次の文章を読んで、後の各問に答えなさい。ただし、波線部には一部誤りがあります。
織田信長の後継者としての地位を固めていった羽柴秀吉は、水陸交通の要地である石山[ A ]のあとに大坂城を築き、全国統一に乗り出した。
1585 年に朝廷から関白に任ぜられ、翌年には太政大臣となって、豊臣の姓を与えられた。
1588 年には京都に新築した[ ア ]に後陽成天皇を迎え、諸大名に対して、天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。
この間、1587年に九州の島津氏を制圧し、1590 年には関東の[ B ]氏を滅ぼすとともに、奥州を平定して、全国統一を実現した。
豊臣政権は、全国で 200 万石の直轄領や①佐渡・生野・石見などの直轄主要鉱山を経済的基礎としたほか、京都・大坂・堺などの重要都市も直接支配して豪商を統制下においた。
秀吉の事業中で、後世にもっとも大きな影響を与えたものは検地と刀狩である。
信長までの検地がおもに農民側からの報告である[ C ]検地であったのに対して、(a)秀吉が実施した太閤検地では、検地奉行を派遣してのきびしい調査であり、田畑ごとに[ D ]の原則で耕作者を検地帳に登録し、年貢負担の責任者とした。
また、一撲を防止し、農民を耕作に専念させるために、1588 年には刀狩令により、農民から武器を没収した。
さらに、1591年には身分統制令を出して、武士に仕える武家奉公人が町人や農民になったり、農民が耕地を放棄して、商人や日雇いになることを禁止し、こうした一連の政策により、いわゆる[ E ]が進められていった。
(b)秀吉は、はじめキリスト教の布教を認めていたが、しだいにその教えが国家統一のさまたげになると考えるようになり、1587 年に宣教師追放令を出した。
しかし、他方で南蛮貿易を活発にするため、わが国の豪商の東アジア諸国への渡航を保護するとともに、②ジャワのポルトガル政庁、③ルソンのイスパニア政庁、台湾などに国書を送って入貢を求めるなど、積極的かつ強硬な外交政策をとった。
朝鮮に対しても、④対馬の宗氏をとおして、入貢と明征服の道案内を求めたが、応じなかった
ため、⑤肥前の名護屋に本陣を築き、(c)1592 年と 1597 年の二度にわたって朝鮮に出兵した。
戦局ははかばかしい展開を示さず、最後は秀吉の病死をきっかけに撤兵することになった。
しかし、膨大な兵員と戦費を費やした朝鮮侵略は、朝鮮の人々に今日まで語り伝えられるほどの多くの被害をもたらしただけでなく、豊臣政権の支配力を急速に衰退させることになった。
問1 上の文中の空所 A~E に入れるのに最も適切な語句を、漢字で記入しなさい。
問2 上の文中の空所アに入れるのに最も適切な語句を次の①~⑤の中から一つ選び、マークして答えなさい。
①伏見城 ②二条城 ③御所 ④聚楽第 ⑤醍醐寺
問3 波線部①~⑤の地名には、誤って用いられているものが一カ所ある。その番号をマークして答えなさい。
問4 下線部(a)の太閤検地について述べた次の①~⑤の文の中から誤った内容のものを一つ選び、マークして答えなさい。
①1582 年に山城国から始まり、秀吉の政治的統一事業の進行につれて東北地方も含めた全国に拡大し、1598 年まで続けられた。
②これまで地域により異なっていた度量衡を統一し、面積は6尺3寸四方を 1歩、30歩を1畝、
10 畝を 1 反、10 反を 1 町とし、枡も京枡を公定枡とした。
③田畑に上・中・下・下々の等級をつけ、等級に応じて1 反あたりの米の標準収穫高を定め、それに土地の面積を乗じて石盛を算定した。
④従来の貫高制を改めるとともに、村の石高に応じた年貢額を連帯して納入する村請制が採用され、年貢は石高の 3 分の 2 を納入する二公一民が一般的であった。
⑤その意義は、中世の複雑な土地領有関係を整理したものであり、隷属的小農民が直接耕作
者として自立する一方、土豪・寺社などの土地支配者は打撃を受けた。
問5 下線部(b)に関連して、キリスト教の普及の中で、秀吉の時代にはキリシタン大名も 10 名を超えていたが、次の①~⑤の中からキリシタン大名でない人物を一人選び、マークして答えなさい。
①大友義鎮 ②小西行長 ③高山右近 ④増田長盛 ⑤黒田孝高
問6 下線部(c)の秀吉の朝鮮出兵と直接には関係ないものを、次の①~⑤の中から一つ選び、マークして答えなさい。
①耳塚 ②亀甲船 ③有田焼 ④李舜臣 ⑤朝鮮通信使
[解答]
問1A 本願寺 B 北条 C 指出 D 一地一作人 E 兵農分離
問2 ④ 問3 ② 問4 ③ 問5 ④ 問6 ⑤