つぎの文章の空欄(1~15)に、もっとも適切な語呂を考え、漢字を用いるべきところは正確な漢字で、記入しなさい。
1793年、幕府の( 1 )を主導した( 2 )が老中を辞任すると、11 代将軍家斉が政治の実権をにぎり、田沼時代の老中であった水野忠友の養子忠成が家斉の信任をえて側用人・老中となり、しだいに権勢を振うに至った。
この前後 50 年間がいわゆる( 3 )時代で、生活はすべて派手となり、賄賂が再び横行した。この間、権力は著しく腐敗し、幕府の支配力は各方面で急速に衰えていった。
その結果、無宿者や博徒が横行し、農村においては階級分化がいっそう進行した。とくに1830 年代のはじめには、全国的に天災・飢鐘があいついで、百姓一揆・( 4 )が激発した。こうし
たなかで起った 1837 年の( 5 )は、大きな影響をおよぼし、幕閣の首脳部を驚かせた。
こうして、老中首座水野忠邦による( 6 )が始まるのである。
忠邦は、もと肥前唐津藩主で閣老への野心をいだき、1817 年、奏者番から寺社奉行に昇進したのを機会に、水野忠成に取り入って、遠江浜松に転封することに成功した。
その後、大坂城代・( 7 )を経て、1834 年には、忠成に代わって待望の老中の地位についた。こうして 1841 年、家斉の死を契機に老中首座となり、幕閣の全権を掌握して、広範な幕政の改革に乗り出した。
忠邦は、享保・寛政の諸改革を目標とし、質素・倹約を命ずるとともに、風俗・出版に対しても厳しい統制を加え、( 8 )らを処罰した。
ついで( 9 )を発して農民の出稼ぎを禁じ、江戸に流入した農民を強制的に帰村させて、荒廃した農村の再建をはかった。さらに物価を引き下げ、旗本・御家人を救済するため( 10 )を出したが、これらの諸政策は、いずれも寛政の改革の路線に連
なるものである。
しかし、寛政のころにくらべて、幕藩体制の危機はいっそう深まり、かつ進行していた。
こうした事態に対して打ち出したのが( 11 )である。
そのねらいは、これまで特権商人に支えられた流通機構を排除し、仲間外の商人や( 12 )にも自由な取引を認め、江戸や大坂への物資の流入の増加をめざしたものであった。
しかし、予期した成果がえられず、かえって流通機構は混乱し、物
価は高騰した。
忠邦が最後に断行した政策は、1843 年に出した( 13 )である。この政策は、( 14 ・ )周辺を直轄領に編入しようとするもので、そのねらいは幕府権力を強化し財政を安定させるとともに、外圧に対応しようとする、すぐれて政治的・経済的・軍事的意義をもつものであった。
ところが、大名や旗本の強い反対によって挫折した。
( 13 )は撤回され、忠邦は免職となり、改革は失敗に終った。
それは幕府が中央集権的な絶対権を喪失したことを示すものであった。
[解答]
1 寛政の改革 2 松平定信 3 大御所 4 打ちこわし 5 大塩平八郎の乱 6 天保の改革 7 京都所司代 8 為永春水(柳亭種彦) 9 人返しの法 10 棄捐令 11 株仲間の解散 12 在郷商人 13 上知令 14 江戸・大坂