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11世紀後半 〈司馬光『資治通鑑』〉★

2015-02-09 | ベック式!世界史用語集

●宋の文化

史実が変ね シバこうね

 『資治通鑑』 編年体 司馬光  

北宋の政治家・儒学者で、新法党の王安石と論争した旧法党の司馬光は、戦国より五代末までの歴史を編年体で記述。

この『資治通鑑』は宋が北方民族に圧迫される中で、民族意識を高揚させた。

 

 

 

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紀元前4~3世紀 〈性善説と性悪説〉★★

2015-01-07 | ベック式!世界史用語集

 

●春秋・戦国時代の文化

 

 

悪循環で 全盲に。

性悪説 荀子   性善説  孟子

 

戦国時代の儒家の孟子性善説を唱え、王道政治を理想とした。性悪説を唱える荀子は礼という規律で民衆を支配すべきだという礼治主義を主張した。法家の韓非・李斯は荀子の門下生であった。

▼孟子

▼荀子

 


★四国同盟  Quadruple Alliance

2015-01-04 | ベック式!世界史用語集

 

 

 ナポレオン戦争後のヨーロッパの平和維持のため、ウィーン会議後の1815年11月、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン間に成立した軍事的・政治的同盟。1818年にはフランスが加盟して五国同盟となった。

四国同盟

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いや以後四国 多いプロ。

1815年 四国同盟

             オーストリア

               イギリス

                 プロイセン 

                    ロシア

 

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★スペイン立憲革命

2015-01-03 | ベック式!世界史用語集

▲ラファエル・デル・リエゴ 

 1820年、憲法の復活を求めてリエゴを指導者に自由主義者がブルボン朝に対してカディスで起こした革命。革命の波及を恐れた神聖同盟諸国はフランンス軍を派遣したが、五国同盟は解体した。

スペイン立憲革命

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いやに大きく滑りけり。

  1820年 スペイン立憲革命 リエゴ

 

 



19世紀 〈ニーチェ、「超人思想」を唱える〉★

2014-11-10 | ベック式!世界史用語集

 

●ドイツ・(世紀末哲学)

 

 

 Nietzsche adovocates tes “Die Rauber”.

神(かみ)は死んだと 日曜(にちよう)に。

          「神は死んだ」        ドイツ   ニーチェ 「超人」

 

ドイツの哲学者ニーチェはヨーロッパ文化の退廃はキリスト教支配によるとし、「神は死んだ」と叫び、永劫(えいごう)回帰超人などの思想を説いた。普仏戦争に従軍して健康を害し、放浪ののち精神病を患って死んだ。のちにニーチェの思想はナチスに利用された。


★フリードリヒ2世

2014-09-25 | ベック式!世界史用語集

 Friedrich

11941250

 ドイツ、シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位1220~50)。

皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)の孫母からノルマン王家の血を引き4歳で両シチリア王国の国王(在位1197~1212)、1212年にドイツ王となり、後見者でであるインノケンティウス3世の支持で1220年に神聖ローマ皇帝に就任した。

1228年、第5回十字軍に参加。アイユーブ朝の内紛に乗じて君主アル=カーミル(サラディンの甥)との外交交渉によって翌年、イェルサレムの奪回に成功し、自らイェルサレム王国の王位についた。

交渉成功の背景には地中海交易で繁栄したシチリアで育ち、彼自身もアラビア語も含め9カ国語に通じ、ナポリ大学を創建するなど、開明的な文化人であり、イスラーム文明への理解を持つ教養人であったことがあるとされる。

しかしドイツ滞在は10年に満たず、ほとんどをシチリアのパレルモで過ごす。

イタリア支配を帝国統治の基礎として教皇、諸都市と抗争。ローマ教皇から2度破門され、北イタリア諸都市はロンバルディア都市同盟を復活して対抗したため、帝権の失墜を招き、聖俗諸侯の自立を許してしまい、ドイツ分裂の原因をつくった。

 帰国後破門を解かれたが、1234年に長子のドイツ王ハインリヒがロンバルディア同盟とローマ教皇の後押しを受けて反乱、フリードリヒ2世はそれを鎮圧した後に北イタリアの諸都市を攻撃し、1237年11月のコルテノーヴァの戦いで都市連合軍を粉砕した。

それに対して教皇インノケンティウス4世から再び破門され、皇帝を廃位される。彼の死後、シュタウフェン朝は衰退し、ローマ皇帝位は大空位時代に入り、1266年にシチリアはフランスのアンジュー伯シャルルに奪取される。

▼フリードリヒ2世とアル=カーミルの交渉
フリードリヒ2世:左から2番目の人物
アル=カーミル:中央の人物

 

後見人として育つ。成人して1212年にドイツ王、つい彼は9年間ドイツに滞在しただけで、イタリア名ではフェデリーコ2世という。

シチリアの経営

 このシュタウフェン朝のシチリア王国は、イタリア・ノルマン・ドイツ・ビザンツ・イスラームの要素が混在した国際的な環境があり、彼自身もアラビア語も含め9カ国語に通じ、動物学者でもあり、文芸を保護し、ナポリ大学を創建するなど、開明的な文化人であった。また、シチリア王国は官僚制度が整備され、貨幣制の整備が進むなどの優れた面を持ち、その合理的な政策で彼を「最初の近代的人間」(ブルクハルト)と評価されている。しかし、反面本国ドイツの統治は長子ハインリヒに任せていたので、諸侯を抑えることができず、その分裂傾向はさらに進んだ。また、彼がドイツと南イタリアを支配することに対して、北イタリア諸都市のロンバルディア同盟との対立が続いた。またローマ教皇もフリードリヒ2世のイタリア進出を喜ばず、十字軍の派遣を要請したが彼がなかなか実行に移さないことを理由に、破門にした。

第5回十字軍

 ようやく1228年、第5回十字軍を起こし、アイユーブ朝の内紛に乗じて外交交渉によって翌年、イェルサレムの奪回に成功し、自らイェルサレム王国の王位についた。しかし彼はイェルサレムの経営に関心を持たず、間もなく帰国した。

イタリア都市との戦い


最初の近代的人間

 彼を「最初の近代的人間」と評したのは、19世紀ドイツの文化史学者ブルクハルトである。
(引用)サラセン人(イスラーム教徒)たちのまぢかで、裏切りと危険の中に成長したフリードリヒ2世は、王座に位しながら早くから事物を完全に客観的に判断し処理することに慣れていた最初の近代的人間である。そのうえサラセン諸国家の内部とその行政に関するきわめて詳しい知識と、教皇たちを相手の存亡をかけた戦争が、これに拍車をかけた。その戦争たるや、双方をして、あらんかぎりの力と手段を戦場に持ち出させたものであった。<ブルクハルト・柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』1860 上 中公文庫版 1974 p.9>

Episode 人体解剖を試み、動物園をつくる

(引用)フェデリーコ(フリードリヒ2世のイタリアでの呼び方)自身は文学や美術よりも科学が好きだったようだ。・・・科学という点ではヨーロッパよりイスラム世界の方が遙かに進んでいたから、彼はますます異教文化に深入りすることとなり、それが教皇派の反感をいっそうそそった。この時代のイタリアを覆っていた神秘主義的な思考や感情に、彼ほど無縁な人はなく、超自然的な奇蹟や霊験などは頭から信じていなかったようだ。人間の生得の言語というものがあるのかどうか、あるとすればそれは何語なのかを調べるために、数百人の新生児を大きな部屋に集めて養育し、その世話をする人々にはいっさい言葉を使用することを禁止したという有名な話がある。その実験がどういう結果をもたらしたかはよくわからないが、もしこれが事実であったとすると、フェデリーコはレオナルド・ダ・ヴィンチに数世紀先立つ実験精神の持ち主だったことになる。人体解剖にも経験があったらしく、解剖学の細かい知識を披瀝してアラブの医者を瞠目させたし、動物学研究は本格的で、駱駝や麒麟を含む多種の動物を自分の手で飼育し、宮廷の庭の一部を小動物園と化し、遠征にも動物たちを伴った。・・・こんなフェデリーコを教皇は「神を信じぬもの」と決めつけ、反キリストと罵った。・・・<藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1991 中公新書 第四話 p.100-101 参照>

Episode アラブの見たフリードリヒ2世

 1229年2月、アイユーブ朝の内紛に乗じてアイユーブ朝からイェルサレムの支配権を取り返したフリードリヒ2世は、聖地に入城を果たした。その時、スルタンのアル=カーミルと共に彼を案内したムスリムのガーディ(法学者)の記録には次のように記されている。
(引用)フランク(アラブは十字軍をこう呼んだ)の王である皇帝がエルサレムを訪れたとき、私はアル=カーミルの要請により、彼と行動を共にした。いっしょにハラム・アル=シャリーフ(聖域)に入ると、彼はまず小モスクを一巡する。次いでアル=アクサのモスクに行くと、彼はその建築美をほめ、「岩のドーム」でも同様だった。彼は説経壇の美に打たれ、階段を頂上まで登った。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.347>
 そのとき、キリスト教の聖書を持ってモスクに入ろうとした司祭に激怒してどなりつけている。そして、ドームの入り口にかかっている金網を見て、何のためかと尋ね、「小鳥たちが入るのを防ぐためです」と答えると、彼は「そして神はブタどもが入ることを許したわけですか!」とキリスト教徒を当てこする一言を発し、聞くものを唖然とさせた。このやりとりから観察者は彼が無神論者だったのでは、と感じた。
 フリードリヒ2世を近くから見た人は、「赤毛で頭は禿げ、近視であり、もし奴隷だったらディルハム銀貨で二百枚ほどの価値もないだろう」と証言している。



〈オヴィディウス、『愛の歌』を著す〉★

2014-09-05 | ベック式!世界史用語集

●ラテン文学

 

 Ovidius was a Roman poet best known for the Metamorphoses and for collections of love poetry in elegiac couplets, especially the Amores and Ars Amatoria

叙情を帯(お)びて 愛の歌。

叙情詩人 オヴィディウス    『愛の歌』

 

ヴェルギリウス、ホラティウスとともに三大ラテン詩人に数えられる叙情詩人オヴィディウスは軽妙な作品で名声を得たが、露骨な性的描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、黒海沿岸の僻地へ流されて客死した。代表作は『愛の歌』『転身譜』など。


ステュアート朝の王

2014-08-25 | ベック式!世界史用語集

 

                                   - W

  J - C - 共 - C - J     - A

                            - M

  ジェイ シ きょ シ ジェイ ダブ エム エー

テューダー朝のエリザベスが1603年に子を残さずに死去すると、スコットランド王ジェームズ6世がステュアート朝を開き、イギリス国王ジェームズ1世となった。次の王チャールズ1世も、父であるジェームズ1世同様に絶対主義的な政策を採った。1649年、チャールズ1世は処刑され、イギリス史上唯一の共和政が始まった。

▼ジェームズ1世

▼チャールズ1世


★★★カエサル(シーザー) Gaius Julius Caesar

2014-05-13 | ベック式!世界史用語集

 前100~前44

古代ローマの将軍・政治家。名門の出身。

1世紀後半、平民派を地盤として政界で地位を築いた。

前69年、財務官(クアエストル)前63年、最高神祇官、前62年、法務官(プラエトル)に就任。

前60年、第1回三頭政治を始め、ポンペイウスはイベリア半島を、クラッススは地中海東岸のシリアを、カエサルは未平定のガリア(フランス)を勢力圏とする協定を結んだ。

前59年、執政官(コンスル)として国有地分配法案を提出した。

前58年から前51年にかけてガリアに遠征してケルト人を平定し、アルプスの北をローマの版図に入れ、西欧内陸部のローマ化の基礎を固めた。

この間、ライン川を渡ってゲルマニア地方のゲルマン人を征討し、ブリタニアにも遠征した。

クラッスス戦死ののち、元老院と結んだポンペイウスと対立して前49年、元老院会議が軍隊の解散とガリアからの召喚を決議すると、カエサルは「賽は投げられた」の言葉とともに任地とイタリア本土との境界であるルビコン川を渡河、全イタリアを収め、前48年ポンペイウスをファルサロスの戦いで破った。

敗走するポンペイウスを追ってエジプトに入り、クレオパトラ(7世)を国王の地位に就けローマに迎えた。

▼絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ

前46年、天下を平定。独裁官(ディクタトル)となり、さらに前44年には終身ディクタトルとなって、文武の大権を握った。属州の徴税請負人の廃止、ユリウス暦の採用などの諸改革を実施したが、ブルートゥス、カッシウスらの共和主義者によって暗殺された。

カエサル暗殺

カエサルの開拓した道を養子オクタヴィアヌスが受け継いで帝政を開いた。

文人としても優れ、『ガリア戦記』は紀元1世紀にタキトゥスによって記された『ゲルマニア』とともに原始ゲルマン研究上の重要史料となっている。

ポンペイウスとの戦いを記した『内乱記』も平明簡素な文体で知られる。

●第1回三頭政治

  ベック式!ゴロ合わせ

 群れ成す保革 三人が。

  前60年 ポンペイウス

          カエサル

            クラッスス

               三頭政治


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王陽明★

2014-05-03 | ベック式!世界史用語集

▲ 王陽明

明の王陽明(王守仁は、南宋の陸九淵(りくきゅうえん)の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいてなく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、「心即理(しんそくり)」を主張

認識と実践は一体のものであるとする知行合一(ちこうごういつ)を説き、実践儒学を誕生させた。この陽明学は学者から庶民にまで普及した。


 明代の儒学 ベック式!ゴロ合わせ 〈陽明学〉

Oh!嫁近(ちこ) 心理見ん!

 王陽明  知行合一 心即理  明

 

明末、陽明学左派の李贄(りし)(李卓吾)は儒学の礼教を偽善として非難、男女平等を説き投獄され、自殺した。


陽明学は、日本にも伝えられ、代表的な陽明学者に中江藤樹や熊沢蕃山がいる。大潮の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新志士を育て、自らも安政の大獄刑死した長州藩吉田松陰らは、陽明学者を自称している。

 

 

 

 


明後期の社会と文化  

2014-04-30 | ベック式!世界史用語集

商工業の発達…明代、国際商業の活発化により、中国国内の商工業も発達。長江下流域では綿織物や生糸などの家内制手工業が発達し、原料となる綿花・桑などの商品作物の栽培が主流になった。

このため、16世紀になると穀物生産の中心地は長江下流の蘇湖(江蘇・浙江省)から、長江中流の湖広(湖北・湖南省)へと移り、宋代に蘇(そ)湖(こ)熟すれば天下足る」と称されていたのが、明代には湖(こ)広(こう)熟すれば天下足る」といわれるようになった

 「蘇湖熟すれば天下足る」

  宋

 蘇湖(蘇州・湖州)

長江下流域

 「湖広熟すれば天下足る」

  明

 湖広(湖北・湖南)

長江中流域

 

 ベック式!ゴロ合わせ 〈穀物生産地の移動〉

そこからここへ 一路来(こ)い!

宋代、蘇湖(下流) 

         湖広  16世紀 穀物生産


★交鈔(こうしょう)の覚え方

2014-04-28 | ベック式!世界史用語集

▲元の交鈔

金・元代の紙幣代に世界史上初の紙幣とされる交子が発行され、以後、中国では紙幣が発達したが、特にでは主要通貨の位置を占め、兌換(だかん)制度も整って広く流通した。

  交鈔が用いられた王朝  

」の字に含まれる〈〉の部分を利用すれば交鈔金代の紙幣であることは楽勝。

そして金を滅ぼしたモンゴル帝国のフビライが建てたでも使われたことも覚えやすい。

 

 


ナイル川流域の都市語呂合わせ

2014-04-24 | ベック式!世界史用語集

ベック式!ゴロ合わせ

春食べ余る 麺あるな。

(上流から下流に)

ハルツーム

    テーベ 

        テル=エル=アマルナ

      メンフィス アレクサンドリア ナイル川流域の都市

 

ヴィクトリア湖周辺を水源とする白ナイルと、エチオピアのタナ湖を水源とする青ナイルは、スーダンのハルツームで合流し、ナイル本流となってエジプトを北上する。

 テーベ、テル=エル=アマルナ メンフィス アレクサンドリア

この本流はカイロ近郊で2つの支流に分かれ、肥沃なデルタ地帯主形成して地中海に注ぎ込む。


前920年 〈クシュ王国の建国〉★

2014-04-19 | ベック式!世界史用語集

古代のアフリカ…ナイル川上流のアフリカ最古の黒人王国クシュ王国は、前920年にナパタを首都として建国、前8世紀には一時エジプト王朝を滅ぼすなどしたが、アッシリアに追われ、南方のメロエに都を移し、製鉄と商業によって栄えた。

この王国は4世紀に、エチオピア高原に建国したアクスム王国の攻撃を受けて滅亡した。2~3世紀に全盛期を迎えたアクスム王国は4世紀にはコプト派のキリスト教が広まった。

 

国(くに)を建てます 拍手して。

920              クシュ王国   

                        鉄器文化


11世紀後半 〈蘇軾「赤壁の賦」〉★

2014-04-09 | ベック式!世界史用語集

●宋の文化

粗食の席へ 屠蘇(とそ)の鉢。

 蘇軾 『赤壁の賦』 唐宋八大家

北宋の政治家・文人の蘇軾(そしょく)は官僚として地方・中央の官職を歴任。

王安石の新法に反対した。唐宋八大家(とうそうはちたいか)の一人。北宋第一の詩人とされ「赤壁の賦」は有名である。