1975.12/14・C57135により最後のSL牽引225レが運行され学生の当方はただNEWSを見るだけでしたが、12/末国鉄スト権ストの影響で期末試験の日程がズレ、12/23から3日間は採点休みと言う幸運に恵まれ、勇んで特急「みちのく」~青函連絡船~急行「すずらん」(…立ち席で眠れず)を乗り継いでクリスマスイブの24日に夕張線・滝ノ上に到着。既に、D511086牽引A16仕業・6763レとD51465牽引A10仕業1791レは夕張に向けて走り去っており、最終日1本目はD511086の折り返し5782レからとなり、川端~滝ノ上の有名鉄橋で撮りましたが無煙で転がって坂を下りてくる感じでした。その後、知人達はさらに川端寄りの有名鉄橋へ向かいましたが、カメラ3台(NikonF2,PENTAX‐SL、ヤシカフレックス6×6、コムラーズーム715)にラジカセ(ナショナルMac)と友人から借りたW方式のシネ8mmの荷物が重く圧し掛かり、途中のSカーブでD51603牽引変A6仕業5797レを待つことに>逆光ながらみごとな爆煙でした。そして、D51241牽引A17仕業・9799レは滝ノ上近くのカーブ踏切のイン側からの撮影をしました>白煙ながらギースル独特の噴煙が見事で暮れ行く陽光の中忘れることの出来ないワンシーンとなりました。滝ノ上では交換のD51465牽引5792レが待っており、最後になるであろう発車シーンを狙いましたがなぜか転がるように音もなく発車して行き、SLの末路の寂しさを印象付けるシーンでした。日も暮れて、後は夕張からの2本の戻り貨物で最終となり、D51603牽引5794レを清水沢バルブで撮るべく交換DCの乗ったものの、5794レのセキの両数が多く駅構内の外れが先頭でたどり着くことなく発車してしまいました>何とか録音のみ録りましたが、荷物の重さがここでも仇に… そして、いよいよ最終のD51241牽引6788レですが、追分で迎えようと駅で暖を取りながら待っていたのが不幸の始まりで睡眠不足による過労で急激にズクがなくなり、寒さと荷物の重さに負け、構内外れの停車位置まで行かず、D51241の光跡のみをバルブで流し撮影を終えてしまいました>このことは今でも悔やまれることですが、待ち構えている時に追分に近づくにつれ何度もこだまし聞こえてくる汽笛が今でも自分の記憶の中で生きており、その後の青春(鉄人生)時代の礎になったと言っても過言ではありません。
余談ですが、3月に渡道した時はスト権ストの影響で、C58大雪崩れ、勇網線9600、名寄本線9600、そして常紋のD51に行けなくなり一生の悔いにもなりましたが、この時ばかりは感謝した次第で運命的なものを感じ、さらにこの時出合った小学生(なんと博多から1人でDC特急を撮りに来ていた!)の某氏を介して後年に狂電関人さんとも知り合うことができたのも一部の方には周知のところです。
■本線貨物が消えても昼夜を問わず追分構内の貨車の入換えに励む49648
(PENTAX-SL スーパータクマー50mmf1.8 1秒 F2.8 イルフォードHP4 D76{1:1})
■入換えの小休止で構内に佇む、形式プレートの39679(1976.3.2の最後の入換えをしたにも拘らず解体された悲運のカマ)
(NikonF2フォトミックs SCニッコール50mmf1.4 30秒 F5.6 プラス-X マイクロドールX{1:3})
■正面つぶれて写真では良く判りませんが、唯一静態保存された赤プレートの49648
(NikonF2フォトミックs SCニッコール50mmf1.4 60秒 F5.6 コダクロームⅡ)
●最終運行の後も1月まで火が入っていたD51241>煙室扉ハンドルは最終日にD51603と交換 ●D51241の代わりに保存されているD51320
※この時は海外でコダクロームⅡに代わる25が発売され、国内では輸入品が少数入荷していたためコダクローム25で現役SLを撮る機会は最初で最後と思い使用したものの現像体勢が整っていなかったせいか、青味がかった色彩になってしまい失敗したと感じました。
※残念ながらD51241は僚機603,465,1086そして79602とともに1976.4.13追分扇形庫の火災で焼失してしまい残念です。(603号は頭部のみ共栄興業社長の西野氏により保管され、現在は嵯峨野駅前の19世紀ホールで展示)
◆現在のD51603です↓・・・追分搬出時のもようは北海道放送制作のラジオ番組でC57135最後の機関士塚田氏を取材した「汽笛が違う」の中で挿入されました
余談ですが、3月に渡道した時はスト権ストの影響で、C58大雪崩れ、勇網線9600、名寄本線9600、そして常紋のD51に行けなくなり一生の悔いにもなりましたが、この時ばかりは感謝した次第で運命的なものを感じ、さらにこの時出合った小学生(なんと博多から1人でDC特急を撮りに来ていた!)の某氏を介して後年に狂電関人さんとも知り合うことができたのも一部の方には周知のところです。
■本線貨物が消えても昼夜を問わず追分構内の貨車の入換えに励む49648
(PENTAX-SL スーパータクマー50mmf1.8 1秒 F2.8 イルフォードHP4 D76{1:1})
■入換えの小休止で構内に佇む、形式プレートの39679(1976.3.2の最後の入換えをしたにも拘らず解体された悲運のカマ)
(NikonF2フォトミックs SCニッコール50mmf1.4 30秒 F5.6 プラス-X マイクロドールX{1:3})
■正面つぶれて写真では良く判りませんが、唯一静態保存された赤プレートの49648
(NikonF2フォトミックs SCニッコール50mmf1.4 60秒 F5.6 コダクロームⅡ)
●最終運行の後も1月まで火が入っていたD51241>煙室扉ハンドルは最終日にD51603と交換 ●D51241の代わりに保存されているD51320
※この時は海外でコダクロームⅡに代わる25が発売され、国内では輸入品が少数入荷していたためコダクローム25で現役SLを撮る機会は最初で最後と思い使用したものの現像体勢が整っていなかったせいか、青味がかった色彩になってしまい失敗したと感じました。
※残念ながらD51241は僚機603,465,1086そして79602とともに1976.4.13追分扇形庫の火災で焼失してしまい残念です。(603号は頭部のみ共栄興業社長の西野氏により保管され、現在は嵯峨野駅前の19世紀ホールで展示)
◆現在のD51603です↓・・・追分搬出時のもようは北海道放送制作のラジオ番組でC57135最後の機関士塚田氏を取材した「汽笛が違う」の中で挿入されました