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CTNRX的見・読・調 Note ♯009

2023-09-29 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(9)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(8) ❖

 ❒アフガニスタン王国

 アブドゥッラフマーンの孫にあたるアマーヌッラー・ハーン(在位:1919〜1929年)は、王族間の内紛を制して即位すると、第一次世界大戦での疲弊をとらえてイギリスに宣戦(第三次アフガン戦争)。
 アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)が結ばれた結果、アフガニスタンは外交権を回復し、完全独立を達成した。
 アマーヌッラー・ハーンは、急進的な改革を進め、1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。
 しかし急激な改革は、聖職者階級の反発をまねき、1929年にアマーヌッラー・ハーンは王位を追われた。
 各地に僭称者が乱立する混乱を収拾したのは、王家の傍流ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーであった。
 このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して「ムサーヒバーン朝」と呼ぶこともある。
 ムサーヒバーン朝では、聖職者階級との妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。
 しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねき、1973年、ザーヒル・シャーの従兄弟、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。
 最後の国王ザーヒル・シャーは、アフガン国民統合の象徴として、現在も尊敬の念をもたれている。

 1926年にアフガニスタン首長国の後継国家として成立した国。
 初代国王アマーヌッラー・ハーンが首長に即位した7年後、王を称したことで成立した。


 アマーヌッラー・ハーンはソビエト連邦との間で中立条約を結び、国の安定化、現代化を務めたが、保守勢力の反発で社会不安が生じた。
 1927年のヨーロッパ訪問中に反乱が再び勃発すると、彼は弟イナーヤトゥッラー・シャーに譲位したが、イナーヤトゥッラー・シャーはわずか3日後に反乱の指導者ハビーブッラー・カラカーニーに権力を奪取された。
 その後、ハビーブッラー・カラカーニーは国制を首長国に戻した。
 10か月後、アマーヌッラー・ハーンの国防相ムハンマド・ナーディル・シャーが逃亡先のイギリス領インド帝国から帰国した。
 彼の軍勢はイギリスの支援を受けてカブールを奪回、ハビーブッラー・カラカーニーは停戦を提案したが、逮捕されて処刑された。
 ムハンマド・ナーディル・シャーは国制を王国に戻し、1929年10月に国王に即位した後、アマーヌッラー・ハーンの改革を元に戻した。
 1933年にはその息子ザーヒル・シャーが即位、1973年まで統治した。

 ザーヒル・シャーの治世中、アフガニスタンははじめてソビエト連邦、フランス第三共和政、イギリス、アメリカ合衆国など諸外国との外交関係を樹立、1934年9月27日には国際連盟に加入した。
 第二次世界大戦中、アフガニスタンは中立にとどまった。
 戦後は非同盟外交の政策を採用、1953年から1963年までの首相ムハンマド・ダーウードはアフガニスタンの現代工業と教育の発展に尽力した。
 1973年、ザーヒル・シャーはいとこのムハンマド・ダーウードによって廃位された(1973年アフガニスタンのクーデター)。
 ムハンマド・ダーウードは王政を廃止、アフガニスタン共和国を建国した。

 《 イ ギ リ ス
        保 護 国 期 》

 ドースト・ムハンマドの死後、息子のシェール・アリが王位を継いだ。
 クリミア戦争以後、中央アジアに版図を広げていたロシアは1878年、イギリスの影響力を排除することを目的にカーブルに外交使節団を送り込んだ。
 それを知ったイギリス政府とインド総督リットンはカーブルにイギリスの大使館の設置を要求したが、回答がなかったことからアフガニスタンに対し軍隊の進駐を決める(第二次アフガン戦争)。

 当初はさしたる抵抗もなく駐留が続いたものの、1879年にカーブルで反乱が起き、1880年にカンダハール郊外でおきたマイワンドの戦いではイギリス軍が大敗した。
 その頃イギリスでは自由党のグラッドストン内閣が成立、アフガニスタンへの積極的な介入を推進していたリットン総督を更迭し、新しくリポン総督を任命し撤退を指示した。
 その際にイギリス側は亡命していたアブドゥル・ラーマン・ハーンを擁立することで反乱の沈静化を図り、アフガニスタン側はイギリス以外の国との政治的な関係を結ばないことを条件に、イギリスからの内政干渉を受けないことの約束を取り付け、事実上イギリスの保護国となった。
 1897年にアフガニスタン国王アブドゥル・ラーマンとイギリス領インド帝国外相モーティマー・デュアランド(英語版)との間で国境線が画定される(デュアランド・ライン)。
 アフガニスタン側は暫定的なものと解釈していたが改定されることはなく、パシュトゥーン人の歴史と分布を無視した人為的な分断として、現在のアフガニスタン・パキスタン国境線につながり多くの問題を引き起こす元となった。
 1907年には英露協商が成立した。
 ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗するために、イギリスとロシアにおいてペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットでの勢力範囲を定めたもので、アフガニスタンについてはロシアへの軍事的拠点としない条件でイギリスが支配することになった。

 《 再 独 立 》

 1919年、アブドゥル・ラーマンの後を継いで国王となっていたハビーブッラー・ハーンが暗殺され、王位は息子のアマーヌッラー・ハーンが引き継いだ。
 同年5月、アマーヌッラーはイギリス軍に対してデュアランド・ラインで失われたパシュトゥーン人の土地を取り戻すという名目でジハードを仕掛けた(第三次アフガン戦争、第II期グレート・ゲーム)。
 第一次世界大戦やインドでの内乱でイギリス軍が疲弊していることを見越しての戦争であったが、軍事用の複葉機からの空爆を初めて受けるなどし戦意を挫かれ、早々に終戦となり、ラーワルピンディーで条約を交わすことになった。

 イギリスは戦争には勝利したものの疲弊していたのは事実であり、ライバルのロシアに革命がおきグレート・ゲームから脱落したこともあり、国境線はデュアランド・ラインで維持することを認めさせつつ、アフガニスタンの独立を認めた。
 その後、アフガニスタンは急速に近代化を進めることとなる。

 ◆アフガニスタン王国

 アマーヌッラー・ハーンは1921年にはソビエトと友好条約を締結し、1923年にはアフガニスタン史上初の憲法を制定、立憲君主制への移行へ踏み出した。
 憲法では、王権の絶対制と世襲制、イスラム教の国教化を規定する一方で、評議会の設置や大長老会議の招集、各大臣からなる内閣の規定など、さまざまな権能の分散化も図られた。
 1926年には歴代の君主の称号であるアミールをやめ、シャー(パーディシャー)に変えた(アフガニスタン王国)。
 しかし急激な改革は保守的な層(ウラマーなど)からの反発を招き、1929年には首都カーブルで反乱がおきた。
 混乱を回避するためにアマーヌッラーは退位してイタリアに亡命、ハビーブッラー・ガーズィーがアミールを自称して一時政権を奪った(1929年1月17日〜10月13日まで)。
 1929年、ムハンマド・ナーディル・シャーがこの混乱を収めて王位につき、1931年にはよりイスラーム色を強めた新憲法を発布した。
 しかしナーディル・シャーは暗殺され、1933年11月に息子のザーヒル・シャーが19歳で王位を継いだ。
 首相として実際の政権を担っていたのはナーディル・シャーの弟のムハンマド・ハーシム・ハーンであり、1946年から1953年まではシャー・マフムード、その後はムハンマド・ダーウードが首相を継いだ。
 このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して、ナーディル・シャー朝と呼ぶこともある。
 ナーディル・シャー朝では、ウラマーとの妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。

 1953年9月にザーヒル・シャーの従兄弟で、親ソ連急進派のムハンマド・ダーウードが首相に就任。ウラマー会議が改革に反発して反政府キャンペーンを組織すると、ダーウードはウラマーを弾圧した。
 旧世代のムッラーは社会に対する影響力を失うにつれ、学生達を中心により急進的なイスラーム主義の勢力が台頭した。
 世論の反発を受けて、1963年3月10日にザーヒル・シャーはダーウード首相を退陣させた。
 1963年3月末から7名から成る憲法委員会は会合を開き、1年近くにわたって作業を続け、憲法草案を提出した。
 この草案は32名から成る憲法諮問委員会によって徹底的に検討され、1964年9月、憲法草案を検討し、正式に承認するためのロヤ・ジルカが招集されることになった。
 できるだけ全国民の意見を反映するものとなるように、各州で代議員を選出するための全国間接選挙が行われ542名(うち女性は4名)がえらばれた。
 このジルカでの議論は主に王族の役割と、司法制度の性質についてのものだった。王族は政党に参加してはならないという条項を入れた。
 法律・裁判所制度については近代化主義者の意見が通った。
 また、国内の強制移動や強制労働の問題についても強い反対意見が出された。新憲法には二院制議会(シューラ)で、秘密投票で選出される定員216名の下院(ウォレシ・ジルカ)と、一部は選挙、一部は国王の任命にて委員84名の上院(メシラノ・ジルカ)が定められた。
 しかし、政党の結成問題は、政党法が準備されるまで先送りされた。
 また、州及び地方自治体の地方議会を選挙で選ぶ方法も審議が延期された。
 2週間も経過しないでロヤ・ジルカ審議を終了してしまい、1964年10月1日、国王は新憲法に署名し、施行された。
 しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねいた。

 ◆アフガニスタン共和国
     (1973年〜1978年)

 1973年7月、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。

 アフガニスタン史上初の共和国であり、ムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターでアフガニスタン国王ザーヒル・シャーを廃位して建国した。
 ダーウードは進歩主義で知られ、ソビエト連邦やアメリカ合衆国から援助を受けて国を現代化しようとした。

 ザーヒル・シャーはイタリアへ亡命した。
 アフガニスタン共和国大統領に就任したダーウードは、反急進派勢力の中心となっているイスラーム主義勢力指導者の弾圧に向かい、海外に亡命した指導者によって反ソ連を志向するムジャーヒディーンが結成された。

 ダーウードの弾圧は親ソ連のアフガニスタン人民民主党のパルチャム派へも向けられるようになる。

 1978年4月27日のクーデターでダーウードは殺害された(四月革命)。

 1978年、四月革命とよばれる軍事クーデターが共産主義者のアフガニスタン人民民主党によって起こされ、ダーウードは一家もろとも殺害された。
 「ダーウード共和国」はソ連と同盟したアフガニスタン民主共和国に取って代わられたのであった。

 

 ◆アフガニスタン民主共和国
 〔人民民主党政権とソ連軍事介入〕

 ❒建国

 ◤ 1973年アフガニスタンの
          クーデター ◢

 1973年アフガニスタンのクーデターは、1973年7月17日、陸軍大将で王子のモハメド・ダウド・カーンが従兄弟のモハメド・ザヒール・シャー国王に対して起こしたクーデターで、ダウド・カーン率いる一党独裁体制のアフガニスタン共和国が成立した。
 クーデターでは、国王がイタリアのイスキアで療養している間に、ダウド・カーンは当時の参謀長アブドゥル・カリム・ムスタグニ将軍とともにカブールで軍を率いて王政を転覆させた。
 ダウド・カーンは、空軍大佐アブドゥル・カディールを含むPDPAのパルチャム派の陸軍将校と公務員によって支援された。
 ザヒール・シャー国王は報復をしないことを決め、8月24日に正式に退位し、イタリアに亡命した。
 1747年のドゥッラーニー帝国の建国以来、2世紀以上続いた王室支配は、このクーデターで幕を閉じた。

 当時、アメリカ国家安全保障会議のスタッフが「よく計画され、迅速に実行されたクーデター」と評したこの事件で、警察官7人と戦車隊長1人が死亡した。

 ❒背景

 1933年からザヒール・シャーが国王として統治し、1953年から1963年まで従兄弟のダウド・カーン王子が首相を務めていた。
 ダウド・カーンは国王との関係がぎくしゃくしており、1964年の憲法改正でバーラクザイ家の人々が政治家になれないようになったこともあり、国王が意図的にそうさせたという説もある。
 国王は、ダウド・カーンの強い親パシュトゥーニスタン派を過激とみなし、パキスタンとの政治的対立を招いたため、意図的にこのような行動をとったという説もある。
 ダウド・カーンは、1964年の議会制民主主義成立以来、5代にわたる政府の改革の失敗に対する国民の不満が高まる中、国会で可決された政党法、州議会法、自治体議会法を国王が公布しなかったことを契機に、このような改革を断行した。また、1971年から1972年にかけて、ゴル県を中心とした中西部で数千人の死者を出したとされる飢饉への対応が悪く、アブドゥル・ザヒール首相が辞任する事態になったことも理由の一つであった。
 1972年頃、国会の非力さや指導力不足に不満を持った人々が、大学で様々な政治運動を活発化させるようになった。
 また、国王との内紛もクーデター決行の一因とされる。
 一部の学者や歴史家は、証拠は弱いが、クーデターにソ連が関与した可能性を示唆している。

 ❒クーデター

 ザヒール・シャー国王は、1973年6月25日の朝、目を負傷し、出血の治療のためローマを経由してアフガニスタンを離れ、ロンドンに向かった。
 治療後、イタリアに戻り、イスキア島で過ごした。
 7月17日朝、モハメッド・ダウド・カーンは軍隊から数百人の支持者を集めてクーデターを起こした。
 武力抵抗もなく、数時間で王政は終わり、カーンは朝7時にラジオ・アフガニスタンで新共和国を発表した。
 米国の国家安全保障会議のスタッフは、「よく計画され、迅速に実行されたクーデター」と評した。
 唯一の死傷者は、反乱軍を敵対勢力と間違えた駅の7人の警察官でした。バスとの衝突を避けようとして道路から外れ、カブール川で溺死した戦車長。

 1973年7月、アフガニスタン最後の国王ザーヒル・シャーがイタリアで眼科手術と腰痛の治療を受けている最中、王族で元首相のムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターを起こして共和国を建国した。
 ダーウードは10年前の1963年にザーヒル・シャーによって首相の辞任を余儀なくされていた。
 ザーヒル・シャーは全面内戦を避けて退位した。

 ❒一党統治

 権力を奪取したダーウードは自身の政党であるアフガニスタン国民革命党を創設、同党はすぐにアフガニスタンの政治活動の中心になった。
 ロヤ・ジルガは1977年1月に新憲法を議決して一党制大統領制を採用、野党は暴力も含む弾圧を受けた。
 また1973年には元首相ムハンマド・ハーシム・マイワンドワールが政変を計画していると疑われたが、計画が旧王制に対するものか、新共和制に対するものかは不明である。
 いずれにせよ、マイワンドワールは逮捕された後、裁判の前に死亡した。獄中で自殺したとされたが、拷問で死亡したと広く信じられた。

 ❒共産主義の勃興

 ダーウードが1973年に共和国を建国した後、アフガニスタン人民民主党は入閣した。
 1976年、ダーウードは7年経済計画を立てた。
 彼はインドとの軍事訓練プログラムをはじめ、パフラヴィー朝イランとも経済発展に向けて話し合いを始めた。
 さらに石油で潤っていたサウジアラビア、イラク、クウェートなど中東諸国に財政援助を求めた。
 しかし、ダーウードの大統領期ではソビエト連邦との関係が悪化した。
 ダーウードが西側諸国との関係を改善し、キューバの非同盟運動参加を批判、ソ連の軍事と経済顧問を追放したことでソ連はダーウードを危険人物とみたのであった。
 さらに、ダーウードが野党を弾圧したことでソ連を後ろ盾とするアフガニスタン人民民主党はクーデター以来の友から敵に回ったのであった。
 1978年時点でダーウードは自身が定めた目標をほとんど達成できていなかった。アフガニスタンの経済は実質的には成長しておらず、生活水準も向上しなかった。
 さらに1977年の一党制憲法も盟友を遠ざける結果となった。
 アフガニスタン国民が1978年までに「何もしない」ダーウード政府に失望したのに対し、一部では入閣していた人民民主党党員による経済と社会改革に期待をよせた。
 人民民主党ではそれまで2派にわけて党内闘争をしていたが、このときは脆い協定で一旦和解しており、共産党を支持する軍部の一部が反政府行動を計画した。 
 1979年に革命評議会議長(国家元首)に就任したハフィーズッラー・アミーンによると、クーデターは1976年より計画されていたという。

 ❒四月革命

 1978年、人民民主党は四月革命と呼ばれる軍事クーデターで権力を奪取した。
 4月27日、カーブル国際空港の軍事基地から軍が出撃して首都カーブルの中心部に進軍した。
 大統領宮殿への空襲、反乱軍が迅速に連絡線など主な目標を占領したことにより、権力奪取は24時間内に完了、ダーウード一家は翌日に処刑された。
 人民民主党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーが革命委員会会長に選ばれ、ダーウードに代わって国家元首、そして新生アフガニスタン民主共和国の元首に就任した。

 ❒四月革命
      (アフガニスタン)詳細

 サウル革命(ダリー語: إنقلاب ثور または ۷ ثور, パシュトー語: د ثور انقلاب、四月革命、4月クーデターとも)は、アフガニスタンの社会主義政党(共産党)であったアフガニスタン人民民主党が、1978年4月27日に当時アフガニスタン共和国の大統領であったムハンマド・ダーウード率いる政府へおこした革命、クーデターである。
 その後、人民民主党はアフガニスタン民主共和国の建国を宣言した。

 ❖ 四月革命(サウル革命)❖

  時 1978年4月27日4月28日 (1日間)
 場所 アフガニスタン

 結果 アフガニスタン人民民主党の勝利

 ・ヌール・ムハンマド
 ・タラキーによる社会主義国の成立
  (アフガニスタン民主共和国の成立)
 ・ムハンマド
 ・ダーウードの処刑
 ・タラキー派(ハルク派)と
        パルチャム派の対立

 《 背 景 》

 1973年7月17日に起きたクーデターにより、国王ザーヒル・シャーは追放、亡命し、新たにムハンマド・ダーウードが権力を掌握した。
 これにより王政は廃止となって共和制となったアフガニスタン共和国だったが、依然として国家の基盤は弱かった。
 また北にはソビエト連邦、東には中華人民共和国、南には当時親米政権だったパキスタンと、大国の影響力をアフガニスタンは強く受けていた。
 そこでダーウードはこの事態を中立的立場となることでなんとかアフガニスタンを守ろうとした。
 米ソ双方との関係改善を推し進め、7月19日にはソ連、インドの外交的承認を承けた。
 当初はこれら一連の政策が功を奏し、冷戦下でのアフガニスタンの平和を実現させた。
 経済面でも大きな動きを見せることなく、第三世界のような社会主義的な構想を見せつつも、実現までは穏やかなものとし、宗教(とりわけイスラム教)や文化を保護した。
 しかし1970年代後半、ダーウードは西側諸国、とりわけアメリカ、パキスタン、中国との関係を深めた。
 これは北のソ連を刺激し、国内の社会主義者や共産主義者によって結成された人民民主党に大きな疑念を与えることとなる。
 また1977年には大統領制を再確認した上で自身の与党であったアフガニスタン国民革命党の一党独裁制を憲法に記した。
 これによって人民民主党は武力行使を決定した。
 当時の人民民主党は派閥抗争に陥っており、タラキー率いるハルク派とカールマル率いるパルチャム派に大きく分かれていた。
 ハルク派は急進的な政策を掲げ、おもに労働者、地方教員に支持され、パルチャム派は穏健的な政策を掲げ、学生、軍人、知識人といった、エリート層に支持された。

 ◆アフガニスタン共和国
 1988年、(1988年〜1992年)
 に国名変更。

 1988年4月14日にジュネーヴ協定が締結され、10月31日の国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションを経て、1989年にソ連軍は撤退した。

 ❒内戦とターリバーン政権

 ソ連軍撤退後も国内の支配をめぐって、政府軍や武器が戦後も大量に残されていたムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、ムジャーヒディーンからタリバーンやアルカーイダが誕生した。

 アフガニスタン共和国

 ・1992年、アフガニスタン・イスラム国(1992年〜2001年)が誕生。

 ・1996年、タリバーン政権によりアフガニスタン・イスラム首長国が成立。

 1998年8月7日にケニアとタンザニアでアルカーイダによるアメリカ大使館爆破事件が起こり、テロリストがタリバーン政権の保護下に逃げ込んだ。
 アメリカ政府(ビル・クリントン政権)はテロリスト訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで破壊し報復。
 1999年11月15日にアメリカ政府はテロリストの引き渡しを求めたが、タリバーンがこれを拒否したため、経済制裁が課された。

 ❒ターリバーン崩壊と新政府樹立

 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、その報復として10月からアメリカ(ジョージ・W・ブッシュ政権)と北部同盟によるアフガニスタン紛争が行なわれた。
 北部同盟を構成するのは、タジク人のイスラム協会、ウズベク人のイスラム民族運動、ハザーラ人のイスラム統一党である。

 ❒暫定行政機構

 12月22日にパシュトゥーン人でザーヒル・シャー元国王派のハーミド・カルザイが暫定行政機構議長に就任。
 こうして、多数派パシュトゥーン人のターリバーンに少数民族連合が挑むという対決の構図が形成されたが、その結果、アメリカが撤退することが難しくなった。

 アフガニスタン・イスラム共和国

 て公式に和平を直接協議。
 同年7月30日、消息が不明だったタリバンの最高指導者ムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認。
 2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがタリバンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立。
 同年3月、タリバンは和平交渉を拒否した2019年12月4日、ナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。
 2021年4月、アメリカ合衆国のジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。
 アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは主要都市を次々に制圧し、2021年8月15日にはカブールに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。
 政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。

 そして同年8月19日には、ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国として新政権を樹立した。
 8月15日以降、政権崩壊に直面して多国籍軍、外国の支援団体に協力していた市民を中心に、ターリバーン政権下で迫害を受ける可能性のある市民らの国外脱出が本格化した。
 カーブル国際空港からは連日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍の輸送機が多数の市民を乗せて離陸、8月25日までに約8万8000人がアフガニスタンを後にした。
 これらの中にはテレビ放送局(TOLO)に所属していたジャーナリストをはじめとした知識階級、技術者も多数含まれており、国の立て直しに向けて障害となる可能性を含むこととなった。

 〔ウィキペディアより引用〕