトレヒト宗教会議で承認されたオランダ語の聖書には含まれていたという.詳しくは1986年の「レンブラント・巨匠とその周辺」展に寄稿しているJ.Heldの論文「レンブラントとトビト書」を参照のこと.
 これらを含めて旧約聖書の主題に限ってみれば
主題\制作年代 1625-31 32-41 42-56 58-69
アブラハム(含イサク)   35 46  
ヤコブ     56 59
ヨゼフ   33 55  
モーゼ(含バラム) (26)     59
サムソン 28 35・36・38    
サムエル     50  
ダビデ(含バテシバ) 27・28   42・43・54・55  
エレミア 30      
ダニエル(含スザンナ)   33・35・36 47  
エステル(含ハマン)   32   60・65
外典トビト書 26・30 37 45 59

とくにトビト,ダビデやバテシバ,サムソン,ダニエルやスザンナをよく描いていることがわかる.

 これに銅版画の主題を加えてみると,アブラハムとイサクを中心に創世記に基づく主題が圧倒的に多い.
c.33 B38 R- Jacob Lamenting the Supposed Death of Joseph
34  B39 C  Joseph and the Wife of Potiphar
37  B30 C1+ Aabraham Casting out Hagar and Ishmael
c.37 B33 C2- Abraham Caressing Isaac
38  B28 RR+ Adam and Eve
38  B37 C2+ Joseph Telling his Dreams
41  B43 C2- The Angel Asceding from Tobit and his Family
c.41 B40 C2  The Triumph of Mordacai
45  B34 C2+ Abraham with his Son Isaac
51  B42 C1+ Tobit Blind, with the Dog
52  B41 C1  David on his Knees
55  B35 C2- Abraham's Sacrifice
55  B36 RRR Four Prints for a Spanish Book: Statue of Nebucadnezzar,Jacob's Ladder,David & Goliath,Daniel's Vision
56  B29 C1- Abraham Entertaining the Angels
主題\制作年代 1632-41 42-56
アダム 38  
アブラハム(含イサク) 37・37・41 45・55・56
ヤコブ 33  
ヨゼフ 34・38  
エステル 41  
外典トビト書 41 51


(1)レイデン時代(1625-31) 1625(1点)26(4)27(4)28-29(6)30(2)31(3)
 Broosはこれに先行する修行時代を1626年頃までとしている.1641年に伝記を残したOrlerによれば「レンブラントはアムステルダムのラストマンの工房に半年間入った」が年代は明確にされていない.1625-6年の彼の作品に見られるラストマンからの強い影響から考えて,それらは工房からレイデンに戻って描いたと従来から考えられているが,その場合工房には1625年かその前に在籍したということになり,あるいはBroosによれば,ラストマンの工房で独立した助手として描いた可能性もあるらしく,その場合は工房には1625-6年に入っていたことになるらしい.当時ラファエロ風の歴史画をエルスハイマーのように小画面の作品として制作していたラストマンの工房を勧めたのは,レイデンで一緒になった神童のリーフェンスだろう(彼自身が1617-19年頃まで工房に在籍しその価値をよく認識していたから).レンブラント自身が後に「イタリアに行かずともオランダ国内でその絵画を研究することはたやすい」と述べたのは,当初,ラストマンのイタリア風の構図や背景建築から学んだためであろう.この時代のレンブラントのオリジナリティーとしては例えば1626年の「商人を神殿から追い払うキリスト」に見られるような半身像を積み重ねた構図が挙げられる由.

 師ラストマン由来の明るい画面が支配する明暗表現の中に豊かな色遣い・誇張された動作の人物表現といった特徴を色濃く見せる1625年の「聖ステファノの石打ち」の僅か3年後には,暗闇に浮かび上がる明暗表現(キアロスクーロ),より繊細・精緻な筆遣いで人物の豊かな表情とものの質感を巧みに表現できるまで,その表現技法に大きな変化を見せている.これは例えばハイヘンスをして「歴史画においてはどのような偉大な画家も容易にはレンブラントの"vivid invention"には到達し得ないであろう」と言わしめた1629年の「30枚の銀貨を返すユダ」(現在は個人コレクション)などで確認できよう.同時期~その後の作品として,オランダではアムス国美の「悲嘆の預言者エレミヤ」やマウリッツハイス美の31年の「キリストの神殿奉献(シメオンの賛歌)」,米国ではロサンジェルス郡立美術館の「ラザロの蘇生」などにもその効果(キアロスクーロなど)をいっそう強く見いだすことが出来る.ここに至るまでにはリーフェンスとの良きライバル関係aemulatioによる研鑽があったことは言うまでもない.
 「30枚の銀貨を返すユダ」1629
 「悲嘆する預言者エレミヤ」1630
最も好きなレンブラント作品の一つ.
 「キリストの神殿奉献(シメオンの賛歌)」1631
細部にこだわったラストマン様式とレンブラント自身の劇的なスポットライトによる力強い構図によって表現された人物群像から,Broosはこれをレイデン時代の頂点としている.


1625 The stoning of S. Stephen
1626 Balaam and the ass
1626 The baptism of the Eunuch
1626 Christ driving the moneychangers from the Temple
1626 Tobit and Anna with the kid
1627 David with the head of Goliath before Saul
1627 The rich man from the parable
1627 S. Paul in prison
1627/8 Simeon in the Temple
1628 S. Peter and S. Paul(?)
1628/9 S. Paul at his writing desk
1628/9 The supper at Emmaus
1628/9 Samson betrayed by Delilah
1628/9 David playing the harp to Saul
1629 Judas, repentant, returning the pieces of silver
1630 Jeremiah lamenting the destruction of Jerusalem
1630 Tobit and Anna
1631 The raising of Lazarus
1631 Simeon in the Temple
1631 S. Peter in prison

(2)アムステルダム時代前期(1631~34サスキアと結婚・35新居~42夜警の完成)
 1641年にはレンブラントはアムステルダムの主導的な画家の一人と見做されているので,Broosはこの時期を1640年頃までとしており,彼も,歴史画において1630年代はレンブラントの最も「バロック」らしい時代と述べている.
 1632(2)33(4)34(7)35(5)36(3)37(1)38(2)39(1)40(1)41(0)

 フレデリック・ヘンドリックによる「キリストの受難」の発注を受けて注文制作も増加し,工房も軌道に乗ったのであろう,彼の歴史画は小振りな作品から大画面へと移行して行き,等身大の2-3人を縦長の画面に納めた「天使に制止されるアブラハム(イサクの犠牲)」「ガニメデの誘拐」や横長の「ダナエ」,数人までの群像を描いた「ベルシャザール王の饗宴」「目を潰されるサムソン」などの傑作を1635-36年の間に次々と描いている.

 
 「天使に制止されるアブラハム」1635
構図はラストマンに由来し,それを受けたリーフェンスの同名作品をレンブラントは熟知ないし所有?していたようだが,イサクの裸体の構図はルーベンスの借用である
 「ガニメデの誘拐」1635
 ガニメデの泣き叫び放尿する姿はきわめて現実的で日常の写実でもある
 
  「目を潰されるサムソン」1636
 レンブラントは構図にルーベンスの躍動感と大胆さを取り入れているが,サムソンの構図自体もルーベンスの有名な「繋がれたプロメテウス」(1611-18年;英外交官のカールトン卿のコレクションで1618~25年にはハーグで見ることが出来た)に由来している.
 この作品は上記ヘンドリックの発注を取り持ってくれたホイヘンスへのお礼として制作されたと考えられていたが,Broosによればこれは確実ではないらしい.
 レンブラントはこの作品の後,このような劇的様式から離れてゆく.
「ダナエ」1636 宗教画ではないが,最も好きなレンブラント作品の一つ.残念ながら硫酸事件で昔来日したときの面影は無い.
 ドラマの一シーンの様ではあるが,躍動感や力強さよりも親密さが加わり,Broosは17世紀の絵画のヌードで最も印象的な作品と述べている

 例えば女性の顔のモデリングも1633年ごろまでと比較して変化が感じられ,これらの作品は,ルーベンスを思わせるダイナミック(劇的)な瞬間を,浮かび上がるキアロスクーロの中に描いたまさにバロック絵画の頂点の一形態である.
 この制作数の増加には,アムステルダムにおける歴史画の大家であった師ラストマンが1633年に亡くなっていることも関係しているであろうし,ルーベンスも1640年に世を去っている.フランドルにおいても歴史画大作などの注文はヨルダーンスらの手に委ねられてゆく.作品の注文主については今後も確認調査が必要だが,不明のものが多い.
 1636年以後,フランドル様式への傾倒から離れるとともに歴史画の大作は減り,かつてのラストマン的な小画面に戻り,1637年の「トビアスとその家族のもとを去る天使」を制作するが,この天使の構図はヘームスケルク作品に基づく版画図像に基づいており,版画図像に関するレンブラントの造詣の深さを伺わせる.
 その後,1640/41年に発注された集団肖像画は記念碑的大作「夜警」として1642年に完成する.

1632/3 Esther?(A young woman) at her toilet
1632/3 The descent from the cross
1633 The raising of the cross
1633 Christ in the storm on the Sea of Galilee
1633 Joseph telling his dreams
1633 Daniel and Cyrus before the idol Bel
1634 Ecce homo
1633/5 The Entombment
1634 The incredulity of Thomas
1634 The Holy Family
1634 (II)The Descent from the Cross
1634/5 John the Baptist preaching
1634/5 The Lamentation
1635 Abraham's sacrifice
1635 Belshazzar's feast
1635 Samson threatening his father-in-law
1635/9 The Entombment
1635/9 The Resurrection
1636 The Ascension
1636 Susanna at the bath
1636 The blinding of Samson
1637 The angel Raphael leaving Tobit and his family
1638 The risen Christ appearing to Mary Magdalene
1638 The wedding of Samson
1639 Man in oriental costume (King Uzziah stricken with leprosy?)
1640 The Visitation

レンブラントと宗教画(1)

2009-08-16 22:22:33 | オランダ絵画の解説
 オランダ・バロック絵画館では歴史画History Painting(物語画)の収集がコレクションの重要な柱の一つで,09年現在,旧約聖書をモティーフとした絵画15点,新約聖書の絵画7点を所蔵しているが,とくに旧約聖書の題材に力を入れている.
 このこととレンブラント派の作品の収集をもう一つの柱としていることは,よく話題にされるようにレンブラントの生きた宗教改革の時代の新教国オランダにおいては,宗教画の需要が低迷していたらしいと考えれば,一見矛盾するように見える.

 人文主義者エラスムスによるギリシア語の「校訂新約聖書」刊行後,1517年ドイツでルターが「95ヶ条の論題」を提示して「聖書中心主義」(「聖書のみ」を拠りどころとして「聖伝」を否定)を主張し,秘蹟としては新約聖書に記載されている洗礼と聖餐(カトリックの聖体)のみを認めて後,従来のラテン語ではなく自国語の聖書がグーテンベルグの活版印刷によって広まってゆく中でキリスト教徒は分裂してゆく.
 とくにフランスのカルヴァンは1536年「キリスト教綱要」を刊行し,後にドルトレヒト会議で定められた信仰基準,カルヴァン主義の五箇条TULIPとは,人間の全的堕落・無条件的選択・限定的贖罪・不可抗的恩恵・聖徒の堅忍とされているが,いずれにしてもカルヴァンは「神を目に見える形としては捉えられないので,神を図像化したものはすべて神聖への冒涜」であり,教会の建物の中での偶像崇拝のみならず,そのような図像の所有さえも禁じている.
 これに対するカトリック側の対抗(宗教)改革の動きの中で,1545-63年のトリエント公会議では,七つの秘蹟(洗礼・聖体・婚姻・叙階・堅信・告解・塗油)など教義の正当性の再確認とプロテスタント側の主張の排斥,教会の自己改革を決定した.その間の1555年にアウグスブルクの和議が結ばれ,ドイツにおけるルター派は容認されたが,カルヴァン派の信仰は認められず,信仰の選択は都市や領主が決定するもので個人の信仰の自由は認められなかった.その後,フランスではユグノー(フランスのカルヴァン主義者)戦争後の1598年のナントの勅令で個人の信仰の自由が認められた.
 オランダでは1560年頃,カルヴァン主義がフランドルのフランス語圏から伝播し,カトリックのスペインに対抗する北部諸州において重要な役割を持つようになり,アムステルダムでは1578年に改革派(カルヴァン派)が政治の実権を握り,他派(カトリック・他のプロテスタント諸派[ルター派・メノー派]・ユダヤ教徒)の信者は公職から追放された.しかしながら,その後,支配階級の市民(門閥貴族)は,他派の信者も都市の経済的発展に寄与していることを認識し,比較的寛容に扱うようになる.レンブラントの活躍し始めた時代はスペインとの12年停戦が協定された1609年以降のオランダ絵画の第二世代の時期といわれ,同地の宗教対立は沈静化していたようだ.

 すなわち,レンブラントの生きた17世紀前半には,レイデンにしろアムステルダムにしろ,家人にしろ隣人にしろ,周りがどのような宗教を信奉しているか気にかけないし,非公式の秘密礼拝があちこちで行われていた事実がある多宗教multi-denomitionalな時代であった.実際,レンブラントの父は結婚前に,母は結婚後に,カトリックからプロテスタント(カルヴァン派)に改宗しており,レンブラント自身は生涯を通じてカルヴァン主義者であったが,妻のサスキアは旧教会に葬られ,師匠のラストマンはカトリックであった.また,レンブラントの肖像画の注文主はカルヴァン派・メノー派・カトリック・ユダヤ教徒を含んでおり,アムステルダムの新居はユダヤ人居留区にあって,メノー派の人々とは深いつながりがあったという.
 従来のようなカトリック教会で使用された大祭壇画の需要は共和国内で激減した.レンブラントが目標としたルーベンスのように,他国の王侯貴族から引きも切らない注文を受けるだけの名声があればというところではあろうが.それに替わる顧客として現れたのが裕福で学識のある市民階級で,宗教画も彼らの邸宅を飾る比較的小画面の作品に変容してゆく.
 上述した教義から,カトリックの礼拝ミサで取り上げられるのは福音書に記述されたキリストの生涯にまつわる説話が多く,「キリストの受難」の絵画,とりわけ磔刑図は,オランダではカトリックの隠れ教会や個人宅の礼拝堂の祭壇画,あるいは寝室での祈りの対象として描かれていた.マリア信仰とともに神の子をも描く「聖母子」「聖家族」や「聖人像」も同様でカトリック信者の信仰の対象となるが,実際には親密な芸術作品としてあるいは鑑識眼を誇示する財産としてプロテスタント信者の所蔵となることもあった.聖人像でも例外的に,聖ステファノは初めての殉教者として聖書「使徒行伝」に記述があり,聖ヒエロニムスはとくに書斎にいる図像表現が聖書の翻訳や神学書の著者として,プロテスタントに認められていた.結局,当時のオランダでは,教義にかかわる図像学的意味の濃厚なものでなければ,信仰を問わず購入されていったようである.
 このような需要のある中で,レンブラントは宗教画を描いてゆくが,その主題は,上述の印刷された聖書のデューラー・レイデン・ヘームスケルクやM・ド・フォスらの挿絵版画と師のラストマンの作品からインスピレーションを得ている.Manuthによれば,レンブラントは登場人物の感情的反応に焦点を当てた物語を好むことが多く,美徳と悪徳を対比し感情を移入させるような作品に仕上げている.その点において,じつは,前レンブラント派からレンブラント派をふくめて,彼らはとくに旧約聖書の主題を多く取り上げていたのである.
 Manuthによれば,レンブラント派の主題としてもっとも多いのは「ハガルの追放」であるらしいが,それに続く「ハガルと天使」やアブラハム・ヤコブ・トビアスの説話などを通じて,神の使いとしての天使を登場させ,神との接触を間接的に表現したとも考えられる.
 「ハガルの追放」1637  「トビアスとその家族のもとを去る天使」1637


1630年代のレンブラントはとくにサムソンの物語を頻繁に取り上げている.
 「デリラに欺かれるサムソン」1628 「 舅を脅かすサムソン」1635
 「目を潰されるサムソン」1636  「婚礼の客に謎をかけるサムソン」1638


 レンブラントの弟子の信仰は異なっていたが,主題に関しては,1630年代後半の弟子フィクトルスは厳格なカルヴァン派で,旧約のみで新約の主題は一点も扱っていないのに対し,最後の弟子ヘルデルは1685年ごろ製作した「天使をもてなすアブラハム」の中で天使の一人を神として描いているが,これはレンブラントの1656年の同主題の銅版画の表現にも似ている.
レンブラント「天使をもてなすアブラハム」1656 ヘルデル「天使をもてなすアブラハム」

 Manuthは「西洋美術史において17世紀オランダ画家達ほど旧約及び新約聖書の視覚化に貢献した画派はないが,その中で主導的な役割を果たしたのがレンブラント派であった」と結んでいる.

 要約すると,オランダという国の寛容性,個人の宗教的自由と嗜好,芸術である物語画の役割が宗教的対象から趣味の対象として変遷していったことが,比較的小画面で説話的主題の宗教画の需要を高め,レンブラント派はその中に活路を開いて聖書の劇的な場面を描いていったといえよう.

参考文献:
・「レンブラントとレンブラント派」展図録,「レンブラントの世界における宗教画」,V.Manuth,2003
・「レンブラント・巨匠とその周辺」展図録,「レンブラントと聖書」,C.Brown,1986
・"Rembrandt",C.Tuempel,1993