CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

■CTNRX的見・読・調 Note ♯003

2023-09-18 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(3)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷 ② ❖

 ▶オクサス文明

 バクトリア・マルギアナ複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex:略称BMAC)

 青銅器時代の紀元前2000年前後に、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン北部のアムダリヤ(オクサス)川上流部などに栄えた一連の先史文化を指す考古学用語である。

 インダス文明とほぼ同時代に高度の都市文化を発展させたことから「第五の古代文明」という意味でオクサス文明とも呼ばれる。
 発見は比較的新しく、研究途上にある。メソポタミアの文明やエラム文明、インダス文明など他の文化との関係、特にアーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目されている。

 バクトリア(アフガニスタン北部)、マルギアナ(トルクメニスタン)はいずれも遺跡が集中する地域のギリシア語名である。
 乾燥地帯であるが、川とオアシスを利用して古くから農業が行われた。
 バクトリア、マルギアナは現在のメルヴを中心とし、アケメネス朝ペルシア以降栄えた。

 BMACは、ソ連の考古学者ヴィクトル・サリアニディが発掘調査に基づき1976年に命名した。
 これは西側ではあまり知られなかったが、ソ連崩壊後1990年代に世界的に知られるようになった。
 代表的な都市遺跡としてはナマズガ・デペやアルティン・デペがある。
 住民は灌漑により小麦・大麦などの栽培を行っていた。都市や城塞の遺構のほかに、優れた金属器や、土器、宝石類、石の印章など様々な遺物が知られる。印章に見られる図柄はイラン南東部から出土した陶器や銀器によく似ている。
 マルグッシュ遺跡(ゴヌール・テペ)からはエラム文字と見られる銘文を彫った陶片が見つかっている。
 これらの遺跡の上下限年代は、放射性炭素年代測定によって紀元前2200年から1500年頃という数字が提示されている。
 この発展と没落の過程はまだよくわかっていない。

 BMACの遺物はこの地域だけでなくイラン東部、ペルシャ湾岸、バルチスタン、インダス川流域(ハラッパーなど)の広い範囲で見出されている。
 中心地はむしろアフガニスタン南部からバルチスタンにあったとする学者もいるが、今のところ同地方から本格的な規模の同文化に属する遺跡は一切発見されていない。

 イラク、イランやインダス地方とは盛んな交流が行われ交易圏を形成していたが、別の独立した文明という説と、メソポタミアやエラム文明からの移住地として始まったという説がある。
 東側では、土器などに関してガンダーラ墓葬文化(GGC:スワート(Swat)文化ともいう)との深い関係が考えられている。
 また同時期の北側では中央アジアの広い範囲に遊牧民のアンドロノヴォ文化が栄えており、これとの接触もあったようである。

 サリアニディはBMAC文化の起源についてアナトリアなどに由来する説を称えているが、イランのエラム文明に由来するとする説やイラクからインダス一帯の交易権圏の下で独自に発達したとする説、他にほぼ同時期のタリム盆地の先史文化と結び付ける説もある。

 この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。
 アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。
 またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、この文化は南から北へ拡大しておりBMACより北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。
 またサリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。
 またジェームズ・マロリーはヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。

 インド・イラン語派には印欧祖語やドラヴィダ語と異なる基層言語があるとの考えもあり、それがBMACの言語(単一ではなかったかもしれないが)ではないかと考える人もいる。
 現在ガンダーラ地方の近く(カシミール)に残っているブルシャスキー語も関係があるかもしれない。


 《 古 代 の 
  ア フ ガ ニ ス タ ン 》

 古代アフガン人は今日のアフガニスタンにおけるパシュトゥ語圏に居住し、言語分布の記録によるとパシュトゥ語はアフガニスタン北東部のジャラーラーバード北部から南方のカンダハール、カンダハールから西方のファラーおよびセブゼワールにわたる地域で話されていたとされる。
 この地域はインド、中東、中国、中央アジアの交通路であり、アフガニスタンはイラン、インド、中央アジアの文化から影響を受けることになる。

 ▶前期ヴェーダ時代

 『リグ・ヴェーダ』によると紀元前12世紀頃に十王戦争が起こり、アフガニスタン東部からパンジャブで勢力を伸ばしていたスダース王が率いるトリツ族とバラタ族に、ヴィシュヴァーミトラが率いる十王の連合軍(プール族など)が攻め込んだが、逆に敗北して覇権を握られた。
 後にバラタ族とプール族は融合してクル族となりクル国を建国し、支配階層を形成した(カースト制度)。

 ▶後期ヴェーダ時代

 全インド(十六大国)を征服すると「バーラタ(バラタ族の地)」と呼ぶようになった。
 『マハーバーラタ』によると、クル族の子孫であるカウラヴァ王家はその後内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北すると衰退していった。
 この頃インドで十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝に支配されるようになり、他のインドの国々と全く異なったアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。

 ▶メディア王国

 メディア王国
 (Media、古代ギリシャ語: Μῆδοι, Mêdoi、古代ペルシア語: 𐎶𐎠𐎭, Māda、アッカド語:Mādāya)

 かつて存在した古代イランの王国である。
 メディア地方は現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域であり、前1千年紀にはインド・ヨーロッパ語を話す人々が居住するようになっていた。
 この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。
 メディア人は当時の西アジアの大国アッシリアの記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。

 主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。
 前550年にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)のクル2世(キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。

 名称と語源という現代の名称はギリシア語の史料に登場するメーディアー(Μηδία / Mēdía)に由来する。
 古代ペルシア語ではマーダ(Māda)という語形でハカーマニシュ朝(アケメネス朝、前550年頃-前330年)時代の碑文に登場する。

 元々の語義は不明であり、名称の由来についても確実な説はない。
 ポーランドの言語学者ボイチェフ・スカルモフスキはマーダという語はインド・ヨーロッパ祖語の*med(h)(「中心」、「中央に位置する」の意)に関連しているとしている。
 彼の推定は同様の意味を持つ古インド語(サンスクリット)のmddhya-、アヴェスター語のmaidiia-を参考にしたものである。
 一方、ロシアの歴史学者ディアコノフはメディア(マーダ)がインド・ヨーロッパ語に由来するかどうかはっきりしないとしている。

 ヘロドトスが伝える古代ギリシアの伝説ではメディアという名称は人名から来ている。

 メディア人部隊もペルシア人と同じ装備で遠征(ペルシア戦争)に加わった。
 もともとこの装備の様式はメディアのものであって、ペルシアのものではない。
 メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族なるティグラネスであった。
 メディア人は昔からもアリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女メディア(メーデイア)がアテナイを逃れてこのアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。
 これはメディア人自身が自国名について伝えているところである。

  —ヘロドトス、『歴史』、巻7§62

 ここに登場するアリオイ人はいわゆる「アーリヤ人(アーリア人)」に対応する名称であり、元来はメディア人のみならずイラン高原に住む諸族の通称である。 
 しかし、語源とされる人物メディアはギリシア神話に登場する魔女であり、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして失敗しアリオイ人の下へ逃れたとされている。
 このため、ヘロドトスの伝える伝説は名称の類似に依ったギリシア人による創作と考えられ、メディア人自身の伝承であるという彼の証言も疑わしい。

 また、バビロニアの史料ではメディアは時にウンマン=マンダと呼ばれている。

 ◆メディア人の登場

 メディア人は古代イランに登場するインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派の言語(メディア語)を使用した人々である。
 ある時期にイラン高原に侵入し、その北西部(現代のハマダーン州)周辺の地域に定着したとされる。
 イラン高原にはメディア人の到来以前にフルリ人や「グティ人」等、様々な言語を話す住民が居住していた。
 ここにインド・ヨーロッパ語を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀の中頃までにはイラン高原に到達していた。
 彼らの中からメディア人やペルシア人など、後世のイラン世界の基層を成す人々が登場する。
 現在知られる限り、メディア人の言語であるメディア語は筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史についての記録はギリシア人の文筆家(特にヘロドトス)による記録や『旧約聖書』における言及、そしてアッシリア人が残した断片的な楔形文字文書に限られ、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。

 「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年または前834年のことである。
 アッシリア王シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスクに残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarḫar)という土地に攻め入った。
 このアマダイはメディアを指す。
 前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。
 およそ100年後のティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(Madai)を攻撃し略奪したことが記されている。
 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である。

 同じ頃にメディアと共に近傍のマンナエやペルシア(パルスア)がアッシリア人の記録に登場するようになる。
 ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない。
 アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人はオルーミーイェ湖(ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。
 ハマダーン州のエクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国の首都とみなされる。
 ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる。

 ◆アッシリアの支配とメディア

 ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた。
 彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人をイラン高原に移住させたとしている。
 そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという。

 前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年〜前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置し、メディア西部がそれに加えられた。
 これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された。

 この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。
 この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する)。
 しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた。
 このダイウックはヘロドトスの『歴史』に登場するメディアを統一した王デイオケスに相当するという見解がある。
 もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である。
 ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない。

 新たに設置されたアッシリアの東方新属州では反乱が絶えず、サルゴン2世は前708年に再度の遠征を行ったものの、メディアに対する安定的な支配を確立することはできなかった。
 キンメリア人やスキタイ人の侵入を受けてアッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王エサルハドン(在位:前681年〜前669年)はこの問題に対処するべくイラン北西部地方への遠征を行い、前679年から前677年にかけてイシュパカイア(Išpakaia)というリーダーに率いられたマンナエ人とスキタイ人を打ち破った。
 この時の遠征ではメディアも奥深くまで攻撃を受け、メディアの首長2人も家族もろともアッシリアへと連行された。
 ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように評価するかどうかは別として、当時のメディア人が多くの首長を持っていたことはエサルハドンの記録によってわかる。
 エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、パルタック(Partakku)のウピス(Uppis)、パルトゥッカ(Partukka)のザナサナ(Zanasana)、ウルカザバルヌ(Urukazabarnu)のラマタイア(Ramataia)という3人のメディアの首長が隣国との戦いのためにエサルハドンに支援を求めている。
 このうちラマタイアは前672年にエサルハドンが王太子アッシュルバニパルに対する忠誠の条約(いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印者の一人として登場している。

 一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長(city lord)」カシュタリティ(Kaštariti[注釈 7])、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu[注釈 8])の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている。
 この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている。
 アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある。
 この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対する包囲が行われるようになっていた。
 これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいはエラムによる訓練を受けた経験があったことを示すかもしれない。

 同じ時期にマンナエ人もアッシリアの北方で勢力を拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルはマンナエを攻撃し制圧した。
 マンナエ人はその後メディア人の勢力拡大を恐れ、アッシリアの滅亡までアッシリアの同盟国として行動した。
 アッシリアの記録におけるメディアについての最後の情報は前658年頃、アッシリアに背いたメディアの首長ビリシャトリ(Birišatri)を捕らえたというものである。

 ◆メディア「王国」の勃興と拡大

 メディアの王国は前7世紀半ばまでにはエラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合可能な勢力となっていた。
 前7世紀半ば以降、アッシリアはもはやメディアへの遠征を行わなくなっている。
 前7世紀前半にメディアにとってアッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのはウラルトゥであったが、この頃にウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点全てが破壊と炎上に見舞われ放棄されている。
 ウラルトゥ東方の拠点を破壊できるような勢力は当時メディア人しか存在しなかったため、この一連の破壊はメディア王国の拡張の証であるかもしれない。
 恐らくウラルトゥの撃破に成功した後、メディア人はペルシア(パルスア、当時のペルシア人は現在のイラン、ファールス州周辺に移動していた)人の征服に取り掛かった。
 前640年代、アッシリアによるエラム遠征が行われ、当時エラムのアンシャンを支配していたペルシア人の王クル1世は、アッシリア王アッシュルバニパルに貢納を行い人質として息子をアッシリアに差し出していた。
 メディア人によるペルシア攻撃はこの直後頃に始められたと見られる。

 こうしたメディア王国の勃興・拡大の時期はアッシリアの記録による言及が途絶え、メディア人自身による記録もないために、その歴史を同時代史料によって復元することはできなくなっている。
 当時について証言する史料はギリシアの著作家たち、取り分け完全な形で残されているヘロドトスの『歴史』(前5世紀)と、クテシアスの散逸した歴史書『ペルシア史』の断片や抄録が中心となる。
 しかしながらヘロドトスもクテシアスも空想的な説話の採用、物語的な語り口が後世批判された人物であり、また両者のメディア史についての記述は多くの点で(王名すらも)一致しない。それでもヘロドトスの方の記録はある程度の信頼性を認められているが、彼の情報源がメディア王国の勃興から2、300年後の伝承にのみ基づいている点には常に留意する必要がある。

 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子フラオルテスに帰せられている。
 このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。
 既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である。
 しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。
 特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性を含め全く知る術がない。
 少なくともアッシュルバニパルの即位前に書かれた忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)において元来メディアの王国はペルシアはおろかメディア全体を含んでいなかったことが示されている。

 とはいえ、前8世紀以来メディアに割拠していた独立的な小勢力は、前615年頃までにはその多くが「王国」に統合され、その支配者たちは宮廷の「貴族」となっていったであろう。
 ヘロドトスは建国者デイオケスが元来同等者であった他の貴族に対して自分が卓越した存在であることを認識させようと策を巡らしたことを記しているが、ディアコノフはこの説話をメディアの王とかつて同格であった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものとして参照している。

 ◆アッシリアの内戦とスキタイ人

 前652年、アッシリア支配下におけるバビロン(バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリア王アッシュルバニパルに対して反乱を起こした(両者は兄弟であった)。
 この反乱においてシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア周辺の諸勢力を味方に引き入れてアッシュルバニパルに対抗しようとした。
 アッシュルバニパルは後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として3つのグループを挙げている。
 第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。
 当時既にアムル人やメルッハ、グティ人は遠い過去の存在であり、この呼称は中世ヨーロッパにおいてフランスをローマ帝国時代の呼称でガリアと呼んだような、あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ人という古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的な表現である。
 「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカを、そして「グティ人」はアッシリアから見て東方の山岳地帯の住民を指したと見られる。
 当時アッシリアの東方に未だ存在していた勢力はメディアのみであったため、この「グティ人」をメディア人と理解することができるであろう。

 アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。
 この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない。
 これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、スキタイ人の手によったためであるかもしれない。
 この推測はヘロドトスの記録から導き出せる。ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子キュアクサレスが父親の仇を討つため、アッシリアの首都ニネヴェ(ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王マデュエスの攻撃を受け敗れたことを伝えている。
 アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。
 しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである。

 この時、スキタイ人は小アジアとトランスコーカサス地方に覇権を打ち立て、その後間もなくウラルトゥとマンナエもその影響下に置いたが、ウラルトゥやマンナエと共に、メディアの王国もスキタイ人の覇権の下で存続した。
 スキタイ人の支配は恐らく略奪と貢納品の取り立てに終始しており、組織的な国家体系を構築することはなかった。
 ヘロドトスによれば、スキタイ人によるメディア人の支配は28年間続いたが、キュアクサレスの計略によってスキタイ人を打倒し独立を取り戻すことに成功したという。

 ◆アッシリアの滅亡と
        メディア「王国」

 前626年頃、アッシリア支配下のバビロニアでカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)が反乱を起こし、前616年までにバビロニアを完全に制圧して独立勢力を築くことに成功した(新バビロニア)。
 ナボポラッサルの反乱で弱体化したアッシリアに対し、メディアもまた攻撃をかけた。
 前615年11月、キュアクサレスの指揮の下、メディアはアッシリアの属領であったアラプハ(現:イラク領キルクーク)に侵攻し、アッシリアの同盟国であったマンナエも征服した。
 前614年にはアッシリアの首都ニネヴェ近郊のタルビスを占領し、ニネヴェ自体も包囲したがこの都市の占領には失敗した。
 同年、メディアはアッシリアの古都であり「宗教」とイデオロギーの中心であったアッシュル市を占領した。
 アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した。
 なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった。
 このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。
 この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」。ここでキュアクサレスの孫(アステュアゲスの娘)アミティス(Amytis)とナボポラッサルの息子ネブカドネザル(2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた。

 前613年、ナボポラッサルに対する反乱がスフ(Suhu)で発生し、たちまちバビロニア全域に広がった。
 メディアとの同盟関係はナボポラッサルがこの危機を乗り切る上で大きな役割を果たした。
 翌、前612年にメディアとバビロニアの連合軍はニネヴェの城壁に到達し、この都市を攻略して事実上アッシリアを滅亡させた。
 公式な意味での最後のアッシリア王シン・シャル・イシュクンは一般にこの戦いで死亡したと考えられている。
 この攻略はメディアが中心的な役割を果たし、多くの戦利品を獲得した。
 アッシリアの残党は西方のハッラーンに集結し、アッシュル・ウバリト2世の下でなお事態の挽回を図ったが、ここでの戦いにメディアが関与したかどうかは史料上明らかではない。

 アッシリアの旧領土はメディアと新バビロニアによって分割された。
 両国の境界がどこにあったのかは議論があり、近年までアッシリア滅亡後のメディアはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)のティグリス川東岸とハッラーン地域を制圧していたという見解が一般的であった。
 この見解は現在再検討されており、アッシリアの中核地帯とハッラーンは前609年以来新バビロニアの支配下にあったと考えられている。
 いずれにせよ、国境を巡るメディアと新バビロニアの間の直接的な争いは記録されていないが、両国の関係はアッシリア滅亡後明らかに悪化しており、メディアと新バビロニアそれぞれの反乱分子は状況が悪化すると互いの国へと亡命するようになった。

 また、『旧約聖書』「エレミヤ書」の記載からはアッシリア滅亡後、ウラルトゥ、マンナエの地、スキタイの王国がメディアの支配下にあったこと、そして総督と共になおも複数の「メディアの王」がいたことが読み取れる。
 ヘロドトスはメディア王国の構造を「メディア支配の時代には、諸民族が互いに支配し合ってもいた。
 メディア人が全体の支配者ではあるが、直接には彼らの最も近くに住む民族だけを支配するのであって、この民族がその隣りの民族を、そしてまたこの民族がその隣接民族を支配するといったやり方であった。」と述べており、これが複数の「メディアの王」の実態であるかもしれない。

 明確な境界や支配の実態は明らかでないにせよ、アッシリア滅亡後のオリエント世界には4つの大国が残されることになったとされている。
 直接アッシリアを滅ぼしたメディアと新バビロニア、そして一時アッシリアに支配されていたものの独立を回復したエジプト、アナトリア西方のリュディアがそれにあたる。
 キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる。
 メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)中、日食が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。
 そしてバビロニアとキリキアの仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子アステュアゲスとリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる。
 これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である。

 メディアの勢力は東方でも拡大した。東方におけるメディアの勢力拡大はギリシア人の著作家の間接的な証言によってのみ知ることができる。
 メディアについて言及するほぼ全てのギリシア人の歴史家が、メディアの勢力がメディアの遥か向こう側(東側)まで広がっていたことを証言している。
 ただし、征服がいつ行われたのか、それを実施したのはどの王であったのかなど、確実なことはわからない。ヘロドトスによれば、後にペルシア(アンシャン)の王キュロス2世がメディアに反旗を翻した時、中央アジアの遊牧民マッサゲタイとバクトリアの制圧を必要としたことから、これらの地域までメディアの勢力が及んでいたと見られる。
 当然のことながら、これはバクトリアなどとメディアとの間にある地域、ヒュルカニア、パルティア、アレイアもメディアの支配下にあったことを示すであろう。
 アルメニアもまたメディアの下にあったと見られる。

 ◆メディアの滅亡と
        ハカーマニシュ朝

 前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ。
 アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア(アンシャン)の王キュロス2世(クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている。
 メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王ナボニドゥスの夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する)。

 ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た。
 夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた。
 ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた。
 やがてマンダネが息子キュロス(クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下のハルパゴスに命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった。
 牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした。
 やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した。
 やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った。
 メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。
 2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した。
 キュロスはその後、全アジアを征服した(ハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。

 この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。
 キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。
 メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。
 その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。
 キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。
 アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。
 彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。
 この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。

 独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。
 メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。
 さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。 
 ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。
 こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。


 ▶アケメネス朝ペルシア

 紀元前6世紀に、アケメネス朝ペルシアのキュロス大王が版図を東方のインダス川まで拡げ、その支配下にあった頃から、この地域が歴史の記録に現れ始める。
 ダレイオス1世によって、この地域に様々な州が設けられた。
 すなわち、アリア(ヘラート)、ドランギアナ(スィースターン)、バクトリア(アフガン・トルキスタン)、マルギアナ(メルブ)、ホラズミア(ヒヴァ)、ソグディアナ(トランスオクシアナ)、アラコシア(ガズニとカンダハール)、ガンダーラ(ペシャーワル谷)などであり、統治が強化された。
 紀元前332年、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)の東征におけるガウガメラの戦いでダレイオス3世を破ったことにより、この支配体制は終わる。

 ▶マケドニア王国

 紀元前330年にアレクサンドロス3世がアフガニスタンに侵攻した。
 アレクサンドロスは前進しながら征服地を守るため、各地に都市(アレキサンドリア)を築いていった。
 現在のヘラート近くのアレクサンドリア・アリアナがその最初である。
 紀元前329年には、カーブル北コヒスタン渓谷に、アレクサンドリア・アド・カウカスを築いた。
 また、この東征によってヘレニズム文化が流入した。紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると帝国は分裂し、アフガニスタン東部の領土(パンジャーブ)がセレウコス朝シリアに編入されるが、紀元前305年にマウリヤ朝インドのチャンドラグプタがセレウコス朝シリアからアフガニスタン東部を奪う。
 その後両国関係が好転し、紀元前3世紀中頃からはマウリヤ朝インドのアショーカ王のもと、インドとアフガニスタンで仏教が盛んになった。
 紀元前232年、アショーカ王が死ぬとマウリア朝は衰退する。

 ▶グレコ・バクトリア王国

 一方で紀元前250年頃にギリシア人のディオドトスがバクトリア(北部アフガニスタン地域)において独立王国・グレコ・バクトリア王国を建国し、一世紀にわたって栄えた。
 一方、イランと南部アフガニスタンにはアルサケスが独立王国・アルサケス朝パルティアを築き、226年まで続いた。

 ▶インド・グリーク朝
 (英語: Indo-Greek Kingdom)

 紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間に主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国の総称である。
 この地域におけるギリシア人はアレクサンドロス大王の時代より存在したが、有力勢力として台頭するのはグレコ・バクトリア王国の王デメトリオス1世によるインド侵入以降である。
 一般にこの時期以降のインドにおけるギリシア人王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。
 サカ人など他勢力の拡大につれてインド・ギリシア系の王国は姿を消したが、彼らの文化はインドに多くの影響を残した。

 インド・ギリシア人に関する記録は少ない。
 メナンドロス1世(ミリンダ)など例外的に記録の多く残る王は存在するが、40人前後に上るインド・ギリシア人王の中で具体的な姿を読み取ることの出来る王は数名に過ぎない。

 彼らについて知るために現在利用することが出来る記録は、各地で発行されたコイン(王名や称号などが記録されている)、僅かに残る碑文、ローマやギリシア人の学者達が残した書物や仏典などに残された記録などである。
 しかし質、量ともにインド・ギリシア人の歴史を明らかにするには極めて不十分である。

 なお、インド・ギリシア人達はインドの記録ではヨーナ、又はヤヴァナと言う名で現れる。
 これはイオニアの転訛である。

 ◆コイン

 インド・グリーク諸王国が発行したコインは後のインド社会に大きな影響を与えた。
 コインに王の横顔や神、称号を刻む習慣はインド・ギリシア人が権力の座を降りた後も長期にわたってインドで存続した。
 このコインは古代インド史を研究する上では欠かす事のできない資料であり広範囲で長期間流通した。
 インド・グリーク朝のコインの中には遠くイギリスで発見されたものもある。
 恐らく交易によって西方に齎されたコインを古代ローマ時代の収集家が保持していたものであると言われている。

 ◆ギリシャの移住

 ❒アレクサンドロス大王

 ギリシア人がいつ頃インド亜大陸に居住を開始したのかは不明である。

 アケメネス朝が紀元前6世紀末頃から紀元前5世紀初頭にかけてインダス川流域まで到達して以降に、アケメネス朝の手によってギリシア人がこの地域に移住させられた可能性はある(少なくとも中央アジア・バクトリア方面にはアケメネス朝時代に移住したギリシア人が存在したことが確認されている)が、記録が少なくはっきりとはしない)。
 インド亜大陸におけるギリシア人の活動を示す記録が増大するのはアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍がインダス川流域に侵入して以降のことである。

 アレクサンドロス大王がペルシア遠征を行っていた頃、北西インドにおけるアケメネス朝の統制力は大幅に弱まっており無数の群小王国が成立していた。
 ギリシア人の記録によればその数は20を超えていた。
 これらの王国はポロスの王国とタクシラ(タクシャシラー)を除けば大国といえるような勢力は無く、相互に争っていた。
 アレクサンドロス大王の侵入に対してポロス王は抗戦の構えを見せたが、他の諸国の反応はまちまちであった。
 タクシラ王アーンビはポロスとの敵対関係のために、ただちにアレクサンドロスへの貢納を決めている。
 戦いの末ポロスはアレクサンドロスに敗れたが、その後も王の地位には留まり、アレクサンドロス大王の宗主権下において王国は存続した。
 また、いくつかの州ではギリシア人の総督が統治することとなった。

 こうして支配者となったアレクサンドロス大王によってバクトリア(現在のアフガニスタン北部を中心とした地域)からインダス川流域にかけての地方にギリシア人都市が多数建設され、まとまった数のギリシア人が移住するに至った。
 紀元前4世紀末頃、これらの地域にセレウコス朝を開いたセレウコス1世がその支配権を獲得すべく遠征を行ったが、北西インド地方ではチャンドラグプタ王の建てたマウリヤ朝がセレウコス朝を圧倒し、その支配権を確保した。
 このため、北西インドに移住したギリシア人は、その後マウリヤ朝の支配下に入ることとなる。

 ❒マウリヤ朝治下のギリシア人

 マウリヤ朝の勢力範囲内にギリシア人がいたことは、アショーカ王の残した詔勅碑文に辺境の住民としてカンボージャ人やガンダーラ人とともにギリシア人が言及されていることから確認できる。サウラシュートラ半島(カーティヤワール半島、現:インド領グジャラート州)では、マウリヤ朝の覇権の下でトゥーシャスパと呼ばれるギリシア人王が統治していた(トゥーシャスパという名はイラン風であるが、イラン名を持ったギリシア人であると考えられている)。彼はアショーカ王の命令によって水道を敷設したことが記録されている。

 彼の他にもギリシア人による小王国が、インド北西部に散在していたことが知られている。
 これらの王国は土侯としての性格を持ったが、セレウコス朝など西方のヘレニズム王朝と異なり、マウリヤ朝の統制下にあって自立勢力とは言い難いものであった。

 ◆グレコ・バクトリア王国の
           最初の侵入

 バクトリアに移住したギリシア人達は紀元前250年頃にディオドトス1世の下で独立の王国を形成した。
 当初はマウリヤ朝が強勢であったことや、支配権回復を目指すセレウコス朝の攻撃とのためにグレコ・バクトリア王国がインドに影響を及ぼす事は少なかったが、紀元前200年に入るとインド方面への拡大を開始した。
 その端緒となったのはグレコ・バクトリア王国の4番目の王デメトリオス1世によるアラコシア征服である。
 彼はアラコシアにデメトリアードという名の都市を築くと、更にヒンドゥークシュ山脈を越えてパロパミソスを征服した。

 ◆デメトリオス2世から
       インド・グリーク朝へ

 アンティマコス1世の甥、パンタレオンやアガトクレスなどの内紛の後に(一説には内紛が続く中で)王となったデメトリオス2世の頃にはインドでは大きな政治的空白が生まれていた。
 紀元前180年頃にマウリヤ朝の将軍であったプシャミトラは、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺害して新王朝シュンガ朝を建て、中央インドでは新たにヴィダルパ国が成立し、カリンガ国(チェーティ朝)などマウリヤ朝の下でマガダ国に征服された諸国も自立していた。

 こういった状況のもとでデメトリオス2世はインドで大規模な征服活動を行ったと言われている。
 デメトリオス2世が支配した領域は学者によって見解がことなり正確なことはわかっていない。
 この時代のインドの文献にはマトゥラーなどガンジス川中流域の都市がギリシア人に包囲されたと記録するものがある。
 シュンガ朝やチェーティ朝との間で戦闘が行われたと考えられるが詳細はよくわかっていない。

 デメトリオス2世の行動に言及していると思われるインドの記録として、チェーティ朝の王カーラヴェーラの治世第8年の碑文がある。

 「カーラヴェーラ王の治世第8年、彼は大軍を持ってゴラダギリを攻略しラージャグリハ(王舎城)に迫った。彼の勇敢な所業の報せを耳にしたヤヴァナ王ディミタは、自らの軍を危険から逃すべくマトゥラーに退いた。」

 ともかくも、デメトリオス2世が熱心な征服活動をインド北西部からガンジス川流域にかけての地域で行っていたのは確実である。
 しかし、こうした中でグレコ・バクトリア本国では紀元前175年頃(年代には異説が多い)、エウクラティデス1世が反乱を起こし、支配権を握るという事件が発生した。
 このためデメトリオス2世は6万の兵を持ってエウクラティデス1世を討伐に向かった。
 エウクラティデス1世は僅か300人の手勢しか持っていなかったが、パルティアに領土の一部を割譲することで全面的な支援を獲得し、デメトリオス2世を撃退して紀元前171年頃に自ら王位についた(エウクラティデス朝)。
 そしてデメトリオス2世が征服したインド側領土の大部分を含む地方の支配権を得たが、バクトリア本国への帰還途中に息子に暗殺されたためにインド地方の支配権は大部分が失われた。

 この結果インド亜大陸及びその周辺におけるギリシア人の勢力はエウクラティデス1世の後継者によるバクトリア部分と、デメトリオス2世が征服した領域を基盤とするインド部分とに大きく分かれた。
 一般にこの分裂したギリシア人勢力のうちインド部分に支配権を持った諸王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。

 デメトリオス2世のインドにおける勢力基盤を継承したのは恐らくアポロドトス1世であった。
 この根拠となるのがデメトリオス2世の発行したコインとアポロドトス1世の発行したコインが同種の物であり、ほぼ同じ年代に属すると考えられることである(ただしアポロドトス1世がデメトリオス2世の父であるとする説もある。その他の説も多く正確にはわかっていない。)。
 アポロドトス1世はコインの分布からインダス川両岸地方からアラコシア(現:アフガニスタン南部)に至る地域に勢力を持っていたと推定されている。

 〔ウィキペディアより引用〕