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CTNRX的事件File. ♯008ー⑥

2023-09-11 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 《ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害》

 イスラーム過激派組織であるアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事で同国の報復を受け、その指導者ウサーマ・ビン・ラーディンがアメリカ軍によって殺害された事件である。

 ▼ネプチューン・スピア作戦

 2011年5月2日、アメリカ軍による作戦が開始される。
 目的はあくまでビン・ラーディンの殺害であり、生け捕りは想定されていなかった。

 一部報道によれば、これに参加したアメリカ海軍の特殊部隊 、Navy SEALs を中心とした約15人(25人説もあり)のメンバーは、SEALから派生した対テロ特殊部隊「DEVGRU」(デヴグル:海軍特殊戦開発グループ:旧SEALチーム6)のメンバーであったとされている。
 また、アメリカ陸軍のデルタフォースもDEVGRUの支援にあたったとされている(ビンラディンはネプチューン・スピア作戦前から追跡されており,過去にデルタフォースが主導で行った捕縛作戦もある)。
 隊員達は、情報担当のCIA要員が同乗するステルス型UH-60 ブラックホークヘリコプター2機とCH-47 チヌーク2機に分乗して(これらのヘリは「ナイト・ストーカーズ」の通称で知られる第160特殊作戦航空連隊が操縦を担当したとされる)、ビン・ラーディンと、その家族がいると推定された建物の敷地内に、ロープをつたって降下、建物を急襲して2階・3階部分には午前1時ごろ突入した。
 側近が応戦したが、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧した。
 ビン・ラーディンは武器を持っておらず、応戦したともしなかったとも報じられ、頭部と胸部を撃ちぬかれ死亡。米軍は遺体を収容した。
 他にビン・ラーディンの子息と思われる20歳の男性(後に、ハリド・ビン・ラーディンと判明)、また別に兄弟2人の男性と1人の女性も死亡。
 女性は夫人の1人と報じられたが、後に「別人で夫人は負傷した」と訂正された。
 アメリカ軍側に人的損害は出なかった。
 その死はパキスタン政府当局によっても確認されている。
 作戦後、妻のハイリア・サバルを含む親族複数名が拘束・連行された。
 また、後に後継者となるハムザ・ビン・ラーディンは確認されなかった。
 作戦中、ホバリングしていたアメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプター1機が揚力を失い墜落したため、爆破処理されるというトラブルはあったが、すぐに代替のチヌーク・ヘリコプターが駆けつけ、プラン変更を行うことで作戦は続行された。

 作戦は、アメリカ本国でもホワイトハウスのシチュエーションルームでオバマ大統領のほか、バイデン副大統領、ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、マレン統合参謀本部議長らによって同時進行で見守られており、またCIA本部の会議室でも、パネッタ長官らがリアルタイムで監視していた。
 いかなる方法で監視していたかについては公開されていないが、一部では映像が生中継で流れたとも報じられている。
 作戦成功の報をパネッタより受けたオバマは ''We got Him'' (奴を捕えた) と叫んだという。

 アメリカ合衆国は、この作戦をパキスタン政府に事前に通告することなく行い、終了後に報告した。
 アメリカはパキスタンだけでなく、他の国とも情報は共有しなかったとされる。
 このためパキスタンのムシャラフ前大統領は、アメリカによる一連の作戦は主権侵害であると非難している。
 ビン・ラーディンの死亡は、アメリカのCNNによって一報が伝えられ、全世界のメディアも追随することとなった。
 その直後の5月1日午後11時半過ぎからオバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで深夜時間帯としては異例の記者会見を行い、ビン・ラーディンを殺害したことを正式に発表。
 全国テレビ中継を通じて ''Justice has been done'' (正義はなされた) と宣言した。
 このニュースが伝わると首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が押しかけて歓喜の声をあげた。

 ・アメリカ合衆国

 同時多発テロに直面し、ビン・ラーディンを追ったブッシュ前大統領は殺害を極めて大きな功績であると評価。
 崩壊した世界貿易センタービルのあるニューヨーク市のマイケル・ブルームバーグ市長は殺害の知らせをニューヨーク市民は10年間待っていたと評価。
 国民からも歓迎する声があがった。
 一方で国務省はアメリカに対する報復の可能性を懸念し、国外のアメリカ人に警戒を呼びかけた。
       (以下アルファベット順)

 ・ブラジル

 パトリオタ外相は、あらゆる形態のテロを糾弾すると同時に、今回の事件が世界で「さらなる暴力の拡大を引き起こさないこと」を期待すると表明した。

 ・チリ

 上院外交委員会のトゥマ委員長は、パキスタンの主権を無視した今回の米国の作戦について「国際法の有効性をないがしろにするもの」と批判した。

 ・中国

 外交部は対テロ戦争におけるポジティブな進展であると殺害を評価。
 同時に中国もテロの被害者であると付け加え、これは新疆ウイグル自治区における独立運動を念頭においているとみられている。
 また、中国の友好国でもあるパキスタンがビンラディンを匿っていたとする疑惑が持ち上がっていることに関して「パキスタン政府は確固たる決意でテロと戦っている」と擁護した。

 ・フランス

 ニコラ・サルコジ大統領は、テロリズムが歴史的な敗北を喫したと表現。

 ・ドイツ

 アンゲラ・メルケル首相はビン・ラーディンが殺害されたことで安堵しているとオバマ米大統領に表明。

 ・イギリス - デーヴィッド・キャメロン首相は世界に大きな安心感をもたらすと殺害を評価。
 一方でウィリアム・ヘイグ外務英連邦大臣は報復を懸念し各国にある大使館に警戒を呼びかけた。

 ・インド

 外務省は殺害が対テロ戦争における勝利の記念碑になったとして歓迎。

 ・イラク

 政府の報道官は、「多くのイラク国民を殺害し、国を破壊している組織の指導者の死に安堵している」と歓迎した。

 ・日本

 菅直人内閣総理大臣は対テロ戦争における顕著な前進であると歓迎。

 ・パレスチナ

 サラーム・ファイヤード首相は非常に画期的な出来事であると表現。

 ・ロシア

 大統領府は殺害を大きな成功と歓迎[。

 ・ウルグアイ

 アルマグロ外相はビンラディン容疑者の殺害が「国際テロへの打撃」となったと述べる一方、同容疑者は「司法を通じて罪を償うべきだった」と指摘した。

 ・ベネズエラ

 外務省は、同時多発テロの被害を受けた米国民に連帯を表明する一方、米国政府がとった方法は野蛮で不法なものだと批判した。

 ・イエメン

 アリー・アブドッラー・サーレハ政権、反政府勢力共に殺害を歓迎。
 イエメンは中東諸国の中でもビン・ラーディンの殺害に対して公式なコメントを早い時点で発表した数少ない国家となった。

 ▼経済に対する影響

 テロに対する懸念が軽減したことから各国の株式市場は軒並み上昇した。
 東京株式市場は2011年3月11日の東日本大震災以来の終値1万円台回復を見せた。
 またアジア市場における原油先物相場が1%下落した。
 フランスのクリスティーヌ・ラガルド経済・財政・産業大臣はアメリカにおける消費者心理が改善し、景気拡大に寄与するとの予測を示した。

 《ビン・ラーディンの水葬の是非》

 遺体はアメリカ軍によって、複数の親族とのDNA型鑑定の照合によりビン・ラーディン本人と確認された(マサチューセッツ州のボストンでビン・ラーディンの妹が脳腫瘍で数年前に死亡しており、FBIはその細胞と血液を保存していた)。 
 ただしアメリカ軍以外の第三者による遺体確認はされていない。
 その後アラビア海に停泊していた空母カール・ヴィンソンに移され、5月2日午前1時10分(EDT)より、同空母の甲板で50分かけて水葬の儀式が執り行われた。
 遺体は洗浄し清められ、白い布で包まれ、あらかじめ用意された祈りの言葉が唱えられ、通訳がそれをアラビア語に翻訳した。
 その後、重しをつけられた袋に入れられ、カール・ヴィンソンにある外舷エレベーターから海に投下された。
 後の情報公開の中では、機械的なエレベーターではなく、板の上に遺体を載せた後に板を傾けて落としたという。
 なお、この水葬の模様を捉えた映像は公開されていない。
 葬儀の実施については、乗組員のごく一部にしか知らされておらず、艦上で何が行われていたかに気づいている者は少なかった。

 アメリカ政府は、イスラム教においては遺体を死後24時間以内に埋葬しなければならないが、受け入れ先の土地が見つからなかったとして水葬の正当性を主張、一連の儀式はイスラム教の教義や慣習を厳格に守って行ったと発表している。
 しかしイスラムでは土葬が普通で、水葬されたことには異例とイスラム世界からの反発もあり、アル=アズハル大学の指導者タイブ師は「土葬によって死者に敬意を払うべきであり、イスラム教とは相容れない方法」と批判した。
 また本来はビン・ラーディンの出身国であるサウジアラビアに埋葬すべきであったとの声もある。
 アメリカ政府の意図として、イスラム過激派などによる遺体の回収や、埋葬された土地が「テロリストの聖地となるのを防ぐため」との指摘もある。
 ビン・ラーディンとされる頭を撃たれた遺体の映像が一時ネット上で出回ったが、これは後に別人の写真から合成されたものと判明し、米国政府は遺体の映像を一切公開しない方針を決定している。

  ❣❣❣【余談】❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣

 アメリカ先住民から暗号名に
 「ジェロニモ」を使用したことについて謝罪要求が出た。
 ビンラーディン追跡に協力した現地の医師がパキスタン当局に逮捕され懲役33年などが宣告されたが再審理が決定した。
 その後、懲役23年などに減刑された。 
 また医師の弁護士が殺害された。

  ❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣❣

 〔ウィキペディアより引用〕



 ❒統計でみたアメリカ同時多発テロ
   日本経済(沖縄県)への影響

 《消費関連》

 ◎消費者態度指数(季節調整値)は、テロ事件の影響が反映されていると考えられる。
 9月調査でみると、前期差4.0ポイント低下の36.9ポイントとなり、2四半期ぶりに低下した。

 ◎景気ウォッチャー調査(沖縄地域)の現状判断DIは、38.3から、テロの影響が反映された9月には27.8、10月には21.4に低下。

 《旅行関連》

 ◎9月の主要旅行業者50社でみた国内旅行と海外旅行の取扱金額合計は前年比12.2%減となり、1年2ヶ月ぶりに前年を下回った。

 ◎9月の主要旅行業者50社でみた海外旅行取扱金額はテロ以降、欧米方面を中心にキャンセルが相次いだこと等により、大幅な減少となり、前年比25.7%減と、4ヶ月ぶりの減少となっている。

 ◎9月主要旅行業者50社でみた国内旅行取扱金額は、前年比0.3%増となっている。

 ◎10月12日(2001年)現在での主要旅行会社の海外旅行キャンセル状況をみると、取消総額で約1.200億円、取消人数では約75万人となっている。

 《輸出入関連》

 ◎米国同時多発テロの影響で航空便が数日ストップしたことによる航空貨物の輸出・輸入への影響については、輸出は8月の27.6%減(前年比)に対し、9月は18.7%減、輸入は8月の13.0%減に対し、9月は18.7%減、ともに大幅な減少基調の中の動きであり、内外儒の冷え込みの中、テロの直接な影響は明確にはみられない。

 《沖縄関連》

 ◎沖縄への国内航空乗客輸送実績人数(対前年比)は、9月は1.4%増、10月は21.8%減。

 ◎旅行予約のキャンセル人数は、テロ発生から11月6日までに21.5万人(2000年度入域観光客数に対する割合は4.8%、修学旅行のキャンセル人数は昨年の修学旅行者数の55.0%)。

 ◎9月の完全失業率は9.4%(原数値)。対前月比で0.2ポイント増(3ヶ月連続の上昇)、対し前年比で1.0ポイント増。

 ❒アメリカ同時多発テロ事件
         における沖縄経済

 1.沖縄経済に与えた影響

 (1)観光産業、米軍基地への依存度が高い沖縄県の経済

 沖縄県の経済は、観光産業、基地関連支出への依存度が大きい。
 97年の沖縄県内総生産に占める観光収入の割合は12.4%であり、製造業(同6.1%)の約2倍となっている。
 同じく、基地関連支出(軍関係受取)の割合は5.4%であり、市の面積の約36%を米軍軍用地が占める沖縄市などでは更にその割合が高い。

 (2)観光客数への影響

 航空乗客輸送実績人数をみると、米国における同時多発テロ事件(以下、同時多発テロと略)。
 前の9月10日までは前年を上回っていたものが、11~20日には前年を下回った。
 そして、10月1~10日には対前年比で14.8%、約1万8千人減少し、10月に入り影響が顕著となっている。
 また、沖縄県観光リゾート局による旅行代理店への聞き取り調査によると、10月11日現在で沖縄県への旅行予約のキャンセル人数が10万人を超えた(2000年の年間入域観光客数は約452万人)。
 同3日調査時点のキャンセル人数が約5万4千人であったことから、キャンセル人数の増加のペースは早くなっている。
 特に、修学旅行のキャンセル数が全体の約8割を占めている。一方で、海外旅行から沖縄旅行への振替は約1千人にとどまっている。
 90年8月から91年2月にかけての湾岸戦争が沖縄への入域観光客数に与えた影響を振り返ってみると、90年8月のイラクによるクウェート侵攻の影響で9月に一時落ち込み、更に、多国籍軍がイラクに対して攻撃を開始した91年1月から、対前年比で1月2.7%減、2月3.4%減、3月3.3%減と3か月連続でマイナスを記録したものの、戦争終了の翌々月の4月以降は持ち直した。

 (3)小売その他への影響

 沖縄商工会議所は、10月2~4日に沖縄市胡屋地区の事業所346件(うち小売業は304件)を対象に同時多発テロに関するアンケート調査を行った。
 その結果によると、全体の43.1%が売上減少などの経営上の影響を受けている。
 そのうち、売上への影響が30%を超えた事業所は49.0%に上っている。尚、来店客に占める米軍人等の割合が4割を超える事業所は57.7%に上っており、この地域の軍施設への経済的依存度の高さが伺える。
 また、内閣府の景気ウォッチャー調査(2001年9月調査)においては、多数の人が同時多発テロの影響についてコメントしている。
 2~3か月後の景気の先行き判断の理由をみると、「同時多発テロの影響で、今後も旅行等で沖縄を避けることが懸念され、売上も減少が見込まれる(高級レストラン)」、「同時多発テロに関連して、修学旅行のキャンセルに伴う、団体貨物のキャンセルが予想される(輸送業)」といったコメントがみられ、幅広い業種で同時多発テロの影響が懸念されている。
 先行き判断DIも、8月の40.0から9月は32.4へ△7.6ポイントと、全国(35.3から31.1に△4.2ポイント悪化)と比べて悪化幅が大きくなっている。

 (4)沖縄振興開発金融公庫の緊急支援策について

 沖縄振興開発金融公庫は、観光関連事業者の経営支援策として緊急に特別相談窓口を設けた。
 セーフティーネット融資制度として、同時多発テロによる観光客数の減少等の影響を受けて売上が減少した観光関連事業者に、資金繰りを安定させるために必要な運転資金を通常より低利の1.40%-1.45%で融資する。
 また、返済期間も通常は5年以内のところを最大で7年以内に延長するなどの措置をとった。
 その後、相談状況を踏まえて特別利率0.9%の緊急融資制度を適用するなどの融資支援策を更に強化している。

 2.運輸・旅行業に与えた影響

 ここでは同時多発テロの影響が顕著に現れたとみられる運輸・旅行業について、その影響の程度を概観する。

 同時多発テロによる我が国航空会社・旅行会社への影響について国土交通省が調べたところによると、航空会社大手3社の国際線の旅客・貨物収入の減収は、9月11日から9月24日の期間で約107億円であった。
 更に、同時多発テロの影響は旅客・貨物収入の減収にとどまらず、航空保険契約の見直し(保険料の追加徴収)に伴う約400億円と航空保安体制強化に伴う約3.8億円の費用増加が見込まれる他、受託手荷物の全数検査を行うためのX線検査機器の購入費として約4億円が見込まれている。

 同時多発テロによる国際旅客数の減少及び費用増加に加え、世界的なIT不況による国際貨物需要の低迷も予想されることから、某大手航空会社は、2001年度の業績予想を経常利益の赤字化を見込むなど5月時点の見通しに比べ大きく下方に修正した。
 また、航空各社では航空保険料の値上げに伴い国際旅客便については5ドル、国内旅客便については500円の「航空保険特別料金」を設定し、国土交通省への認可申請・届出を行った。
 次に旅行会社への影響について同じく国土交通省が調べたところによると、主要8社の海外旅行のキャンセル状況は、9月11日時点の予約済み分から事件発生以降9月28日までのキャンセル分が取扱高ベ-スで約520億円に達した。
 取消者人数は約29万人であった。事件直後の短期間にもかかわらずその影響は小さくないといえる。
 参考までに、湾岸戦争時の海外旅行者数及び海外旅行取扱高の推移をみると多国籍軍がイラクへの攻撃を開始した1991年1月に減少に転じた後、2月、3月と急減し、2月の戦争終結後も低調な動きが続いた。
 海外旅行が本格的な回復をみたのは9月以降であった。

 〔情報元 : 内閣府〕



CTNRX的事件File. ♯008ー⑤

2023-09-11 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 《ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害》

 イスラーム過激派組織であるアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事で同国の報復を受け、その指導者ウサーマ・ビン・ラーディンがアメリカ軍によって殺害された事件である。

 《概要》

 アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、アメリカ合衆国連邦政府によって、2001年9月11日(以下、日付・時間はいずれもアメリカ東部夏時間 (EDT) )に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、それ以来アメリカにとってビン・ラーディンを抹殺することが一つの大きな目標となった。
 アメリカ合衆国による大規模な捜索にもかかわらず、拘束することができないまま10年近くが経過したが、2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によってウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認され、2001年以来続いてきた対テロ戦争は一つの節目を迎えることとなった。
 複数のメディアが、深夜の時間帯にもかかわらず、ビン・ラーディンが死亡したニュースを一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領がホワイトハウスから会見を行い、ウサーマ・ビン・ラーディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約60km北東にある地方都市アボッターバードの潜伏先と見られていた豪邸で、アメリカ軍の作戦により殺害されたことを全国テレビ中継で公式発表した。

 《経緯》

 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、アメリカ合衆国連邦政府はアフガニスタンのターリバーン政権に対して、首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同年10月7日にアフガン戦争が開始された。
 ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの国境地帯にある山岳などを捜索してきた。しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった。
 対テロ戦争を始めたアメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュ政権が、2009年1月にバラク・オバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、アメリカ中央情報局 (CIA) がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されているハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。
 2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った。
 これと相前後して、情報を得たレオン・パネッタCIA長官は、統合特殊作戦コマンド司令官であったウィリアム・マクレイヴン海軍中将に連絡を取った。
 アボッターバードは、パキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居は、パキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、英国放送協会(BBC)はパキスタン軍統合情報局(ISI)がビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じている。
 この情報はオバマ大統領にも報告された。

 これはアメリカ合衆国連邦政府内でも、限られた人間のみが知りうる最高機密情報として取り扱われた。
 その後も調査は続き、2011年3月中旬から4月28日にかけて、担当者とオバマ大統領のみが出席した国家安全保障会議が5、6回開催される。
 オバマは5回目の会議翌日の4月29日に、作戦決行の許可を出した。
 作戦名は「ネプチューン・スピア(海神の槍)作戦 - Operation ''Neptune Spear''」とされ、作戦の中ではビン・ラーディンの名はコードネーム「ジェロニモ」に置き換えられた。

 《潜伏先》

 ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅は3階建ての豪邸で、2005年頃に完成した。敷地の周辺は3メートルから5.5メートルもの高さの有刺鉄線に覆われた塀に囲まれており、豪邸に行くための通路には二重ゲートとなっているほか、入り口には見張りがつけられ、外部から内部の様子を容易に見えないようにする工夫がなされていた。
 周辺の家の約8倍もの広さを持ち、その価値は100万ドルを越えるとも言われる。
 なお、邸宅はイスラム過激派に聖地化されることのないよう、2012年2月25日より取り壊しが開始された。



 《ネプチューン・スピア作戦》

 2011年5月2日、アメリカ軍による作戦が開始される。目的はあくまでビン・ラーディンの殺害であり、生け捕りは想定されていなかった。
 一部報道によれば、これに参加したアメリカ海軍の特殊部隊 、Navy SEALs を中心とした約15人(25人説もあり)のメンバーは、SEALから派生した対テロ特殊部隊「DEVGRU」(デヴグル:海軍特殊戦開発グループ:旧SEALチーム6)のメンバーであったとされている。
 また、アメリカ陸軍のデルタフォースもDEVGRUの支援にあたったとされている(ビンラディンはネプチューン・スピア作戦前から追跡されており,過去にデルタフォースが主導で行った捕縛作戦もある)。
 隊員達は、情報担当のCIA要員が同乗するステルス型UH-60 ブラックホークヘリコプター2機とCH-47 チヌーク2機に分乗して(これらのヘリは「ナイト・ストーカーズ」の通称で知られる第160特殊作戦航空連隊が操縦を担当したとされる)、ビン・ラーディンと、その家族がいると推定された建物の敷地内に、ロープをつたって降下、建物を急襲して2階・3階部分には午前1時ごろ突入した。
 側近が応戦したが、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧した。
 ビン・ラーディンは武器を持っておらず、応戦したともしなかったとも報じられ、頭部と胸部を撃ちぬかれ死亡。米軍は遺体を収容した。
 他にビン・ラーディンの子息と思われる20歳の男性(後に、ハリド・ビン・ラーディンと判明)、また別に兄弟2人の男性と1人の女性も死亡。
 女性は夫人の1人と報じられたが、後に「別人で夫人は負傷した」と訂正された。
 アメリカ軍側に人的損害は出なかった。
 その死はパキスタン政府当局によっても確認されている。
 作戦後、妻のハイリア・サバルを含む親族複数名が拘束・連行された。
 また、後に後継者となるハムザ・ビン・ラーディンは確認されなかった。

 作戦中、ホバリングしていたアメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプター1機が揚力を失い墜落したため、爆破処理されるというトラブルはあったが、すぐに代替のチヌーク・ヘリコプターが駆けつけ、プラン変更を行うことで作戦は続行された。
 作戦は、アメリカ本国でもホワイトハウスのシチュエーションルームでオバマ大統領のほか、バイデン副大統領、ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、マレン統合参謀本部議長らによって同時進行で見守られており、またCIA本部の会議室でも、パネッタ長官らがリアルタイムで監視していた。
 いかなる方法で監視していたかについては公開されていないが、一部では映像が生中継で流れたとも報じられている。
 作戦成功の報をパネッタより受けたオバマは ''We got Him'' (奴を捕えた) と叫んだという。

 アメリカ合衆国は、この作戦をパキスタン政府に事前に通告することなく行い、終了後に報告した。アメリカはパキスタンだけでなく、他の国とも情報は共有しなかったとされる。
 このためパキスタンのムシャラフ前大統領は、アメリカによる一連の作戦は主権侵害であると非難している。
 ビン・ラーディンの死亡は、アメリカのCNNによって一報が伝えられ[34]、全世界のメディアも追随することとなった。
 その直後の5月1日午後11時半過ぎからオバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで深夜時間帯としては異例の記者会見を行い、ビン・ラーディンを殺害したことを正式に発表。全国テレビ中継を通じて ''Justice has been done'' (正義はなされた) と宣言した。
 このニュースが伝わると首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が押しかけて歓喜の声をあげた。

 《ビン・ラーディンの殺害の反響》

 ビン・ラーディンの殺害自体については歓迎する声明が次々に発表されたがテロ攻撃の可能性がなくなったわけではなく、各国の警察・軍事組織は報復攻撃を警戒し、国際刑事警察機構も各国に向けて警戒するよう呼びかけた。

 ❖各国の反応

 ✔アメリカ合衆国

 同時多発テロに直面し、ビン・ラーディンを追ったブッシュ前大統領は殺害を極めて大きな功績であると評価。
 崩壊した世界貿易センタービルのあるニューヨーク市のマイケル・ブルームバーグ市長は殺害の知らせをニューヨーク市民は10年間待っていたと評価。
 国民からも歓迎する声があがった。
 一方で国務省はアメリカに対する報復の可能性を懸念し、国外のアメリカ人に警戒を呼びかけた。
(以下アルファベット順)

 ✔ブラジル

 パトリオタ外相は、あらゆる形態のテロを糾弾すると同時に、今回の事件が世界で「さらなる暴力の拡大を引き起こさないこと」を期待すると表明した。

 ✔チリ

 上院外交委員会のトゥマ委員長は、パキスタンの主権を無視した今回の米国の作戦について「国際法の有効性をないがしろにするもの」と批判した。

 ✔中国

 外交部は対テロ戦争におけるポジティブな進展であると殺害を評価。
 同時に中国もテロの被害者であると付け加え、これは新疆ウイグル自治区における独立運動を念頭においているとみられている。
 また、中国の友好国でもあるパキスタンがビンラディンを匿っていたとする疑惑が持ち上がっていることに関して「パキスタン政府は確固たる決意でテロと戦っている」と擁護した。

 ✔フランス

 ニコラ・サルコジ大統領は、テロリズムが歴史的な敗北を喫したと表現。

 ✔ドイツ

 アンゲラ・メルケル首相はビン・ラーディンが殺害されたことで安堵しているとオバマ米大統領に表明。

 ✔イギリス

 デーヴィッド・キャメロン首相は世界に大きな安心感をもたらすと殺害を評価。
 一方でウィリアム・ヘイグ外務英連邦大臣は報復を懸念し各国にある大使館に警戒を呼びかけた。

 ✔インド

 外務省は殺害が対テロ戦争における勝利の記念碑になったとして歓迎。

 ✔イラク

 政府の報道官は、「多くのイラク国民を殺害し、国を破壊している組織の指導者の死に安堵している」と歓迎した。

 ✔日本

 菅直人内閣総理大臣は対テロ戦争における顕著な前進であると歓迎。

 ✔パレスチナ

 サラーム・ファイヤード首相は非常に画期的な出来事であると表現。

 ✔ロシア

 大統領府は殺害を大きな成功と歓迎。

 ✔ウルグアイ

 アルマグロ外相はビンラディン容疑者の殺害が「国際テロへの打撃」となったと述べる一方、同容疑者は「司法を通じて罪を償うべきだった」と指摘した。

 ✔ベネズエラ

 外務省は、同時多発テロの被害を受けた米国民に連帯を表明する一方、米国政府がとった方法は野蛮で不法なものだと批判した。

 ✔イエメン

 アリー・アブドッラー・サーレハ政権、反政府勢力共に殺害を歓迎。
 イエメンは中東諸国の中でもビン・ラーディンの殺害に対して公式なコメントを早い時点で発表した数少ない国家となった。

 ▼経済に対する影響

 テロに対する懸念が軽減したことから各国の株式市場は軒並み上昇した。
 東京株式市場は2011年3月11日の東日本大震災以来の終値1万円台回復を見せた。
 またアジア市場における原油先物相場が1%下落した。
 フランスのクリスティーヌ・ラガルド経済・財政・産業大臣はアメリカにおける消費者心理が改善し、景気拡大に寄与するとの予測を示した。

 《アメリカ同時多発テロ事件
          調査とその後》

 ▼サウジ政府の関与疑惑

 オバマ政権は2016年7月、米捜査官のダナ・レゼマンとマイケル・ジェイコブソンがまとめた「ファイル17」と呼ばれる文書を公開したが、その中には、サウジアラビアとハイジャック犯を結びつける ワシントンD.C.のサウジアラビア大使館付属のサウジアラビア諜報員の疑いがある人物を含む、3ダースの人物を名指しで挙げたリストが含まれていた。

 ▼対テロ戦争

 ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻を行い、さらに2002年に国際テロ組織とならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。
 これを元に、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。
 この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、日本・イギリス・フィリピン・スペイン・イタリアなどのアメリカ合衆国同調国と、フランス・ドイツ・ロシア・中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。
 その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。

 なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、民主党議員のバーバラ・リー僅か1人だけであった。

 またブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁政治が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。
 アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。
 さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。
 市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監、自白を取る為の拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、警察国家化傾向が国内の一部市民団体から批判されている。

 ▼WTCコンプレックス跡地の再開発

 ワールドトレードセンター・コンプレックスの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。
 しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たなオフィスビル・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。
 当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた建築設計競技の結果、アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンドの案が採用された。
 2004年7月、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。
 敷地内にはツインタワー北棟・南棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に1 ワールドトレードセンターに名称変更)と名づけられ、アメリカの独立した1776年にちなんで、1,776フィート (541 m)の高さとなる。
 2014年11月3日開業。周囲にはタワー4・タワー7が建設済み、タワー2・タワー3・タワー5が建つ予定。

 一方、崩落したワールドトレードセンター・コンプレックスの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。
 遺体はDNAすら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。
 しかし、2005年3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。
 鉄骨類は屑鉄として再利用のためインドへと輸出された。

 ▼アメリカ同時多発テロ以降の
     アメリカ国内でのテロ状況

 2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2022年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。
 この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。
 しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。
 それは2009年12月25日のノースウェスト機テロ、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。
 しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。
 したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。

 ▼戦死兵と自殺兵

 ブラウン大学が2021年6月に発表した調査によると、9・11以降、アメリカはアフガニスタンやイラクへの軍事作戦を展開し、この一連の軍事行動(2001年から2021年の20年間)で、戦死した米兵は7,057人であるのに対し、戦地から帰国した後にPTSDなどを発症して自殺した元米兵は、4倍以上の3万177人にのぼることが分かった。

 〔ウィキペディアより引用〕



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2023-09-11 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 《思想》

 イスラム主義過激派運動は、イスラム復興とイラン革命後のイスラム運動の台頭の時期に進展した。

 一説によると、エジプトの作家・思想家・ムスリム同胞団の理論的指導者のサイイド・クトゥブの著作がアルカーイダの組織に影響を与えたと言う。
 1950年代から1960年代、クトゥブはシャリーア法が欠如しているイスラム世界はもはやイスラム教徒ではなく、ジャヒリヤと言うイスラム以前の無知に戻ったと説いた。
 イスラム教を復活するために、クトゥブは「真のイスラム国家」を確立しシャリーアを実装し、イスラム教徒の世界から非イスラム教徒の影響を取り除くために、正しいイスラム教徒の先駆者が必要であると主張した。
 クトゥブの見解には、イスラムの敵に「陰謀を企み」、イスラムに反対した「世界のユダヤ人」が含まれていた。

 ビン・ラディンの親しい友人であるモハメッド・ジャマル・ハリファの言葉では

 ●イスラム教は他の宗教とは異なります。それは生き方です。
 私たち(ハリファとビンラディン)は、私たちがどのように食べ、誰と結婚し、どのように話すかについてイスラム教がどうしなければならないと言っているかを理解しようとしてきました。
 私たちはサイイド・クトゥブを読みました。
 彼は私たちの世代に最も影響を与えた人物です。

 クトゥブはビンラディンの師であるアイマン・アル・ザワヒリにも影響を与えた。
 ザワヒリの叔父で母方の家長であるマフォウズ・アザムはクトゥブの学生であり、被保護者であり、個人的な弁護士であり、そして彼の財産の執行者だった。
 アザムは処刑前にクトゥブが生きているのを見た最後の人々の一人だった。
 ザワヒリは彼の著作「預言者の旗の下の騎士」でクトゥブに敬意を表した。
 クトゥブは多くのイスラム教徒は真のイスラム教徒ではないと主張した。
 クトゥブは一部のイスラム教徒は背教者であると主張し、その中にはシャリーア法を執行しないイスラム教徒の国の指導者が含まれていた。
 親ソビエト政府に対するアフガニスタンのジハードは、アルカーイダに影響を与えたサラフィストのジハード主義運動をさらに発展させた。

 1996年、ビンラディンは「二聖モスクの地を占領する米国人に対するジハード宣言」を行い、アメリカ合衆国やイスラエルに対するジハードを呼び掛けた。 
 1998年、「ユダヤ人及び十字軍との聖戦のための世界イスラム戦線」の結成文書で、「米国及びその同盟者に対し、軍人、民間人のいずれを標的にすることを問わずジハードを行うことが、それが実行可能なすべてのイスラム教徒にとって義務である」と宣言した。
 アルカーイダは「イスラム世界は欧米・ユダヤの「十字軍勢力」によって「侵略・抑圧」されているとの認識の下、イスラム世界を守るため、場所の如何を問わず「十字軍勢力」の権益を打倒しなければならない」というグローバル・ジハード思想を喧伝している。

 《起源》

 アルカーイダの起源は、1979年12月から1989年2月まで続いたソ連・アフガン戦争(第一次アフガニスタン紛争)に求められる。
 この戦争中、アラブ諸国から多数の若者がアフガニスタンを訪れ、アラブ人のムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)としてソ連に対する「ジハード(聖戦)」に参加したが、そのような外国人義勇兵の活動は「マクタブ・アル=ヒダマト (MAK)」等の国際組織によって統率されていた。
 MAKは1984年、パレスチナ人のイスラム学者アブドゥッラー・アッザームと、その大学での教え子であったサウジアラビア人ウサーマ・ビン・ラーディンによって、パキスタンのペシャーワルで設立された。
 富豪であったビン・ラーディンは、1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻の直後からムジャーヒディーンへの金銭的支援を行っており、MAKの活動にも多額の資金を提供した。
 MAKの活動にはイスラム集団の精神的指導者であるオマル・アブドッラフマーンやジハード団指導者のアイマン・ザワーヒリーなどが合流し、35000人のムジャーヒディーンが世界各地からアフガニスタンに集まった。
 MAKは、ペシャーワルにゲストハウスを設けアフガニスタンのジャラーラーバードなどに軍事訓練キャンプを建設し、ゲリラ戦を主体としてソ連軍と戦うアラブ人ムジャヒディーンを支援した。
 なお、米ソ冷戦を背景として、アメリカ中央情報局 (CIA)は「サイクロン作戦」の名の下で、パキスタン軍統合情報局 (ISI)を通じてムジャーヒディーン勢力への資金援助を行ったが、ビン・ラーディンらの組織 (MAK)がアメリカから資金提供を受けたとする報告も存在する。

 1988年、ソ連軍がアフガニスタンからの撤退した後も世界各地でジハードを継続することを望むビン・ラーディンとその同志が中心となり、MAKから独立した新組織「アル=カーイダ」を結成した。
 ここにおいてアブドゥッラー・アッザームはソ連軍撤退後に勃発したアフガニスタン内戦を最優先するのに対し、経済的な側面での実力者であった弟子のビン=ラーディンは世界各地でのテロ作戦を主張し両者の路線対立が表面化した。
 1989年にアブドゥッラー・アッザームは何者かに爆殺されMAK体制は崩壊し、アル=カーイダのメンバーはビン=ラーディンの傘下となった。
 ビン=ラーディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国した。
 1991年に湾岸戦争が勃発し、当時サウジアラビアに帰国していたビン=ラーディンらがムジャーヒディーンによってイラク軍からサウジアラビアを防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王が断り、イスラームの2大聖地であるメッカとマディーナを領有するサウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことは当時ムジャーヒディーン達の反米意識を高めさせた。

 1992年、宗教指導者で民族イスラム戦線のハッサン・アル=トゥラビの招きでビン=ラーディンは密かにサウジアラビアを抜け出しスーダンに移った。
 スーダンではオマル・アル=バシールのクーデターが成功、ビン=ラーディンはスーダン滞在中に建設事業などを進める一方でアイマン・ザワーヒリーなどと組織を強化した。
 しかしテロを続けるアルカーイダはスーダンの厄介者となり、1995年にアイマン・ザワーヒリーはスーダンを離れ世界各地を転々とし、ビン=ラーディンは1996年にアフガニスタンに拠点を移した。

 《活動》

 ◆1990年代

 北米

 1990年代に始まったアル=カーイダの闘争は、年を追って過激になった。
 1993年には、思想的指導者となったオマル・アブドッラフマーンや幹部のハリド・シェイク・モハメド、実行犯ラムジ・ユセフらが、ニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件を引き起こした。
 1995年には、ウサーマ・ビン=ラーディンの資金提供元にハリド・シェイク・モハメドが起案し、ラムジ・ユセフが実行する予定だった、アジア各国空港発アメリカ行き旅客機の同時爆破を狙ったボジンカ計画が発覚している。
 また、これに続く計画では、小型航空機をシアーズタワーやアメリカ合衆国議会議事堂、ホワイトハウスやCIA本部などに突入させる計画も練られており、これらの計画がアメリカ同時多発テロ事件の原案になっているとされる。

 中東

 1996年には、在サウジアラビア米軍基地爆破事件を引き起こした。

 アフリカ

 1998年には、在ケニアと在タンザニアのアメリカ大使館爆破事件 (1998年)を引き起こし、アフガニスタンのターリバーン政権は同年12月に採択された国際連合安全保障理事会決議1214で匿っているテロリストを国際司法機関へ引き渡すよう求められ、1999年の安保理決議1267において、初めてビン=ラーディンとアル=カーイダを名指ししてテロリストの引き渡しが求められた。

 アジア

 一連のボジンカ計画はフィリピン警察が1995年にマニラにあるアルカーイダのアジトに踏み込んだことにより発覚した。
 ボジンカ計画には、東南アジア各国から出発したアメリカ航空機を同時爆破する計画の他にも、フィリピンに訪問したヨハネ・パウロ2世を暗殺する計画も含まれていた。
 ボジンカ計画の予行演習としてラムジ・ユセフが実行した1994年のフィリピン航空434便爆破事件では、日本人一人が死亡した。
 1997年にはアルカーイダの母体となったイスラム集団がルクソール事件を引き起こし、日本人観光客も死亡している。

 ◆2000年代前半

 北米

 2001年にハリド・シェイク・モハメド起案によるアメリカ同時多発テロ事件を引き起こした。
 これに対して同年10月にアメリカを中心とした有志連合諸国と北部同盟が不朽の自由作戦を発動し、ビン=ラーディンとアル=カーイダ勢力を匿うターリバーン政権への軍事攻撃を始めたことにより、アフガニスタン紛争が開始された。同年12月にターリバーン政権は打倒され、ハーミド・カルザイ暫定政権が発足した。
 これにより、アル=カーイダは資金的・人員的に打撃を受けたとされ、以降、アル=カーイダは個々の組織に分離し、それぞれが個別に活動を行っているとされている。
 また2002年の国際連合安全保障理事会決議1390で、ビン=ラーディンとアル=カーイダ関係者とターリバーン幹部らの資産凍結が決定されている。

 欧州

 2004年3月11日には、マドリード列車爆破テロ事件が発生した。
 これに対してアル=カーイダの欧州軍事報道官を名乗る「アブ・ハフス・アル・マスリ隊」がアメリカ同時多発テロを引き合いに出しながらスペイン軍のイラク駐留を十字軍に準えて犯行声明を出した。
 このテロ攻撃は総選挙の3日前に実行されたため、選挙結果に決定的な影響を与えることになった。 つまり、アル=カーイダの思惑通り、元々が反戦世論の強かったスペインにおいて、事件直後からイラク政策でアメリカ追従を続けてきた国民党(ホセ・マリア・アスナール政権)に対して国民の批判が殺到、イラク撤退を求める市民のデモが相次ぐことになった。
 またイラク駐留を推進するアスナール政権が、事件発生直後からバスク祖国と自由(ETA)による犯行を示唆していたことにより、「イラク撤退を避けるためETA犯行説を捏造したのではないか」と いう国民の不信を招いた。
 これに乗じてイラクからの即時撤退を公約に掲げる野党のスペイン社会労働党は国民党を非難、劇的な逆転勝利による政権交代を成し遂げた。
 4月16日に首相に選出されたホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロは直後に公約通りにイラクからの撤兵を決定、4月18日から5月までに撤退を完了させた。
 2004年12月、ベルリン訪問中のイヤード・アッラーウィーイラク首相の暗殺を試みたラフィク・ヨセフ他2名のテロリストが逮捕される。

 2005年7月7日には、ロンドン同時爆破事件が発生し、「欧州の聖戦アルカーイダ組織」名義でイラクとアフガニスタンからの各国軍の撤退を求める犯行声明が出された。
 後にこの犯行声明は信憑性が薄いとされたが、同年9月1日にアルカーイダが公式に犯行を認める声明を発表した。
 犯行は海外にいるアルカーイダ首謀者の計画によって進められ、イギリス国内のムスリムが実行したものと見られている。

 中東

 2000年には、イエメン沖の米艦コール襲撃事件を引き起こし、同年の安保理決議1333でも再度、ターリバーン政権に対して、ビン=ラーディンとアル=カーイダを名指しして、テロリストの引き渡しを求めた。
 しかしターリバーン政権は、これらの決議に応じなかったため経済制裁を受けた。
 2003年末以降、イラク戦争後のアメリカ・イギリスの占領統治下にあるイラクに、アル=カーイダ系テロリストが多数潜入・潜伏した。
 2004年春以降、アル=カーイダ系テロリストは、アメリカ人やその同盟国の民間人を標的とした数々の誘拐・殺害事件を実行した。
 2004年10月には、その残忍さから世界中に悪名を轟かせているアブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー率いるアル=カーイダ系のスンナ派武装組織であるイラクの聖戦アル=カーイダ組織がイラク日本人青年殺害事件を引き起こし、日本全土に衝撃を与えた。
 同組織は構成員にイラク国外出身者のムジャーヒディーンを多く含み、外国人の首を切断して殺害したり、イラク国内のシーア派住民を無差別に殺害するなどの極端に過激な闘争路線を取っていたことから、他のイラク国内の武装勢力としばしば対立した。
 アフガニスタン紛争勃発以後、ビン=ラーディンとアイマン・ザワーヒリーは、アフガニスタンとパキスタンの国境線(デュアランド・ライン)付近のパキスタン領であるカイバル・パクトゥンクワ州や、パキスタン政府の実効支配が限定的にしか及ばない連邦直轄部族地域付近を逃亡中であると考えられていたことから、アメリカ軍はアフガニスタン新政権樹立後も、ビン=ラーディンやアイマン・ザワーヒリーを捕獲し、ターリバーンやアル=カーイダ残党、現地武装勢力を掃討するとの名目で、不朽の自由作戦を継続した。
 この戦いは主に、国境を挟んだパキスタン側の連邦直轄部族地域のワジリスタン地域で行われていることから、ワジリスタン紛争とも呼ばれている。

 アジア

 2000年1月、マレーシアのクアラルンプールでアルカーイダの幹部が会議を開いた。
 イスラーム主義組織「ジェマ・イスラミア」(JI)が主導した2002年のバリ島爆弾テロ事件では、アルカーイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドらが関与したことが判明しており、ジェマ・イスラミアは2005年にもバリ島爆弾テロ事件を起こしている。
 アメリカで逮捕されたアルカーイダ構成員からの証言によると、2002年に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでテロ活動を計画したが、日本にイスラム教徒が少なく協力者が得られないなどの理由で白紙化されたという。
 また2002年から2003年にかけてにアルカーイダ系組織「ルーベ団」の幹部のアルジェリア系フランス人リオネル・デュモンが偽造旅券で日本へ4回入国し、新潟に潜伏していた事が判明している。
 関係して5名の外国人が警視庁等に逮捕された。 2004年10月にはイラクで、イラクの聖戦アルカーイダ組織がイラク日本人青年殺害事件を引き起こしている。

 ◆2000年代後半

 中東

 2006年10月には、イラクの聖戦アルカーイダ組織を中心とした5つのスンニ派武装組織が結集して、イラク中部を一方的に自国領土だと主張する過激派の統一機構であるイラク・イスラム国を結成した。
 しかし、イラクの聖戦アルカーイダ組織の指導者であったザルカウィと、イラク・イスラム国の指導者であったアブー・ウマル・アル=バグダーディー(首長)、アブ・アイユーブ・アル=マスリ(戦争大臣)は、既にアメリカ軍とイラク治安部隊の合同作戦で死亡しており、現在ではイラク国内のアルカーイダ系勢力は弱体化が進んでいると見られている。
 そして、イラク・イスラム国の新たな指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーによる新指導体制について、イラクのマリキ首相は「早期に終結させる」と宣言している

 アジア

 ラシュカレトイバが主導したと見られる2006年のムンバイ列車爆破事件と2008年のムンバイ同時多発テロでもアルカーイダの関与が疑われている。
 また、パキスタンで起こった、2007年のパキスタン・モスク立てこもり事件と2008年9月のイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件でもアルカーイダの関与が疑われている。
 新疆ウイグル自治区では中華民国時代から、イスラム教徒のウイグル人による東トルキスタン独立運動がある。そのうち東トルキスタンイスラム運動は、中華人民共和国の共産主義政権からの独立を目指すために「あらゆる手段を講じても独立を勝ち取る」と宣言しているが、その中でアルカーイダとの係わりを示唆している。
 2008年4月11日の夕刊フジでは、中国政府が中国全土がテロのターゲットになる恐れがあることを懸念していると報じられた。
 東トルキスタンイスラム運動は、2008年7月21日に発生した昆明バス爆破事件や、カシュガルで発生した警察に対するテロ事件にも関わっていると見られ、アメリカ、中国両政府からアルカーイダとの強いつながりが疑われる組織として認定されている。
 2007年2月、キャンプ座間が迫撃弾により攻撃された際には、米ABCテレビは日本及びパキスタン情報筋の話として日本国内でアルカーイダと関係の深いパキスタン人武装組織によるネットワーク化が進んでいると伝えた。

 2007年10月29日、日本外国特派員協会で行われた講演の中で、鳩山邦夫法務大臣が「私の友人の友人がアルカイーダ」と発言し「2、3年前は何度も来日していたようだ」とも語った[95]。現役閣僚の発言として大きな波紋を呼び、のちに一部発言を訂正した。

 ◆2010年代前半

 中東

 2010年5月21日にはアル=カーイダのナンバー3でアフガニスタンにおいてアル=カーイダを指揮するサイード・アル=マスリー(別名:ムスタファ・アブ・アル=ヤジド)が、アメリカ軍の無人攻撃機により殺害された。
 2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、「アメリカ軍の特殊部隊が、ビン=ラーディンの潜伏先と見られていたイスラマバード北東のアボッターバードにある邸宅で、ビン=ラーディンを殺害した」と、CNNが報道した。
 これに関して、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがCNNの報道直後に声明を発表しており、ビン=ラーディンとされる遺体をアメリカ当局が回収した事、及びDNA鑑定の結果、遺体がビン=ラーディンである事も判明したとされる。

 2013年1月、イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ(AQIM)がアルジェリア人質事件を引き起こし、日本人10人が死亡した。
 2014年2月、アルカーイダがイラクとレバントのイスラム国(ISIL)と絶縁した。
 6月、イラクとレバントのイスラム国(ISIL)がイスラム国家の樹立が宣言した。

 アジア

 2011年、フィリピンのミンダナオ島やスールー諸島などでアルカーイダ系組織が活動を活発化させた。
 2014年6月、フィリピンのバシラン州を拠点とするアブ・サヤフの派閥がイスラム国(ISIL)に鞍替えした。
 2014年9月、アルカーイダはインド亜大陸のアルカーイダ(AQIS)を設立し、ミャンマーやバングラデシュ、インド(アッサム州やグジャラート州)、カシミールなどで活動を行うと発表した。
 一説によると、これはイスラム国に対する牽制という意味があると言う。

 ◆2010年代後半

 欧州

 2015年1月、アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)がシャルリー・エブド襲撃事件を起こした。

 中東

 2016年7月、ヌスラ戦線がアメリカ合衆国やロシアからの攻撃を避けるためや他の反体制派勢力との統合を進めるために、アルカーイダからの分離を宣言したが、アイマン・ザワーヒリーは分離を拒絶した。
 2018年5月の国際連合安全保障理事会のISIL(ダーイシュ)及びアルカーイダ制裁委員会議長から国際連合安全保障理事会議長への書簡によると、パキスタンの連邦直轄部族地域に対する軍事作戦により20のテロリスト集団がアフガニスタンに退避して、ターリバーンにかくまわれている。
 その人数はターリバーンと敵対しているイスラム国も含めると1万人~1万5000人に及ぶ。
 アフガニスタン内のアルカーイダは265人~400人で、前年の100人~120人と比べると増加している。
 アルカーイダはバダフシャーン州やクナル州、ナンガハール州やヌーリスタン州などアフガニスタン東部で増加している。
 クナル州やナンガハール州の指導者はアブ・アーフンド(Abu Akhund)というアラブ人で、元はオサマ・ビン・ラディンの相談者だった人物である。
 アーフンドは海外から定期的にアフガニスタンに通っている。
 オサマビンラディンの息子ハムザ・ビン・ラーディンもパクティーカー州やクナル州、バダフシャーン州のワルデュ郡などに展開している115人のアルカーイダの部隊を海外から統率していると言われている。
 アルカーイダはターリバーンの保護の下で、ザーブル州のKhak-e-Afghan郡とDaychopan郡に訓練キャンプを設置している。
 またアルカーイダはターリバーンの保護の下で、カンダハール州やウルーズガーン州を経由してヘルマンド州に通行している。
 2017年12月、ガズニー州やパクティーカ州、ザーブル州で行われたアルカーイダ掃討作戦でアメリカ合衆国軍はインド亜大陸のアルカーイダの副指導者ウマル・ビン・ハッターブ(Omar bin Khatab)を殺害した。

 2019年7月の国際連合安全保障理事会のISIL(ダーイシュ)及びアルカーイダ制裁委員会議長から国際連合安全保障理事会議長への書簡によると、アルカーイダはシリアのイドリブ県やイエメン、ソマリア、西アフリカではイスラム国より優勢である。
 またターリバーンの指導部との長年に渡る友好関係により、アフガニスタンはアルカーイダの指導部の安全な隠れ家になっている。
 アルカーイダはターリバーンに対する軍事指導や宗教指導を行っている。
 アルカーイダはターリバーンのハッカーニ・ネットワークやカシミール地方の分離独立を唱えるラシュカレトイバと協力し、アフガニスタンのタジキスタン国境(バダフシャーン州シグナン郡)やパキスタン国境(パクティーカー州バルマル郡)で存在を強化しようとしている。

 アジア

 2015年11月、マレー諸島のアルカーイダ(Tandzim Al-Qaeda)に所属するマレーシア人が逮捕された。
 12月、シリアのジュンド・アルアクサ(Jund al-Aqsa)に所属するマレーシア人が逮捕された。
 2017年9月、アルカーイダはミャンマー軍によるロヒンギャ迫害に対する報復を宣言した。
 2019年1月、フィリピンのホロ島のキリスト教の教会で爆発があり18人が死亡した。ホロ島はアブ・サヤフの拠点であり、関与が疑われている。

 アフリカ

 2019年、アルカーイダはサヘルと西アフリカでイスラム国系の戦闘員と連携して勢力を拡大している。
 1月、アル・シャバブ (ソマリア)がケニアホテル襲撃事件を起こした。

 〔ウィキペディアより引用〕