次の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
徳川吉宗の隠退後、まもなくして復活のきざしをみせていた側用人政治は、1767①(明和 4)年に 10代将軍家治の側用人となり、5 年後に②老中となった田沼意次が幕府政治の中枢に立つことによって本格的に展開された。
田沼時代の施策は種々あるが、商業経済との結びつきを強化した点に大きな特色がある。
田沼は従来のように直接的な年貢増徴のみに依存する幕府の税制には限界があるとして、当時ようやく盛んになっていた商品経済に課税し、農民の商品作物生産や農村工業の成果を間接的に吸収する方式をとり、株仲間の積極的公認と[ A ]の強化をはかった。
大坂の荷積問屋の[ B ]問屋仲間や菱垣廻船・樽廻船問屋仲間をはじめ各種業界の株仲間を積極的に公認して運上や[ C ]を納めさせた。
また幕府の[ A ]を拡張し、すでに設けられていた銅座のほか、1780(安永 9)年には大坂に鉄座・異象座を設置した。このほか通貨制度の改革を行った。江戸時代の通貨は、・金・銀・銭の三貨であったが、金は江戸を中心とする東国経済圏、銀は上方を中心とする西国経済圏を基盤とする高額通貨であり、また銀貨は[ D ]貨幣であった。
そのため幕府は、金 1 両=銀 50 匁(元禄からは 60 匁)=4 貫文(4000 文)という③交換比率を定めたが、金銀の相場はたえず変動していた。
そこで田沼は④南鐐二朱銀を発行して銀貨を計数貨幣となし、⑤金銀通貨の一本化をめざした。このほ
か長崎貿易では主要な輸出品であった[ E ]とよばれる海産物の増産と確保をはかった。また工藤平
助の[ F ]に記された意見をいれて蝦夷地の開発をはかり、1785(天明 5)年に⑥蝦夷地調査隊を派遣
し、その報告にもとづいて 7 万人の蝦夷地移住と 116 万余町歩(583 万余石)の開発計画を立てたが、
田沼の失脚によって実現には至らなかった。
〔設問〕
(1)空欄 A~F に適当な語句を記入しなさい。
(2)下線部①~⑥について、次の設問に答えなさい。
① 明和 4 年には明和事件がおこっている。下記の中から事件とまったく関係のないものを選び、その
記号を記しなさい。
ア山県大弐 イ藤井右門 ウ生田万 エ 竹内式部
② 老中に関する次の文章のうち誤っているものを選び、その記号を記しなさい。
ア 譜代大名のうち 5 万石以上のものから任じられた。
イ 将軍に直属し、政務を総括した。
ウ 月番と称し、毎月 1 名宛、政務の責任者となった。
エ 老中の定員は複数であった。
③ 通貨の交換業務などにあたった両替商でないものを次の中から選.び、その記号を記しなさい。
ア 天王寺屋 イ 鴻池屋 ウ 平野屋 エ 紀伊国屋
④ 金 1 両は何朱にあたるか。次の中から選び、その記号を記しなさい。
ア 24 朱 イ 16 朱 ウ 10 朱 エ 8 朱
⑤ この田沼の政策は、次の松平定信によって否定された。その後膨金本位制を目標としたのは 1871
年のことである。それは何によるか。次の中から選び、その記号を記しなさい。
ア 銀行法 イ 新貨条例 ウ 国立銀行条例 エ 日本銀行条例
⑥ この調査隊には最上徳内が、その師の推せんによって参加している。その師は「西域物語」や「経
世秘策」を著して貿易による富国を説いた人物である。下記の中から選び、その記号を記しなさい。
ア 山片蟠桃 イ 佐藤信淵 ウ 海保青陵 エ 本多利明
[解答]
(1) A.専売制 B.ニ十四組 C.冥加 D.秤量 E.俵物 F.赤蝦夷風説考
(2) ① ウ ② ア ③ エ ④ イ ⑤ イ ⑥ エ
解説
③紀伊国屋は材木商。