Twitterから訪問された方へ。
訪問ありがとうございます。
もし、お答え頂けるなら、コメント欄かdacho☆mail.goo.ne.jp(☆を@に変えて)までお願いします。
鈴木裕美さん演出版を観劇された方へのネタバレ質問は、二つあります。
1つ目は
(石田圭祐氏が演じていた)フランケンシュタイン博士・父の最後の台詞で、『ウィリアム(弟)に続き、エリザベス(新妻)まで(殺してしまったのか)』という台詞について
これにより、父親は二つの殺人事件の犯行はフランケンシュタイン博士の犯行で、クリーチャーの存在は、博士の想像の産物だという認識かな、と観劇中に思ったのですが、ご覧になった方で、他にもそう思った方がいますでしょうか?
もう1つは
"クリーチャー"の訳について
今回、鈴木裕美さん演出版では、"クリーチャー"という役名は劇中では使われず、最後にクリーチャー本人が、『創造物』と言っていたと記憶してますが、それであってますでしょうか?
以上の2点が、鈴木裕美さん演出版をご覧になった方への質問です。
ダニー・ボイル版を観た方へのネタバレ質問は、1つです。
フランケンシュタイン博士・父の最後の台詞の字幕では、エリザベスの殺害にしか、言及してなかったような気がしますが(逆verを見た時に確認します)これだけで、
『フランケンシュタイン博士・父はクリーチャーの事を博士の想像の産物と思ったか?』
という1点です。
台本をお持ちの方に確認したら、『What have you done? First William, now Elizabeth.』という台詞が有るとの事なので、字幕を見なくとも、ヒアリングが出来る方なら、二人を殺害しているという認識をされている可能性もあるのですが…。
以上、もし、宜しければ、ご覧になられた方の意見を聞いてみたいと思います。
以下、通常の感想モード。
(承前)あらすじは鈴木裕美演出版の感想はコチラ。(東山@博士、坂本@クリーチャーverのみ観劇)
ジョニー・リー・ミラー@クリーチャー
終始、カタコト。博士と再会する頃には普通に話すのかと、思いきや、そこは変わらず。そのため、言語に障害がある印象。
ベネディクト・カンバーバッチ@フランケンシュタイン博士
安定の博士っぷり。『シャーロック』の変人ホームズと同系統。ただ、三上哲氏の吹き替え版で、慣れ親しんでいたため、生声とのギャップが。
そして、若干、キャラが平坦なため、博士登場シーンはちょっと睡魔が。
盲人役は、特にサングラスをかけない。また、"paradise"という単語を教えるのに、"ら・く・え・ん"という字幕(笑)。
ウィリアム(弟)、エリザベス(妻)、博士・父(多分、役名無し)は黒人設定。これは演出の意図なのか?
鈴木裕美演出版との違い羅列。
舞台美術の照明が音にあわせて光る。これが脳についてのドキュメント番組とかで良く使用される、神経細胞が繋がっていく光の表現に似ている。
音楽は鈴木版がドラムがベースだったのに対し、こちらはギター(ベース?)というかコード的和音な印象。
クリーチャーの登場は生まれたての仔鹿。立ち上がる事は本能なのか?
そして、何故か走り廻る(笑)
そこに靴屋のような革エプロンを着た博士登場。クリーチャーと対峙し、壁に掛けてあったコートを投げつける。なお、鈴木版は博士の登場時から、コート着用。
真ん中に線路が引かれ、市民が電車に乗って登場。この時、全員が踊っているのだが、上手側にいる役者が気になる。多分、アンサンブルの一人なのだが、カメラのアングル的に見切れるので。
娼婦とのやり取り後、後ろに太陽が登場し、さっきまで線路だった処には草が。
そして、雨が降り、自然を体感していく。
(ただ、その時のうつ伏せになるクリーチャーが、シモなプレイに見えなくもなく…)
鈴木版だと、一角に岩、草が置いてあり、雨も上から降るが、この"自然を体感"が分かりやすい。一方、ボイル版だと、大変に抽象的。
ここの表現が結構違う。
食事を奪うシーン。
この時の火が、下から燃え上がる。
キエモノ小道具で"ミソスープ"が使われているらしいが、ここか?
盲人とその息子夫婦のシーン。
盲人との会話で、初めてクリーチャーに字幕登場。
この辺りがかなりスピーディーに感じた。
ここで、春夏秋冬を迎えるが、鈴木版はメリハリがあるが、ボイル版は特になし。
ま、この国に四季設定があるかが、問題なのだが。
妖精さんのシーン。
ここで、見事にクリーチャーが見切れ。ここは、クリーチャーを写すべきだろ、カメラ!
クリーチャーダンスは短め。
これは鈴木版が踊れる役者だったからか。
息子夫婦との対面、放火となり、スイスへ。
桟橋で、ウィリアムと出会うクリーチャー。そのまま、絞殺。
博士、再登場。
ウィリアムを乗せた舟が出てくる。
これが、盆舞台を使用した鈴木版と違い、普通に舟登場。
台詞通り『なぜ動いている?』
クリーチャーを山に探しに行き、クリーチャーと再会する博士。
そこで、"孤独からの解放"の訴え、女性のクリーチャー作成へ。
その後の結婚先延ばし、アイルランドでの実験、ウィリアムの夢の流れは同じ。
ただ、クリーチャー再登場が棒を使って降りるという画期的な登場。
クリーチャーの"愛情"確認の後、『最後の仕上げ』という表現で、幕の中へ。
鈴木版は『魂を込める』だったので、日本風表現。
その女性クリーチャーを破壊し、クリーチャー棒を使って逃走、博士・父再登場、結婚式へ。
ベッドから、クリーチャーが登場するのは、同じ。
"嘘"に関するエピソード。
この博士から教わったというエピソードがかなり、印象的なのだが、鈴木版であったか?
強姦後、首をひねり、エリザベス殺害。
ここで父親が『エリザベスを』という字幕のみ。ウィリアム殺害には触れず。
そして、北へ。
愛について語っている割には、創造主と創造物の関係性で、あまりBL風にならないクリーチャー。
でも、これも人によってはブロマンスと感じるのか?
で、クリーチャーが自身をなんて言ったかの字幕を確認し忘れたので、要確認。
そして、字幕が若干、読みづらい。
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鈴木裕美さん演出版を観劇された方へのネタバレ質問は、二つあります。
1つ目は
(石田圭祐氏が演じていた)フランケンシュタイン博士・父の最後の台詞で、『ウィリアム(弟)に続き、エリザベス(新妻)まで(殺してしまったのか)』という台詞について
これにより、父親は二つの殺人事件の犯行はフランケンシュタイン博士の犯行で、クリーチャーの存在は、博士の想像の産物だという認識かな、と観劇中に思ったのですが、ご覧になった方で、他にもそう思った方がいますでしょうか?
もう1つは
"クリーチャー"の訳について
今回、鈴木裕美さん演出版では、"クリーチャー"という役名は劇中では使われず、最後にクリーチャー本人が、『創造物』と言っていたと記憶してますが、それであってますでしょうか?
以上の2点が、鈴木裕美さん演出版をご覧になった方への質問です。
ダニー・ボイル版を観た方へのネタバレ質問は、1つです。
フランケンシュタイン博士・父の最後の台詞の字幕では、エリザベスの殺害にしか、言及してなかったような気がしますが(逆verを見た時に確認します)これだけで、
『フランケンシュタイン博士・父はクリーチャーの事を博士の想像の産物と思ったか?』
という1点です。
台本をお持ちの方に確認したら、『What have you done? First William, now Elizabeth.』という台詞が有るとの事なので、字幕を見なくとも、ヒアリングが出来る方なら、二人を殺害しているという認識をされている可能性もあるのですが…。
以上、もし、宜しければ、ご覧になられた方の意見を聞いてみたいと思います。
以下、通常の感想モード。
(承前)あらすじは鈴木裕美演出版の感想はコチラ。(東山@博士、坂本@クリーチャーverのみ観劇)
ジョニー・リー・ミラー@クリーチャー
終始、カタコト。博士と再会する頃には普通に話すのかと、思いきや、そこは変わらず。そのため、言語に障害がある印象。
ベネディクト・カンバーバッチ@フランケンシュタイン博士
安定の博士っぷり。『シャーロック』の変人ホームズと同系統。ただ、三上哲氏の吹き替え版で、慣れ親しんでいたため、生声とのギャップが。
そして、若干、キャラが平坦なため、博士登場シーンはちょっと睡魔が。
盲人役は、特にサングラスをかけない。また、"paradise"という単語を教えるのに、"ら・く・え・ん"という字幕(笑)。
ウィリアム(弟)、エリザベス(妻)、博士・父(多分、役名無し)は黒人設定。これは演出の意図なのか?
鈴木裕美演出版との違い羅列。
舞台美術の照明が音にあわせて光る。これが脳についてのドキュメント番組とかで良く使用される、神経細胞が繋がっていく光の表現に似ている。
音楽は鈴木版がドラムがベースだったのに対し、こちらはギター(ベース?)というかコード的和音な印象。
クリーチャーの登場は生まれたての仔鹿。立ち上がる事は本能なのか?
そして、何故か走り廻る(笑)
そこに靴屋のような革エプロンを着た博士登場。クリーチャーと対峙し、壁に掛けてあったコートを投げつける。なお、鈴木版は博士の登場時から、コート着用。
真ん中に線路が引かれ、市民が電車に乗って登場。この時、全員が踊っているのだが、上手側にいる役者が気になる。多分、アンサンブルの一人なのだが、カメラのアングル的に見切れるので。
娼婦とのやり取り後、後ろに太陽が登場し、さっきまで線路だった処には草が。
そして、雨が降り、自然を体感していく。
(ただ、その時のうつ伏せになるクリーチャーが、シモなプレイに見えなくもなく…)
鈴木版だと、一角に岩、草が置いてあり、雨も上から降るが、この"自然を体感"が分かりやすい。一方、ボイル版だと、大変に抽象的。
ここの表現が結構違う。
食事を奪うシーン。
この時の火が、下から燃え上がる。
キエモノ小道具で"ミソスープ"が使われているらしいが、ここか?
盲人とその息子夫婦のシーン。
盲人との会話で、初めてクリーチャーに字幕登場。
この辺りがかなりスピーディーに感じた。
ここで、春夏秋冬を迎えるが、鈴木版はメリハリがあるが、ボイル版は特になし。
ま、この国に四季設定があるかが、問題なのだが。
妖精さんのシーン。
ここで、見事にクリーチャーが見切れ。ここは、クリーチャーを写すべきだろ、カメラ!
クリーチャーダンスは短め。
これは鈴木版が踊れる役者だったからか。
息子夫婦との対面、放火となり、スイスへ。
桟橋で、ウィリアムと出会うクリーチャー。そのまま、絞殺。
博士、再登場。
ウィリアムを乗せた舟が出てくる。
これが、盆舞台を使用した鈴木版と違い、普通に舟登場。
台詞通り『なぜ動いている?』
クリーチャーを山に探しに行き、クリーチャーと再会する博士。
そこで、"孤独からの解放"の訴え、女性のクリーチャー作成へ。
その後の結婚先延ばし、アイルランドでの実験、ウィリアムの夢の流れは同じ。
ただ、クリーチャー再登場が棒を使って降りるという画期的な登場。
クリーチャーの"愛情"確認の後、『最後の仕上げ』という表現で、幕の中へ。
鈴木版は『魂を込める』だったので、日本風表現。
その女性クリーチャーを破壊し、クリーチャー棒を使って逃走、博士・父再登場、結婚式へ。
ベッドから、クリーチャーが登場するのは、同じ。
"嘘"に関するエピソード。
この博士から教わったというエピソードがかなり、印象的なのだが、鈴木版であったか?
強姦後、首をひねり、エリザベス殺害。
ここで父親が『エリザベスを』という字幕のみ。ウィリアム殺害には触れず。
そして、北へ。
愛について語っている割には、創造主と創造物の関係性で、あまりBL風にならないクリーチャー。
でも、これも人によってはブロマンスと感じるのか?
で、クリーチャーが自身をなんて言ったかの字幕を確認し忘れたので、要確認。
そして、字幕が若干、読みづらい。
ご質問の件ですが、字幕には反映されていませんでしたが、父親はスクリプトにある通り、ウィリアムとエリザベス二人の殺害について話していました。また、ヴィクターはクリーチャーの存在について、エリザベスにしか打ち明けていないのではないでしょうか?ですから父親はクリーチャーという妄想を作り上げたという認識ではなく、二人を殺害しておいて「生き返らせることができる」と主張する息子を気が触れたと考えている、ではないかと思います。
別verもご覧になられたとの事ですが、
該当場所の字幕の差し替えは無かったのですね。
やはり、自分が気にするほど、重要な箇所ではないのかも知れません。
また、あの時点では、父親はクリーチャーの存在を
知らない可能性も考えられるのですね、なるほど。
クリーチャーは博士妄想説、
というメタ的発想が前提にあったので、
その可能性は考えていませんでした。
次回、見るときはその辺りも注目してみたいと思います。
わたしも父の反応に、あれ?と思ったので。
>舞台美術の照明が音にあわせて光る。これが脳についてのドキュメント番組とかで良く使用される、神経細胞が繋がっていく光の表現に似ている。
神経細胞のシナプス!
わたしツイートで神の怒りか奇跡の予感なんて書いちゃいましたけど、こちらのがしっくりきますね!
モヤモヤモヤとなり、思考のループに落ちないと(笑)
でも、”この映画を字幕で観た人”が、
『父親は弟と嫁、二人を殺したと思っている』
と認識したかは気になる処です。
(英語の台詞では『二人殺した』と言っていますけど)
で、ブログに書いてある通り、更に
父親はクリーチャーの存在を認めたのかどうか。
オープニングの電飾は、
神経細胞が繋がり、生命が誕生した表現かな、
と思ったのですが、そちらの方がこれから始まる
物語を象徴する詩的な表現ですね。