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銭の花《商魂》 ♯015

2023-09-26 21:00:00 | 日記

 ■かまぼこ。

 紀文食品
 (日本相撲協会
 OFFICIAL TOP PARTNERS)

 株式会社紀文食品(英: KIBUN FOODS INC.)

 主に魚肉練り製品などを製造する食品メーカー。
 本社は東京都中央区銀座に所在する。


 《 概 要 》

 蒲鉾や伊達巻、おでんの材料となる半片、竹輪、薩摩揚げ等が主力商品。
 「紀文」の焼印が入った商品群も多い。
 元来魚肉練り製品は、各地域で水揚げされた魚をその場ですり身に加工して食されていた郷土料理だったが、紀文は冷凍すり身をいち早く使用することで品質の安定化と安定供給を図り、チルド配送によって全国展開。
 家庭の食材として練り製品を普及させた事が特筆される。

 新商品の開発にも積極的で、1996年発売の「チーちく」 や2013年発売の「糖質0g麺」などがある。

 日本の伝統文化を次世代に継承するための地道な活動も行う。
 2008年に開始した「子どもたちに伝えたいお正月絵本作品募集」、作ったおせちを写真投稿する「ずっと伝えたい、我が家のおせち。
 フォト自慢コンテスト」、子どもが主役の街キッザニア東京での「はんぺん職人」アクティビティなどの活動が挙げられる。

 《沿革》

 ・1938年(昭和13年)

 東京都中央区八丁堀に、保芦邦人が「山形屋米店」として創業。
 その後「紀伊国屋果物店」「紀文」に改称。

 ・1947年(昭和22年)

 株式会社として設立。

 ・1950年(昭和25年)

 銀座松坂屋など百貨店へ出店。

 ・1963年(昭和38年)

 業界に先駆けてオートメーション化。

 ・1972年(昭和47年)

 タイに現地拠点設置。海外進出を開始。

 ・1977年(昭和52年)

 紀文の豆乳を発売。

 ・1985年(昭和60年)

 CIを導入、シンボルマークを採用。
 「魚河岸あげ」誕生。

 ・1992年(平成4年)

 紀文と旧・紀文食品が合併。

 ・1993年(平成5年)

 タイに東南アジアの生産拠点完成。

 ・1995年(平成7年)

 恵庭工場竣工。

 ・1996年(平成8年)

 チーちくを発売。
 同時に特許出願。

 ・1997年(平成9年)

 東日本の供給拠点として東京工場完成。
 株式会社北食、紀文グループに参加。

 ・1998年(平成10年)

 東京工場対米輸出水産食品取扱認定施設・対EU輸出水産取扱認定施設 認定取得。
 紀文タイランドHACCP認定取得。

 ・1999年(平成11年)

 東京工場HACCP承認取得(総合衛生管理製造過程)およびISO9002認証取得。(2003年、ISO9001へ移行)

 ・2000年(平成12年)

 本社、横浜工場ISO9001認証取得。

 ・2001年(平成13年)

 紀文タイランドISO9002認証取得(2008年、ISO9001へ移行)。
 東京工場ISO14001認証取得。

 ・2002年(平成14年)

 マルハと水産練製品事業で業務提携を締結。

 ・2004年(平成16年)

 キッコーマンと資本・業務提携を締結。

 2005年(平成17年)

 横浜工場HACCP認定取得。
 海洋食品ISO9001認証取得、HACCP認定取得。

 ・2006年(平成18年)

 紀文フードケミファがキッコーマンの連結子会社に。
 静岡工場HACCP認定取得。

 ・2007年(平成19年)

 西日本の供給拠点として岡山総社工場完成。

 ・2009年(平成21年)

 恵庭工場、岡山総社工場HACCP認定取得。

 ・2010年(平成22年)

 岡山総社工場ISO9001認証取得。船橋工場HACCP認定取得。

 ・2013年(平成25年)

 糖質0g麺を発売。

 ・2014年(平成26年)

 カネテツデリカフーズと業務提携を締結。
 ISO9001からISO22000へ移行。
 恵庭工場、船橋工場、横浜工場、静岡工場、岡山総社工場ISO22000認証取得。

 ・2015年(平成27年)

 堀川と業務提携を締結。
 株式会社紀文西日本を設立。

 ・2016年(平成28年)

 株式会社紀文西日本岡山総社工場対EU輸出水産取扱認定施設 認定取得。
 株式会社紀文安全食品センター設立。

 ・2017年(平成29年)

 横浜工場対EU輸出水産取扱認定施設 認定取得。
 紀文安全食品センター、微生物検査に関する国際規格ISO/IEC17025:2005 認定取得。

 ・2021年(令和3年)

 東京証券取引所市場第一部に株式を上場。

 関連項目
   ー 大相撲(呼び出し進行役) ー

 呼出(よびだし)

 大相撲での取組の際に力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者。
 呼び出しや呼出しとも書かれる。
 行司と異なり特に受け継がれている名跡はないが、力士・行司と違い、下の名前しかないことが特徴。
 紀文食品が呼び出しの衣装(土俵着)の背中に広告を提供している。
 また2022年1月より日本相撲協会のオフィシャルトップパートナー契約を結んでいる。

 ◆歴史(呼び出し)

 呼出の元々の云われは上覧相撲の際に、次に土俵に上がる力士の出身地や四股名を披露する人がおり、「前行司」「言上行司」といって行司の役割に含まれる職種であった。

 平安時代の相撲節会には呼出という呼称は存在しなかったが、天皇や貴族に相撲人の奏上する「奏上(ふしょう)」という役目があって、「奏上者」の職名があった。
 これが現在の呼出の始まりとされている。

 江戸時代以後に勧進相撲になり組織的な制度ができるにつれて独立した職種となった。
 「触れ」とか「名乗り上げ」と呼ばれた時代もあったが、享和年間(1801〜1804年)になって「呼び出し」といわれるようになった(しかし、それ以前の寛政年間(1789〜1801年)の番付に「呼び出し」の文字が確認されている)。

 明治後期の呼出し長谷川勘太郎は名人と謳われ、呼び上げ写真がブロマイドにもなった。
 昭和初期までは呼出し奴と言われ地位も低かった。
 1932年では呼出し頭の長尾貞次郎を筆頭に40人ほどであった。
 栃若時代の太郎、小鉄も名人と謳われた。
 現在の呼出の定員は45人、採用資格は義務教育を修了した満19歳までの男子、停年(定年。以下同)は65歳。
 大相撲においては、力士、行司、床山と同様に各相撲部屋に所属する。
 2019年3月場所前の相撲誌の記事によると、1場所の研修期間後に面接を経て採用となるという。

 ◆役割

 呼出の主要な役割は、呼び上げ、土俵整備、太鼓叩きであるが、その他にも多種多彩な業務を行っている。

 ❒呼び上げ

 呼出の役割のうち、最も目立つものである。
 土俵上で扇子を広げて、独特の節回しにより東西の力士を呼び上げる。
 初日から数えて奇数日は東方から先に、偶数日は西方から先に一声で呼び上げ、十両最後の取組および、片やが三役以上の力士の場合には二声で呼び上げる(優勝決定戦は地位に関わらず一声)。
 奇数日の場合、一声は「ひ~が~し~、琴~×~×~、に~し~、○~○~やま~」、二声は「ひ~が~し~、琴~×~×~、琴~×~×~、に~し~、○~○~やま~、○~○~やま~」となる。
 仕切りの制限時間は呼出の呼び上げが終わった時点から計測する。

 ❒土俵整備

 本場所・巡業・各部屋の土俵造り(土俵築)、取組の合間にほうきで土俵を掃き清める、乾燥する土俵への水打ち、力水・力紙・塩・タオルの補充と管理、全取組終了後に仕切り線を書くなど。

 ❒太鼓叩き

 触れ太鼓(初日の取組を触れ歩きながら打つ太鼓)、寄せ太鼓(本場所の早朝に打つ太鼓)、はね太鼓(本場所の全取組の終了後に翌日の来場を願って打つ太鼓)など。触れ太鼓の口上は、「相撲は明日が初日じゃぞぇ~、琴~×~×~には、○~○~やま~じゃぞぇ~、ご油断では詰まりますぞぇ~」となる。

 ❒拍子柝打ち

 土俵入り、横綱土俵入り、土俵の進行などの合図など。

 ❒懸賞金

 懸賞幕(懸賞金を出す者の行なう広告)をもって土俵を一周する、懸賞金を行司に渡すなど。

 ❒力士の世話

 座布団を交換する、時間制限を伝える、水桶の横にてタオルを渡すなど。地方巡業では力水を力士につけることもある。

 ❒審判委員、行司の世話

 審判委員の座布団交換、ひざ掛けの世話、顔触れ言上の介助など。

 ❒役員室、相撲部屋の雑務

 現在では全員が呼び上げを行っているが、古くは分業制で、呼び上げ専門の呼出もいれば、他の仕事を専門とする者、つまり「呼出と名がつくものの、呼び上げない呼出」もいた。
 現在のように全員が呼び上げを行うようになったのは、1965年(昭和40年)からである。
 また、呼び上げのときの声の通り具合や声量は評価の対象ともなっている。

 ◆階級

 大相撲において、呼出の番付制が導入されたのは1994年(平成6年)7月場所からで、以下の9階級となる。
 同時に本場所における場内アナウンスでも紹介されるようになった。
 それまでの階級は、1等から5等までの等級制であった。

 「日本相撲伝」では1902年5月の呼出し名簿があり勘太郎、勝次郎、金次郎、重吉、亀吉、清吉、源七、三金、藤作、市太郎、與吉、伊勢徳、平吉、三代吉、市郎、小徳、駒吉、金作、才次郎と19人が掲載されている。

 1911年発行の「相撲鑑」には勘太郎を筆頭に25名いて給金は僅少だが錦絵や番付等を売って余禄とするとある。

 昭和初期までは呼出し奴と言われていた。1932年では呼出し頭の長尾貞次郎を筆頭に40人ほどであった。

 相撲雑誌の名鑑等にも昭和40年代まで掲載されなかった。

 現在は十両呼出以上の名前が番付に書かれており、それ以前は1949年(昭和24年)5月場所から1959年(昭和34年)11月場所までの10年間、呼出が番付に掲載された(番付には「呼出し」と書かれた)。
 初めて呼出として番付に掲載された者は太郎、夘之助、栄次郎、源司、安次郎、栄吉、福一郎、小鉄、徳太郎、茂太郎、粂吉、松之助、寅五郎、雄次、多賀之丞、島吉の16人。歴史的経緯もあり、呼出は行司よりもやや地位が低く見られた。

 呼出の番付上の位置は、現在では西の最下段の親方衆より左側である。平成期の一時期は若者頭や世話人とともに中軸の下の方(「日本相撲協會」の文字よりは上)に記載されていたことがあった。

 ◎現在の階級

 9階級の役責に分類され、行司の階級と違い、幕内格、十枚目格といった「格」という名称は用いない。

 ・立呼出
 ・副立呼出
 ・三役呼出
 ・幕内呼出
 ・十枚目呼出
 ・幕下呼出
 ・三段目呼出
 ・序二段呼出
 ・序ノ口呼出

 力士・行司はすべての階級が番付に表記されているが、呼出は十枚目呼出以上が番付表に表記されていて幕下呼出以下は番付表に表記されない。
 また、幕下格以下の行司と同様、幕下呼出以下は本場所の取組における場内アナウンスでの紹介は行われていない。
 ただし、千秋楽の幕内土俵入りの前に行われる十枚目以下各段の優勝決定戦では、幕下格以下の行司・幕下呼出以下でも「呼出は○○、行司は木村(式守)○○、○○(階級)優勝決定戦であります」との場内アナウンスが行われる。
 基本的にはほぼ年功序列であるが、昇格のときに地位の追い抜きが発生することもある。
 例えば、1999年9月場所から2000年11月場所までは次郎と克之の序列が現在と入れ替わっていた。

 ◆昇格規定

 ・三役呼出以上(立呼出:1人、副立呼出:2人以内、三役:4人以内)
 勤続40年以上で成績優秀な者、または勤続30年以上40年未満で特に優秀な者。

 ・幕内呼出(8人以内) 勤続30年以上で成績優秀な者、または勤続15年以上30年未満で特に優秀な者。

 ・十枚目呼出(8人以内) 勤続15年以上で成績優秀な者、または勤続10年以上15年未満で特に優秀な者。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『雨』②

2023-09-25 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■雨(あめ) ②

 ▼雨による活動の制約

 雨により、人間の活動が制限されることもある。雨の日に外出するときには、傘やレインコートなどの雨具を持参し身に付ける。
 野外で予定されていた行事が、雨天で中止になったり変更される例はよく見られる。
 ただし、「少雨決行」のように弱い雨の場合には雨天に関わらず行事が行われる場合がある。
 なお、類人猿においてもこのようなことがあり、雨の日は活動が制約される。
 彼らは雨よけのために木の枝などを集めて傘や屋根のようなものを作ることが知られている。


 ▼雨の表現

 日本は雨が多く四季の変化に富み、雨に関する語彙、雨の異名が豊富であるとされる。

 ★雨の強さや降り方による表現

 ・小糠雨(糠雨)
  糠のように非常に細かい雨粒が、音を立てずに静かに降るさま。

 ・細雨
  あまり強くない雨がしとしとと降り続くさま。

 ・小雨
  弱い雨。あまり粒の大きくない雨が、それほど長くない時間降って止む雨。

 ・微雨
  急に降り出すが、あまり強くなくすぐに止み、濡れてもすぐ乾く程度の雨。

 ・時雨(しぐれ)
  あまり強くないが降ったり止んだりする雨。
 特に晩秋から初冬にかけての、晴れていたかと思うとサアーッと降り、傘をさす間もなく青空が戻ってくるような通り雨を指す。

 ・俄雨(にわかあめ)
  降りだしてすぐに止む雨。降ったり止んだり、強さの変化が激しい雨。
 夏に降る俄雨は夕立、狐の嫁入り、天照雨などと呼ばれる。
 肘かさ雨、驟雨(しゅうう)と同義。

 ・地雨
  あまり強くない雨が広範囲に一様に降るさま。
 俄雨に対し、しとしと降り続く雨で、勢いが急に変化するのは稀。

 ・村雨
  降りだしてすぐに止む雨。
 群雨、業雨などとも書く。
 地方によっては「鈍雨」(とんぺい)」とも呼ばれる。

 ・村時雨(むらしぐれ)
  ひとしきり強く降っては通り過ぎて行く雨。
 降り方によって片時雨、横時雨、時間によって朝時雨、夕時雨、小夜時雨と分ける。

 ・片時雨
  ひとところに降る村時雨。地雨性の村時雨。

 ・横時雨 横殴りに降る村時雨。

 ・涙雨
  涙のようにほんの少しだけ降る雨。
 また、悲しいときや嬉しいときなど、感情の変化を映した雨。

 ・天気雨
  晴れているにもかかわらず降る雨。

 ・通り雨
  雨雲がすぐ通り過ぎてしまい、降りだしてすぐに止む雨。

 ・スコール
  短時間に猛烈な雨が降るさま。
 熱帯地方で雨を伴ってやってくる突然の強風に由来する。

 ・大雨
  大量に降る雨(一般的な認識)。
 大雨注意報基準以上の雨(気象庁の定義)。

 ・豪雨
  大量に降る激しい雨(一般的な認識)。
 著しい災害が発生した顕著な大雨現象(気象庁の定義)。

 ・雷雨
  雷を伴った激しい雨。
 普通は短時間に激しく雨が降る場合が多い。

 ・風雨
  風を伴った激しい雨。
 長雨 数日以上降り続くような、まとまった雨。

 ★季節による表現

 ・春雨(はるさめ)
  春にあまり強くなくしとしとと降る雨。
 地雨性のしっとりとした菜種梅雨の頃の雨を指す。
 桜の花が咲くころは、花を散らせるので「花散らしの雨」とも呼ばれる。

 ・菜種梅雨
  3月から4月ごろにみられる、しとしとと降り続く雨。
 菜の花が咲くころの雨。
 特に三月下旬かる四月にかけて、関東から西の地方で天気がぐずつく時期を指す。

 ・五月雨(さみだれ)
  かつては梅雨の事を指した。
 現在は5月に降るまとまった雨を指すこともある。
 また、五月雨に対して、この梅雨の晴れ間を五月晴れというが、5月の爽やかな晴天をさすことがある。

 ・走り梅雨
  梅雨入り前の、雨続きの天候。
 
 ・梅雨(ばいう、つゆ) 地域差があるが5月〜7月にかけて、しとしとと長く降り続く雨。

 ・暴れ梅
  梅雨の終盤に降る、まとまった激しい雨。
 「荒梅雨」とも言う。

 ・送り梅雨
  梅雨の終わりに降る、雷を伴うような雨。

 ・帰り梅雨
  梅雨明けと思っていたところに再びやってくる長雨。
 「返り梅雨」、「戻り梅雨」ともいう。

 ・緑雨
  新緑のころに降る雨。
 翠雨の一種。

 ・麦雨
  麦の熟する頃に降る雨。
 翠雨の一種。

 ・夕立
  夏によく見られる突然の雷雨。
 あるいは単に夏の俄雨を指す。
 午後、特に夕方前後に降ることが多い。
 白雨(はくう)ともいう。

 ・狐の嫁入り
  夕立の、特に日が照っているのに降る雨をさす。
 天照雨(さばえ)などともいう。

 ・秋雨(あきさめ)
  秋に降る、しとしとと降る雨。
 特に9月から10月にかけての長雨をさす。
 秋雨前線によって起こり、台風シーズンの特徴。
 秋霖(しゅうりん)。

 ・秋時雨
  秋の終わりに降る時雨。
 秋入梅 秋雨。秋雨の入り。

 ・秋入梅
  秋雨。秋雨の入り。
 液雨 冬の初めの時雨。
 立冬から小雪のころの時雨。
 寒九の雨 寒に入って(小寒を寒の入りという)9日目の雨。
 豊年の兆しとされる。

 ・寒の雨(かんのあめ)
  寒の内(大寒から節分まで)に降る雨。

 ・山茶花梅雨
  11月から12月ごろにみられる、しとしとと降り続く雨。
 山茶花が咲くころの雨。 氷雨 冬に降る冷たい雨。雹や霰のことを指すこともある。

 ・氷雨
  冬に降る冷たい雨。
 雹や霰のことを指すこともある。

 ・淫雨
  梅雨のようにしとしとと長く降り続き、なかなか止まない雨。

 ★その他の区分からの表現

 ・私雨(わたくしあめ)
  ある限られた土地だけに降る雨。
 転じて個人の利得の意もある。

 ・外待雨(ほまちあめ)
  局地的な、限られた人だけを潤す雨。

 ・翠雨(すいう)
  青葉に降りかかる雨。
 時期によって緑雨、麦雨、草木を潤す雨という視点で甘雨、瑞雨と区別する。 

 ・甘雨(かんう)
  草木を潤す雨。
 翠雨の一種。

 ・瑞雨(ずいう)
  穀物の成長を助ける雨。
 翠雨の一種。

 ・慈雨 恵みの雨。
 少雨や干ばつのときに大地を潤す待望の雨。

 比較的新しい雨に関する言葉も生まれている。
 明確な定義はないものの、微妙に異なった意味で使用されている。

 ・集中豪雨
  限られた場所に集中的に降る激しい雨(一般的な認識)。
 警報基準を超えるような局地的な大雨(気象庁の定義)。
 局地的豪雨。局地豪雨。

 ・ゲリラ雨・ゲリラ豪雨
  限られた場所に短い時間集中的に降る、突然の激しい雨。

 ・短時間強雨
  短い時間に集中的に降る強い雨。

 ・ゲリラ雷雨
  雷を伴ったゲリラ雨・ゲリラ豪雨。

 ▼レインガーデン

  レインガーデン(Rain gardens)

 バイオリテンション施設(bioretention facilities)とも呼ばれ、所謂ガーデン(庭園)というよりも、雨水が土壌に再吸収されるのを促進するために考案された様々な手法の1つである。
 また、汚染された雨水の流出を処理するために使用されることもある。
 レインガーデンは、不浸透面 (impervious) からの表面流出 (runoff) の流量、総量、汚染物質濃度の測定 (pollutant load) を減少させるように設計された外部空間である。
 都市部ならば屋根、歩車道、駐車場、小スペースの芝生エリアなどが活用される。

 日本でも国や企業でもグリーンインフラと捉え、多くの試みがなされており、大成建設では「地上に降った雨水を下水道に直接放流することなく一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持った植栽空間」、鹿島建設でも「レインガーデンは降雨時に雨水を一時的に貯留し、時間をかけて地下へ浸透させる透水型の植栽スペース」として開発している。
 レインガーデンは、植物と天然または人工の土壌培地を頼りに雨水を保持し、浸潤 (infiltration) のラグタイムを長くし、都市部の流出水が運ぶ汚染物質を浄化・ろ過している。
 そして降った雨を再利用して最適化する方法を提供することで、追加の灌漑施設の必要性を低減または回避する。
 これは都市部のヒートアイランドの効果として知られる、熱を吸収する不浸透面を多く含む都市部で特に有効な緩和策である。
 雨の多い都市部ならば、降雨量の多い地区でも洪水が少ない場所を作ることができる。

 レインガーデンの植栽には一般に野草、スゲ、イグサ科、シダ、低木、小木などの湿地の植生が活用される。
 これらの植物は、レインガーデンに流れ込む栄養分と水を取り込み、蒸散のプロセスを通じて地球の大気に水蒸気として放出させる。
 深い植物の根も、地面にろ過する追加チャネルを形成する。

 関連項目 ー いま、会いにゆきます ー

 『いま、会いにゆきます』(いま、あいにゆきます)は、市川拓司によるベストセラーのファンタジー恋愛小説。
 2003年に小学館より刊行された。
 通称『いまあい』。

 翌2004年に竹内結子・中村獅童主演で映画化された。
 2005年にはミムラ・成宮寛貴主演でテレビドラマ化されるなど、『世界の中心で、愛をさけぶ』と同じくメディアミックスによるヒット作の1つである。

 《概要》

 2003年2月27日、小学館から刊行された(ISBN 409386117X)。
 2007年11月6日に小学館文庫より文庫判が刊行されている(ISBN 978-4094082173)。
 市川拓司公式サイト内で、作品の5分の1ほどが公開された。
 作品は市川自身の病気体験がベースとなっており、妻との恋愛やバイク旅行など、彼の実際の生活で起こったエッセンスが散りばめられている。
 物語の舞台について、作中では全く描かれていないが、市川と妻は埼玉県に在住していたことから、おおむね埼玉県内である。

 《ストーリー概要》

 ある町に住む秋穂巧は、1年前に最愛の妻である澪を亡くし、1人息子の佑司と慎ましく過ごしていた。
 2人は生前澪が残した、「1年たったら、雨の季節に又戻ってくるから」という言葉が気になっていた。
 それから1年後、雨の季節に2人の前に死んだはずの澪が現れる。
 2人は喜ぶが、澪は過去の記憶を全て失っていた。

 そこから3人の共同生活が始まる。

 〔ウィキペディアより引用〕

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 『はじまりはいつも雨』
          作詞 飛鳥涼

 君に逢う日は 不思議なくらい
 雨が多くて

 水のトンネル くぐるみたいで
 しあわせになる

 君を愛する度に 愛じゃ足りない気がしてた

 君を連れ出す度に 雨が包んだ

 君の名前は 優しさくらい
 よくあるけれど

 呼べば素敵な とても素敵な
 名前と気づいた

 僕は上手に君を 愛してるかい 愛せてるかい
 誰よりも 誰よりも

 今夜君のこと誘うから 空を見てた
 はじまりはいつも雨 星をよけて

 君の景色を 語れるくらい
 抱きしめあって

 愛の部品も そろわないのに
 ひとつになった

 君は本当に僕を 愛してるかい 愛せてるかい
 誰よりも 誰よりも

 わけもなく君が 消えそうな気持ちになる
 失くした恋達の 足跡(あと)をつけて

 今夜君のこと誘うから 空を見てた
 はじまりはいつも雨

 星をよけて ふたり 星をよけて

 〔情報元 : Uta-net〕



言の葉辞典 『雨』①

2023-09-25 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■雨(あめ) ①

 《意味》

  上空の水蒸気が冷えて、水滴となって地上に落ちてくる現象。
 また、その水滴。

 《語源・由来》

 雨の語源を大別すると、「天(あめ)」の同語説と、「天水(あまみづ)」の約転説になる。
 古くから、雨は草木を潤す水神として考えられており、雨乞いの行事なども古くから存在する。
 「天」には「天つ神のいるところ」といった意味もあるため、雨の語源は、上記「天」「天水」のいずれかであると考えられる。

 雨(あめ、英語: rain)とは、大気から水の滴が落下する現象で、降水現象および天気の一種。
 また、落下する水滴そのもの(雨粒)を指すこともある。
 大気に含まれる水蒸気が源であり、冷却されて凝結した微小な水滴が雲を形成、雲の中で水滴が成長し、やがて重力により落下してくるもの。
 ただし、成長の過程で一旦凍結し氷晶を経て再び融解するものもある[4]。地球上の水循環を構成する最大の淡水供給源で、生態系に多岐にわたり関与する他、農業や水力発電などを通して人類の生活にも関与している。

 《雨の形成》

 ▼水蒸気から雲へ

 水蒸気から雲へ 編集 地球の大気(空気)は、場所により量が異なるが、水蒸気を含んでいる。
 この水蒸気は、海洋や湖の表面、地面からの蒸発、植物からの蒸散などを通して供給されるものである。
 空気中の水蒸気の量を表す身近な指標として相対湿度があり、通常は単に湿度と呼ぶ。相対湿度とは、空気がある温度(気温)であるときに含むことができる水蒸気の最大量(飽和水蒸気量)を100%とし、実際に含まれている量を最大量に対する割合で表したものである。
 例えば、気温25℃・相対湿度50%の空気には、1m3(=1000リットル)あたり11.4gの水蒸気が含まれる。
 空気の相対湿度が増して100%に達することを飽和という。
 空気は、何らかの要因によって冷やされることで飽和する。
 飽和した空気では、水蒸気が凝結して微小な水滴を形成する。これが雲である。
 先の例に挙げた、25℃・相対湿度50%の空気1m3を考える。この空気には11.4gの水蒸気が含まれる。
 これを10℃まで冷却すると、10℃の飽和水蒸気量は9.3g/m3なので、11.4 - 9.3 = 2.1g分が凝結し水滴となることが分かる。

 空気を冷却して飽和させるプロセスは、主に断熱膨張による冷却である。断熱膨張とは、上空へいくほど気圧が低いため、空気が持ち上げられて気圧が下がると膨張し、同時に冷却されることを言う。
 大気の対流、気団同士の衝突(前線)などの大気の大規模な運動、また気流が山にぶつかったりするような物理的障害によって起こる。
 このほかには、例えば暖かい空気が冷たい海面に触れたり、空気が熱放射として宇宙に向かって赤外線を放射したり(冬の晴れた夜間に起こる放射冷却としてよく知られている)、降雨時の雨粒が蒸発の際に潜熱を奪い周りの空気を冷やしたりするプロセスがある。

 ▼水蒸気から雲へ

 地球の大気(空気)は、場所により量が異なるが、水蒸気を含んでいる。
 この水蒸気は、海洋や湖の表面、地面からの蒸発、植物からの蒸散などを通して供給されるものである。
 空気中の水蒸気の量を表す身近な指標として相対湿度があり、通常は単に湿度と呼ぶ。相対湿度とは、空気がある温度(気温)であるときに含むことができる水蒸気の最大量(飽和水蒸気量)を100%とし、実際に含まれている量を最大量に対する割合で表したものである。
 例えば、気温25℃・相対湿度50%の空気には、1m3(=1000リットル)あたり11.4gの水蒸気が含まれる。
 空気の相対湿度が増して100%に達することを飽和という。空気は、何らかの要因によって冷やされることで飽和する。
 飽和した空気では、水蒸気が凝結して微小な水滴を形成する。これが雲である。  
 先の例に挙げた、25℃・相対湿度50%の空気1m3を考える。
 この空気には11.4gの水蒸気が含まれる。これを10℃まで冷却すると、10℃の飽和水蒸気量は9.3g/m3なので、11.4 - 9.3 = 2.1g分が凝結し水滴となることが分かる。

 空気を冷却して飽和させるプロセスは、主に断熱膨張による冷却である。断熱膨張とは、上空へいくほど気圧が低いため、空気が持ち上げられて気圧が下がると膨張し、同時に冷却されることを言う。
 大気の対流、気団同士の衝突(前線)などの大気の大規模な運動、また気流が山にぶつかったりするような物理的障害によって起こる。
 このほかには、例えば暖かい空気が冷たい海面に触れたり、空気が熱放射として宇宙に向かって赤外線を放射したり(冬の晴れた夜間に起こる放射冷却としてよく知られている)、降雨時の雨粒が蒸発の際に潜熱を奪い周りの空気を冷やしたりするプロセスがある。

 ▼凝結・暖かい雨

 空気中での水滴の凝結は実際には、凝結核を介して行われる。
 球の形をする水滴には表面張力が働くが、水滴が小さいほど表面張力が強く核生成が安定しない。
 ある実験によれば、ほこりのない非常に清浄な空気中では、0℃のとき相対湿度が100%を超過(過飽和)してさらに430%まで達しなければ、水滴は自発的に形成されない。
 対して、通常の大気のように凝結核がある空気中では、エアロゾル粒子の働きにより凝結が助けられるため、相対湿度は概ね101%を上回ることがない。雲の凝結核として働く主なエアロゾル粒子には、燃焼ガスや火山ガスに由来する0.1-1µmの硫酸塩粒子、海のしぶきに由来する数µmの海塩粒子や、土壌由来の粒子、有機エアロゾルなどがある。
 雲ができたての時の水滴(雲粒)の大きさは、半径1 - 20µm(0.001 - 0.02mm)程度である。
 これに対し、雨粒の平均的な大きさは半径1,000µm(1mm)である。
 なお、雲の中には1m3あたり1000万 - 数百億個の雲粒が存在する。
 半径1 - 10µm程度の初期の段階では、雲粒の表面にさらに水蒸気が凝結していくことにより通常でも数分ほどで10µm程度の大きさに成長する(凝結過程)。
 しかし、凝結による成長は粒径が大きくなるほど遅くなる。
 雲粒の平均を半径10µmだとして、半径100倍の1,000µmに成長するためには、体積にして100万倍、これを雲の中の平均的な水蒸気量の下で凝結だけで行うと約2週間かかると試算され、現実とはかけ離れている。
 実際には、10 - 30µm程度に達すると水滴同士の衝突により成長する(併合過程)。衝突併合による成長は粒径が大きいほど速いため、この段階では加速的に成長が進む。
 なお、海洋の積雲では、吸湿性の海塩粒子が豊富な事から大きな粒子がすぐに生成され、雲ができ始めてから20 - 30分程度で雨が降り出すことも珍しくない。

 上記のように、一貫して液体のまま雨として降るプロセスを「暖かい雨」という。
 これに対し、途中で凍結して氷晶になり、再び融解して降るプロセスを「冷たい雨」という。
 日本で降る雨は、およそ8割が「冷たい雨」のプロセスによるものだと言われている。

 

 ▼氷晶・冷たい雨

 気温が0℃を下回る冷たい空気の環境下で起こる。
 単体氷晶の形成としては、水蒸気が凝結核を介して凝結した水滴がさらに凍結核の働きにより凍結し氷晶となるパターンと、水蒸気が昇華核を介して昇華し直接氷晶を形成するパターン、さらに、氷晶同士の衝突などで生じる二次氷晶がある。
 空気中では、気温が0℃を少し下回ったくらいでは水滴の凍結が始まらないことが多い。
 0℃以下で凍らない状態を過冷却と言う。
 凍結核は、水滴に衝突することによる衝撃や、水滴に溶け出すことによる化学的効果などを通して、概ね-30℃以上の環境下で凍結を促す。
 -30℃以下の環境では、昇華による氷晶の形成が起こる。
 また、-40℃以下の環境では、凍結核がない場合でも純水の均質核生成により水滴が凍結する。
 雲の中で一部の水滴が凍って氷晶になり始めると、周囲に存在する過冷却の水滴は蒸発して氷晶の表面に昇華するため、急速に成長する。例えば直径10µmの氷晶は、同じ大きさの水滴に比べて10倍の速度で成長する。
 氷晶は成長過程で分化し、結晶が集まった雪片になるものと、主に積乱雲の中で生じるが丸みを帯びた氷の粒(霰や雹)になるものに分かれる。
 雪片や霰が落下する途中で、0℃より高い空気の層に達すると融け始め、完全に融けると液体の雨粒となる。
 融けきれない場合は雪となる。
 雪は落下途中で昇華(気化)しながら昇華熱を放出するため、2 - 3℃程度では雪の形状を保ったまま降ることがある。雪になるか雨になるか、あるいは雪と雨が混合する霙になるかは、気温と相対湿度により決まる。
 またごく稀に、冷たい雨の成立する環境下で上空に0℃以上の逆転層が存在する時、落下中は液体(過冷却)であるものの着地時に凍結して氷の層(雨氷)を形成する、着氷性の雨というものも存在する。

 

 ▼雲から雨へ

 なお、雲の段階で水滴が落ちてこないのは、落下速度が遅いからである。
 半径1 - 10µmのオーダーの水滴の終端速度は1cm/sに満たないが、雲の中ではこれを優に上回る速度の上昇気流が普通に存在するため、浮かんでいるように見える。
 一方、水滴が半径1mm(直径2mm)のときの終端速度は7m/sに達し、上昇気流を振り切って落下する。
 短い場合、特に海洋上で発生する積雲の場合、雲ができ始めてから最短15 - 20分程度で雨が降り出す場合がある。また熱帯地方の「暖かい雨」の場合も、30分 - 1時間程度で雨が降り出す。
 ただ、これらより長く滞留して降る雨も少なくない。
 主に雨を降らせる雲は、十種雲形において層雲、乱層雲、積乱雲に分類される雲である。
 層雲は地上に近いところにでき、弱く変化の少ない雨を降らせることが多い。乱層雲は灰色を呈し風により変化に富む形状をする雲で、雨を降らせる代表的な雲である。
 積乱雲は上空高くもくもくと盛り上がる雲で、乱層雲よりも激しく変化の大きい雨を降らせ、しばしば雷や雹を伴う。
 雨雲の下端(雲底)の高さは実にさまざまだが平均的には約500m - 2,000m程度で、多くの雨粒はこの距離を落下してくる。
 周囲の空気が乾燥していると、雨は落下する途中で蒸発してしまう。このときには、雲の下に筋状の雨跡を見ることができ、これを降水条や尾流雲と呼ぶ。

 《雨の降り方》

 ▼降水型

 雨は、雲を生じさせる要因によりいくつかの降水型に分類できる。

 ・対流性降雨 - 不安定成層をした大気において生じる対流性の雲から降る雨。

 ・地形性降雨 - 山のような地形の起伏により気流が強制的に上昇させられて生じる雲から降る雨。

 ・前線性降雨 - 温暖前線や寒冷前線の前線面で気流が上昇して生じる雲から降る雨。温暖前線は広い地域にしとしとと降り、寒冷前線は局地的に強く降る、という傾向がある。

 ・低気圧性降雨(収束性降雨) - 台風や低気圧のもとで下層の空気が集まり収束して生じる雲から降る雨。

 
 ▼世界の気候と雨

 世界では地域によって、雨の降り方は全くと言っていいほど異なる。
 極端な例では、1分間に30mmあるいは1日に1,500mmもの豪雨が降る地域がある一方、1年に1mmも雨が降らない地域も存在する。
 おおまかな傾向として、高緯度地域よりも低緯度緯度の方が雨が多く、また大陸では内陸部よりも沿岸部の方が雨が多く、気温の高さや水の供給源からの近さが影響を与えている。
 しかし、緯度と雨量は単純に対応しているわけではない。地球を南北に見ると雨量の多い地域は2つあり、1つは暖気が上昇し続ける赤道付近の熱帯、もう1つは寒気と暖気がせめぎ合う中緯度の温帯・亜寒帯である。
 世界の年間降水量(雪を含む)を平均すると、陸上では約850mm、海洋では約1250mm、地表平均では約1100mmと推定されている。
 古い資料では世界平均で800mm程度とされていることがあるが、新しい調査で海洋のデータが判明したことで値は上方修正されている。

 熱帯雨林気候を呈する赤道付近では、貿易風が収束する熱帯収束帯で積乱雲が発達しやすく、対流性の強い雨が毎日のように降る。
 温帯湿潤気候・亜寒帯湿潤気候を呈する中緯度では、亜寒帯低圧帯に沿い前線や低気圧の活動が活発であり、層状性の雲から広く雨や雪が降る一方、寒暖差が大きいため対流性の雨も降る。
 特に亜熱帯や温帯の地域では、1時間雨量の最大値は熱帯とほぼ変わらない。
 一方、熱帯と温帯に挟まれた乾燥帯の地域は亜熱帯高気圧に覆われ気流が発散し、雲ができにくいため雨が少ない。
 ただし、この緯度にあってもアジア・アフリカ・北米・南米の大陸東岸では海洋性の高気圧からの南寄り(北半球の場合。南半球では北寄り)の辺縁流や暖流の影響で湿潤となり、年間を通して雨が多い温暖湿潤気候となる。
 これらの気圧帯は季節変化に伴い南北に移動する。
 これにより、季節により雨量が著しく変化する地域がある。
 乾燥帯寄りの熱帯に位置するサバナ気候や熱帯モンスーン気候の地域では、雨季と乾季が明瞭に現れ、年間雨量の9割が雨季に集中する。
 一方、ヨーロッパの地中海沿いは夏に高圧帯、冬に低圧帯に入るため冬に雨が多く夏に乾燥する地中海性気候となる。 

 

 ▼災害

 雨量は季節や年により変動し、少な過ぎても多過ぎても災害となりうる。大雨(集中豪雨)や長期間の雨による災害には、家屋の流失や田畑の冠水をもたらす洪水、地すべり、崖崩れなどがある。少雨による災害には、水不足や旱魃などがある。

 ▼雨の強さ

 雨の強さは一定時間に降る雨の量(雨量、うりょう)で表し、その深さをミリメートル(mm)で表現する。
 通常用いるのは1時間の雨量(時間雨量)だが、短時間の降雨の強さを表すために10分間雨量などを用いることもある。なお、雪や霰などの雨以外による降水も含めた場合は降水量と言う。
 日本では、気象庁は予報や防災情報に次のような雨の強さの表現を用いる。
 また、「大雨」は災害の恐れのあるような雨を指して用いる。

 《文化・生活》

 雨の概念や雨に対する考え方は、その土地の気候によって様々なものがある。イギリス、ドイツ、フランスなど西洋の温暖な地域(西岸海洋性気候の地域)では「雨」を悲しいイメージで捉える傾向が強く、いくつかの童謡にもそれが表現されている。
 一方、雨が少ないアフリカや中東、中央アジアの乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられることが多く、雨が歓迎される。

 ▼民俗

 古来より人は、恵みをもたらす半面災厄をもたらす雨を、崇拝すると同時に畏怖していたと考えられる。
 端的な例として、ノアの洪水のみならず、世界の破壊や創造をもたらす洪水神話は世界各地に存在する。洪水神話は、雨の破壊性と創造性の2つの面を象徴していると考えられる。
 また、世界の多くの神話や伝承において雨は、至高神、天神、雷神の活動の結果としてもたらされると解釈されている。
 メソポタミア神話の天候神アダド、ヒッタイトの天候神テシュブ、フェニキアの嵐の神バアルは天候を支配し雨や洪水を司るとされ、神の怒りが洪水や干ばつの原因だとして恐れられた。
 ギリシア神話では、全能の神ゼウスが雷を武器として他の巨人や神々と戦う際に雨が降るとされた。
 インド神話では、王インドラが雷神でもあり、悪竜ブルトラを退治することで川に水を取り戻し、田畑を干ばつから救ったとされる。
 日本神話では、スサノオがヤマタノオロチを倒した際にその尾から出た天叢雲剣が雲を司る神器とされる。
 スサノオが高千穂峰に降りた天孫降臨の際には、雨と風がもたらされたと伝えられる。
 さらに、天を父、大地を母とし、両者の交わりによって雨が降り大地に実りがもたらされるという、天父地母の信仰も広く見られる。

 水辺に生息するカエルやヘビなどの動物はしばしば、水神や水神の化身や家来とされたり、雨とかかわりの深いものとされている。
 ヨーロッパでは、ある種の鳥や昆虫の活動を雨の前触れとする伝承が広く見られる。
 雨と関わりの深い農耕や牧畜を行う民族・部族では「雨乞い」の習俗が存在する。
 雨への依存が大きいアフリカの農民や牧畜民では、雨乞いを行う雨乞師の社会的地位が高いという特徴がある。
 雨乞いの儀式には広く水や煙、鉦などが用いられるが、これは水が雨、煙が雲、鉦が雷鳴を象徴する類感呪術であると考えられている。
 一部では、特徴的な形状の自然物を「雨石」や「雨の葉」などの神聖な事物として祀る習俗もある。
 これに対し、長雨の終息を祈る「日乞い」の習俗も存在するが、雨乞いほど多くはない。
 日本では、雨はそれ自体神格化されず、水神や龍神が司るものとされる。そして、神の出現の際には、神威の現れとして雨が降るとされる。
 これに通じるものとして、七夕などの節日や神社の祭礼の日には雨が降るという伝承も各地に伝わっている。
 田植えを終える目安とされる半夏生の日に降る雨を半夏雨と言い、田の神が天に昇るときの雨だとされている。
 また、歴史的に水田稲作が盛んであることから農民は雨に強い関心を抱いており、正月や節分における天気占いや雨乞いの儀礼が各地で行われてきた。

   〔ウィキペディアより引用〕




 
 

CTNRX的見・読・調 Note ♯006

2023-09-24 22:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(6)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(5) ❖

 ▶正統カリフ

 ◆アリー・イブン・アビー・ターリブ

 預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。
 後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。
 ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。
 直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。
 早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。

 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。
 アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。
 また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。
 アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。

 ◆ウマイヤ朝の成立

 661年にアリーがハワーリジュ派に暗殺された後、ウマイヤ家のムアーウィヤが実力でカリフ位に就いてウマイヤ朝を興した。
 ムアーウィヤはカリフ位世襲の道を開いたため、正統カリフの時代は終焉した。

 ▶ウマイヤ朝

 イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。
 大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。


 イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。
 第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。
 首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。
 750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。
 非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。
 また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

 カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。
 また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。

 ◆ムアーウィヤによる創始

 656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。
 ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。
 両者の抗争は656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。
 その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。
 ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。
 しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。
 このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。
 和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。
 ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。
 アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。
 ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。
 こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

 第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。
 ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。
 また、東方ではカスピ海南岸を征服した。
 しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。
 ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。
  ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。
 ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

 ◆第二次内乱

 ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。
 680年10月10日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。
 この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。
 ヤズィード1世はカリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。
 シリア駐屯軍は彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに即位後わずか20日ほどで死去した。
 これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。
 これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。

 第二次内乱中の685年にはシーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームでありマフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。
 ムフタール軍は一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。
 ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによってムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。 
 そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。
 すでにイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。
 しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。
 自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは691年にムスアブを破ってクーファに入った。
 また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した。
 ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。

 ◆絶頂期

 第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は平和と繁栄に恵まれた。
 彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。
 694年、アブドゥルマリクはアッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方でイラクの治安を回復させた。
 アブドゥルマリクはカリフ位を息子のワリード1世に継がせた。
 征服戦争は彼の治世に大きく進展した。
 ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。
 その後、ヨーロッパ征服は732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。
 また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破ってブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。
 これによって中央アジアにイスラームが広がることとなった。
 中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。

 ◆ウマル2世の治世

 この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して原住民に同化するものが増えた。
 これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて全てのムスリムを平等とした。
 これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。
 彼は今までのカリフで初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。
 また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから征服戦争を中止した。
 ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。
 ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた。

 ◆最後の輝き

 第10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世はウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。
 彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた[36]。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。
 また、ヒシャームの治世では中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。
 その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施にはイラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。

 ◆第三次内乱

 744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍がヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。
 ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。
 その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世がワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。
 彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。
 これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。

 ◆アッバース革命

 680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。
 フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。
 ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。
 しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。
 カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシムがイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。
 さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した。

 アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。
 ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。
 747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。
 イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。
 アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した。
 749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。
 750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。 
 士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。
 750年8月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。

 ❒背景

 正統カリフの時代の後、661年に成立したイスラーム史上最初の世襲王朝、ウマイヤ朝の正統性には当初から疑問が抱かれていた。
 ハワーリジュ派と総称される反体制運動が絶え間なく続いた。
 ムアーウィヤがそれまでの慣例に反して世襲制を導入したことや、その結果即位した第2代カリフのヤズィード1世がカルバラーでアリーの子イマーム・フサインを殺害したことなども、各方面からの非難を招いた。
 さらにウマイヤ朝はアラブ人を優遇し、非アラブ人はたとえイスラームに改宗したとしてもマワーリーとして差別され、ジズヤ(人頭税)の支払いを課せられていた。
 そのうえ歴代カリフのほとんどがイスラームの戒律を軽視し、世俗的享楽に耽ったことも厳格なムスリムたちに批判された。
 ウマイヤ朝治下では絶えざる反乱や蜂起が続いていたが、743年に有能な第10代カリフ、ヒシャームが死去したことによって、王朝の衰勢は決定的なものとなった。
 主要な要因としては以下のものが挙げられる。

 ・南アラビア系アラブ人の子孫と、北アラビア系アラブ人の子孫の対立

 ・それを背景とした宮廷の内紛とカリフ位をめぐる争い

 ・無能なカリフの続出

 ・シーア派の影響力拡大と反体制運動の激化(ザイド派の反乱など)

 ・ウマイヤ朝の支配に対する非ムスリムやマワーリーの不満と、イラン人(ペルシア人)民族主義の台頭(シュウービーヤ運動)

 こうした社会的混乱が広がる中に、預言者ムハンマドの叔父の末裔・アッバース一族が登場し、各地の不満分子を利用しながら自らの権力獲得を目指すことになる。

 ▶アッバース朝

 中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年〜1258年)。
 ウマイヤ朝に代わり成立した。

 王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。


 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。
 アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。
 また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。
 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。
 イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。
 1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。
 しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。
 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。
 後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

 前史

 ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。
 このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。
 また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。
 ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。
 この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。

 ❒ザーブ河畔の戦い

 こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。
 反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。
 翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い(英語版)でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
 ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。
 彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。

 ❒アッバース革命

 シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。
 この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。
 弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。
 アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。
 征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。
 アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。

 ❒アッバース朝の最盛期

 建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。
 その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。
 また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。
 第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。
 この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。
 また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。
 また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。
 アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。
 一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。

 第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。
 その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。
 バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
 一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。

 ❒衰退への道

 ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。
 しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。
 819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。
 第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。
 彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。
 翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。
 その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。
 バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。 マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。
 彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。
 しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。
 869年にカリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。

 ❒政治的混乱

 9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。
 892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。
 10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。
 さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。
 これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。
 そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。
 長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。
 1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。

 ❒アッバース朝のイラク支配回復

 11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。
 しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。
 第34代カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。
 これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。

 ❒モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡

 1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258年1月29日〜2月10日)。
 1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。
 その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。
 バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。

 ▶ターヒル朝

 9世紀にアッバース朝の総督(アミール)としてホラーサーン以東地域を統括したイスラーム王朝である。


 最大領域は現在のイラン、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンにまたがる。首都はニーシャープール。

 始祖のターヒル・イブン・フサインはホラーサーンを拠点としたアラブ戦士集団の有力者の出身で、祖父はウマイヤ朝を打倒したいわゆるアッバース朝革命に参加したひとりである。
 隻眼の武人で二刀流の達人であり、「2本の右手を持った人」と渾名されたという。
 809年にアッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッラシードがマー・ワラー・アンナフルでの反乱鎮圧のため親征した途上ホラーサーンで病没した。
 この時に、これに同行してメルヴにいた世継ぎの一人マアムーンのもとでこれに付き従った。カリフ・ラシードが没した後、ターヒルはアッバース朝第7代カリフとなるこのマアムーンが挙兵した際に協力し、バグダードを包囲して対立するアミーンを降伏させる等、マアムーンのカリフ位奪取に貢献した。
 マアムーン即位後ターヒルはバグダードやジャズィーラの総督職を与えられ、ついでホラーサーン総督に任命され、テュルク系やイラン系のマワーリー軍団、アラブ駐留軍などからなるホラーサーン軍に忠誠を誓わせ、この地域での行政・軍事力を統括するようになった。
 ターヒルはその後軍事力の強大さを警戒したマアムーンと対立するようになり、821年にモスクでの金曜礼拝の際に読み上げられるフトバからカリフ・マアムーンの名前を省き、事実上独立した。
 しかし、ターヒルの死後もターヒル家のホラーサーン以東での実力はカリフ政権側からも引き続き認められるところとなり、ターヒルの息子タルハ(在位822年〜828年)以降も総督職の任命を受け、毎年バグダードへ貢ぎ物や軍事力としてテュルク系奴隷の供給等を請負い、一族からバグダードの警察長官(シュルタ)職を務める者も輩出し、アッバース朝との関係は概ね良好であったようである。

 ホラーサーンはウマイヤ朝・アラブ征服時代以来、イスラーム帝国の東方支配の要であり、ターヒル朝が担ったホラーサーン総督職はマー・ワラー・アンナフルやスィジスターン(スィースターン)からアフガニスタン中南部、インド方面までの諸勢力と対峙するイスラーム支配地域の境域・前線地域でもあった。
 また、ターヒル朝はマー・ワラー・アンナフルや、スンナ派に属していたこともありホラーサーンのハワーリジュ派やカスピ海南岸のタバリスターンのシーア派などの反アッバース朝勢力と対立した。
 やがてスィジスターンからサッファール朝が台頭し、873年に首都のニーシャープールが落とされるまでホラーサーン支配を担い続けた。
 891年にはバグダードの総督職が廃止されて、同王朝は終焉を迎えた。

 ▶サッファール朝

 スィースターン地域(現在のイラン南東部スィースターン・バルーチェスターン州およびアフガニスタン南西部)を中心に存在した王朝。      

 861年から1003年にかけてこの地域を中心とする国家を統治した[2]。サッファール朝の首都は現在のアフガニスタンに位置するザランジュ(英語版)であった。

 この王朝の樹立者はヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールであり、王朝の名も彼の名前に由来する。
 彼は銅細工師(サッファール)という不確かな出自から諸侯の地位まで上り詰めた人物である。
 彼はスィースターン地域を掌握したのを皮切りに現在のアフガニスタン全土とイラン東部、そしてパキスタンの一部を征服した。
 首都ザランジは東西に向けた征服活動の拠点として活用された。
 彼はターヒル朝を打倒し、873年にホラーサーンを征服した。
 ヤアクーブは死ぬまでに、カーブリスターン、シンド地方、トハリスターン、バルーチスターン、ケルマーン、ファールス、ホラーサーンを征服した。
 また彼はバグダードの征服を試みたが、アッバース朝の反撃にあい敗北した。
 ヤアクーブの死後サッファール朝は長くは続かなかった。
 彼の弟であり後継者であるアムル・イブン・アル=ライスは900年にサーマーン朝に敗北し、領土の大半を新たな支配者に割譲せざるを得なくなった。
 サッファール朝の勢力は徐々に本拠地ザランジ周辺のスィースターン地方に限られるようになったが、王朝自体はサーマーン朝とその後継政権の臣下としてその後も続いた。

 ▶サーマーン朝

 サーマーン朝(سامانيان Sā中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。 首都はブハラ。
 中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる。
 ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。
 サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。
 サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。
 英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している。
 このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている。   

 ◆成立の背景

 サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する。
 サーマーン・フダーはサーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている。
 サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに与し、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。
 819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した。
 827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督にサーマーン家の人間が選ばれた。
 ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン・フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する。
 ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった。
 アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。

 ◆サーマーン家の独立

 こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。
 ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。
 ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。
 イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。
 ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。
 ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。
 翌886年にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。
 ナスルはヒジュラ暦279年(892年 - 893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。
 ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。

 ◆最盛期

 893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。
 この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている。
 以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった。
 他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた。
 900年にイスマーイールはバルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・アル=ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える。
 イスマーイールは捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉された後に処刑される。
 ムウタディドはサッファール朝の拡大を抑止できる勢力の確立を望んでおり、サッファール朝を破った後にサーマーン朝はカリフからマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンの支配を認められる。
 サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。
 946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。

 王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。
 北東部ではマー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。
 サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。
 王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた。
 ナスル2世の在位中に王権は弱体化し、西側の領土をブワイフ朝に割譲した。
 910年ごろにエジプトのシーア派国家ファーティマ朝はホラーサーン地方にダーイー(宣教員)を派遣し、シーア派の勢力はブハラの宮廷にも進出する。
 高官、ナスル2世の側近、ナスル2世自身がシーア派に改宗するに及んでウラマー(神学者)やトルコ系の将校はシーア派の排撃を行い、王子ヌーフは父ナスル2世を監禁した。

 滅亡 編集 ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する。
 また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた。
 アブド・アル=マリク1世(英語版)の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた。
 文人宰相として有名なアブル=ファズル・バルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。
 961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する。
 マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。
 アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。
 マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。
 ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった。
 一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。
 ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。
 カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した。

 ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。
 サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。
 しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した。
 997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。
 マー・ワラー・アンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。
 999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。
 カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。
 政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった。
 捕らえられたマリク2世は獄中で没し、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。

 ◆滅亡後

 サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。
 イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する。
 1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される。
 1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯005

2023-09-23 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(5)

 ❖ アフガニスタン
       歴史と変遷 (4) ❖ 

 ▶クシャーノ・サーサーン朝

 3世紀と4世紀、及び6世紀から7世紀の間、インド亜大陸の北西部に支配を確立したサーサーン朝の分流である。

 ◆最初のクシャーノ・サーサーン朝

 サーサーン朝は、パルティアに対する勝利のすぐ後、アルダシール1世の治世中の230年頃にはバクトリアまで領土を拡大し、彼の息子シャープール1世(240〜270年)の時代にはクシャーナ朝の旧領(今日のパキスタンと北西インド)まで拡大した。

 弱体化していたクシャーナ朝は西部領土を喪失し、バクトリアとガンダーラはクシャーンシャー(Kushanshahs クシャーナ王)と称するサーサーン朝の藩王に支配されるようになった。

 325年頃、シャープール2世は南部領域を直接管理の下に置いていたが、北部ではキダーラ朝の興隆までの間クシャーンシャーの支配が維持された。

 ◆インド・エフタル

 410年からバクトリア、続いてガンダーラはエフタルの侵入を受け、彼らは一時クシャーノ・サーサーン朝に取って代わった。
 彼らはインド・エフタルとして知られるようになった。

 ◆第2のクシャーノ・サーサーン朝

 突厥西面の室点蜜とサーサーン朝のホスロー1世とが共同で、558年にエフタルへの攻撃を開始し(ブハラの戦い(英語版))、565年に連合軍によってエフタルが打倒されるまでインド・エフタルによる統治は続いた。
 以後、再びサーサーン朝の王族がこの地に支配を確立した。

 《宗教的影響》

 預言者マニ(210年〜276年マニ教の教祖)はサーサーン朝の東への拡大につれて東へ向かった。
 それはマニをガンダーラで栄えていた仏教文化(ガンダーラ美術)に触れさせることになった。
 彼はバーミヤーンを訪れたと言われており、そこには彼の作になるという幾つかの宗教画があり、彼が暫くの間そこに住んで教えを広めたと信じられている。
 また、彼は240年か241年に、インドのインダス川流域に向かって出帆し、仏教徒であったトゥーラーンの王(Turan Shah)を改宗させたと伝えられている。
 その際、様々な仏教の影響がマニ教に浸透したと考えられる。
 「仏教の影響はマニ教の教義構成にあたって重要であった。
 輪廻(The transmigration of souls)の思想は、男女の僧侶らに与えられたマニ教の共同体における4つの位階(選良者 The 'elect')を定めるものとなり、それを補助した在家衆(聴講者 The 'hearers')は、仏教徒のサンガ(Sancha)を元にしたものと考えられる。(Richard Foltz, Religions of the Silk Road).

 ▶アフリーグ朝

 ▶キダーラ朝

 ▶エフタル

 エフタル(英: Hephthalite、パシュトー語: هپتالیان)は、5世紀から6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家である。
 名称は史料によって異なり、インドではフーナ (Hūna),シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン)、ヘテル (Hetel)、ヘプタル (Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス (Ephtalites)、アラブではハイタール (Haital)、アルメニアではヘプタル (Hephtal),イダル (Idal),テダル (Thedal) と呼ばれ、中国史書では嚈噠(ようたつ、Yàndā),囐噠(ようたつ、Yàndā),挹怛(ゆうたつ、Yìdá),挹闐(ゆうてん、Yìtián)などと表記される。
 また、「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。

 ◆概要

 5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝)を滅ぼしてトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
 これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。
 さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。

 6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。
 これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。

 しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。
 エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。

 ◆起源

 エフタルの起源は東西の史料で少々異なり、中国史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とし、西方史料の初見はトハリスタン征服であり「バダクシャン(パミール高原とヒンドゥークシュ山脈の間)にいた遊牧民」としている。

 ❒中央アジア・インドを支配

 410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入(彼らはインド・エフタルとして知られるようになる)。

 425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、バハラーム5世(在位:420年〜438年)により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。

 エフタルはクマーラグプタ1世
(在位: 415年頃 - 455年)のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。
 また、次のスカンダグプタの治世(435年〜467年もしくは455年〜456年/457年)にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。

 サーサーン朝のペーローズ1世(在位: 459年〜484年)はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル(アフシュワン)に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。
 アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。
 484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させた。

 エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えた。

 508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。 516年、高車王の弥俄突が柔然可汗の醜奴(在位: 508年〜520年)に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた。
 ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた(インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照)。
 520年、北魏の官吏である宋雲と沙門の恵生は、インドへ入る前にバダフシャン付近でエフタル王に謁見した。
 523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された。
 北魏の太安年間(455年〜459年)からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光(520年 - 525年)の末にも師子を貢納し、永熙年間(532年 - 534年)までそれが続けられた。

 533年頃、マールワー王ヤショーダルマンがエフタル王ミヒラクラを破る。
 ミヒラクラはカシミールに逃亡した。
  546年と552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した。

 ❒衰退と滅亡

 558年、エフタルは北周に遣使を送って朝献した。
 この年、突厥の西方を治める室点蜜(イステミ)がサーサーン朝のホスロー1世(在位:531年〜579年)と協同でエフタルに攻撃を仕掛け(ブハラの戦い)、徹底的な打撃を与えた。
 これによってエフタルはシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を突厥に奪われてしまう。
 567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)を占領した。 隋の大業年間(605年〜618年)にエフタルは中国に遣使を送って方物を貢納した。
 エフタル国家の滅亡後も、エフタルと呼ばれる人々が存続し、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争や619年の第二次ペルソ・テュルク戦争に参戦していたが、8世紀ごろまでに他民族に飲み込まれて消滅した。

 ❒政治体制

 中国の史書の『魏書』列伝第九十(西域伝)には、嚈噠(エフタル)国の政治体制などについて、次のとおり記す。
 「嚈噠(エフタル)国は大月氏の種族であるが、また、高車の別種であるとも言われ、その起源は塞北にある。金山より南方、于闐(ホータン)国の西方にあり、馬許水を都とし南200余里、長安を去ること10,100里である。
 その王は抜底延城(バルフ)を都としており、蓋し、王舎城である。城市は10余里四方で、寺塔が多く、みな金で装飾している。

 ・・・王は領国内を巡回し、月ごとに居処を替えるが、冬の寒冷な時期には、3箇月間移動しない。
 王位は必ずしも子に引き継がれる訳ではなく、子弟でその任務をこなせる者がいれば、(王の)死後に王位を継承する。・・・性格は兇悍で、戦闘を能く行う。

 西域の、康居・于闐・沙勒・安息及び諸々の小国30国ほどが、皆、嚈噠国に従属しており、大国と言っている。」

 ▶カブール・シャヒ朝

 ◆イスラーム化の進展

 アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。
 イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。

 《イ ス ラ ー ム 化
          の 進 展 》

 ◆正統カリフ

 正統カリフ(せいとうカリフ、アラビア語: الخلفاء الراشدون, ラテン文字転写: al-Khulafā’u r-Rāshidūn、アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教・イスラム帝国の初期(アラビア語: الخلافة الراشدية, ラテン文字転写: al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語である。
 正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。

西暦654年の正統カリフ時代の最大版図

 ◆アブー=バクル

 632年に神の使徒ムハンマドが死去した後、アブー・バクルがイスラム共同体の長に選出された。
 リッダ戦争(632年〜633年)。
 ドゥーマト・アッ=ジャンダルの戦いを指導し、634年する。
 以降は、同様にイスラム共同体の合議によって選出され継承を行った。

 アブー・バクル・アッ=スィッディーク( ابو بكرالصدّيق عبد الله ابن ابي قحافه عثمان بن عامر بن عمرو بن كعب بن سعد بن تيم‎ Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b. Sa‘d b. Taym, 573年〜634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年〜634年)。
 預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムのひとりであり、カリフすなわち「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」( خليفة رسول الله‎ Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。

 ❒正統カリフまでの経緯

 預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの近親を除く最初の入信者であったとされる。
 ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアーイシャをムハンマドに嫁がせたため、ムハンマドの義父にもあたる(ただし年齢はムハンマドより3歳程度若い)。
 632年、ムハンマドが死去した後、選挙(信者の合意)によって初代正統カリフに選出された。
 選出に先立って最初期からの最有力の教友で同僚でもあったウマル・ブン・アル=ハッターブとアブー・ウバイダ・アル=ジャッラーブのふたりが、アブー・バクルを預言者ムハンマドの後継者である代理人(カリフ、ハリーファ)として強力に推して人々に支持を求めて働きかけたため、初代カリフとなった。

 アブー・バクルはムハンマドの死後、イスラーム共同体全体の合議によってムスリムたちの中から預言者ムハンマドの代理人(ハリーファ)として共同体全体を統率する指導者(イマーム)、すなわち「カリフ(ハリーファ・アル=ラスールッラーフ)」として選出された。
 このようにして選ばれたのは、アブー・バクルを嚆矢としてその後に続くウマル、ウスマーン、アリーの4人であった。
 アリー以降はイスラーム共同体内部の対立によってシリア総督となっていたムアーウィヤが共同体全体の合意を待たずに事実上実力でカリフ位を獲得し、イスラーム共同体最初の世襲王朝であるウマイヤ朝の始祖となった。
 そのため、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの4人を指して、スンナ派では伝統的に「正統カリフ」 الخلفاء الراشدون al-Khulafā' al-Rāshidūn 〔「正しく導かれた代理人たち」)と呼んでいる(後述のように、シーア派ではほとんどの場合、アリー以外の預言者ムハンマドからのイスラーム共同体の教導権(イマーム権)・代理権(カリフ権)の継承を否定している〕。

 ❒正統カリフとしての
          アブー・バクル

 カリフとなったアブー・バクルは、「ムハンマドは死に、蘇ることはない」「ムハンマドは、神ではなく人間の息子であり、崇拝の対象ではない」と強調した。
 しかし、かつてムハンマドに忠誠を従ったアラブ諸族の中には、その忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブー・バクルに忠誠をみせない勢力もあった。
 アブー・バクルはハーリド・イブン=アル=ワリードらの活躍によってこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した(リッダ戦争)。
 また、イスラーム勢力拡大のためにサーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国と交戦したが、こうした戦争を通じてムスリム共同体の結束を強める狙いもあったと推測される。
 アブー・バクルは、カリフ在位わずか2年にして病のため亡くなった。
 そのため、一連の征服活動は2代カリフのウマル・イブン・ハッターブに受け継がれることになった。

 ◆ウマル

 634年にカリフに選ばれ、636年ヤルムークの戦い・カーディシーヤの戦い、
 642年ニハーヴァンドの戦いを指導する。
 644年に刺されて、息を引き取る前に後継者候補と選挙方法を残した。

 ウマル・イブン・ハッターブ(عمر بن الخطاب‎ ʿUmar ibn al-Khattāb)、(592年?〜644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年〜644年)。

 ❒生い立ち

 アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するアディー家の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、クライシュ族の遠い親族であるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラーム教を開くと、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からその布教活動を迫害する側に回った。
 伝えられるところによれば、血気盛んな若者であったウマルはある日怒りに任せてムハンマドを殺そうと出かけたが、その道すがら自身の妹と妹婿がイスラームに改宗したと聞き、激怒して行き先を変え、妹の家に乗り込んで散々に二人を打ちすえた。
 しかし、ウマルは兄の前で妹が唱えたクルアーン(コーラン)の章句に心を動かされて改悛し、妹を許して自らもイスラームに帰依した。ウマルがムスリム(イスラーム教徒)となると、クライシュ族の人々はウマルの武勇を怖れてムハンマドに対する迫害を弱め、またマッカで人望のあるウマル一家の支援はマッカにおいて最初期の布教活動を行っていたムハンマドにとって大いに助けとなったといわれている。

 622年にムハンマドらムスリムがマッカを脱出し、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に移住するヒジュラ(聖遷)を実行したのちは、マディーナで樹立されたイスラーム共同体の有力者のひとりとなり、イスラーム共同体とマッカのクライシュ族の間で行われた全ての戦いに参加した。
 また、夫に先立たれていたウマルの娘ハフサはムハンマドの4番目の妻となっており、ムハンマドの盟友としてウマルは重要な立場にあったことがうかがえる。

 ❒ムハンマドの死から

 632年にムハンマドが死去すると、マディーナではマッカ以来の古参のムスリム(ムハージルーン)とマディーナ以降の新参のムスリム(アンサール)の間で後継指導者の地位を巡る反目が表面化したが、ウマルは即座にムハンマドの古くからの友人でムハージルーンの最有力者であったアブー・バクルを後継指導者に推戴して反目を収拾し、マッカのクライシュ族出身の有力者が「神の使徒の代理人」を意味するハリーファ(カリフ)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。
 アブー・バクルが2年後の634年に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなる。

 ❒2代目カリフとして

 ウマルは当初「神の使徒の代理人の代理人」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー خليفة خليفة رسول اللّه‎ khalīfa khalīfa Rasūl Allāh )を名乗る一方、後世カリフの一般的な称号として定着する「信徒たちの指揮官」(アミール・アル=ムウミニーン امير المؤمنين‎ amīr al-mu'minīn )の名乗りを採用した。
 また、ヒジュラのあった年を紀元1年とする現在のイスラーム暦のヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準備した 。
 伝承によると、「信徒の指揮官」という称号は、彼の治世時代に教友のひとりがたまたま口にした言葉をウマルが非常に好ましい名称と思い、採用したと伝えられる。彼をこのように呼んだ最初の人物は預言者ムハンマドの従兄弟のアブドゥッラー・ブンジャフシュとも、アブー・バクルと同じタイム家の重鎮ムギーラ・イブン・シュウバとも、アムル・イブン・アル=アースとも言われている。

 政治の面では、アブー・バクルの時代に達成されたアラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出してアラブの大征服を指導した。
 当時この地方では東のサーサーン朝と西の東ローマ帝国とが激しく対立していたが、長期にわたる戦いによって両国ともに疲弊しており、イスラム帝国はその隙をついて急速に勢力を拡大しつつあった。
 すでにアブー・バクル期末の633年にはメソポタミア地方に兵を出し、フィラズの戦いにおいてサーサーン朝に痛撃を与えていた。
 このような情勢下、イスラーム軍は635年9月には東ローマ領だったダマスカスを占領し、さらに636年8月20日には東ローマの援軍をハーリド・イブン・アル=ワリードの指揮の元でヤルムークの戦いで撃破し、シリアで東ローマとサーサーン朝の連合軍をも打ち破り、シリアを制覇した。
 636年11月にはカーディシーヤの戦いによってふたたびサーサーン朝を撃破し、637年7月にはサーサーン朝の首都クテシフォンを占領。639年にはアムル・イブン・アル=アースに命じて東ローマ領のエジプトに侵攻し、642年にはアレキサンドリアを陥落させてエジプトを完全に自国領とした。
 642年にはイランに進んだムスリム軍がニハーヴァンドの戦いに勝利し、ヤズデギルド3世率いるサーサーン朝を壊滅状態に追い込んだ。
 644年にはキレナイカまで進撃し、ここをイスラーム領としている。

 征服した土地では、アラブ人ムスリム優越のもとで非ムスリムを支配するために彼らからハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収する制度が考案され、各征服地にはアーミル(徴税官)が派遣される一方、軍事的な抑えとしてアミール(総督)を指揮官とするアラブ人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設された。
 ウマルの時期に建設されたミスルとしては、イラク南部のバスラ(638年)やクーファ(639年)、エジプトのフスタート(現カイロ市南部、642年)などがある。
 ウマルはミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税機構を生かすための財政・文書行政機構としてディーワーン(行政官庁)を置き、ここを通じて徴税機構から集められた税をアター(俸給)としてイスラーム共同体の有力者やアラブの戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築き、歴史家によって「アラブ帝国」と呼ばれている、アラブ人主体のイスラーム国家初期の国家体制を確立した。

 638年には首都のマディーナを離れて自らシリアに赴き、前線で征服の指揮をとった。
 同じ年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の支配下に入ったことを宣言するとともに、キリスト教のエルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)とし、彼等がイスラームの絶対的優越に屈服しジズヤを支払う限りに於いて一定程度の権利を保障することを約束した(ウマル憲章)。
 また、このときにユダヤ教徒にも庇護民の地位が与えられ、このときからエルサレムにおいてイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3つの宗教が共存するようになった。
 このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが一夜にしてマッカからエルサレムに旅し、エルサレムから天へと昇る奇跡を体験したとき、ムハンマドが昇天の出発点とした聖なる岩を発見し、そのかたわらで礼拝を行って、エルサレムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝する慣行をつくったとされる。
 この伝承に従い、ウマイヤ朝時代にこの岩を覆うように築かれた岩のドームは、通称ウマル・モスクと呼ばれる。またウマルはソフロニオスから神への祈りを共にするよう誘われたが、ムスリムとして先例を残す事を好まずそれを断ったとされている。

 ❒ジハード、死

 644年11月、ウマルはマディーナのモスクで礼拝をしている最中に、個人的な恨みをもったユダヤ人ないしペルシア人の奴隷によって刺殺された。
 この奴隷はウマルの奴隷ではなく、教友のひとりでウマルによってバスラ、クーファの長官となっていたアル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷(グラーム)のアブー・ルウルウであった。
 殺害の動機はウマルがハラージュ税を定めた時に彼の主人にも課税されたためこれを恨んだからであったという。
 ウマルはこの時6ケ所を刺される重傷を負い、3日後に非業の死を遂げた。
 ウマルはマディーナにある預言者のモスクに葬られた。

 伝承によると、アブー・ルウルウは彼自身その場で取り押さえられて報復として殺害されているが、この時彼はモスク内で詰め寄ってきた人々をさらに11人刺しており、内9名が死亡するという大惨事となった。
 ウマルは刺された後、死の直前に後継のカリフを選ぶための、ウスマーン、アリー、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー、アッ=ズバイル・イブン・アル=アッワーム、アブドゥッ=ラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビーワッカースの6人からなる有力者会議(シューラー)のメンバーを後継候補として指名し、さらにアンサールのアブー・タルハ・ザイド・イブン・サフルに命じて他のアンサールから50人の男を選んで、彼らの6人から一人を選ぶようにも命じた。
 このような経過の末ウマルの死の後、互選によってウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選出された。
ウマル時代のイスラーム共同体最大領域(644年、ウマル没時)

 ◆ウスマーン

 ウスマーン・イブン・アッファーン
(アラビア語: عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن امية‎ ‘Uthmān ibn ‘Affān b. Abī al-‘Āṣ b. Umayya, 574年?[2]/76年?〜656年6月17日)は、イスラームの第3代正統カリフ(在位644年〜656年)。

 マッカ(メッカ)のクライシュ族の支族であるウマイヤ家の出身。
 預言者ムハンマドの教友(サハーバ)で、ムハンマドの娘婿にあたる。

 ムハンマドの妻ハディージャを除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている。
 クルアーン(コーラン)の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている。
 651年頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される。
 656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって殺害され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された。 
 莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー(「富めるウスマーン」の意)と呼ばれた。
 また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン(ذو النورين Dhū al-Nūrain、「二つの光の持ち主」)とも呼ばれる。

 ❒生涯

 イスラームへの帰依前

 ウマイヤ家の豪商アッファーン・イブン・アビー・アル=アースとアルワ(ウルワー)の子として、ウスマーンは生まれる。
 母のウルワは預言者ムハンマドの従姉妹にあたる。

 ウスマーンの幼年期については、不明な点が多い。
 子供のころに厳格な教育を受けたと思われ、マッカに住む若者の中でも特に読み書きに長けた人間に成長した。
 幼少のウスマーンが他のアラブ人の子供に混ざって脱いだ服に石を集めて運ぶ遊びをしていた時、何者かに「服を着よ、肌を出してはならない」と言われてすぐに遊びを止めて服を着、以来人前で服を脱ぐことは無くなったという伝承が残る。

 ウスマーンが20歳になった時、父のアッファーンが旅先で客死し、ウスマーンは父の遺した莫大な財産を相続した。
 父と同様に交易に携わったウスマーンは事業で成功を収め、跡を継いだ数年後にはクライシュ族内でも有数の富豪になっていた。
 商売で不正を行うことは無く、慎重かつ公正な姿勢を心掛けていた。

 ❒イスラームへの改宗

 ウスマーンが改宗した理由について、彼がムハンマドの娘のルカイヤに恋焦がれていたためだと言われている。
 ウスマーンは密かにルカイヤを想っていたがムハンマドに結婚を言い出す事が出来ず、ルカイヤはムハンマドの従兄弟ウトバの元に嫁いだ。
 叔母のスウダーに相談したウスマーンは、やがてムハンマドに重大な出来事が起こり、その時にはルカイヤが自分の下に嫁ぐと言われ、叔母からの助言を心に留め置いた。
 610年初頭、ウスマーンは旅先でマッカに預言者が現れた声を聞き、マッカに戻ったウスマーンは友人のアブー・バクルの勧めを受けてムハンマドに帰依した。

 クライシュ族内ではウマイヤ家とムハンマドが属するハーシム家の対立が深まり、ウマイヤ家の人間はウスマーンがムハンマドの教えに入信したことを喜ばなかった。
 ウマイヤ家の家長であるアル=ハカムはウスマーンを縛り付けて棄教を迫り、母のアルワと継父のウクバからも棄教を説得された。
 それでもウスマーンの決意を翻すことはできず、アル=ハカムはウスマーンをクライシュ族の信仰に立ち返らせることを諦め、アルワはウスマーンを勘当した。
 スウダーはウスマーンを擁護し、ウスマーンの異父妹であるウンム・クルスームは兄に続いてイスラームに改宗した。

 ムハンマドがハーシム家の人間から迫害を加えられた時、ウトバ親子もムハンマドを責めて、ルカイヤはムハンマドの下に帰された。
 また、ウスマーンはイスラームの教えを拒否する二人の妻と離婚した。
 ウスマーンが離婚したことを知ったアブー・バクルは、ムハンマドにウスマーンとルカイヤの結婚を提案する。
 ムハンマドはクライシュ族の有力家系であるウマイヤ家の人間の改宗を喜び、ルカイヤをウスマーンの元に嫁がせて友好関係の継続を望んだ。

 ウスマーンとルカイヤは幸福な結婚生活を送っていたがクライシュ族内でのイスラーム教徒への迫害は激しさを増し、ウスマーンはムハンマドと話し合った末、交易でつながりのあったエチオピアへの避難を決定した。
 615年、ウスマーン夫妻は信徒を連れてエチオピアに移住する。
 移住先のエチオピア王国では歓迎を受け、マッカ時代と同じように交易を続け、貧窮した人間に援助を与えた。
 また、エチオピア滞在中にルカイヤとの間に男子が生まれ、ウスマーンは息子にアブドゥッラーと名付けた。
 移住から2年後にマッカのクライシュ族がイスラム教を受け入れた報告を受け取り、ウスマーン夫妻は何人かの信徒を連れてマッカに帰国した。
 帰国後、報告が誤りだと分かった後もウスマーンたちはマッカに留まり続け、迫害に耐え続けた。

 ムハンマドの家族とハーシム家の人間がマッカ郊外の渓谷に追放された時、ウスマーンはムハンマドたちに食糧を供給し続けた。同時にムハンマドたちへの制裁の廃止をクライシュ族の若者たちに説き、ムハンマドへの制裁は中止される。
 622年のヒジュラに際し、ウスマーンも他の信徒と同じようにヤスリブ(後のマディーナ、メディナ)に移住する。

 ❒ヒジュラ後

 マディーナで新たな生活を始めたウスマーンは、ユダヤ教徒に独占されている商行為にイスラム教徒も参入するべきだと考え、マッカから運び込んだ財産を元手に商売を始める。
 ウスマーンはマディーナでも慈善事業に携わり、ムハンマドの邸宅とモスク(寺院)の建立に必要な土地を購入する資金を捻出した。また、水の確保にも尽力し、ユダヤ教徒と交渉し邸宅の権利を買い取ることができた。

 624年頃にマディーナで天然痘が流行し、ルカイヤは天然痘に加えてマラリアに罹る。
 同624年のバドルの戦いではウスマーンは従軍を志願したが、ムハンマドは自分の代理としてマディーナに残り、ルカイヤの看病をするように命じた。
 バドルでイスラム軍とクライシュ族が交戦している時にルカイヤは病没し、マディーナに勝利の知らせが届いたときには彼女の埋葬は終えられていた。
 バドルの戦いから1年が経過した後もウスマーンはルカイヤを亡くした悲しみから立ち直れず、またウフドの戦いで誤報を信じて退却したことを悩んでいた。
 625年末、ムハンマドはウスマーンを慰めるため、ルカイヤの妹であるウンム・クルスームを彼に娶わせた。
 翌626年にアブドゥッラーを亡くし、630年にウンム・クルスームも早世する。

 628年3月にムハンマドがカアバ神殿巡礼のためにマッカに向かった時、同行したウスマーンはマッカのクライシュ族との交渉役を任せられる。
 交渉の後、ムハンマドとマッカの間に和約が成立した(フダイビーヤの和議)。和議はクライシュ族にとって一方的に有利な内容になっていたため、イスラム教徒の中には和議に不服な人間も多かったが、ウスマーンはクライシュ族の中にイスラム教徒が増えてやがて事態は好転すると考えていた。
 ウスマーンの予測は当たり、クライシュ族内の有力者にイスラームに改宗する者が多く現れる。
 信徒の増加に伴うマディーナのモスクの増築にあたっては、ウスマーンは工事費の全額を負担し、自らもレンガを運んで工事に参加した。

 632年6月9日にムハンマドが没し、マディーナでその知らせを聞いたウスマーンは憔悴するが、アブー・バクルの励ましを受けて立ち直る。
 アブー・バクルがカリフに就任した後、ウスマーンはウマルの次にバイア(忠誠の誓い)を示した。
 厳格なウマルがカリフに就任した後、ウマルは自分に正面から意見をするウスマーンに信頼を置いていた。
 ウスマーンは若者の多いイスラム教徒の間で温厚な人物として尊敬を受けていたが、ウマルの治世の末期まで目立った動向は無かった。
 ウスマーンは政治顧問としてマディーナに留まり、ウンマ(イスラーム共同体)の運営に従事していた。

 ❒カリフ即位後

 ウスマーンは死に瀕したウマルから後継者候補の一人に指名され、同じく後継者候補に指名されたアリー、タルハ、ズバイル、アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビー・ワッカースらクライシュ族出身のムハージルーン(マッカ時代からのムハンマドの信徒でマディーナに移住した人間)の長老と会議(シューラー)を開いた。
 カリフの候補者はウスマーンとアリーに絞られ、アウフが議長を務めた。
 ウマルが没してから3日間、アウフは指導者層以外のマディーナの人間にもいずれがカリフに適しているかを諮り、最終的にウスマーンをカリフの適格者に選んだ。
 644年11月7日、ウスマーンはマディーナのモスクでバイアを受け、カリフに即位する。
 ウスマーンはカリフという職務に強い重圧を感じ、最初の演説を行うために説教台に登った彼の顔色は悪く、演説はたどたどしいものとなったと伝えられている。
 クライシュ族の長老たちにはウスマーンの支持者が多く、アリーの主な支持者であるアンサール(ヒジュラより前にマディーナに住んでいたイスラム教徒)には発言権が無かったことが、ウスマーンのカリフ選出の背景にあったと考えられている。
 さらに別の説として、ウマル時代の厳格な統治からの脱却を望んだ多くの人々が、禁欲的な生活を求めるアリーではなく、ウスマーンを支持したためだとも言われている。
 史料の中には、他の長老からの「先任の二人のカリフの慣行に従うか」という質問に、ウスマーンは「従う」と断言し、アリーは「努力する」と答えたことが選出の決め手になったと記したものもある。

 645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部は東ローマ帝国の攻撃を受ける。
 ウスマーンはそれらの土地の騒乱を鎮圧し、中断されていたペルシア遠征を再開した。
 ニハーヴァンドの戦いの後に進軍を中止していた遠征軍は、ウスマーンの命令を受けて進軍を再開した。
 650年にジーロフトに到達した遠征軍は、三手にわかれてマクラーン、スィースターン(シジスターン)、ホラーサーンを征服し、ペルシアの征服を完了する。
 翌651年にメルヴに逃亡したペルシアの王ヤズデギルド3世は現地の総督に殺害され、サーサーン朝は滅亡した[41]。シリアからはメソポタミア北部への遠征軍が出発し、646年にアルメニア、650年にアゼルバイジャンを征服する。
 こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人の征服活動は、650年に終息する。
 ウスマーンはカリフとして初めて中国に使者を派遣した人物と考えられており、651年に唐の首都である長安にイスラーム国家からの使者が訪れた。

 治世の後半、エジプトやイラクではウスマーンの政策への不満が高まった。
 シリアにはウマルの時代に総督に任命されたムアーウィヤを引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーンの乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。
 ウスマーンが実施したウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた。
 バスラやクーファに駐屯する兵士は俸給の削減によって苦しい生活を送り、地方公庫からの現金の支給を要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった。
 ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた。

 最期

 654年にウスマーンは各地の総督をマディーナに招集して政情について討議を重ね、ムアーウィヤからシリアに避難するように勧められたが、ウスマーンは避難と護衛の派遣を拒否してマディーナに留まった。
 656年バスラ、クーファ、エジプトの下級兵士は総督の不在に乗じて連絡を取り合い、マディーナに押し寄せた。ウスマーンはディーワーン職に就いていたマルワーンと改革派からの批判の対象となっている統治官の解任を条件にムハンマドの従兄弟アリーに助けを求め、アリーは兵士たちを説得して彼らを帰国させた。 
 しかし、数日後に兵士たちはマディーナに戻り、ウスマーンの退位を要求した。モスクでの説教と礼拝はウスマーンの支持者と反乱者の衝突の場となり、礼拝に現れたウスマーンに石が投げつけられる事件が起きる。

 数百人の反乱者はウスマーンの邸宅を取り囲んで方針の転換を要求し、ウスマーンの政策に不満を抱くマディーナの住民は彼を助けようとしなかった。
 ウスマーンはイスラームとマディーナの守護のために各地の総督に援軍の派遣を要請し、またウスマーンの元を訪れた教友たちは反乱者の討伐、あるいは亡命を進言したが、ウスマーンは攻撃を拒んで邸宅に残った。
 6月17日、兵士たちは彼の邸宅に押し入り、包囲の中でもウスマーンはクルアーンを読誦していた。
 アブー・バクルの子ムハンマドが最初にウスマーンを切りかかり、ウスマーンは切りつけられながらもなおクルアーンの読誦を続けていた。
 深手を負った後もウスマーンはなおクルアーンを抱きかかえ、クルアーンは彼の血で赤く染まったという。ウスマーンを殺害した兵士たちは、国庫から財産を奪って逃走した。

 ウスマーンの遺体は、殺害当日の日没の礼拝と夜の礼拝の間の時間にマディーナのハッシュ・カウカブに密かに埋葬される。
 ウスマーンの墓の側には、彼を助けようとして殺害された召使いのサビーフとナジーフの遺体が埋葬された。
 ハッシュ・カウカブは墓地であるバギーウの東に位置し、ハッシュ・カウカブを買い上げたウスマーンはこの場所が将来墓地となることを予見していたが、彼自身が最初に墓地に埋葬された人間となった。
 ムアーウィヤはウマイヤ朝の建国後にハッシュ・カウカブのウスマーンの墓を詣で、土地の周りを取り囲んでいた壁を壊して、この地を墓地にするように命令した。
 また、ウスマーンが読んでいたと伝えられるクルアーンの写本は、タシュケント(ウスマーン写本)、イスタンブールのトプカプ宮殿(トプカプ写本)に保管されている。

 没時のウスマーンの年齢は80歳、85歳、あるいはイスラム教徒にとって重要な年齢である63歳と諸説ある。
 歴史家のマスウーディーはウスマーンが没した時、彼の財産として東ローマの金貨100,000ディナール、ペルシアの銀貨1,000,000ディルハム、100,000ディナール相当の邸宅、私有地、多くの馬とラクダが遺されていたと記述している。
 ウスマーンの殺害について、正統な権力の拒絶である故意の殺人で極刑に処すべきだとする意見、地位を乱用した人間に処刑を下したに過ぎないという意見が出され、二つの立場の議論は形を変えて数百年の間続けられた。
 このため、ウスマーンの死はイスラームの政治理論と実践に大きな影響を与えたと考えられている。

 〔ウィキペディアより引用〕