Kanedaiのブログ

ぼくの きょうみのあること おもったこと

年の瀬

2012年12月30日 | Weblog
近くのスーパーへ行った
年の瀬だから おせち料理の準備とかで お客さんがたくさんいた
さて 年忘れの気分になっていても
絶対に忘れてはいないこと
それは 放射能回避である

僕は 原発事故後より食品に関してずっと注意している
メディアは情報操作を行い
さも問題ないような報道を行い
世の中をそんな風潮にしている
(もしその風潮・風評によって食べて体に害が及んだとしたら
それこそ 本当の風評被害だ!と訴えたくなる)

確かに
僕も放射能に対して
臭いものには蓋をしたい
見てみぬふりをしたい
大丈夫だと思い込みたい
もう疲れた これ以上注意できない…
そんな自分がいるのも確かである
しかし
放射能食品についての情報や注意喚起をしている
正当なTweet()を見ればその恐ろしさを知り 
どれだけ危険な状況なのか 改めて認識する
だから 子供を始めとして 
害を受ける恐れがある状況が続くかぎり
注視せざるをえないのである

気持ちは年忘れしても 
放射能食品の毒の影響に対して 体は確実に覚えている
年の瀬 好きなものを 好きなだけ食べたい時期に
あえて そういう思いを記した


追伸
原発とはどれだけ迷惑な産業なのだろう
産まない なんてレベルではない 命を奪うのである
経済のために 人の生命を奪うものなど
もはや 産業ではなく 殺業そのものである
その殺業を 推し進めようとする人間が政権を握っている状況で
『来年は良い年でありますように…』
という挨拶が国民の間で交わされるとするならば
それは 社会状況が…というような広義の意味ではなく
かなり限定された 結婚とか 受験とか 出産とか
ごく一部についてのみ意味を込めた発言なのではないか と思う 
それとも
もう手に負えない とりあえずこれ以上悪くならないように 
という諦め混じりの挨拶なのか
それとも
意味を持たずに ただの形式上の挨拶なのか
それとも
良い年という概念は 価値観に依存するものだから
原発が再稼働され 再建設され 事故や被曝の恐れが更に拡大することに
喜びを感じ 良い年とみなす 死神のような人の挨拶なのか
とにかく それぞれの
良い年でありますように なのだろうけれど
来年ほど 虚しさも含んだ 挨拶って 
近年なかなか ないのでは?と思った今宵である
(自民にうんざりの僕だけかな…)
おやすみなさい

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