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CTNRX的見・読・調 Note ♯004

2023-09-22 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(4)

 ❖ アフガニスタン
       歴史と変遷 (3) ❖

 ◆メナンドロス1世

 インド・グリーク朝の王の中で最大の勢力を築き、また最も多くの記録を残しているのはメナンドロス1世(ミリンダ 在位:紀元前150年頃 - 紀元前130年頃?)である。
 メナンドロス1世はインドにおいてエウティデムス朝系の権力に対する反対者として台頭したという説が近年では有力であるが、彼が権力を得た具体的な経過はわかっていない。

 メナンドロス1世は北西インドの都市シャーカラ(現:シアールコット)を都とした。
 古代の地理学者プトレマイオスによれば、当時この町はエウテュメディアと呼ばれたという。
 メナンドロス1世の発行したコインは他のインド・グリーク王の誰よりも広い範囲から出土している。
 その範囲は現在のカーブルからバルチ、カシミール、マトゥラーに至る。

 同じく地理学者プトレマイオスによって造られた世界地図によればインド亜大陸にはメナンドロス山などと名づけられた山が存在していたらしい。
 こうしてインド亜大陸に勢力を拡張した王達、アポロドトス1世やメナンドロス1世はギリシア・ローマの歴史家達にはインド王として言及されている。

 メナンドロス1世の名を今日に伝えている最も重要な記録は仏典の1つ『ミリンダ王の問い』である。
 メナンドロス1世は仏教に帰依したことが知られており、当時のインドでは単に武勇に優れた征服王というだけではなく偉大な哲人王として記憶された。
 ミリンダとはメナンドロスの名がインド風に訛って伝わった名である。

 「彼は論客として近づき難く、打ち勝ち難く、数々の祖師(ティッタカラ)のうちで最上の者であったと言われる。
 全インド(ジャンブディーパ)のうちに肉体、敏捷、武勇、智慧に関して、ミリンダ王に等しい如何なる人も存在しなかった。
 彼は富裕であって大いに富み、大いに栄え、無数の兵士と戦車とを持った」

 この書はメナンドロス1世と仏僧ナーガセーナとの対談と、王の改宗の顛末などを中心に記録されたものであるが、メナンドロス1世が仏教に帰依したという点には疑問を呈する学者もいる。
 だが大勢ではやはり仏教を重視したのだろうとする説が有力である。
 メナンドロス1世はインド・ギリシア人最大の王であり、彼が発行したコインはその後200年以上にわたって北西インドで流通した。
 これはメナンドロス1世以降暫くの間、彼ほど巨大な経済力を持った王が存在しなかったことを示すともいわれる。

 ◆グレコ・バクトリアの終焉と
      インド・グリークの諸王

 メナンドロス1世が死んだ後、王妃アガトクレイアが権力を握ったが、それと同じ時期の紀元前130年頃には大月氏によってか、或いは大月氏の圧力によって移動したトハラ人、サカ人によってか、正確なことはわかっていないが、バクトリアのギリシア人王国はこういった遊牧民の侵入によって崩壊した。

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 ❒ 月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)

 紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。
 紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。
 大月氏時代は東西交易で栄えた。
 『漢書』西域伝によれば羌に近い文化や言語を持つとあるが、民族系統については後述のように諸説ある。

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 紀元前125年頃にグレコ・バクトリア最後の王ヘリオクレスは殺害されたか、もしくは亡命を余儀なくされた。
 そして残されたバクトリア・ギリシア人達のいくらかはインド・ギリシア人達の勢力範囲に流入した。
 リュシアス、ゾイロス1世、アンティアルキダスなどのギリシア人王が各地で勢力を持ったが、彼らの多くはこの時期に新たにインドに移動したグレコ・バクトリア系の王であると言われている[。
 彼らは基本的にはエウティデムス朝かエウクラティデス朝に属する王達であったと考えられている。
 また、メナンドロス1世とアガトクレイアの息子、ストラトン1世も、やや遅れてではあるがインド・ギリシア人の代表的な王として活動したと見られる。

 こういった経緯によって、インドにおけるギリシア人の勢力は新たにバクトリアから流入した人々によって形成された西方のアラコシアやパロパミソスを支配する勢力と、恐らくメナンドロス1世の後継者達によると考えられる東方の西パンジャーブ地方などを支配する勢力に大きくわかれた。
 また更に多くの群小王国が存在したと考えられる。

 だが、この時期のインド・グリーク諸王の勢力範囲は年代決定は諸説紛糾しており、極めて僅かな史料を下にその活動が想像されているに過ぎない。
 それでも上記の王達の場合はまだ記録に恵まれている方である。
 ニキアス、ポリクセノス、テオフィロスなどのように、発掘されたコインからただ名前のみが知られているインド・グリーク王は約40人にも上るが、彼らについては極めて大雑把な概要さえ知る事ができない。

 彼らは相互に覇権を争ったが、紀元前90年以降その勢力は減衰を続けた。
 西暦1世紀初頭までには支配者としてのギリシア人の地位は完全に失われた。

 ◆身分秩序

 インドにおけるギリシア人の支配はどのような影響を社会に及ぼしたのか、様々な見解が出されている。
 ある仏典にはヨーナ(ギリシア人)とカンボージャでは二種の階級、即ち貴族と奴隷(アーリアとダーサ)があり、貴族が奴隷となり奴隷が貴族となることがあるとされている。
 これはあまりに抽象的な記録であるが、「階級が入れ替わることがあった。」という点を重視し、ギリシア人の支配下で旧来のインドの身分秩序に乱れがあったことを示すとする意見もある。
 しかし、インド社会の根幹部分にはギリシア人の影響はさほど及ばなかったとする説も有力である。
 メナンドロス1世の王国では当時の支配階級はギリシア人を頂点とし、旧来のインド王族、バラモン、資産者が続くとされている。
 これに見るように、古いインドの階級秩序の上にギリシア人が置物のように存在したという説もある。

 インド・グリークの諸王国においてギリシア人が特殊な地位を占めていたのは『ミリンダ王の問い』にある記述から想定できる。
 これによれば、メナンドロス1世の周囲には常に500人のギリシア人が側近として控えていたとされている。
 実際にギリシア系と考えられているメナンドロス1世の側近の名前も記録されている。
 即ちデーヴァマンティヤ(恐らくデメトリオス)、アンタカーヤ(恐らくアンティオコス)、マンクラ(恐らくメネクレス)、サッバディンナ(サラポドトス、もしくはサッバドトスか?)の4人である。

 ◆領内統治

 ❒王権観

 インド・グリーク諸王朝の王権に関する史料は『ミリンダ王の問い』に収録されている僅かな記録を除けばコイン銘にある称号がほとんど唯一の史料である。
 バシレウス(王)や、バシレウス・メガス(大王)などが称号として用いられたが、時代を経るにつれ若干の神格化も見られた。
 『ミリンダ王の問い』に表されるインド・グリーク王の姿は極めてインド的である。

 「…王は政治を行い、世人を指導する。
 …彼は一切の人間に打ち克って、親族を喜ばせ、敵を憂えさせ、大いなる名望と栄光ある無垢白色の白傘を掲げる。…」 「…良家の裔であり、クシャトリヤである王がクシャトリヤの灌頂を受けた時、市民、辺境民、地方人、傭兵、使者が王に侍り…廷臣、役者、踊子、予言者、祝言者、一切の宗派のシャモン・バラモンが彼の下に赴き…いたるところにおいて支配者となる。…」

 しかし、後世の付加であると考えられ部分を含んでおり、インド・グリーク王が「インド的」な王権観の下にあったのかどうかは断言できない。
 後述のように、遺物から推測されるインド・グリーク諸王朝の政治体制はギリシア的要素を強く残しており、仏典に見られる強い「インド的傾向」は、採録者自身が王をそのようなものとして見なしていたが故のものかもしれない。

 だがインド・グリーク諸王の発行したコインはギリシア文字銘の他に、現地で用いられていたカローシュティー文字などを使用してプラークリット語の称号が併記されることが多いという点で、他のヘレニズム諸王国のそれとは著しい相違をなす。マハーラージャ・マハータ(偉大なる大王)や、マハーラージャ・ラージャティラージャ(諸王の統王なる大王)などのような称号は、基本的にはギリシア語の称号を現地語に訳したものであるが、こうした処置が必要だったことは、ギリシア人の王権観にインドのそれが影響を及ぼしていた事を示すとも言う。

 ❒従属王国

 メナンドロス1世を初めとしたインド・グリークの王達は、領域内で完全な主権を確立していたわけではなかった。
 彼らの支配する領域には数多くの従属王国が含まれており、彼らは王を名乗り独自にコインを発行したりする場合もあった。

 こういった従属王国は、必ずしも上位者の王と運命共同体を形成していたわけではなかった点は重要である。
 上位者の王の勢力が減衰すれば、彼らはその都度独立したり、別の王の庇護を求めたりして自らの地位を守ることに努めた。
 メナンドロス1世に従属していた王の一人ヴィジャヤミトラは、メナンドロス1世死後も長く独自の王国を存続させていた。

 ❒郡守

 メナンドロス1世の王国は、セレウコス朝と同様の郡守(メリダルケス)制度を持っていた。
 この称号はセレウコス朝の碑文に多く残されているが、インド・グリーク王朝の碑文にも確認されており、地方の統治に当たった。
 こうした点に見られるようにインド・グリーク王朝の国家体制にはヘレニズム的要素が強く見られる。

 彼らは地方の統治とともに独自に宗教活動にも従事していた。紀元前150年頃の群守の1人テウードラ(テオドロス)が仏舎利を供養したことが記録に残されている。
 こういったギリシア人の郡守達は実務・行政にはギリシア語を使用したと考えられているが、興味深いことに仏教に関する活動においてはギリシア語を避け、カローシュティー文字を用いて現地語を使った。

 ❒軍事

 コインに刻まれた記録からは、インド・ギリシア人が典型的なヘレニズム風の武装をしていたことがわかる。
 基本的には西方のヘレニズム王朝と軍事面であまり差は無かったと考えられているが、それでも地域的な影響は強く受けた。
 グレコ・バクトリア王国が遊牧民の襲来で崩壊した後の王、ゾイロス1世のコインの中には遊牧民の用いていた短弓が描かれているものがあり、インド・ギリシア人の弓騎兵も同様の物を装備していたといわれている。

 グレコ・マケドニアの伝統にのっとって、騎兵は重要視されていたと考えられ、グレコ・バクトリア王やインド・グリーク王はしばしば馬上の姿が描かれている。
 インドで重要視された戦象はヘレニズム諸国がこぞって使用した兵器であり、インド・ギリシア人も用いたと考えられるが、馬と異なりコインに描かれることは無い。
 しかし、インド世界一般の傾向から考えて戦象は重要な兵力であったであろう。
 少なくとも『ミリンダ王の問い』の中には、戦象の使用に言及する部分がある。

 ❒宗教

 インドに移住したギリシア人達は当初、当然ながら彼らの旧来の宗教、すなわちゼウスやヘラクレスへの崇拝を持ち込んだことが確認されている。インド・グリーク諸王が発行したコインにはギリシア系の神々の姿が刻まれている。
 時が経過するに連れ、インドの宗教の影響を受け、それらに帰依する者も出た。

 ❒ギリシア人と仏教

 インド・ギリシア人の中には多くの仏教徒がいた事が知られている。最も有名なのはメナンドロス1世であるが、彼の仏教改宗は、単に個人的に仏教に興味を持つ王がいたと言う範疇を超えて、当時のインド社会における大きな思想潮流の中での出来事であると考えられる。

 マウリヤ朝時代、仏教はその保護を受けて大いに発展していたが、その中で仏教に改宗するギリシャ人がいたことは考古学的に確認されている。
 マウリヤ朝時代に仏教教団へギリシア人から窟院や貯水池の寄進が行われていたし、アショーカ王の勅令の中にガンダーラ地方のギリシア人に仏教が広まっていた事を示すものもある。
 何故仏教がギリシア人に受け入れられたのかについては様々な議論があるが、一説に身分秩序を重んじるバラモン教の有力なインド社会において、外来のギリシア人がインド社会に同調しつつその宗教を取り入れようとした場合、大きな選択肢としては仏教しかなかったという説がある。
 バラモン教的立場に拠れば、いかなギリシア人が強大な軍事力を持ったとしても、夷狄の1つに過ぎない。
 サンスクリット語で蛮族を意味する語バルバラ(barbara)は、ギリシア語のバルバロイの借用であるが、皮肉なことにインドの文献にはギリシア人を指してバルバラと呼ぶものも存在する。

 ◆メナンドロス1世の改宗

 『ミリンダ王の問い』によればメナンドロス1世は当初仏教に懐疑的であり「質問をぶつけてサンガ(仏教教団)を悩ませた」とある。
 その後、ナーガセーナとの論戦に破れ仏教に帰依したことが伝えられている。

 この「メナンドロス1世の改宗」の史実性については長い議論の歴史がある。
 仏僧ナーガセーナは『ミリンダ王の問い』以外にその存在を証明する文献は存在せず、メナンドロス1世の残した遺物の中には、彼が仏教徒であったことを示唆する物は少ない。
 彼のコインに刻まれているのは伝統的なギリシアの神々であって、そこから仏教的要素を読み取ることは出来ない。
 ただし、これらのコインの中には輪宝を刻んだものがあることから、メナンドロス1世がインド人の宗教観の影響を受けていたことは確実である。
 但し、輪宝は仏教以外の宗教も用いるため、メナンドロス1世が仏教に帰依した確実な証拠とはならない。
 斯様な点からメナンドロス1世の仏教改宗の史実性に疑問を持つ学者もいる。

 一方、メナンドロス1世が仏教を信仰したとする最大の証拠は、シンコットで出土したメナンドロス1世が奉献したと記す舎利壷である。
 このため、メナンドロス1世は実際に仏教に帰依した、少なくとも重視したとする説が有力である。

 ❒仏教美術

 ギリシア人達はインドの美術にかなりの影響を残した。取り分けよく言われるのが、従来は仏の姿を直接現さないことになっていた仏教美術の中に仏像が現れたことに対するギリシア人の影響である。

 古代インドでは釈迦の入滅以来、仏陀が人間的な表現で表されることはなかった。
 釈迦の死後、崇拝の対象となったのは彼の像ではなく、彼の遺骨(仏舎利)を納めた仏塔(ストゥーパ)であり、仏教説話などを絵などに表現する時、釈迦を登場させる必要がある場合には、座席、仏足跡、菩提樹、法輪、傘蓋、仏塔などを描写することで釈迦の存在を象徴的に表すのみであった。
 これは意識的に釈迦の姿を現す事を避けたことがわかる。
 こうした仏教美術様式はマウリヤ朝、シュンガ朝、サータヴァーハナ朝を経て西暦紀元前後まで一貫して続いている。

 しかし、その次の時代のガンダーラ美術やマトゥラー美術では、釈迦を人間の姿で表現する事が既に前提となっている。
 仏像の登場の最も早いものはクシャーナ朝時代のことであり、インド・グリーク諸王朝の活動した時代よりも後のことであるが、神を人間の姿で表現するギリシア人の美術様式が仏教美術に影響したと言われている。

 ❒ヒンドゥー教

 ここでいうヒンドゥー教とは今日的な意味ではなく、当時のインドの土着の神々に対する信仰を指す。
 インド・ギリシア人の信仰として注目されるのはやはりゼウスやヘラクレス、アテナなどギリシア古来の神々への信仰と仏教信仰であるが、インド伝来の神に対するギリシア人の信仰の証拠も今日に残されている。

 最も有名な例はアンティアルキダス王に仕えたタクシラ出身のギリシア人ヘリオドロスに関する記録である。ベスナガルに残るガルーダ石柱銘文によれば、アンティアルキダス王は治世第14年にヘリオドロスをヴィディシャーの王バーガバドラの下に使者として派遣した。
 ヘリオドロスはバーガヴァダ派の信仰を持っていたため、ヴァースデーヴァ神のためにベスナガルにガルーダ像をつけた柱を建てたという。
 この銘文の中でヴァースデーヴァは「神々の中の神」と呼ばれている。
 このようにインド伝来の神を信仰するギリシア人は少なからず存在したと考えられ、また恐らくは旧来のギリシアの神々との混交も進んでいたと推測される。

 今ひとつ、インドの神々とギリシア人との関係を示す証拠は、神の像が刻まれたグレコ・バクトリア王国やインド・グリーク諸王朝のコインである。
 アガトクレスやパンタレオンの発行したコインに刻まれている踊子はクリシュナの姉妹スバードラを表したものと言われている。
 また、インド人の神話的伝承についてはギリシア人の「批判」も残っている。メガステネスやアリアノスなどのギリシア人達は、インド人の伝えた神話、伝説の類を「荒唐無稽」として全く信用しなかったことが伝えられている。
 (これらの伝説は今日の『マハーバーラタ』やプラーナ文献に対応するものが多く発見されている。)

 メガステネスやアリアノスはインド・ギリシア人ではないが、インド・ギリシア人の中にも西方のギリシア人と同じくこうしたインドの空想的な神話について懐疑の目を向けるものは少なからず存在した。
 そうしたギリシア人の1人は他ならぬメナンドロス1世であった。彼がナーガセーナとの議論の中で質問を多くぶつけたのは、ありえそうも無い空想的な説話についてであった。

 ◆カーラ・ヤヴァナ
       (黒いギリシア人)

 インドの伝説やプラーナ文献にはクリシュナがカーラ・ヤヴァナ(Kala Yavana、「黒いギリシア人」)と戦ったという説話が残されている。
 これは現地人との長期に渡る混血が進んだギリシア人か、或いはかつて古代インドの土着民がアーリア人の侵入につれてアーリア化したように、ギリシア化した土着民であったかもしれない。

 ただし、このカーラ・ヤヴァナとはバクトリアのギリシア人を指すという説もある。

 ▶インド・スキタイ王国

 紀元前2世紀、匈奴がモンゴル高原の覇者になり敦煌の月氏を駆逐すると、逃れた月氏が塞族を追い出しイシク湖に定住した。
 塞族は、パミール高原を越えて定住を始め、紀元前85年にインド・グリーク朝に侵攻し、紀元前10年に最後のギリシア系王朝が滅亡し、サカ人のインド・スキタイ王国が興った。

 インド・スキタイ王国
 (英語:Indo-Scythian Kingdom)

 紀元前1世紀の西北インドに興ったスキタイ系のサカ人による諸王朝。インド・スキタイ朝、インド・サカ王朝、サカ王朝、サカ王国ともいう。インド・グリーク朝の文化を受け継ぎ、多くのコインを残した。

 ◆遊牧民の大移動と建国

 紀元前2世紀、モンゴル高原の覇者となった匈奴は西域攻略を開始すべく、手始めとして敦煌付近にいた月氏を駆逐した。
 月氏はイシク湖周辺にまで逃れ、もともとそこにいた塞族(サカ人)を追い出してその地に居座った。
 追い出された塞族は縣度(パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈)を越えてガンダーラ地方に罽賓国を建てたり、途中のパミール山中に休循国や捐毒国を建てたりした。
 これらの国々がインド・スキタイ王国なのかは不明だが、紀元前85年頃には北方遊牧民(広義のスキタイ:サカ)が西北インドに侵入し、インド・グリーク朝を滅ぼして自らの王国を築いた。

 ▶インド・パルティア王国

 アルサケス朝パルティアが弱体化すると、パルティア人のゴンドファルネスがバクトリアと北インドを支配下に治め、20年にアルサケス朝パルティアから独立してインド・パルティア王国を興した。
 1世紀頃現代のアフガニスタン、パキスタン、北インドを含む領域に、パルティア人の指導者ゴンドファルネスによって建設された王国。

 ◆東方領土への進出

 匈奴が冒頓単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)治世下で強大化して西方を脅かすようになると、元来タリム盆地に拠点を置いていた遊牧民の大月氏はサカ人の領土を奪い取り西遷した。
 パルティアのミトラダテス1世(在位:前171年 - 前138年)の治世には、北西インドのサカ人が本拠地のヒュルカニア(英語版)に侵入し始めた。
 紀元前128年、フラーテス2世はサカ人討伐に失敗して戦死し、インド・スキタイ人のインド・スキタイ王国や大月氏の大夏によって東方領土は占領されていた。

 ローマとの抗争や、紀元前92年のミトラダテス2世の死などによってパルティア王国が弱体化すると、パルティアの大貴族スーレーン氏族(王族から分岐した氏族)は東方領土に侵入を開始した。
 パルティア人は、ガンダーラ地方でクジュラ・カドフィセス(後にクシャーナ朝の王となる)など大月氏側の多くの地方領主と戦った後、全バクトリアと北インドの広大な領域を支配下に治めた。インド・スキタイ王国は、最後の王アゼス2世が紀元前12年頃に死去するまで存続した。

 ◆建国

 西暦20年頃、パルティア人の征服者の1人、ゴンドファルネスは、パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設した。
 インド・パルティア人は、パフラヴァ(Pahlavas)としてインド人に知られており、ヤヴァナ(Yavanas)、サカ(Sakas)とともにしばしばインドの文書に登場する。

 この王国は何とか1世紀ほど存続した。
 王国はゴンドファルネスの後継者アブダガセスの時代には分解を始めた。
 北インド地方は75年頃にはクシャーナ朝のクジュラ・カドフィセスによって再征服された。
 その後、王国の領域はほぼアフガニスタンのみに限定された。

 ◆滅亡

 最後の王パコレス(英語版)(100年 - 135年)の治世には、サカスタンとトゥーラーンを支配するに過ぎなかった。
 2世紀の中央インドの王国サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)の王ガウタミープトラ・シャータカルニ(Gautamiputra Sātakarni 106年〜130年)は、自らを「サカ(西クシャトラパ)、ヤヴァナ(インド・ギリシア人)、パフラヴァ(インド・パルティア人)を滅する者」と称した。

 〜〜〜《余談》〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❒仏教のシルクロード伝播

 226年のサーサーン朝による支配の後も、パルティア人の孤立した領土が東方に残存した。
 2世紀から、中央アジアの仏教伝道師は中国の首都洛陽や南京で、仏典の翻訳活動によって有名となった。
 現在知られている限り、最初に仏典を中国語に翻訳したのはパルティア人の伝道師であった。
 中国ではパルティア人はパルティア(安息国)出身であることを表す「安」姓によって識別された。

 シルクロードを通じて仏教は陸路により中国にもたらされた。
 この仏教のシルクロード伝播が始まったのは2世紀後半もしくは1世紀と考えるのが最も一般的である。

 最初に中国の仏僧(完全に外国人)による仏典漢訳が行われたのは記録されている限りでは2世紀のことで、クシャナ朝がタリム盆地の中国の領土にまで伸長したことの結果ではないかと考えられている。
 世紀以降、法顕のインド巡礼(395年〜414年)やそれに次ぐ玄奘のインド巡礼(629年〜644年)にみられるように、中国からの巡礼者たちが原典によりよく触れるために、彼らの仏教の源泉たる北インドへと旅をするようになった。
 仏教のシルクロード伝播は中央アジアでイスラームが興隆する7世紀ごろに衰え始めた。

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 ▶クシャーナ朝

 紀元前1世紀前半に大月氏傘下には貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)の他に四翕侯があったが、カドフィセス1世(丘就卻)が滅ぼしてクシャーナ朝を開いた。
 カドフィセス1世は、カブーリスタン(カブール周辺)とガンダーラに侵攻し支配域とした。
 その子供のヴィマ・タクトの時代にはインドに侵攻して北西インドを占領した。
 カニシカ1世の時代には、ガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となった。
 カニシカ1世はパルティアと戦って勝利を収めた。

 ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。
 サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。

 ▶サーサーン朝

 イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国(226年〜651年)。
 首都はクテシフォン(現在のイラク)。
 ササン朝ペルシアとも呼ばれる。

 サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。
 更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサスと中央アジアまで広がっていた。

 特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。

 サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。
 サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。
 サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ、アフリカ 、中国、インドを含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた。
 ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた。

 サーサーン朝の起源は不明な点が多い。
 サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。
 サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。
 アルダシールの父親バーバク(パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。
 彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。
 そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。

 アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原諸国を次々制圧した。
 同年4月にホルミズダガンの戦い(英語版)でパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。
 この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認した。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝・トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

 以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。
 アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。
 244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス(英語版)などの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。
 そして、新皇帝フィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。
 後に皇帝ウァレリアヌスが再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いで皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。
 そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。

 ◆王位継承問題と弱体化

 シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。
 バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。
 絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教・仏教・キリスト教などの排斥を進めた。
 マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。

 バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。
 既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。
 しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。
 バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。
 ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。

 ◆統治体制の完成

 その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。
 シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。
 こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。
 少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。
 シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。
 また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。
 ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦いで侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。
 東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。

 対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。
 また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。
 こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

 ◆中間期

 バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。
 バハラームの死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。
 友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年にセレウキア公会議が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。

 ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後バハラーム5世が即位した。
 バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。
 亡命者を巡ってサーサーン朝・東ローマ帝国テオドシウス朝間で交渉が持たれたが決裂。
 422年にローマ・サーサーン戦争に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。

 ◆エフタルの脅威

 425年に、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。
 バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。
 428年にアルサケス朝アルメニア(英語版)が滅亡し、サーサーン朝アルメニアが成立。

 バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))の後、441年に相互不可侵の約定を結んだ。
 443年に、キダーラ朝(英語版)との戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。
 東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦いで勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。

 ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。
 ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年に世を去った。
 彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。

 458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家の王女が夫Varskenに殺害された。
 エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王ヴァフタング1世がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプを派遣したが、ヴァハン・マミコニアンが蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。

 ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。
 旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い》。
 485年にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアのマルズバーンに指名される。

 488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年〜496年、498〜531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。
 しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。
 幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。
 同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォンに立てられた。
 カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

 502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。
 この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年〜628年)の始まりであった。
 526年に、イベリア戦争(526年〜532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝連合軍との間で行なわれた。
 530年、Battle of Dara、Battle of Satala。
 531年、Battle of Callinicum。

 ◆最盛期

 カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年〜579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。
 ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。
 とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。
 一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。

 一方、東ローマ帝国ではキリスト教学の発展に伴う異教排除が進み、529年にはユスティニアヌス1世によってアテネのアカデミアが閉鎖された。
 ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。
 それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティアがキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。
 この結果、(ギリシア語、ラテン語)の文献が多数翻訳された。

 ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。
 宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。
 『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。
 現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。

 タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期ペルシア語)訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語のシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン(ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان‎、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である)。

 5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。

 ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。
 ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。
 一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。
 569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年〜591年)を引き起こした。

 ◆滅亡

 ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバフラーム・チョービーンの反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。東ローマのマウリキウスの援助で反乱を鎮圧したが、602年に東ローマの政変でマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にクーデターでヘラクレイオスが帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。

 連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年にはシリアのダマスカス、シリア、翌614年には聖地エルサレムを占領した(エルサレム包囲戦)。
 この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。

 615年にエジプト征服(英語版)が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)が起こった。
 621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ逃亡を計ろうとした。

 しかし、622年にカッパドキアの戦い(英語版)でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。
 サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。
  627年に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。
 ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。

 カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱)。
 長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。
 そこに新興の宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。

 アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。
 633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。
 翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。
 しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ(正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。
 クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。

 641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラ、クーファから軍勢を招集する。

 642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。
 敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。
 ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴへ逃れた。
 しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。
 東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、
 さらに唐の助勢を求め、自らが長安まで赴いて亡命政府を設立したが、成功することはなかった。
 『旧唐書』には大暦6年(771年)に唐に真珠を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。

 サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラム共同体(帝国)が世界帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『多情仏心』

2023-09-21 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『多情仏心』【四字熟語】

 【読み方】

 たじょうぶっしん

 【意味】

 感情が豊かで移り気だが、薄情にはなれない性質のこと。

 【語源・由来】

 もともと人や物事に対して情けの多いことが仏の慈悲の心につながるという意味。

   ❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅❅

 優柔不断でもなければ、意志薄弱でもなく、かと言って意志堅固に成りきれない曖昧さがある。
 その言葉は如何なるものか。

   ✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼✼

 関連項目 ー 多情仏心(小説) ー

 多情仏心(たじょうぶっしん)

 里見弴(とん)の長編小説。
 1922年(大正11)12月から翌年12月まで『時事新報』に連載、24年4月(前編)および8月(後編)新潮社刊。
 自分の「一生の仕事」を、「本気で惚(ほ)れ、女にも本気で惚れさせることだった」と確信する弁護士藤代信之(ふじしろのぶゆき)が主人公。
 多彩な女性遍歴を重ねながらも、真心を尽くして生きてきたと自負する彼は、関東大震災の日の明け方に、「心からしたいことをする分には、何をしたつていゝのだ」と言い遺(のこ)して安らかな臨終を迎える。
 「多情乃(すなはち)仏心」という句に想を得て、作者のいわゆる「まごころ哲学」=「誠実至上主義」を具象化し、強引と思われるほど縦横に展開した作品。
 2000枚に及ぶ大作で、大正末年の享楽的な風俗描写が生彩を放っている。 『「多情仏心」(新潮文庫)』

 《里見 弴(さとみ とん)》

 1888年(明治21年)7月14日〜1983年(昭和58年)1月21日)
 日本の小説家。
本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。
 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。
 人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。
 日本芸術院会員。文化勲章受章。



 《来歴》

 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。
 生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。
 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。
 同高等科 (旧制) を経て東京帝国大学文学部英文科へと進むが、程なくして同校を退校し、バーナード・リーチにエッチングを教わる。
 1910年(明治43年)4月、志賀直哉や武者小路実篤らが創刊した雑誌『白樺』に2人の兄と共に同人として参加した。
 ペンネームの里見は、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったとしている。
 志賀の手引きで吉原などで遊蕩し、父母に強硬に許しを請い、大阪の芸妓・山中まさと結婚した。
 その経歴が『今年竹』『多情仏心』などの代表作に現れている。
 志賀の『暗夜行路』冒頭に出てくる友人・阪口は、弴がモデルである。
 1914年(大正3年)には、志賀とともに松江で暮らし、このことを志賀は『暗夜行路』に、弴は『今年竹』に生かしている。
 1914年(大正3年)、夏目漱石の依頼を受けて『母と子』を朝日新聞に連載。

 1915年(大正4年)、『晩い初恋』を中央公論に掲載して本格的に文壇デビュー、翌年同誌に『善心悪心』を発表、弴の初期の代表作とされ同年、同名の短編集を刊行、祖母・静子に献じる。
 1917年(大正6年)、『新小説』に『銀二郎の片腕』を発表する。
 1919年(大正8年)、時事新報に『今年竹』を連載するが中絶、のち完成させる。この年、吉井勇、久米正雄らと雑誌『人間』を創刊した。
 1920年(大正9年)、『桐畑』を國民新聞に連載する。
 1922年(大正11年)から翌年大晦日まで、『多情仏心』を時事新報に連載した。  
 同年、兄・武郎の心中事件があり、弴は「兄貴はあんまり女を知らないからあんなことで死んだんだ」と言ったという。
 1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで、武郎の心中事件を中心とした長編『安城家の兄弟』を3部に分けて発表する。1932年(昭和7年)より6年間、明治大学文芸科教授を務めた。
 1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる賭博事件が浮上。
 同年11月17日、警察に妾(出典ママ)や書店経営者と麻雀をしていたところに踏み込まれて検挙された。
 菊池寛のとりなしで翌日釈放され、罰金刑を受ける。
 1940年(昭和15年)、菊池寛賞(戦前のもの)を受賞した。
 1945年(昭和20年)、川端康成らと鎌倉文庫創設に参加、1947年(昭和22年)、日本芸術院会員となる。
 1952年(昭和27年)、『道元禅師の話』を連載、1954年(昭和29年)、十五代目市村羽左衛門の出生の秘密に触れた『羽左衛門伝説』を毎日新聞に連載した。
 1956年(昭和31年)、短編集『恋ごころ』で読売文学賞を受賞する。

 終生鎌倉に住み、鎌倉文士のまとめ役だった。
 その縁で戦後は大船の撮影所にもよく出入りし、小津安二郎監督とも親しく小津と組んでいくつかの映画の製作にもかかわった。
 1958年(昭和33年)の『彼岸花』は小津と野田高梧の依頼を受け、映画化のために書き下ろしたものである。
 四男の山内静夫は松竹の映画プロデューサーであり、この映画の製作も務めた。
 弴は舞台への造詣も深く、その縁から歌舞伎、新派、文学座など、原作や戯曲も多く提供し、また演出も行った。
 代表作に花柳章太郎の当たり役(花柳十種のひとつに選ばれている)となった『鶴亀』(脚色:久保田万太郎)などがある。
 1959年(昭和34年)、文化勲章を受章する。
 1960年(昭和35年)、『秋日和』を発表、同年小津安二郎監督により映画化されている。
 1961年(昭和36年)に『極楽とんぼ』、1971年(昭和46年)に『五代の民』で2回目となる読売文学賞を受賞した。
 1971年(昭和46年)、志賀直哉の葬儀に際し弔辞を読み上げた。
 1983年(昭和58年)1月21日に肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で亡くなったが、二十四節気の大寒にあたる命日は「大寒忌」と呼ばれている(文学忌)。 2000年4月、四男の静夫が武郎、生馬、弴の「有島三兄弟」の父の故郷である鹿児島県川内市に弴の小説の原稿や書、水彩画など354点の関係資料を寄贈した。 
 資料には、有島家を題材にした「安城家の兄弟」や「風炎」の原稿、明治時代の通信簿や父の有島武が書いた「結納書」が含まれていた。
 これらの資料を中心に展示する「川内まごころ文学館」は2004年に開館し、1月30日の開館式には、有島三兄弟の子からひ孫まで約30人が出席した。

 〔ウィキペディアより引用〕



 関連項目 ー 腐れ縁 ー

 「別れたり復縁したりを繰り返している」「気付いたら、連絡を取り合ってしまう」……そんな恋愛関係の「腐れ縁」に悩んだ経験はありませんか。
 腐れ縁は、ある意味ふたりを結び付ける「運命」のようにも考えられますが、場合によっては、良縁ではなく悪縁になってしまう可能性もあるでしょう。
 今回のセキララゼクシィでは、恋愛コラムニストのトイアンナさんによる監修の下、「腐れ縁カップル」の特徴や「悪い腐れ縁」を断ち切る方法についてご紹介します。
 腐れ縁に悩んでいる人は、ぜひ参考にしてみてください!

 ▶腐れ縁の意味。どんな関係が腐れ縁なの?

 そもそも「腐れ縁」とは、どんな意味があるのでしょうか。
 国語辞典で調べると、腐れ縁は「離れようとしても離れられない関係」「好ましくない関係を批判的・自嘲的に言う」といった内容がつづられていました。
 腐れ縁という言葉は、好ましくないけど続いている関係を表現しており、ちょっとネガティブな意味を持つ語のようです。
 しかし、一般的に「腐れ縁」と言うとき、悪縁を表現するだけでなく、良い関係性を表す場合もあります。
 例えば、仲の良い幼なじみや同級生同士などの間で「子どもの頃からの腐れ縁で、お互いをよく知っている」といった使い方をすることもありますね。
 腐れ縁には、「意に反しダラダラと続いているマイナスな関係」と、「縁が続くことで互いにプラスになっている関係」という2つのケースがあるでしょう。

 ▶恋愛における「腐れ縁カップル」の特徴

 では、恋愛において「腐れ縁の関係」とはどのようなものなのでしょうか。
 その特徴をまとめてみました。

 ◆幼なじみや元同級生

 が近所の幼なじみや元同級生などは、昔から付き合いがあり、気心が知れているので、一緒にいると安心感のある存在。
 地元に共通の知り合いが多かったり、家族同士が親しくしていたりなど、人間関係が密なゆえに、良い意味でも悪い意味でも、縁が長続きしやすい関係といえます。

 ◆過去に付き合ったことのある元恋人

 過去に付き合っていた元恋人と、別れてから度々会う人もいます。
 やはり、一度でも愛した人というのは、特別な存在。
 求められると、情に流されることもあるでしょう。
 しかし、このような関係は、どちらか一方が割り切れない想いを抱えていることもあるようです。

 ◆なぜか憎めない存在

 腐れ縁カップル」は、互いに相手を憎めない存在として感じている場合があります。
 昔なじみで相手のバックボーンをよく知っていたり、過去の良い思い出を共有していたりするため、多少のいざこざは許し合えます。
 そのため、一緒にいるのが心地いいのかもしれないですね。

 ◆別れたりくっついたりを繰り返す

 「いい人ができたら本当に別れたい」とか言いながら、別れと復縁を繰り返すケースがあります。
 寂しいときに甘えられたり、愚痴を言いたいとき気軽に話しやすかったりするため、そうした行動を取ってしまうのです。
 その相手と一緒にいて、居心地がよく、ポジティブな気持ちになれるなら良いですが、「なぜか疲れる」「マイナスな感情になる」などネガティブな気持ちになる場合は、注意が必要ですね。

 ◆依存し合ってる

 孤独感を紛らわすために会っていたり、体の関係だけがダラダラ続いていたり、愛情がないのにもかかわらず利害関係だけでつながっているカップルもいます。
 「今楽しければいい」「今寂しくなければいい」といった短絡的な考えで一緒にいるため、互いに成長がありません。時間ばかりが過ぎていき、残るのはむなしさだけということも……。

 ◆別れる理由がないから付き合っている

 感情的に似ているために誤解されがちですが、「これまで大事にしてもらった恩があるから付き合っている」というのは「腐れ縁」ではありません。
 この違いは「もっといい人から告白されたら、別れるかどうか」です。
 トイアンナさんいわく「100%腐れ縁になってしまったカップルは、付き合う理由を失っている」そうです。
 そのため、新しい恋愛対象が出てきたら結婚一歩手前でも別れるリスクをはらんでいます。
 それに対して、これまでの恩を感じているカップルは、新しい候補が出てきても今の恋人を手放すことはしません。
 そこには恋心がなくても長く時を共に過ごしたことで培われた愛情があるからでしょう。

 ▶自分にとって悪い腐れ縁を断ち切る方法

 100%の腐れ縁は、要するに「自分にもっといい人が現れなかったときのキープ」として今の恋人を維持しているだけの関係。
 ですが、その相手がいるだけでも周りからは「なんだ、恋人がいるならアプローチは諦めよう」と思われてしまいます。
 「保険」として恋人とお付き合いしているはずが、むしろ素敵な相手とお付き合いするチャンスを失っている可能性大です。
 しかし、思い切って行動すれば、その先には新しい未来が待っているはず。
 ここでは「悪縁」を断ち切るための方法をいくつかご紹介します。

 ◆腐れ縁の相手との将来を、真面目に想像してみる

 「周りからこの人にしときなよって言われるし」「もうXX歳だし」と、自分の気持ちと関係ない理由でキープしているなら、一度冷静になってみましょう。 あなたはこれからその人と結婚して、子どもが欲しいと思ったときに一緒に育てる覚悟はありますか。その人が要介護になったとき、オムツを変えることはできますか。相手が経済的に不安定な状態になったとき、屋台骨となって家を支えられますか。 リアルに子育てや介護の想像ができないなら、腐れ縁を断ち切る時期かもしれません。 一度、相手と何十年も続く日常生活に耐えられるかを想像してみてください。そこで「ひとりの方がマシ」と思ったら、腐れ縁を切るべき時です。

 ◆他の人とデートに出掛ける

 ●もし、他に当てがあるのなら、別の人とデートをしてみましょう。 「新しい恋は面倒」という気持ちがあるかもしれませんが、新たな出会いは、腐れ縁の相手について考える時間を減らし、新鮮な気持ちを思い出させてくれます。 悪い腐れ縁の相手とばかり会っている状況は、いわば「換気のできていない部屋に引きこもっている状況」と似ています。空気を入れ替えるためにも、新しい出会いに積極的になれるといいですね。

 ◆連絡を取れないようにする

 体の関係だけしかない、相手の都合に振り回されているなど、腐れ縁の相手が自分にとって害でしかない存在であれば、思い切ってLINEを非表示やブロックにしたり、連絡先ごと消してしまいましょう。
 自ら連絡手段を断ち切ることで、自分の人生を前向きに生腐れ縁の相手との「思い出の品」を断捨離するのも、縁を断ち切るために重要な行動です。
 思い出の品が素敵な未来を連れてきてくれるわけではありません。
 過去の楽しかった日々の思い出は胸の中にしまい込み、区切りを付けてこれからの自分のために行動しましょう。
 自分の時間を充実させるきる決意の一歩を踏み出すことができるかもしれません。

 ◆思い出の品をすべて処分する

 腐れ縁の相手との「思い出の品」を断捨離するのも、縁を断ち切るために重要な行動です。
 思い出の品が素敵な未来を連れてきてくれるわけではありません。
 過去の楽しかった日々の思い出は胸の中にしまい込み、区切りを付けてこれからの自分のために行動しましょう。

 ◆自分の時間を充実させる

 相手のことを考える時間を減らし、依存状態から脱出するためには、「自分と向き合う」ことが最も大切かもしれません。
 難しいことですが、理想の自分に一歩でも近づくために、必要な行動は何かを考え、それに没頭してみましょう。
 仕事に集中したり、ひとりで旅行などに出掛けてみたり、新しい趣味を始めてみたりするのもいいかもしれないですね。

 ◆引っ越しや留学など、物理的な距離を取る

 悪い腐れ縁の相手が近所に住んでいたり、家族や友人とも親しかったりすると、なかなか関係を断ち切ることが難しいかもしれません。
 そういう場合は引っ越しや留学をするなど思い切って「物理的に距離を取る」というのもありです。
 環境を新しくすることで、ポジティブな気持ちになれ、相手に対する依存感情から抜け出せるかもしれません。

 〔情報元 : セキララ・ゼクシィ〕


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 『多情仏心』 作詞 さだまさし

 誰がとばしたか竹蜻蛉

 横風に追われて

 あなたとの愛みたいに

 うしろ向きに落ちた


 誰がとばしたか シャボン玉

 あき風に追われて

 あなたとの愛みたいに

 すぐはじけて消えた

 〔情報元 : Uta-net〕



ダカーポ ♯011

2023-09-20 21:00:00 | 日記

 ■暗証番号及びパスワード

 暗証番号または個人識別番号
 (英: personal identification number, PIN)
 システムと使用者の間で共有する秘密の番号パスワードであり、そのシステムでの使用者の認証に使われる。
 稀に個人認証番号ともいう。

 私達、日常的に否応なく目にする“暗証番号”必要不可欠のこの御時世。

 せめて銀行を利用する際の暗証番号だけは、必死に覚えなければならず、困ったもんだ(自分自身)。

 たかが4桁、されど4桁。

 そもそも、銀行やクレジットカードの暗証番号はなぜ4桁なのか。

 4桁の数字の組み合わせは、0000から9999の1万通りしかなく、利用者が増えれば同じ暗証番号の人が多く存在することになる。
 一つずつ試してみても当たりそうな数だし、コンピューターにやらせればあっという間に終わりそうだ。
 貴重なお金を守るには、あまりにも脆弱(ぜいじゃく)にみえる。

 『暗証番号はなぜ4桁なのか?』の著者で中央大学教授の岡嶋裕史さん(50)は「人間の記憶能力とリスクとのバランスだろうが、4桁とした論理的な理由はなく、『えいやっ』と決められたものだ」と話す。

 英国の大手銀行バークレイズが休日にもお金を引き出せるようにしようと、世界初のCD(現金自動支払い機)を世に出したのは1967年のこと。
 このときに採用された暗証番号が4桁だった。
 開発に携わったジョン・シェパードバロンが、暗証番号を4桁とした理由をBBCの取材に語っている。
 「はじめは6桁にしようと思ったが、妻が4桁までしか覚えられないといったので……」

 アルファベットを交ぜると、すべてのCDにキーボードを取り付けなければならないが、番号であればテンキーで事足りる。
 さらに数字4桁だと誕生日をあてればいいこともあり、忘れない番号として広く使われるようになったという。
 「キャッシュカードを持っていることで本人と識別し、正しい暗証番号を入れることで本人のものだと認証する。
 セキュリティーは基本的にこの識別と認証の組み合わせだ」と岡嶋さんは説明する。

 たとえば家の玄関や自動車は、鍵を持っている人を本人と識別するだけの仕組みだから、盗んで対象を特定できれば家に入ったり車を動かしたりできる。
 一方、キャッシュカードを盗んだり拾ったりしてATMに入れても、暗証番号という本人認証をくぐり抜けなければ、お金を引き出すことはできない。

 この本人の識別・認証の仕組みに衝撃を与える出来事があった。
 キャッシュカードの磁気情報をスキミングしてつくった偽造カードで預金を盗まれる事件が相次いだのだ。
 2005年、ゴルフ場のロッカーとキャッシュカードの暗証番号を同じにしている人が多いことに目をつけた犯行を重ねたグループが逮捕された。
 被害者が気づくのは預金が引き出された後で、心当たりもないのだが、銀行は本当に本人が引き出したのかもしれず補償はしてくれない。
 そんな銀行の対応に批判が集まり、被害額を原則として銀行が補償する「偽造・盗難カード預貯金者保護法」が成立した。
 日本銀行で当時この問題に取り組んでいた京都大学教授の岩下直行さん(60)は1990年代後半から、キャッシュカードの磁気テープと4桁の暗証番号の脆弱性を指摘し、安全性向上を訴えてきた。
 「事件をきっかけに銀行はICカードや生体認証の導入を進め、ATMの引き出し限度額を1日50万円に引き下げた。
 犯人にとって『割に合わない』犯罪となり被害が激減した」と解説する。

 「銀行は窓口で通帳と印鑑による本人認証を続けてきたが、人件費削減のためもあり導入を進めたATMのシステムが30年たってほころびが出始めた時期の事件だった。
 暗証番号は4桁のままだが、ワンタイムパスワードなどが導入され、安全性は増した」という。
 ワンタイムパスワードとは、ネットバンキングの振り込みなどで必要になる認証システムだ。
 カードやスマホのアプリなどにパスワードが表示される。
 カードやアプリには時計と預金者固有の「秘密鍵」が入っている。
 表示されるランダムな数字を打ち込むと、入力した時間とともに記録される。
  銀行側はその人が持っている秘密鍵を把握しており、打ち込まれた数字と時間の組み合わせが正しいか判断して本人認証が完成する。
 だから、そのカードが盗まれて他人が使ったとしても、秘密鍵が異なるのでお金を盗むことはできない。

 進化を遂げる本人の識別・認証の仕組みだが、岡嶋さんと岩下さんは「お金の世界だけではない」と口をそろえる。
 岡嶋さんは「本人確認とは『自分が自分だ』という根源的な主張ともいえる。
 昔は存在を認めてもらえる共同体の中で生きていたが、人の移動が盛んになり、さらにネット社会となったことで、知らない人に自分を認めてもらうのに時間がかかるようになった。
 それを素早く終わらせるのが、識別と認証のシステムだ」と語る。

 岩下さんも「ネットの世界では打ち込んでいるのが人間かロボットか、なりすましか区別がつかないので、自分が自分と証明するのは重要だ。
 メールアドレスなどとパスワードでログインするグーグルやフェイスブック、ツイッターが、別のメールアドレスや電話番号などの登録を求めてくるのは、リアルな人間とひもづける努力だ」としたうえで、こう指摘する。

 「ネットの世界では、リアルな人間とひもづける手段がパスワード、つまり自分しか持っていない鍵だ。
 リアルの限られた社会からバーチャルのネット空間が拡大することで、財産を守るものから、自分が自分と証明するものへ、と鍵の存在意義が変わったといえる」

 〔情報元 : 朝日新聞/GLOBE+〕

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 一般に使用者がシステムを利用する際、公開の使用者識別子(ID、トークン)と秘密のPINの入力を要求される。
 ユーザーIDとPINを受け付けると、ユーザーIDに対応するPINを参照し、それを受け付けたPINと比較する。
 入力した番号とシステム内に格納されている番号が一致した場合のみアクセスが許可される。

 PINが最も多く使われるのはATM利用時だが、デビットカードとクレジットカードの形でPOSの信用照会でも、利用が広がっている。

 ヨーロッパでは、クレジットカード利用時に署名するという従来からの方法から、代わりに信用照会端末でPINを入力するという方法に置き換わりつつある。
 イギリスとアイルランドでは、EMVというICカードの規格と共に、PINが導入されたため、この方式を 'Chip and PIN' と呼ぶ。
 それ以外の世界各地では、EMV導入以前からPINが使われていた。
 金融以外の分野では、GSM携帯電話で、利用者が4桁から8桁のPINを入力できる。
 このPINはSIMカードに記録される。 2006年、暗証番号の発明者と言われる James Goodfellow は、大英帝国勲章 (OBE) を授与された。

 金融関係ではPINは4桁の番号、つまり 0000 から 9999 であることが多い。
 すなわち1万種類の番号がありうる。
 しかし銀行によっては、同じ数字だけの番号(1111、2222など)や連続する数字(1234、2345など)や利用者の誕生日や0から始まる番号を許さない場合もある。
 システムにPINを入力する際、3回まで試行できることが多く、盗んだカードをブロックされずに正しいPINを入力して使える確率は0.06%である。
 もちろんこれは全ての番号が同じ確率で、犯人が何の情報も持っていない場合であって、かつてのPIN運用方法ではそうはいかなかった。
 2002年、ケンブリッジ大学の大学院生 Piotr Zieliński と Mike Bond は、IBM製ATM IBM 3624 でのPIN生成システムのセキュリティ上の欠陥を発見した。
 このATMの方式はその後の装置の多くでそのまま採用されていた。
 その方法は decimalization table attack と呼ばれ、銀行のコンピュータシステムにアクセス可能であれば、カードのPINを平均15回の推測で特定できる。

 携帯電話のPINを3回入力ミスすると、サービスオペレータが提供する個人ブロック解除コード (PUC) を入力するまでSIMカードがブロックされる。
 PUCを10回入力ミスすると、そのSIMカードは完全にブロックされ、新たなSIMカードに交換してもらうしかなくなる。

 ◆パスワード
 (英: password)

 一般的に合言葉を指すが、特にコンピュータ関連で使用する場合は、特定の機能・権限を使用する際に認証を行うために入力する文字列(文字・数字・記号等の組合せ)を指す。
 利用者の名前(ユーザー名)とパスワードの組み合わせが事前に登録されたものと一致するとコンピューターやサービスを利用できるようになる。

 パスワードのうちで、数字のみで構成される文字列を暗証番号(PIN)という。
 金融機関のATMや携帯電話の本人確認で利用される。

 文字列の長さが数十文字以上と長いパスワードのことを特にパスフレーズと呼ぶことがあり、高いセキュリティが必要なシステムで用いられる。

 多くのシステムでは、パスワードに用いることのできる文字はアルファベット(ラテン文字)26文字(大文字・小文字が区別される場合は52文字)、アラビア数字10文字、
 +(プラス記号)、
 -(マイナス記号)、
 /(スラッシュ)、
 !(感嘆符)、
 "(二重引用符)、
 #(ナンバー記号)、
 |(バーティカルバー)、
 _(アンダースコア) などの記号に限定されているが、マルチバイト文字を用いることができるものもある。

 ◆生体認証

 バイオメトリック(biometric)認証あるいはバイオメトリクス(biometrics)認証とも呼ばれ、人間の身体的特徴(生体器官)や行動的特徴(癖)の情報を用いて行う個人認証の技術やプロセスである。

 生体認証では、通常「テンプレート」と呼ばれる情報を事前に採取登録し、認証時にセンサで取得した情報と比較することで認証を行う。
 単に画像の比較によって認証とする方式から、生体反応を検出する方式まで様々なレベルがある。
 暗証番号、パスワードや物による認証では、忘却や紛失によって本人でも認証できなくなったり、漏洩や盗難、総当り等の攻撃によって他人が認証される虞れがある。
 生体情報の場合はそれらの危険性が低いと一般には考えられている事から、手軽な認証手段(キー入力や物の携帯が不要)、あるいは本人以外の第三者が(本人と共謀した場合でも)認証されることを防止できる手段として、建物などの入口、キャッシュカードやパスポート(入出国時)などの認証手段に採用されている。
 しかし、広く一般に使用されるためには、怪我・病気・先天性欠損などによって生体認証ができない人々への対応も必要になる。
 また、経年変化によって認証ができなくなったり、複製によって破られたりする可能性がある。
 生体情報はパスワードのように任意に更新することができないため、一度複製により突破されてしまうと、同一の認証基盤ではもはや安全性を回復できなくなる、致命的な問題を持っている。現時点では実際に生体情報の複製や偽装に対する安全性が疑問視されている製品もある。

 生体認証では、原理的に、本人であるにもかかわらず本人ではないと誤認識してしまう「本人拒否率」(第一種過誤、偽陽性)と他人であるにもかかわらず、本人と誤認識してしまう「他人受入率」(第二種過誤、擬陰性)がトレードオフの関係にある。
 他人受入率を限りなく0にしようとすると本人拒否率も高くなってしまう[55]ため、一般的に実用化されている生体認証では他人受入率が0ではない状態となっている(第一種過誤と第二種過誤も参照)。そのため、銀行ATMなどでは生体認証と暗証番号を併用し、両方の入力を求めることによって高いセキュリティが確保されているとする。
 音声や筆跡など当人のその日の状態に依存する認証方法よりも、指紋、静脈、虹彩といった当人の状態に依存しない認証の方が精度が高いと言われているが、しかし、これらの認証方法を使ったシステムでもセキュリティ上疑問の残るシステムも出回っている。
 現時点では、これまでのパスワードなどの方法との併用が、現実的かつ安全・確実な手段である。

 数百円程度の費用で実現可能な攻撃方法も、複数知られている。具体的にはゼラチンやシリコンラバーで作った人工指で多くの指紋認証システムを通過できる。
 紙で作った人工虹彩で虹彩認証システムを通過できる可能性がある。
 簡易な顔認証では本人の写真で通過できるものもある。
 静脈認証システムでも、生体以外(大根で作った人工指)を登録できる装置がある。
 これらの問題には、例えば生体以外の物に反応しないように改善したり装置の精度を上げるなどの対応がなされているが、システムが高価になり、また認証技術開発者と脆弱性研究者とのいたちごっこの状態である。

 ❒指紋認証の場合は、残留指紋をゼラチンに写し取って人工指を作り、その人工指で認証を通過させる事に成功している。
 さらに、木工用ボンドを利用してスライド式の指紋認証を突破できる(ゼラチンではエリア型のみ)と日本の大学生が発表した。
 実システムに対して、指に特殊なテープを張って指紋の変造をし、指紋認証を突破した事件も発生している。

 ・2008年3月、高解像度の撮影画像から指の部分に写っている指紋を利用して、指紋を偽造することが可能であると、CCCと呼ばれるハッカー集団が発表した。
 こうした偽造に対処する方法も研究されている。

 ❒虹彩認証の場合は、虹彩画像を印刷した紙で偽証ができたという研究例が発表されている。

 ❒静脈認証の場合、2005年時点では、人工指をデータ登録して認証を通過させるという実験に成功しただけなので、誤認証が起こる危険があるとただちに言い切ることはできない。
 しかし、内部犯などが不正にデータを登録する可能性は否定できず、このようなケースで人工指のデータ登録がなされると、結果的に人工指で認証を通過できてしまうということになる。

 これらの突破方法の多くは、登録や認証の際に通常とは違った不自然な行動を伴うので、登録時や認証時の様子をつぶさに監視することで防げる場合もある。

 ・怪我や病気などによって、認証を受けられなくなってしまう危険がある。

 ・対象者が成長期にある場合、生体要素の形や大きさが変わってしまい、本人拒否率が上がってしまう。

 ・生体情報は基本的に生涯不変であるが故に、一度複製によって破られてしまうと同一の認証基盤ではそれ以降の安全性を回復できない。

 ・生体情報は基本的に生涯不変であり、個人情報としての取扱に問題が起こる(悪意のある管理者に個人が対抗できない。
 また、善意の管理者であっても機微情報であり取扱に相応の注意とコストを要求され、それはしばしば法令により強制される)。

 ただし、これらの指摘は必ずしも全ての生体認証技術に該当するわけではない。方式によっては元々問題とはならない物や、既に解決策が開発済みの物もある。

 ◆静脈認証

 人体の皮膚下にある静脈形状パターンの画像に基づいたパターン認識技術を使った、生体認証の一方式である。
 現時点では、指、手のひら、手の甲など、手首から先の部位を使ったものが主流である。
 静脈認証の主な事業者には、指の静脈を使った日立製作所、モフィリア、手のひらの静脈を使った富士通などがある。 NECも指の静脈を使った生体認証技術を有しているが、指紋認証の補完としての利用に限定しているため他社とは形態が異なっている。

 指、手のひらの静脈パターンは、指紋や虹彩などの他の生体(バイオメトリクス)データと同じように個々人でユニークである。
 同一個人であっても、すべての指、手のひらが異なるパターンを持っており、法則性がない。

 ❒利点

 ・本人拒否率や他人受入率といった、生体認証の性能を表す指標でもっとも高い数値を示す、もっとも精度の高い生体認証方式と言われている。

 ・他の生体認証システムと違って、体内の情報を使用するため、静脈パターンを偽造することはほぼ不可能とされている。

 ・乾燥、湿潤、荒れなど、手指の表面の状態の影響を受けにくい、安定した認証が行える。

 ❒欠点

 ・指紋認証などと比べて、認証機器がやや高額である。

 ・手袋や絆創膏をした手では、正常な認証が行えないことが多い。
 指輪をした場合や、手指の冷えなどで血流が減少して精度が落ちることがある。

 ・主な事業者がほぼ日本の企業に限定されていることもあり、日本以外の国々では知名度が低い。

 ◎日本での利用例

 ・多くの都市銀行、一部の地方銀行や新たな形態の銀行の現金自動預け払い機、アミューズメント施設のメダル預かりシステムで暗証番号とともに指ないし手のひらの静脈の形を読み取って本人確認を行う。
 なお、2020年代以降、銀行の生体認証機能付きICキャッシュカードおよびATMはサービス終了が相次ぎ、スマホATMへの代替が進んでいる。

 ・パーソナルコンピュータのログイン時に、専用機器を用いて認証を行う。

 ・日本赤十字では、献血者の本人確認のため、指静脈認証を(2014年5月14日、北海道から順次)採用している。

 ・住民基本台帳ネットワークシステムの職員認証

 ・飲食店でのポイントシステム

 ◎海外での利用例

 ・トルコ共和国の医療体制革新プロジェクト

   〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『守株待兎』

2023-09-19 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■守株待兎【四字熟語】

 【読み方】
 しゅしゅたいと

 【意味】
 いたずらに古い習慣やしきたりにとらわれて、融通がきかないたとえ。
 また、偶然の幸運をあてにする愚かさのたとえ。
 木の切り株を見守って兎を待つ意から。

 【語源・由来】
 中国春秋時代、宋の農夫が、ある日、兎が切り株にぶつかって死んだのを見て、また、同じような事が起こるものと思って、仕事もせず、毎日切り株を見守ってばかりいたので、畑は荒れ果て国中の笑い者になった故事から。

 【同義語】

 ・旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)
 ・刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)


 関連項目 ー 待ちぼうけ ー

 「待ちぼうけ」

 北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌(童謡)である。
 1924年(大正13年)に、満州唱歌の一つとして発表された。

 《歌詞》

 1.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 ある日せっせと、野良稼ぎ
 そこに兔がとんで出て
 ころりころげた、木の根っこ

 2.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 しめた。これから寝て待とうか
 待てば獲物が驅けてくる
 兔ぶつかれ、木のねっこ

 3.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 昨日鍬取り、畑仕事
 今日は頬づゑ、日向ぼこ
 うまい切り株、木のねっこ

 4.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 今日は今日はで待ちぼうけ
 明日は明日はで森のそと
 兔待ち待ち、木のねっこ

 5.

 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 もとは涼しい黍畑 いまは荒野(あれの)の箒草(はうきぐさ)
 寒い北風、木のねっこ

 関連項目 ー カーゴ・カルト ー

 カーゴ・カルト(cargo cult)

 主としてメラネシアなどに存在する招神信仰である。
 いつの日か、先祖の霊・または神が、天国から船や飛行機に文明の利器を搭載して自分達のもとに現れる、という物質主義的な信仰である。
 直訳すると「積荷信仰(つみにしんこう)」。
 近代文明の捉え方について独特の形態をとることが特徴である。

 《特徴》

 パプアニューギニアのマダン地区ボギア地方で起こったマンブ運動を研究した人類学者ケネルム・バリッジの著書『Mambu. A Melanesian Millennium』(1960年)などに基づくと、カーゴ・カルトの特徴は次のように整理される。

 ・カーゴの到来への期待と、その時が差し迫っていることを告げる預言。
 多くの場合、カリスマ的な指導者が超自然的な方法でメッセージを受け取り、それを預言として流布させる。

 ・カーゴの源泉は超自然的な領域(天国)にあると考えられており、カーゴはカーゴ神(カーゴを創造している超自然的存在)や先祖の霊と共に「汽船」で(内陸部の山岳地帯では「飛行機」で)到来(帰還)する。
 その際、多くのカーゴ・カルトでは、先祖は白人(白い肌をした存在)として戻ってくると考えられている。

 ・カーゴ・カルトのプラクシスとして、カーゴを受け入れるために、桟橋や滑走路が敷設されたり、倉庫や装飾された特別な建物が建設されたりする。
 沖合や上空を通過する船舶や飛行機を「おびき寄せる」ために、はりぼての「船」や「飛行機」を設置する。
 また、「カーゴ」の到来を促進するために、興奮状態(トランス状態)になって集団でダンスや歌を続けたり、放心状態となって海岸で水平線を見つめたりすることに専心する(それゆえ、日常のルーティンがすべて放棄され、村落の生活が荒廃してしまう)。
 さらに、たとえば集落の広場に整列して行進したり、盛装をしてテーブルについたりと、ヨーロッパ人の行動の模倣を行う。

 ・白人(ヨーロッパ人)がカーゴを独占しているのは、カーゴの獲得方法(ネイティブにしてみれば、それは超自然的な呪術的方法ということになる)を白人がネイティブに明かさないからか、もしくはもともとネイティブ向けに送られたカーゴを白人が不正な手段を講じて横領してしまったからであると、カーゴの分配についての不等な現状が説明される。

 《歴史》

 1919年、パプアニューギニアのガルフ地区に駐在していた行政官のもとへ、沿岸地域の村々で住民らが興奮状態にあるという報告が届いた。
 この報告によれば、村落に現れた先祖の霊が、カーゴを満載した大きな船で親族の霊が戻ってくるので、その受け入れ準備をするように告げ、指導者らはこれに従って歓迎の準備を命じ、白人と雇用契約を結んではならないと告げたという。
 住民の興奮状態は1920年5月22日付で沈静化した旨が記録されているが、この間には彼らが日常のルーティンを放棄したことで、生活は荒廃していったという。
 また、以後も同様の興奮状態が単発的に繰り返された。この後に人類学者F・E・ウィリアムズ(英語版)が行った調査の結果は、1923年に『ガルフ地区におけるヴァイララ狂信と土着儀礼の破壊』として発表された。
 これをきっかけに「ヴァイララ狂信(英語版)」(Vailala Madness)という言葉が広く知られるようになり、後にはカーゴ・カルトの典型とみなされるようになった。
 カーゴ・カルトという言葉が初めて使われたのは、雑誌『パシフィック・アイランズ・マンスリー』(Pacific Islands Monthly)の1945年11月号に掲載されたノリス・メルビン・バード(Norris Mervyn Bird)の論考においてである。  
 この論考では、カーゴ・カルトという概念とヴァイララ狂信を併置し、メラネシア各地で生じた類似の事例を包括する枠組みであるとした。

 人類学の分野で用語として定着したのは、ピーター・ワースレイの著作『千年王国と未開社会:メラネシアのカーゴ・カルト運動』(The Trumpet Shall Sound: A study of "cargo cults in Melanesia, 1957年)以後であり、これと同時に研究も本格化していくことになる。
 また、カーゴ・カルトを植民地状態から生じた社会的運動であったと初めて明確に主張したのもワースレイである。
 ワースレイはカーゴ・カルトを植民地主義的な経済的・政治的抑圧に対する未発達な形態の階級闘争、あるいは「異文化接触の合理的理解の運動」と位置づけたが、一方でさらに後年の研究においては、いわゆるカーゴ・カルトが政治的な組織と直接関係した事例は必ずしも多いわけではなく、またすべてのカーゴ・カルトが反植民地主義や反ヨーロッパ主義を特徴としたわけではないことが指摘された。
 例えば、バリッジが『Mambu』で取り上げたマンブ運動や、ピーター・ローレンス(英語版)が著作『Road Belong Cargo』(1964年)で取り上げたヤリ運動(英語版)は、ヨーロッパ人との関係を植民地状況においていかに再構築するかが目的であったとされる。
 ネイティブの信じる「同等性を原理とした互酬性の交換システム」において、ヨーロッパ人との不当な関係を解釈した場合、ヨーロッパ人と対等ではない以上は人間ではない、あるいは道徳的な欠陥を持つ存在となってしまう。
 そこで、ネイティブが持たないカーゴを獲得することが目的となり、ヨーロッパ人と対等の「新しい人間」存在へと変容するための運動が起こった。
 この中で対等者としての、いわば「聖㾗」を与える、両者を包括、あるいは超越した「新しい人間」の祖型としてマンブなる存在が創造され、これを信仰するマンブ運動が生まれた。
 1960年代の研究では、包括的な研究よりも、むしろ特定のカーゴ・カルトと土着の伝統的な信仰との類似性が注目され、こうした中でいわゆるカーゴ・カルトの多くは、ヨーロッパ人にとっては奇異に写ったものの、実態は従来の宗教儀式のバリエーションにすぎないと解釈されることも多くなった。

 ▼ジョン・フラム信仰

 バヌアツ・ニューヘブリデス諸島のタンナ島では、宣教師らが定めた規範を放棄し、伝統的な習慣に立ち戻ることによって、ジョン・フラムという人物から富がもたらされるという信仰がある。
 現在語られるところでは、ジョン・フラムが初めてタンナ島に現れたのは1939年であるという。
 彼の名は「ジョン・フロム・アメリカ」に由来するとも、白人や宣教師の影響を一掃する箒、すなわちブルームに由来するとも言われる。
 第二次世界大戦中に島民の多くがアメリカ軍の補助部隊に参加したこともあり、現在のジョン・フラム像にはアメリカ軍のイメージが重ねられている。
 そのため、戦後にはアメリカ軍のイメージを投影したシンボルや儀式が数多く考案された。
 また、イギリスのエジンバラ公フィリップをジョン・フラムの兄弟および積荷を積んだ飛行機の操縦者であるとして信仰の対象に含めている地域もある。

 《「カーゴ・カルト」概念に対する批判》

 カーゴ・カルト研究が進むにつれて、歴史性とイデオロギー性を背景とする「カーゴ・カルト」という概念自体の有効性が問題化されるようになった。
 そして、世界的なポストモダン的思潮の最中にあって、トーテミズムに対して行われたような、カーゴ・カルトに対する脱構築の試みが現れ始めた。

 カーゴ・カルトの典型とされるヴァイララ狂信について、実際にこれが存在した時代に研究を行ったのはウィリアムズただ1人で、以後の研究も彼の著作に依拠せざるを得なかった。
 しかし、「植民地政府お抱えの人類学者」であったウィリアムズの研究は、植民地行政にとって不都合で説明不能でもあるネイティブの事象を「ヴァイララ狂信」というカテゴリーに囲い込むことで、彼らを「病理を呈している患者」に仕立て上げ、植民地支配を可能にし、正当化したと批判される。
 批判者の中でも特に先鋭的な論調としては、例えばナンシー・マクダウェル(Nancy McDowell)が主張する、カーゴ・カルトなる概念は西洋人の偏見が作り出した虚構のメラネシア文化であり、現実にはそのような文化は存在しないというものがある。
 この主張においては、メラネシアの人々のこの信仰は、突如現れた旧来の常識では理解不能な異文明を、旧来の常識をもってどうにか止揚した彼らなりの解釈のしかたであり、この思考自体は何ら突飛なものではなく全世界普遍の反応であって「カーゴ・カルト」とは人類普遍の考え方の一部を切り出して名前を付けただけのものであるとする。

 1950年代には、カーゴにはシンボルとしての土着的な意味が備わっていて、土着人は対象とされる品物以上の、何か特殊な価値を求めているという解釈が既に語られ始めていた。
 カーゴ・カルトという概念が、植民地主義に対し生じたストレスやトラウマを根源とする多くの複雑かつ異なる社会的・宗教的運動全てを区別せず適用されてきたと批判する立場の人々は、信仰の目的はカーゴという物質的なものよりは、民族自決のように多用かつ不定形のものであったとする。ジョン・フラム信仰はカーゴ・カルトの典型とみなされることも多いが、バヌアツ文化センターの職員ジャン=パスカル・ワヘ(Jean-Pascal Wahé)は、しばしば語られる「座って助けを待つだけの物語」と、ジョン・フラムは無関係であると指摘する。ジョン・フラムは島民にとっての伝統の統一された象徴であり、外部からもたらされる変化ではなく、タンナ島民の文化的アイデンティティの象徴であるという。

 《類似信仰》

 ・オランダから植民地として圧政を受けていたオランダ領東インドの人々の間では、12世紀の王ジョヨボヨ(en:Jayabaya)が『バラタユダ』に書いた「北方から黄色い人間の軍隊が来攻、異民族支配を駆逐し、代わって支配するが、それはジャグン (トウモロコシ) 一回限りの短い間である」という予言が度々信じられており、1942年3月1日にオランダ領ジャワ島に上陸した日本軍はこの予言に重ねられて被支配層の人々から歓迎を受けた。
 インドネシアは独立後も似た様な予言が度々語られている。

 ・アステカ民族は1519年にやって来たスペイン人を、「一の葦の年(1519年)に復活する」と宣言してアステカを去った白い善神ケツァルコアトル(白い肌に黒い髪をしており生贄の儀式を嫌うという点にスペイン人が共通していた)と同一視したため、侵略を許してしまった。

 ・19世紀後半にアメリカで発生したゴースト・ダンスは、インディアンがアングロアメリカ人から抑圧された事で生まれた儀式である。
 パイユート族(英語版)の予言者ウォヴォカ(英語版)は、特定の形式で踊る事で先祖が鉄道に乗って帰還し、到来する新たな世界ではインディアンの自由とバッファローが復活し白人が抑圧される事になると説いた。

 ・現代のUFO信仰はカーゴ・カルトになぞらえられる。
 一部のUFO信奉者は近代兵器には宇宙人からもたらされた技術が用いられていると考えている。
 また一方でUFO信奉者自身もカーゴ・カルトの事例を古代宇宙飛行士説の説明に用いる。
 エーリッヒ・フォン・デニケンら古代宇宙飛行士説論者は上述の近現代における南太平洋のカーゴカルト信仰のような出来事が太古の地球においても宇宙人との接触によって引き起こされ、世界各地の神話や不思議な遺跡(オーパーツ)はその名残だと主張する。

 関連項目 ー まれびと ー

 まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。
 折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。
 まろうどとも。

 《概要》

 外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。
 その理由は経済的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれる。
 「まれびと」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者の折口信夫によって提示された。
 彼は「客人」を「まれびと」と訓じて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。
 折口のまれびと論は「国文学の発生〈第三稿〉」(『古代研究』所収)によってそのかたちをととのえる。
 右論文によれば、沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機となったらしい。

 常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。
 その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという。
 現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるという。
 まれびと神は祭場で歓待を受けたが、やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることになった。
 『万葉集』東歌や『常陸国風土記』には祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されている。
 さらに時代を降ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となった。
 来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。
 オーストリアの民族学者であるアレクサンダー・スラヴィクは、友人の岡正雄により日本における「まれびと信仰」の実態を知り、ゲルマン民族やケルト民族における「神聖なる来訪者」の伝説や風習と比較研究した。

   〔ウィキペディアより引用〕


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 『石狩挽歌』 作詞 なかにし礼

 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると

 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ

 雪に埋もれた 番屋の隅で

 わたしゃ夜通し 飯を炊く

 あれからニシンは

 どこへ行ったやら

 破れた網は 問い刺し網か

 今じゃ浜辺で オンボロロ

 オンポロポーロロー

 沖を通るは 笠戸丸

 あたしゃ涙で

 ニシン曇りの 空を見る



 燃えろ篝火 朝里の浜に

 海は銀色 ニシンの色よ

 ソーラン節に 頬そめながら

 わたしゃ大漁の 網を曳く

 あれからニシンは

 どこへ行ったやら

 オタモイ岬の ニシン御殿も

 今じゃさびれて オンボロロ

 オンボロボーロロー

 かわらぬものは 古代文字

 あたしゃ涙で

 娘ざかりの 夢を見る

 〔情報元 : Uta-net〕

■CTNRX的見・読・調 Note ♯003

2023-09-18 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(3)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷 ② ❖

 ▶オクサス文明

 バクトリア・マルギアナ複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex:略称BMAC)

 青銅器時代の紀元前2000年前後に、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン北部のアムダリヤ(オクサス)川上流部などに栄えた一連の先史文化を指す考古学用語である。

 インダス文明とほぼ同時代に高度の都市文化を発展させたことから「第五の古代文明」という意味でオクサス文明とも呼ばれる。
 発見は比較的新しく、研究途上にある。メソポタミアの文明やエラム文明、インダス文明など他の文化との関係、特にアーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目されている。

 バクトリア(アフガニスタン北部)、マルギアナ(トルクメニスタン)はいずれも遺跡が集中する地域のギリシア語名である。
 乾燥地帯であるが、川とオアシスを利用して古くから農業が行われた。
 バクトリア、マルギアナは現在のメルヴを中心とし、アケメネス朝ペルシア以降栄えた。

 BMACは、ソ連の考古学者ヴィクトル・サリアニディが発掘調査に基づき1976年に命名した。
 これは西側ではあまり知られなかったが、ソ連崩壊後1990年代に世界的に知られるようになった。
 代表的な都市遺跡としてはナマズガ・デペやアルティン・デペがある。
 住民は灌漑により小麦・大麦などの栽培を行っていた。都市や城塞の遺構のほかに、優れた金属器や、土器、宝石類、石の印章など様々な遺物が知られる。印章に見られる図柄はイラン南東部から出土した陶器や銀器によく似ている。
 マルグッシュ遺跡(ゴヌール・テペ)からはエラム文字と見られる銘文を彫った陶片が見つかっている。
 これらの遺跡の上下限年代は、放射性炭素年代測定によって紀元前2200年から1500年頃という数字が提示されている。
 この発展と没落の過程はまだよくわかっていない。

 BMACの遺物はこの地域だけでなくイラン東部、ペルシャ湾岸、バルチスタン、インダス川流域(ハラッパーなど)の広い範囲で見出されている。
 中心地はむしろアフガニスタン南部からバルチスタンにあったとする学者もいるが、今のところ同地方から本格的な規模の同文化に属する遺跡は一切発見されていない。

 イラク、イランやインダス地方とは盛んな交流が行われ交易圏を形成していたが、別の独立した文明という説と、メソポタミアやエラム文明からの移住地として始まったという説がある。
 東側では、土器などに関してガンダーラ墓葬文化(GGC:スワート(Swat)文化ともいう)との深い関係が考えられている。
 また同時期の北側では中央アジアの広い範囲に遊牧民のアンドロノヴォ文化が栄えており、これとの接触もあったようである。

 サリアニディはBMAC文化の起源についてアナトリアなどに由来する説を称えているが、イランのエラム文明に由来するとする説やイラクからインダス一帯の交易権圏の下で独自に発達したとする説、他にほぼ同時期のタリム盆地の先史文化と結び付ける説もある。

 この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。
 アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。
 またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、この文化は南から北へ拡大しておりBMACより北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。
 またサリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。
 またジェームズ・マロリーはヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。

 インド・イラン語派には印欧祖語やドラヴィダ語と異なる基層言語があるとの考えもあり、それがBMACの言語(単一ではなかったかもしれないが)ではないかと考える人もいる。
 現在ガンダーラ地方の近く(カシミール)に残っているブルシャスキー語も関係があるかもしれない。


 《 古 代 の 
  ア フ ガ ニ ス タ ン 》

 古代アフガン人は今日のアフガニスタンにおけるパシュトゥ語圏に居住し、言語分布の記録によるとパシュトゥ語はアフガニスタン北東部のジャラーラーバード北部から南方のカンダハール、カンダハールから西方のファラーおよびセブゼワールにわたる地域で話されていたとされる。
 この地域はインド、中東、中国、中央アジアの交通路であり、アフガニスタンはイラン、インド、中央アジアの文化から影響を受けることになる。

 ▶前期ヴェーダ時代

 『リグ・ヴェーダ』によると紀元前12世紀頃に十王戦争が起こり、アフガニスタン東部からパンジャブで勢力を伸ばしていたスダース王が率いるトリツ族とバラタ族に、ヴィシュヴァーミトラが率いる十王の連合軍(プール族など)が攻め込んだが、逆に敗北して覇権を握られた。
 後にバラタ族とプール族は融合してクル族となりクル国を建国し、支配階層を形成した(カースト制度)。

 ▶後期ヴェーダ時代

 全インド(十六大国)を征服すると「バーラタ(バラタ族の地)」と呼ぶようになった。
 『マハーバーラタ』によると、クル族の子孫であるカウラヴァ王家はその後内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北すると衰退していった。
 この頃インドで十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝に支配されるようになり、他のインドの国々と全く異なったアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。

 ▶メディア王国

 メディア王国
 (Media、古代ギリシャ語: Μῆδοι, Mêdoi、古代ペルシア語: 𐎶𐎠𐎭, Māda、アッカド語:Mādāya)

 かつて存在した古代イランの王国である。
 メディア地方は現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域であり、前1千年紀にはインド・ヨーロッパ語を話す人々が居住するようになっていた。
 この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。
 メディア人は当時の西アジアの大国アッシリアの記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。

 主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。
 前550年にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)のクル2世(キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。

 名称と語源という現代の名称はギリシア語の史料に登場するメーディアー(Μηδία / Mēdía)に由来する。
 古代ペルシア語ではマーダ(Māda)という語形でハカーマニシュ朝(アケメネス朝、前550年頃-前330年)時代の碑文に登場する。

 元々の語義は不明であり、名称の由来についても確実な説はない。
 ポーランドの言語学者ボイチェフ・スカルモフスキはマーダという語はインド・ヨーロッパ祖語の*med(h)(「中心」、「中央に位置する」の意)に関連しているとしている。
 彼の推定は同様の意味を持つ古インド語(サンスクリット)のmddhya-、アヴェスター語のmaidiia-を参考にしたものである。
 一方、ロシアの歴史学者ディアコノフはメディア(マーダ)がインド・ヨーロッパ語に由来するかどうかはっきりしないとしている。

 ヘロドトスが伝える古代ギリシアの伝説ではメディアという名称は人名から来ている。

 メディア人部隊もペルシア人と同じ装備で遠征(ペルシア戦争)に加わった。
 もともとこの装備の様式はメディアのものであって、ペルシアのものではない。
 メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族なるティグラネスであった。
 メディア人は昔からもアリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女メディア(メーデイア)がアテナイを逃れてこのアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。
 これはメディア人自身が自国名について伝えているところである。

  —ヘロドトス、『歴史』、巻7§62

 ここに登場するアリオイ人はいわゆる「アーリヤ人(アーリア人)」に対応する名称であり、元来はメディア人のみならずイラン高原に住む諸族の通称である。 
 しかし、語源とされる人物メディアはギリシア神話に登場する魔女であり、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして失敗しアリオイ人の下へ逃れたとされている。
 このため、ヘロドトスの伝える伝説は名称の類似に依ったギリシア人による創作と考えられ、メディア人自身の伝承であるという彼の証言も疑わしい。

 また、バビロニアの史料ではメディアは時にウンマン=マンダと呼ばれている。

 ◆メディア人の登場

 メディア人は古代イランに登場するインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派の言語(メディア語)を使用した人々である。
 ある時期にイラン高原に侵入し、その北西部(現代のハマダーン州)周辺の地域に定着したとされる。
 イラン高原にはメディア人の到来以前にフルリ人や「グティ人」等、様々な言語を話す住民が居住していた。
 ここにインド・ヨーロッパ語を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀の中頃までにはイラン高原に到達していた。
 彼らの中からメディア人やペルシア人など、後世のイラン世界の基層を成す人々が登場する。
 現在知られる限り、メディア人の言語であるメディア語は筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史についての記録はギリシア人の文筆家(特にヘロドトス)による記録や『旧約聖書』における言及、そしてアッシリア人が残した断片的な楔形文字文書に限られ、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。

 「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年または前834年のことである。
 アッシリア王シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスクに残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarḫar)という土地に攻め入った。
 このアマダイはメディアを指す。
 前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。
 およそ100年後のティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(Madai)を攻撃し略奪したことが記されている。
 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である。

 同じ頃にメディアと共に近傍のマンナエやペルシア(パルスア)がアッシリア人の記録に登場するようになる。
 ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない。
 アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人はオルーミーイェ湖(ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。
 ハマダーン州のエクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国の首都とみなされる。
 ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる。

 ◆アッシリアの支配とメディア

 ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた。
 彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人をイラン高原に移住させたとしている。
 そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという。

 前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年〜前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置し、メディア西部がそれに加えられた。
 これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された。

 この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。
 この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する)。
 しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた。
 このダイウックはヘロドトスの『歴史』に登場するメディアを統一した王デイオケスに相当するという見解がある。
 もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である。
 ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない。

 新たに設置されたアッシリアの東方新属州では反乱が絶えず、サルゴン2世は前708年に再度の遠征を行ったものの、メディアに対する安定的な支配を確立することはできなかった。
 キンメリア人やスキタイ人の侵入を受けてアッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王エサルハドン(在位:前681年〜前669年)はこの問題に対処するべくイラン北西部地方への遠征を行い、前679年から前677年にかけてイシュパカイア(Išpakaia)というリーダーに率いられたマンナエ人とスキタイ人を打ち破った。
 この時の遠征ではメディアも奥深くまで攻撃を受け、メディアの首長2人も家族もろともアッシリアへと連行された。
 ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように評価するかどうかは別として、当時のメディア人が多くの首長を持っていたことはエサルハドンの記録によってわかる。
 エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、パルタック(Partakku)のウピス(Uppis)、パルトゥッカ(Partukka)のザナサナ(Zanasana)、ウルカザバルヌ(Urukazabarnu)のラマタイア(Ramataia)という3人のメディアの首長が隣国との戦いのためにエサルハドンに支援を求めている。
 このうちラマタイアは前672年にエサルハドンが王太子アッシュルバニパルに対する忠誠の条約(いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印者の一人として登場している。

 一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長(city lord)」カシュタリティ(Kaštariti[注釈 7])、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu[注釈 8])の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている。
 この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている。
 アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある。
 この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対する包囲が行われるようになっていた。
 これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいはエラムによる訓練を受けた経験があったことを示すかもしれない。

 同じ時期にマンナエ人もアッシリアの北方で勢力を拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルはマンナエを攻撃し制圧した。
 マンナエ人はその後メディア人の勢力拡大を恐れ、アッシリアの滅亡までアッシリアの同盟国として行動した。
 アッシリアの記録におけるメディアについての最後の情報は前658年頃、アッシリアに背いたメディアの首長ビリシャトリ(Birišatri)を捕らえたというものである。

 ◆メディア「王国」の勃興と拡大

 メディアの王国は前7世紀半ばまでにはエラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合可能な勢力となっていた。
 前7世紀半ば以降、アッシリアはもはやメディアへの遠征を行わなくなっている。
 前7世紀前半にメディアにとってアッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのはウラルトゥであったが、この頃にウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点全てが破壊と炎上に見舞われ放棄されている。
 ウラルトゥ東方の拠点を破壊できるような勢力は当時メディア人しか存在しなかったため、この一連の破壊はメディア王国の拡張の証であるかもしれない。
 恐らくウラルトゥの撃破に成功した後、メディア人はペルシア(パルスア、当時のペルシア人は現在のイラン、ファールス州周辺に移動していた)人の征服に取り掛かった。
 前640年代、アッシリアによるエラム遠征が行われ、当時エラムのアンシャンを支配していたペルシア人の王クル1世は、アッシリア王アッシュルバニパルに貢納を行い人質として息子をアッシリアに差し出していた。
 メディア人によるペルシア攻撃はこの直後頃に始められたと見られる。

 こうしたメディア王国の勃興・拡大の時期はアッシリアの記録による言及が途絶え、メディア人自身による記録もないために、その歴史を同時代史料によって復元することはできなくなっている。
 当時について証言する史料はギリシアの著作家たち、取り分け完全な形で残されているヘロドトスの『歴史』(前5世紀)と、クテシアスの散逸した歴史書『ペルシア史』の断片や抄録が中心となる。
 しかしながらヘロドトスもクテシアスも空想的な説話の採用、物語的な語り口が後世批判された人物であり、また両者のメディア史についての記述は多くの点で(王名すらも)一致しない。それでもヘロドトスの方の記録はある程度の信頼性を認められているが、彼の情報源がメディア王国の勃興から2、300年後の伝承にのみ基づいている点には常に留意する必要がある。

 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子フラオルテスに帰せられている。
 このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。
 既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である。
 しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。
 特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性を含め全く知る術がない。
 少なくともアッシュルバニパルの即位前に書かれた忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)において元来メディアの王国はペルシアはおろかメディア全体を含んでいなかったことが示されている。

 とはいえ、前8世紀以来メディアに割拠していた独立的な小勢力は、前615年頃までにはその多くが「王国」に統合され、その支配者たちは宮廷の「貴族」となっていったであろう。
 ヘロドトスは建国者デイオケスが元来同等者であった他の貴族に対して自分が卓越した存在であることを認識させようと策を巡らしたことを記しているが、ディアコノフはこの説話をメディアの王とかつて同格であった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものとして参照している。

 ◆アッシリアの内戦とスキタイ人

 前652年、アッシリア支配下におけるバビロン(バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリア王アッシュルバニパルに対して反乱を起こした(両者は兄弟であった)。
 この反乱においてシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア周辺の諸勢力を味方に引き入れてアッシュルバニパルに対抗しようとした。
 アッシュルバニパルは後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として3つのグループを挙げている。
 第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。
 当時既にアムル人やメルッハ、グティ人は遠い過去の存在であり、この呼称は中世ヨーロッパにおいてフランスをローマ帝国時代の呼称でガリアと呼んだような、あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ人という古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的な表現である。
 「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカを、そして「グティ人」はアッシリアから見て東方の山岳地帯の住民を指したと見られる。
 当時アッシリアの東方に未だ存在していた勢力はメディアのみであったため、この「グティ人」をメディア人と理解することができるであろう。

 アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。
 この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない。
 これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、スキタイ人の手によったためであるかもしれない。
 この推測はヘロドトスの記録から導き出せる。ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子キュアクサレスが父親の仇を討つため、アッシリアの首都ニネヴェ(ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王マデュエスの攻撃を受け敗れたことを伝えている。
 アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。
 しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである。

 この時、スキタイ人は小アジアとトランスコーカサス地方に覇権を打ち立て、その後間もなくウラルトゥとマンナエもその影響下に置いたが、ウラルトゥやマンナエと共に、メディアの王国もスキタイ人の覇権の下で存続した。
 スキタイ人の支配は恐らく略奪と貢納品の取り立てに終始しており、組織的な国家体系を構築することはなかった。
 ヘロドトスによれば、スキタイ人によるメディア人の支配は28年間続いたが、キュアクサレスの計略によってスキタイ人を打倒し独立を取り戻すことに成功したという。

 ◆アッシリアの滅亡と
        メディア「王国」

 前626年頃、アッシリア支配下のバビロニアでカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)が反乱を起こし、前616年までにバビロニアを完全に制圧して独立勢力を築くことに成功した(新バビロニア)。
 ナボポラッサルの反乱で弱体化したアッシリアに対し、メディアもまた攻撃をかけた。
 前615年11月、キュアクサレスの指揮の下、メディアはアッシリアの属領であったアラプハ(現:イラク領キルクーク)に侵攻し、アッシリアの同盟国であったマンナエも征服した。
 前614年にはアッシリアの首都ニネヴェ近郊のタルビスを占領し、ニネヴェ自体も包囲したがこの都市の占領には失敗した。
 同年、メディアはアッシリアの古都であり「宗教」とイデオロギーの中心であったアッシュル市を占領した。
 アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した。
 なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった。
 このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。
 この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」。ここでキュアクサレスの孫(アステュアゲスの娘)アミティス(Amytis)とナボポラッサルの息子ネブカドネザル(2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた。

 前613年、ナボポラッサルに対する反乱がスフ(Suhu)で発生し、たちまちバビロニア全域に広がった。
 メディアとの同盟関係はナボポラッサルがこの危機を乗り切る上で大きな役割を果たした。
 翌、前612年にメディアとバビロニアの連合軍はニネヴェの城壁に到達し、この都市を攻略して事実上アッシリアを滅亡させた。
 公式な意味での最後のアッシリア王シン・シャル・イシュクンは一般にこの戦いで死亡したと考えられている。
 この攻略はメディアが中心的な役割を果たし、多くの戦利品を獲得した。
 アッシリアの残党は西方のハッラーンに集結し、アッシュル・ウバリト2世の下でなお事態の挽回を図ったが、ここでの戦いにメディアが関与したかどうかは史料上明らかではない。

 アッシリアの旧領土はメディアと新バビロニアによって分割された。
 両国の境界がどこにあったのかは議論があり、近年までアッシリア滅亡後のメディアはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)のティグリス川東岸とハッラーン地域を制圧していたという見解が一般的であった。
 この見解は現在再検討されており、アッシリアの中核地帯とハッラーンは前609年以来新バビロニアの支配下にあったと考えられている。
 いずれにせよ、国境を巡るメディアと新バビロニアの間の直接的な争いは記録されていないが、両国の関係はアッシリア滅亡後明らかに悪化しており、メディアと新バビロニアそれぞれの反乱分子は状況が悪化すると互いの国へと亡命するようになった。

 また、『旧約聖書』「エレミヤ書」の記載からはアッシリア滅亡後、ウラルトゥ、マンナエの地、スキタイの王国がメディアの支配下にあったこと、そして総督と共になおも複数の「メディアの王」がいたことが読み取れる。
 ヘロドトスはメディア王国の構造を「メディア支配の時代には、諸民族が互いに支配し合ってもいた。
 メディア人が全体の支配者ではあるが、直接には彼らの最も近くに住む民族だけを支配するのであって、この民族がその隣りの民族を、そしてまたこの民族がその隣接民族を支配するといったやり方であった。」と述べており、これが複数の「メディアの王」の実態であるかもしれない。

 明確な境界や支配の実態は明らかでないにせよ、アッシリア滅亡後のオリエント世界には4つの大国が残されることになったとされている。
 直接アッシリアを滅ぼしたメディアと新バビロニア、そして一時アッシリアに支配されていたものの独立を回復したエジプト、アナトリア西方のリュディアがそれにあたる。
 キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる。
 メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)中、日食が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。
 そしてバビロニアとキリキアの仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子アステュアゲスとリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる。
 これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である。

 メディアの勢力は東方でも拡大した。東方におけるメディアの勢力拡大はギリシア人の著作家の間接的な証言によってのみ知ることができる。
 メディアについて言及するほぼ全てのギリシア人の歴史家が、メディアの勢力がメディアの遥か向こう側(東側)まで広がっていたことを証言している。
 ただし、征服がいつ行われたのか、それを実施したのはどの王であったのかなど、確実なことはわからない。ヘロドトスによれば、後にペルシア(アンシャン)の王キュロス2世がメディアに反旗を翻した時、中央アジアの遊牧民マッサゲタイとバクトリアの制圧を必要としたことから、これらの地域までメディアの勢力が及んでいたと見られる。
 当然のことながら、これはバクトリアなどとメディアとの間にある地域、ヒュルカニア、パルティア、アレイアもメディアの支配下にあったことを示すであろう。
 アルメニアもまたメディアの下にあったと見られる。

 ◆メディアの滅亡と
        ハカーマニシュ朝

 前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ。
 アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア(アンシャン)の王キュロス2世(クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている。
 メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王ナボニドゥスの夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する)。

 ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た。
 夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた。
 ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた。
 やがてマンダネが息子キュロス(クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下のハルパゴスに命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった。
 牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした。
 やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した。
 やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った。
 メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。
 2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した。
 キュロスはその後、全アジアを征服した(ハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。

 この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。
 キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。
 メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。
 その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。
 キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。
 アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。
 彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。
 この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。

 独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。
 メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。
 さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。 
 ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。
 こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。


 ▶アケメネス朝ペルシア

 紀元前6世紀に、アケメネス朝ペルシアのキュロス大王が版図を東方のインダス川まで拡げ、その支配下にあった頃から、この地域が歴史の記録に現れ始める。
 ダレイオス1世によって、この地域に様々な州が設けられた。
 すなわち、アリア(ヘラート)、ドランギアナ(スィースターン)、バクトリア(アフガン・トルキスタン)、マルギアナ(メルブ)、ホラズミア(ヒヴァ)、ソグディアナ(トランスオクシアナ)、アラコシア(ガズニとカンダハール)、ガンダーラ(ペシャーワル谷)などであり、統治が強化された。
 紀元前332年、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)の東征におけるガウガメラの戦いでダレイオス3世を破ったことにより、この支配体制は終わる。

 ▶マケドニア王国

 紀元前330年にアレクサンドロス3世がアフガニスタンに侵攻した。
 アレクサンドロスは前進しながら征服地を守るため、各地に都市(アレキサンドリア)を築いていった。
 現在のヘラート近くのアレクサンドリア・アリアナがその最初である。
 紀元前329年には、カーブル北コヒスタン渓谷に、アレクサンドリア・アド・カウカスを築いた。
 また、この東征によってヘレニズム文化が流入した。紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると帝国は分裂し、アフガニスタン東部の領土(パンジャーブ)がセレウコス朝シリアに編入されるが、紀元前305年にマウリヤ朝インドのチャンドラグプタがセレウコス朝シリアからアフガニスタン東部を奪う。
 その後両国関係が好転し、紀元前3世紀中頃からはマウリヤ朝インドのアショーカ王のもと、インドとアフガニスタンで仏教が盛んになった。
 紀元前232年、アショーカ王が死ぬとマウリア朝は衰退する。

 ▶グレコ・バクトリア王国

 一方で紀元前250年頃にギリシア人のディオドトスがバクトリア(北部アフガニスタン地域)において独立王国・グレコ・バクトリア王国を建国し、一世紀にわたって栄えた。
 一方、イランと南部アフガニスタンにはアルサケスが独立王国・アルサケス朝パルティアを築き、226年まで続いた。

 ▶インド・グリーク朝
 (英語: Indo-Greek Kingdom)

 紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間に主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国の総称である。
 この地域におけるギリシア人はアレクサンドロス大王の時代より存在したが、有力勢力として台頭するのはグレコ・バクトリア王国の王デメトリオス1世によるインド侵入以降である。
 一般にこの時期以降のインドにおけるギリシア人王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。
 サカ人など他勢力の拡大につれてインド・ギリシア系の王国は姿を消したが、彼らの文化はインドに多くの影響を残した。

 インド・ギリシア人に関する記録は少ない。
 メナンドロス1世(ミリンダ)など例外的に記録の多く残る王は存在するが、40人前後に上るインド・ギリシア人王の中で具体的な姿を読み取ることの出来る王は数名に過ぎない。

 彼らについて知るために現在利用することが出来る記録は、各地で発行されたコイン(王名や称号などが記録されている)、僅かに残る碑文、ローマやギリシア人の学者達が残した書物や仏典などに残された記録などである。
 しかし質、量ともにインド・ギリシア人の歴史を明らかにするには極めて不十分である。

 なお、インド・ギリシア人達はインドの記録ではヨーナ、又はヤヴァナと言う名で現れる。
 これはイオニアの転訛である。

 ◆コイン

 インド・グリーク諸王国が発行したコインは後のインド社会に大きな影響を与えた。
 コインに王の横顔や神、称号を刻む習慣はインド・ギリシア人が権力の座を降りた後も長期にわたってインドで存続した。
 このコインは古代インド史を研究する上では欠かす事のできない資料であり広範囲で長期間流通した。
 インド・グリーク朝のコインの中には遠くイギリスで発見されたものもある。
 恐らく交易によって西方に齎されたコインを古代ローマ時代の収集家が保持していたものであると言われている。

 ◆ギリシャの移住

 ❒アレクサンドロス大王

 ギリシア人がいつ頃インド亜大陸に居住を開始したのかは不明である。

 アケメネス朝が紀元前6世紀末頃から紀元前5世紀初頭にかけてインダス川流域まで到達して以降に、アケメネス朝の手によってギリシア人がこの地域に移住させられた可能性はある(少なくとも中央アジア・バクトリア方面にはアケメネス朝時代に移住したギリシア人が存在したことが確認されている)が、記録が少なくはっきりとはしない)。
 インド亜大陸におけるギリシア人の活動を示す記録が増大するのはアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍がインダス川流域に侵入して以降のことである。

 アレクサンドロス大王がペルシア遠征を行っていた頃、北西インドにおけるアケメネス朝の統制力は大幅に弱まっており無数の群小王国が成立していた。
 ギリシア人の記録によればその数は20を超えていた。
 これらの王国はポロスの王国とタクシラ(タクシャシラー)を除けば大国といえるような勢力は無く、相互に争っていた。
 アレクサンドロス大王の侵入に対してポロス王は抗戦の構えを見せたが、他の諸国の反応はまちまちであった。
 タクシラ王アーンビはポロスとの敵対関係のために、ただちにアレクサンドロスへの貢納を決めている。
 戦いの末ポロスはアレクサンドロスに敗れたが、その後も王の地位には留まり、アレクサンドロス大王の宗主権下において王国は存続した。
 また、いくつかの州ではギリシア人の総督が統治することとなった。

 こうして支配者となったアレクサンドロス大王によってバクトリア(現在のアフガニスタン北部を中心とした地域)からインダス川流域にかけての地方にギリシア人都市が多数建設され、まとまった数のギリシア人が移住するに至った。
 紀元前4世紀末頃、これらの地域にセレウコス朝を開いたセレウコス1世がその支配権を獲得すべく遠征を行ったが、北西インド地方ではチャンドラグプタ王の建てたマウリヤ朝がセレウコス朝を圧倒し、その支配権を確保した。
 このため、北西インドに移住したギリシア人は、その後マウリヤ朝の支配下に入ることとなる。

 ❒マウリヤ朝治下のギリシア人

 マウリヤ朝の勢力範囲内にギリシア人がいたことは、アショーカ王の残した詔勅碑文に辺境の住民としてカンボージャ人やガンダーラ人とともにギリシア人が言及されていることから確認できる。サウラシュートラ半島(カーティヤワール半島、現:インド領グジャラート州)では、マウリヤ朝の覇権の下でトゥーシャスパと呼ばれるギリシア人王が統治していた(トゥーシャスパという名はイラン風であるが、イラン名を持ったギリシア人であると考えられている)。彼はアショーカ王の命令によって水道を敷設したことが記録されている。

 彼の他にもギリシア人による小王国が、インド北西部に散在していたことが知られている。
 これらの王国は土侯としての性格を持ったが、セレウコス朝など西方のヘレニズム王朝と異なり、マウリヤ朝の統制下にあって自立勢力とは言い難いものであった。

 ◆グレコ・バクトリア王国の
           最初の侵入

 バクトリアに移住したギリシア人達は紀元前250年頃にディオドトス1世の下で独立の王国を形成した。
 当初はマウリヤ朝が強勢であったことや、支配権回復を目指すセレウコス朝の攻撃とのためにグレコ・バクトリア王国がインドに影響を及ぼす事は少なかったが、紀元前200年に入るとインド方面への拡大を開始した。
 その端緒となったのはグレコ・バクトリア王国の4番目の王デメトリオス1世によるアラコシア征服である。
 彼はアラコシアにデメトリアードという名の都市を築くと、更にヒンドゥークシュ山脈を越えてパロパミソスを征服した。

 ◆デメトリオス2世から
       インド・グリーク朝へ

 アンティマコス1世の甥、パンタレオンやアガトクレスなどの内紛の後に(一説には内紛が続く中で)王となったデメトリオス2世の頃にはインドでは大きな政治的空白が生まれていた。
 紀元前180年頃にマウリヤ朝の将軍であったプシャミトラは、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺害して新王朝シュンガ朝を建て、中央インドでは新たにヴィダルパ国が成立し、カリンガ国(チェーティ朝)などマウリヤ朝の下でマガダ国に征服された諸国も自立していた。

 こういった状況のもとでデメトリオス2世はインドで大規模な征服活動を行ったと言われている。
 デメトリオス2世が支配した領域は学者によって見解がことなり正確なことはわかっていない。
 この時代のインドの文献にはマトゥラーなどガンジス川中流域の都市がギリシア人に包囲されたと記録するものがある。
 シュンガ朝やチェーティ朝との間で戦闘が行われたと考えられるが詳細はよくわかっていない。

 デメトリオス2世の行動に言及していると思われるインドの記録として、チェーティ朝の王カーラヴェーラの治世第8年の碑文がある。

 「カーラヴェーラ王の治世第8年、彼は大軍を持ってゴラダギリを攻略しラージャグリハ(王舎城)に迫った。彼の勇敢な所業の報せを耳にしたヤヴァナ王ディミタは、自らの軍を危険から逃すべくマトゥラーに退いた。」

 ともかくも、デメトリオス2世が熱心な征服活動をインド北西部からガンジス川流域にかけての地域で行っていたのは確実である。
 しかし、こうした中でグレコ・バクトリア本国では紀元前175年頃(年代には異説が多い)、エウクラティデス1世が反乱を起こし、支配権を握るという事件が発生した。
 このためデメトリオス2世は6万の兵を持ってエウクラティデス1世を討伐に向かった。
 エウクラティデス1世は僅か300人の手勢しか持っていなかったが、パルティアに領土の一部を割譲することで全面的な支援を獲得し、デメトリオス2世を撃退して紀元前171年頃に自ら王位についた(エウクラティデス朝)。
 そしてデメトリオス2世が征服したインド側領土の大部分を含む地方の支配権を得たが、バクトリア本国への帰還途中に息子に暗殺されたためにインド地方の支配権は大部分が失われた。

 この結果インド亜大陸及びその周辺におけるギリシア人の勢力はエウクラティデス1世の後継者によるバクトリア部分と、デメトリオス2世が征服した領域を基盤とするインド部分とに大きく分かれた。
 一般にこの分裂したギリシア人勢力のうちインド部分に支配権を持った諸王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。

 デメトリオス2世のインドにおける勢力基盤を継承したのは恐らくアポロドトス1世であった。
 この根拠となるのがデメトリオス2世の発行したコインとアポロドトス1世の発行したコインが同種の物であり、ほぼ同じ年代に属すると考えられることである(ただしアポロドトス1世がデメトリオス2世の父であるとする説もある。その他の説も多く正確にはわかっていない。)。
 アポロドトス1世はコインの分布からインダス川両岸地方からアラコシア(現:アフガニスタン南部)に至る地域に勢力を持っていたと推定されている。

 〔ウィキペディアより引用〕