CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

CTNRX的事件File. ♯008ー③

2023-09-10 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 《アルカーイダ》
  〔サラフィー・ジハード主義者組織〕

 アルカーイダ
  (アル=カーイダ、アルカイーダ、
  アルカイダ)
 (アラビア語: القاعدة‎)
 (翻字: al-qāʿidah)(英語: Al-Qaeda)

 イスラム主義を掲げるスンナ派ムスリムを主体とした国際テロ組織。
 ソ連・アフガン戦争中の1988年、ソ連軍への抵抗運動に参加していたウサーマ・ビン・ラーディンとその同志らによって結成された。
アルカーイダを含むジハード主義組織が使用する旗

 1990年代以降、1998年のアメリカ大使館爆破事件や2001年のアメリカ同時多発テロ事件等、アメリカを標的とした数々のテロを実行した。

 ▼名称

 アラビア語で「アル(ال、al)」は定冠詞、「カーイダ(قاعدة、qāʿidah)」は「座る」を意味する動詞「カアダ(قعد, qaʿada)」の派生名詞で「大本」、すなわち「基地・基盤・座」を意味し、英語では「 The Base」、中国語では「基地組織」と訳された。
 日本語ではアルカーイダと書かれることも多い。

 ▼組織

 アルカーイダの考え方では実行の分散化は認めるが、意思決定は集中化するように求めている。
 しかし対テロ戦争後、アルカーイダの指導部は孤立した。
 その結果、アルカーイダの指導権は分散化され、組織は地域化されて幾つかのアルカーイダのグループに分かれた。
 多くのテロ専門家は世界的なジハード主義運動がアルカーイダの指導によって推進されているとは考えていない。
 しかし、ビン・ラーディンは死ぬ前にイスラーム過激派に対してかなりの思想的影響を及ぼしていた。
 専門家らはアルカーイダはいくつかの異なる地域運動に細分化しており、これらのグループは互いにほとんど関係がないと述べている。
 この見解は2001年10月のインタビューでにビン・ラーディン自身がタイシール・アッルーニーに対して行った説明とも類似している。

 この問題はある特定の個人に関するものではありませんし、アルカーイダという組織に関するものでもありません。
 私たちは預言者ムハンマドをリーダーとする1つのイスラーム国家の子供たちであり、私たちの主はただ1人、預言者もただ1人、キブラもただ1つ、国家もただ1つなのです……
 真の信者たちはみな兄弟です。ですから、状況は西洋人が思い描いているような、(アルカーイダなど)特定の名前を持つ組織が存在するということではないのです。
 その特定の名称(アルカーイダ)はとても古いもので、意図せずして生まれたものです。
 兄弟であるアブ・ウバイダ・アル=バンシリは、悪質かつ傲慢で残忍で恐ろしいソビエト帝国と戦うため若者たちを訓練するための軍事基地を作りました。
 そしてその場所は訓練「基地」(アルカーイダ)と呼ばれるようになりました。そのようにしてこの名称は生まれ、成立したのです。
 私たちは(イスラーム)国家から独立した存在ではありません。私たちは1つの国家の子供たちであり、切り離せない一部なのです。
 そして極東から、フィリピン、インドネシア、マレーシア、インド、パキスタン、モーリタニアにまで広がる示威運動とも(切り離すことができない)
 ……したがって、私たちが論じているのはこの国家における道徳なのです。

 ●テロリスト・ネットワーク
 【アルカーイダと提携している団体】

 ・アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)
 ・インド亜大陸のアルカーイダ (AQIS)
 ・イスラーム・マグリブ諸国の
     アル=カーイダ機構 (AQIM)
 ・アル・シャバブ (ソマリア)
 ・Jama'at Nasr al-Islam wal Muslimin (JNIM)
 ・ボスニア・ヘルツェゴビナの
          アルカーイダ
 ・コーカサスとロシアの
          アルカーイダ
 ・ガザのアルカーイダ
 ・クルディスタンのアルカーイダ
 ・レバノンのアルカーイダ
 ・アブー・ハフス・アル=マスリー
             殉教旅団

 【アルカーイダと無関係な団体】

 ・タハリール・アル=シャーム
 ・カフカース首長国 (factions)
 ・Fatah al-Islam
 ・イスラム聖戦連合
 ・ウズベキスタン・イスラム運動
 ・ジャイシュ=エ=ムハンマド
 ・ジェマ・イスラミア
 ・ラシュカレトイバ
 ・Moroccan Islamic Combatant   Group

 【以前アルカーイダと
         提携していた団体】

 ・アブ・サヤフ
  (2014年にイスラム国に鞍替え)
 ・Al-Mourabitoun
  (2017年にJNIMと合流)
 ・イラクの聖戦アル=カーイダ組織
  (のちのイスラム国)
 ・アンサール (ナイジェリア)
  (2015年に活動停止)
 ・アンサール・アル・イスラム
  (2014年にイスラム国と合流)
 ・アンサール・アッ=ディーン
  (2017年にJNIMに合流)
 ・イエメン・イスラム聖戦
  (のちのアラビア半島のアルカーイダ)  ・Jund al-Aqsa (消滅)
 ・Movement for Oneness and Jihad in West Africa
  (2013年にAl-Mulathameenと合流してAl-Mourabitoun)
 ・Rajah Sulaiman movement(消滅)

 ▼指導部

 ウサーマ・ビン=ラーディンはアル=カーイダの精神的指導者であり、財力を用いて初期の反米闘争の組織を起ち上げた。
 アル=カーイダのナンバー2とされていたアイマン・ザワーヒリーはイスラーム神学者。
 1986年、二人はサウジアラビアのジッダで初めて会ったとされる。
 組織作りや資金集め、組織の代表として声明などを出す役割はビン=ラーディンが担い、テロに関する宗教的な理論面や作戦面は、学識のあるザワーヒリーが担っていたとされる。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ❖アイマン・ザワーヒリー

 アイマン・ムハンマド・ラビーウ・
  アッ=ザワーヒリー
 (アラビア語: أيمن محمد ربيع الظواهري)‎ (エジプト・アラビア語発音: ˈʔæjmæn mæˈħæmmæd ɾɑˈbiːʕ ez.zˤɑˈwɑhɾi), (英:Ayman al-Zawahiri),
[1951年6月19日〜2022年7月31日]

 エジプト出身の医師、神学者、テロリスト。
 2011年6月から2022年7月に死亡するまでテロ組織アルカーイダの指導者であった人物である。
 ウサーマ・ビン・ラーディンの死後、その後継者となり、それ以前はアジア、アフリカ、北米、ヨーロッパでの攻撃を指揮するイスラム主義組織の幹部であった。
 2012年には、イスラム教徒に対して、イスラム圏で欧米人を誘拐するよう呼びかけた。

 9月11日の同時多発テロの後、米国務省はアイマン・ザワーヒリーの逮捕につながる情報または諜報活動に対して2500万米ドルの報奨金を提供した。
 彼は1999年、国連のアルカーイダ制裁委員会により、アルカーイダのメンバーとして世界的な制裁下に置かれた。
 2022年7月31日、ザワーヒリーはカブールでアメリカ軍の無人機攻撃により殺害された。

 ✔プロフィール

 生い立ち

 1951年に、カイロ郊外のマアーディの中流家族に生まれた。
 父は薬学と化学の大学教授で一族で医家を成し、母は政治的に有力な一族の出であった。
 また祖父はアズハル大学の著名なイマームであった。
 ザワーヒリーは成績優秀で詩歌を好み、争いを好まない穏やかな性格であった。
 ザワーヒリーの両親も敬虔ではあるが狂信的なムスリムではなかった。サイイド・クトゥブの思想的影響が広がる中で、叔父の影響を受け、政治やイスラーム主義に関心が向い、14歳でムスリム同胞団に入団。
 翌年、クトゥブがエジプト政府に処刑されたためザワーヒリーらは地下活動に移った。
 当時、ザワーヒリーは「クトゥブ主義を行動に」とスローガンを記している。カイロ大学医学部に進み心理学と薬学、そして外科医学を専攻し、1974年に卒業するとエジプト陸軍で3年間外科医を務め、その後、実家の傍に開業した。
 1978年には修士号も取得、眼科医として卓越した技術を持つ。
 その年、カイロ大学で哲学を専攻していた女性と結婚した。
 二人は1男5女をもうけた。
 その頃にはザワーヒリーらの活動はジハード団に統合されていった。

 ジハード団

 ザワーヒリーはジハード団でリクルートを担当、軍の将校を引き入れ武器を集めようと奔走した。
 1981年にジハード団によってアンワル・アッ=サーダート大統領殺害事件が起こるとザワーヒリーは逮捕された。
 この時、拷問を受けたとされる。サーダート大統領殺害の関係を立証されず、ザワーヒリーは違法武器所有罪で禁錮3年の刑を受ける。

 アルカーイダ

 出所後、ハッジでサウジアラビアに向かい、ジッダに留まり1年間医師として勤めた。
 次いでパキスタンのペシャーワルに行き赤新月社で難民の治療に従事した。
 またジハード団の再建に動いた。ペシャーワルではアブドゥッラー・アッザームが組織するマクタブ・アル=ヒダマト(MAK)に合流、ウサーマ・ビン・ラーディンに会ったのもこの時である。
 MAKが崩壊すると、MAKのムジャーヒディーンはビン・ラーディンをリーダーとしアルカーイダを創設した。
 ザワーヒリーはスイス国籍とオランダ国籍の2つの偽名と偽のパスポートを用いて活動、この時期、アルカーイダの副官として密かにイランに接近、イラン革命に倣いエジプトで革命を起こすことを画策した。
 1990年代になるとイスラーム原理主義ネットワークを世界的に拡大しようと動き、1993年にはアフガニスタンの子供を助ける基金の募金活動と称してアメリカに入り、カリフォルニア州に滞在した。1995年にはジハード団として、ザワーヒリーはイスラマバードの在パキスタン・エジプト大使館爆破事件を主導した。
 1994年以降、ジハード団内部の抗争が激化、ザワーヒリーはスーダンを離れ東アジアや東南アジアを回った。
 1996年にはチェチェンに入るがロシア国境を越えたところで逮捕され翌年釈放された。

 ザワーヒリーらはアルカーイダの拠点があったアフガニスタンのジャラーラーバードに入り、両者は統合された。
 1997年にはイスラム集団が起こしたルクソール事件にも関与した。
 この事件でザワーヒリーは1999年にエジプトの軍事法廷で被告人不在のまま死刑判決を受けた。
 1998年2月23日、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線の名前で、ビン・ラーディン連名でファトワーを宣告した。
 同年6月24日、ビン・ラーディンと共にアルカーイダの会合を開催した。同年8月、ケニア・タンザニアでアメリカ大使館爆破事件を起こし、この頃から国際的な注目を集めるようになった。
 2000年に米艦コール襲撃事件を起こすと、ビン・ラーディンとザワーヒリーはアメリカの報復を逃れるためにアフガニスタンのカーブルに移動した。

 アメリカ同時多発テロ事件以降

 2001年9月にアフガニスタンのホースト州で目撃されたのを最後に消息不明となり、以後の行方はその後数十年に渡って、分かっていなかった。
 ザワーヒリーの妻や子供は2001年のアフガニスタン紛争で米軍の爆撃で死亡した。
 ザワーヒリーの死亡の可能性も示唆されていたが、それ以後も今日まで40以上のビデオ声明をインターネット上に出している。
 2001年10月、アメリカ連邦捜査局はザワーヒリーを「最重要テロリスト」22名に指名、ビン・ラーディンに次ぐ2位の重要手配犯として2500万ドルの報奨金をザワーヒリーの首に懸けている。
 一方でターリバーンは2001年11月にビン・ラーディンとザワーヒリーにアフガニスタンの市民権を公式に与えた。
 2008年11月19日には、ウェブサイトにバラク・オバマ米次期大統領に対する声明を発表。
 オバマを「ハウス・ニグロ」(この言葉は米国の奴隷制時代に家庭内で家事を行う黒人奴隷を意味しており、家の外で過酷な肉体労働を行う黒人奴隷からは「裏切り者」を意味する言葉である)と呼んだ。
 また、「ハウス・ニグロ」という言葉を用いたマルコムXを称賛しながら、現代の「ハウス・ニグロ」としてコリン・パウエル、コンドリーザ・ライス元国務長官の名前も挙げ、「マルコムXがハウス・ニグロについて語ったことが正しいことは、お前たちを見れば一目瞭然だ」と演説した。

 声明はアラビア語の音声に英語の字幕が付けられ、米軍をイラクから撤退させアフガニスタンに派遣するというオバマの政策について「失敗すべく運命付けられた政策」と批判し、「アフガニスタンの犬たちは米兵の肉の味を覚えた。
 さらに何千もの兵を送るがいい。」と挑発し、オバマの宗教に関して「イスラム教徒の父を持ちながらイスラム教の敵に回り、ユダヤ教の祈りを捧げながら米国で指導者の地位を得るためにキリスト教徒を騙っている。」と非難した。
 プリンストン大学のメリッサ・ハリス・レースウェル教授は「アルカーイダが米国で起こっていることに多大な関心を払っている証拠。
 国外の人間が、米国のアフリカ系アメリカ人を、その社会でのみ通用する見下した言葉で定義するとは、驚きだ。米国の誰かが中東の政治指導者を『フィールド・モスリム』とあざけったり、ほかの人種や民族、宗教の真正さに疑問を呈するのに等しい」と語った。
 音声が本当にザワーヒリーのものか否かは未確認である。

 ウサーマ・ビン・ラーディンの死後 

 2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードでアルカーイダの司令官(アミール)であるウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊によって殺害された。
 アルカーイダの内部規則では司令官が死亡した場合は、その副官が後継の司令官になることが定められており、ザワーヒリーが司令官に任命される可能性が高いとみられていたが、2011年6月16日、新たな指導者として選出された。
 司令官には忠誠の誓いをしなければならず、エジプト人であるザワーヒリーに対してサウジやイエメン出身のアルカーイダ幹部の反発も予想される。
 ビン・ラーディンがカリスマ性から多くのメンバーを集め、アルカーイダの組織作りを担ってきたのに対して、ザワーヒリーは知識人気取りと傲慢な態度で他のメンバーから疎まれてきた。
 また、他のメンバーの些細な信仰上の違いに執着し、エジプトでのジハードを優先しようとするなど、ビン・ラーディンと違ってアルカーイダ内部で常に評価が分かれていたとされる。
 また、医師という職業柄か、冷酷ではあっても残虐な行為は好まず、ISISを嫌悪していると言う。
 2013年エジプトクーデターにおいて、エジプトでサラフィー主義団体指導者を務めていた弟のムハンマド・ザワーヒリーが、シナイ半島での治安部隊への銃撃に関わったとされギーザで逮捕された。

 アメリカ同時多発テロ事件から20年を迎えた2021年9月にはアルカーイダがザワーヒリーの映像をインターネット上に公開し、その中でザワーヒリーはアメリカのアフガニスタンからの撤退にも言及していた。
 2022年7月31日にアメリカ軍がカーブルでドローンによる空爆を実施し、その際に隠れ家に潜んでいたザワーヒリーが死亡したことをジョー・バイデン大統領が8月1日に宣言した。
 71歳没。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ビン=ラーディンは1988年に組織を立ち上げてから2011年5月1日に殺害されるまで、アルカーイダの司令官(アミール)を務めていた。
 アティーヤ・アブドゥッラフマーンは2011年8月22日に死亡するまで副司令官を務めていたと言われている。
 ビン=ラーディンは20~30人のベテランメンバーで構成されたシューラの助言を得ていた。
 アイマン・ザワーヒリーはアルカーイダの副司令官を務めてきたが、ビン=ラディンの死後、暫定指揮官のサイフ・アル=アデルに代わり司令官(アミール)に就任した。
 2012年6月5日、パキスタンの情報部は副司令官のアブ・ヤヒヤ・アル・リービーを殺害したと発表し、2013年にナシル・アル=ウハイシが副司令官に就任した。ナシルはアラビア半島のアルカーイダ(AQAP)の指導者だったが、2015年6月にアメリカ合衆国の空爆によりイエメンで殺害された。
 その後アブ・ハイル・アル・マスリが司令官に就任したが、2017年2月にアメリカ合衆国の空爆によりシリアで殺害された。
 2019年7月、ビン=ラディンの息子のハムザ・ビン・ラーディンが死亡していることが明らかになった。
 この頃、ザワーヒリーの体調が悪いという説が広まった。
 2022年7月31日にはアフガニスタンの首都カーブルの隠れ家に潜んでいたザワーヒリーがアメリカ合衆国の空爆により殺害された。

 ▼指揮命令系統

 アルカーイダは軍事作戦は行っておらず、いくつかの戦闘集団が存在し、攻撃を準備する段階で指導部と相談を行う。
 2005年のロンドン同時爆破事件についてアルカーイダが関連している可能性について尋ねられたロンドン警視総監のイアン・ブライアー(Ian Blair)は「アルカーイダは組織ではない。アルカーイダは働き方であり...アプローチの品質証明であり...アルカーイダは訓練を提供したり専門知識を提供する能力を明らかに持っている。
 ここで起きたことはそういう事だと思う」と述べた。
 2005年8月13日、インデペンデント紙は7月7日の爆弾犯はアルカーイダの首謀者からは独立して行動したと報道した。
 911事件の準備段階において4年間オサマ・ビン・ラディンのボディーガードだったナーサル・アル・バフリは当時の集団がどのように機能していたか、アルカーイダの組織的な管理の仕組みや膨大な武器について記憶をもとに詳細に書き記している。
 一方、 著作家のAdam Curtisは「アルカーイダ」は2001年に行われたアメリカ大使館爆破事件に関する裁判の過程で作られた用語だと主張している。

 現実はビン・ラディンとアイマン・アル・ザワヒリが、新しい戦略に魅了された幻滅したイスラム過激派のゆるい連合の中心になっていたということでした。
 しかしそれは組織ではありませんでした。
 自分たちで活動の大半を計画し、ビンラディンに資金と支援を求めた過激派が居るだけでした。
 ビン・ラディンは彼らの指揮官ではありません。
 またビン・ラディンは9月11日の攻撃の後までグループの名前に「アルカーイダ」という用語を使ったという証拠はありません。
 アメリカ人がそのように命名したことにビン・ラディンが気づいたので、ビン・ラディンも使用するようになったのです。

 2001年の裁判中に、米国司法省はRICO法(組織犯罪)によってビン・ラディンを欠席裁判にかけるために、ビン・ラディンが犯罪組織の指導者であることを示す必要があった。
 組織名と詳細な組織構造についてはジャマル・アル・ファドル(Jamal al-Fadl)が証言を行った。
 ジャマル・アル・ファドルはグループの創設メンバーであり、ビンラディンに雇用されていたと述べた。
 しかしアル・ファドルの証言の信頼性については多くの情報源が疑問を呈した。
 彼には不誠実な前歴があり、米軍施設攻撃の共謀罪で有罪判決を受けた後に司法取引の一部として述べた証言だったからである。
 アル・ファドルを弁護した弁護人サム・シュミット(Sam Schmidt)は次のように述べている。

 アル・ファドルの証言には、私が間違っていると思う部分があります。
 彼はアメリカ人が団結できるような構図を支持しました。
 彼はこの組織が何であるかについての統一されたイメージについて多くの証言で具体的な嘘をついたと思います。
 それはアルカーイダを新たなマフィアか共産主義者にしました。
 それによって集団として識別できるようになり、ビン・ラディンが行った行為や声明とアルカーイダを関連付けて、誰でも簡単に訴追できるようになりました。

 アル=カーイダの実態は不明点が多く、現在では、アル=カーイダが一つのまとまった組織なのかどうかで議論が分かれる。
 CIA元工作員でイスラム主義組織の専門家マーク・セイジマン(Marc Sageman)によると「アル=カーイダとは、軍隊のような明確な階級が存在する指揮命令系統の組織ではなく、人々が自発的に集合する社会運動のようなものであって、明瞭な境界や構成員が存在しない」とする。
 特に2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降についてはビン=ラーディンの指揮によるものではなく、地域ごとに自発的に集まった人々によってアル=カーイダの名の下に勝手にテロが行われていると指摘した。
 また、軍事力は明確なターゲットに対しては有効であるが、アメリカ軍と同盟国によってそれらが破壊され組織が拡散してしまった現在では、軍事力の行使とは異なる対策、すなわち人々が暴力的なテロ運動に参加することを阻止する必要があると指摘した。

 ▼工作員

 適切な軍事訓練を受け、部隊を指揮できる指揮官の数は不明である。
 2011年にビンラディンの自宅事務所を襲撃して押収した文書によると、2002年時点で中核となる構成員は170人だった。
 その後アルカーイダは2006年時点で40か国に推定数千人の指揮官を潜入させていた。
 しかし2009年の時点で活動中の指揮官は200~300人にすぎなかった。
 2004年のBBCのドキュメンタリー「The Power of Nightmares」によると、アルカーイダの結びつきは非常に弱いため、ビンラディンと小さな派閥以外は存在しているとは言い難かった。
 テロ容疑での多くの容疑者が逮捕されたが、有罪判決を受けたアルカーイダの構成員はとても少なく、アルカーイダという名目を満たすような広範な実体が存在したかどうか疑わしいと報じられた。

 ▼戦闘部隊

 ロバート・キャシディによると、アルカーイダは2006年時点で2つの部隊を維持しており、イラクやパキスタンの地元反乱軍と活動を共にしている。
 アルカーイダの戦闘部隊は最初はソビエト・アフガニスタン戦争における「反乱軍として組織され、訓練され、装備された」数万人の兵士だった。
 この部隊は主にサウジアラビアやイエメンのムジャヒディンによって構成されており、兵士たちの多くはボスニアやソマリアで世界的なジハードのために戦った。
 別の一団は西洋に住んでいて初歩的な戦闘訓練を受けた兵士たちで、2006年の時点で1万人ほどが居た。

 ▼資金

 サウジアラビアの支援

 1990年代のアルカーイダはオサマビンラディンの個人財産とヘロイン取引、
 クウェートやサウジアラビアその他のイスラム湾岸諸国の支援者からの寄付で資金を賄っていた。
 2009年にアメリカ政府内部で「サウジアラビア発のテロ資金は依然として深刻な懸念」という電報を送ったことをウィキリークスが暴露した。
 サウジアラビアがアルカーイダを支援しているという最初の証拠は、ボスニア警察が2002年にサラエボで押収したアルカーイダ初期の資金提供者のリスト「ゴールデンチェーン」である。
 アルカーイダの亡命者ジャマル・アル・ファドルによって検証された手書きのリストには、寄付者と受益者の両方の名前が記されていた。
 オサマ・ビン・ラディンの名前は受益者として7回登場し、寄付者にはアデル・バタジ(Adel Batterjee)やワエル・ハムザ・ジュライダン(Wael Hamza Julaidan)など20人のサウジアラビアと湾岸を拠点とするビジネスマンや政治家が記されていた。
 アデル・バタジは2004年に米国財務省によりテロ資金供与者に指定された。
 ワエル・ハムザ・ジュライダンはアルカーイダの創設者の一人とみなされている。
 2002年にボスニアで押収された文書によると、アルカーイダは慈善団体を大々的に悪用して世界中の工作員に金銭的・物質的な支援を行った。
 特にアルカーイダは国際イスラム救援機構(IIRO)とイスラム世界同盟(MWL)という2つの団体を活用した。
 IIROは世界中のアルカーイダとつながりを持っており、アルカーイダの副司令官のアイマン・アル・ザワヒリとつながっていた。
 ザワヒリの兄弟はアルバニアのIIROに勤務し、アルカーイダのために積極的な人材募集を行っていた。
 MWLはアルカーイダの主要資金源である3つの慈善団体の1つだった。

 一説によると、ブッシュ家と深い関係にあるサウジアラビア王族のバンダル・ビン・スルターン(又はその背後のサウジアラビア総合情報庁)が、アルカーイダなどの過激派に対して、隣国イラクやシーア派の軍事大国のシリア、イランを弱体化させる目的に影で支援してきたとされ、駐シリアヨルダン大使やイラン、一部のジャーナリスト、学者は、アルカーイダの真の指導者はバンダルであると主張している。
 しかしながら2004年の同時多発テロに関する独立委員会の報告書はサウジからアルカーイダへの支援の証拠は見つからなかったと表明している。

 ▼カタールの支援疑惑

 数人のカタール市民がアルカーイダへの資金提供で告発されている。
 例えばカタール市民であり、スイスを本拠とする非政府組織(NGO)アルカラマを設立した人権活動家であるアブド・アル・ラーマン・アル・ヌアイミ(Abd Al-Rahman al-Nuaimi)などである。
 2013年12月18日、米国財務省はアルカーイダ支援活動により、ヌアイミをテロリスト指定した。
 米国財務省によると、ヌアイミは「イラクのアルカーイダとカタールの寄付者を仲介して、イラクのアルカーイダに対する財政支援を手助けした」。
 ヌアイミはイラクのアルカーイダに対する毎月200万ドルの資金移動を管理し、イラクのアルカーイダの上級将校とカタール市民の仲介者としての役割を果たしたと非難されている。
 ヌアイミはアルカーイダのシリア使節団の団長アブハリド・アルスリ(Abu-Khalid al-Suri)との関係を楽しんでいたとも言われている。
 アブハリド・アルスリは2013年にアルカ-イダに対して60万ドルの送金を行った。
 ヌアイミはアブド・アル・ワハッブ・ムハンマド「アブド・アル・ラーマン・アル・フメイカーニ」(Abd al-Wahhab Muhammad 'Abd al-Rahman al-Humayqani)とも関連していることが知られている。
 フメイカーニはイエメンの政治家で、アルカラマの創始者の一人であり、2013年にアメリカ合衆国財務省が特別指定グローバルテロリスト(SDGT)に指定した人物である。
 アメリカ当局はフメイカーニがアルカラマでの地位を悪用して、アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)の代理として資金調達を行ったと主張した。
 AQAPの有名人であるヌアイミは、イエメンに拠点を置くAQAP加盟組織への資金流入を手助けしたとも言われている。
 ヌアイミは最終的にAQAPに資金を供給するためにフメイカーニが指示した慈善団体に投資したと非難された。
 アメリカ合衆国財務省指定の約10か月後、ヌアイミは英国での事業を行うことも制限された。

 もう一人のカタール市民はカリファ・モハメッド・トゥルキ・スバイ(Kalifa Mohammed Turki Subayi)である。
 2008年6月5日、スバイは「湾岸に拠点を置くアルカーイダの投資家」として米国財務省に制裁された。
 2008年、スバイはアルカーイダの上級指導者に対する財政的・物質的支援の提供容疑で国連安全保障理事会の制裁リストにも追加された。
 スバイはアルカーイダの新兵を南アジアの訓練キャンプに送り込んだと言われている。
 スバイはハリド・シェイク・モハメド(Khalid Sheikh Mohammed)を財政的に支援していた。
 9月11日付委員会の報告書によると、ハリドはアメリカ同時多発テロ事件の起案者とされるアルカーイダの上級将校である。
 カタール最大のNGOであるカタール・チャリティもアルカーイダの隠れ蓑になっていた。
 同団体の元メンバーで、アルカーイダから亡命してきたアル・ファドルが法廷で証言したところによると、カタールチャリティのディレクターのアブドラ・モハメッド・ユセフ(Abdullah Mohammed Yusef)はアルカーイダと民族イスラーム戦線の両方に所属していた。
 民族イスラーム戦線はスーダンの政治団体であり、1990年代初頭にオサマ・ビン・ラディンにスーダンの隠れ家を提供していた。

 アメリカ合衆国対エナム・M・アーナウトの裁判に提出された文書により、1993年にビン・ラディンがカタール・チャリティは海外のアルカ-イダ工作員への財政的支援を行うために使用される団体の1つだと述べたことが明らかになった。 
 ビン・ラディンはまたエジプト大統領のホスニー・ムバーラクの暗殺失敗により1995年以前には可能だった慈善団体の悪用が難しくなったと不平を述べたことも明らかになった。
 カタール・チャリティがチェチェンのアルカーイダ構成員に財政的支援を与えたことも明らかになった。
 しかしハマド・ビン・ナセル・アル・タニ(Hamad bin Nasser al-Thani)はこの告発を公式に否定している。
 しかし2013年初頭のフランス軍の軍事諜報報告書でも、カタール・チャリティは北マリのアンサール・ダインに資金を送っていると報告されていた。
 カタールは誘拐の身代金の名目でアル=ヌスラ戦線を通じてアルカーイダ系の企業にも資金を供給していた。
 テロ資金に対するコンソーシアム(StopTerrorFinance ORG)は、湾岸諸国が2013年以来アル=ヌスラ戦線に資金を提供していると報告している。
 アッシャルクル・アウサト紙はカタールが支出した額は2500万ドルに及ぶと推定した。
 カタールはアル=ヌスラ戦線に対する募金キャンペーンを行い、アル=ヌスラ戦線もカタールの寄付は主要な寄付の1つと認めた。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的事件File. ♯008ー②

2023-09-10 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 ▼WTCの人的被害

 ワールドトレードセンター (WTC) へのテロ攻撃による死者は合計で2,763人だった。
 その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2,192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、
 ハイジャック犯のテロリストが10人となっていた。
 WTCのツインタワーにおける民間人死者の90%以上は、ハイジャック機による衝突を受けた階以上のフロアで発生した。
 北棟ではハイジャック機の衝突時に数百人が即死したほか、直撃を受けた階以上のフロアに1,355人が閉じ込められ、煙の吸引・タワーからの落下・最終的なタワーの崩壊などの理由によってその全員が最終的に死亡した。
 北棟の3つの非常階段すべてがアメリカン航空11便の衝突の際に破壊されており、上層階から人々が脱出することは不可能だった。
 一方で、(北棟において)直撃を受けた階より下のフロアで死亡した民間人は107人とされている。
 南棟で死亡した民間人は計630人であり、北棟の半分以下の数字だった。
 南棟では、北棟へのジェット機突入の直後から多くの人々が自主的に避難を開始していたため、死者の数は大幅に抑えられた。
 一方で、『USAトゥデイ』は最初のジェット機突入後に南棟に居た全員を避難させることができなかったことを「事件当日に起きた大きな悲劇のひとつ」と評している。
 南棟では、ユナイテッド航空175便の衝突の後も非常階段のひとつ(A階段)が崩壊を免れており、このA階段を利用することで18人(直撃を受けた階から14人、それより上の階から4人)が生還した。

 ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベータが停止し、多くの人が閉じ込められた。
 『USAトゥデイ』の推定では、最小で200人、最大で400人がツインタワーのエレベータに閉じ込められた状態で死亡したとされている。
 エレベータに閉じ込められたものの、そこから自力で脱出した生還者は21人のみだった。
 エレベータにおける死者は、ケーブルの破断によるエレベータ籠の急落下や、エレベータへの火炎の侵入によって死亡しており、それらを免れた者もタワーの崩落時に死亡した。

 ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は最低でも200人と推定されている。
 そのほとんどが北棟で発生したものであり、南棟からの転落・飛び降りによる死者は12人に満たなかった。
 北棟から落下した人々の多くは、タワーに隣接する道路や広場(トービン・プラザ)および3 WTCビルの屋上にたたきつけられて死亡した。
 消防士の1人は落下してきた人の巻き添えとなり死亡した。北棟の101 – 105階を占めていた投資銀行のキャンター・フィッツジェラルドでは、他の雇用主を大きく上回る658人もの従業員が犠牲となった。
 キャンター・フィッツジェラルドの直下、北棟の93 – 100階を占めていたマーシュ・アンド・マクレナンでは358人の従業員が犠牲となった。
 南棟のエーオンでは175人の従業員が犠牲となった。
 アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) は、事件発生当時のワールドトレードセンター・コンプレックスには約1万7400人の民間人が存在したと推定している。
 港湾公社のターンスタイルによる記録では、午前8時45分には(通常は)1万4154人がツインタワー内に存在したことが示唆されている。
 ジェット機が直撃した階よりも下のフロアに居た人々は、その大半が安全にタワーから避難することができた。
 ツインタワー南棟の崩壊時、当時南棟に居た民間人、消防士ならびに警察官は全員死亡し、タワー周辺の道路やビルでも多数の死者が生じた。
 北棟の崩壊時には、12人の消防士、1人の警察官、および3人の民間人が崩壊を免れた非常階段に守られる形で生き残ったが、それ以外に生存者はいなかった。

 ▼国防総省本庁舎(ペンタゴン)

 午前9時37分45秒、ハイジャックされたアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757)が、バージニア州アーリントン郡のアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に突入した。
 アメリカン77便はビルの西壁に衝突して爆発炎上し、AA077便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡、106人が重傷を負った。
 AA077便の衝突と続いて発生した火災によってペンタゴンは激しく損傷し、ビルは部分的に倒壊した。
 ペンタゴンに突入する直前、旅客機の翼は地上の街灯をなぎ倒し、さらに発電機に接触した。
 77便はペンタゴン西側外壁の1階部分に激突したが、衝突の瞬間にボーイング757の胴体前部はバラバラになり、その後一瞬のうちに機体中央部と尾翼部が勢いを保ったまま外壁を突き抜けた。
 最も深くまで到達したのは尾翼部の破片であり、5層ある外壁のうち3層を突き破り、94 m内側まで貫通していた。
 その後10時10分には、衝突で損傷したビルの一部分が倒壊した。
 ビルの倒壊部分は最大で幅29 m、奥行き15 mにわたった。
 77便の衝突からビルの崩壊まで時間的猶予があったため、4 - 5階に居た職員は全員が安全に避難することができた。
 旅客機の突入時、ペンタゴンでは約1万8000人が働いていたが、この数字は1998年に始まった改修工事によって通常より4,000人ほど少なかった。
 この直前に起きたワールドトレードセンター・ツインタワーへの他の飛行機の突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単にペンタゴンが爆発炎上したというだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言され報じられた。
 さらに激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIによって回収、捜査された。

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 《テロの実行者》

 ▼ウサーマ・ビン・ラーディン


 アメリカ同時多発テロ事件の首謀者は、イスラーム過激派テロ組織「アルカーイダ」の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンとされている。
 当初、ビン・ラーディンは事件への関与を否定していたが、2004年には一転して同時多発テロ事件への関与を公に認めた。
 2001年9月16日、アルジャジーラ上でビン・ラーディンによるビデオ声明が放送された。
 声明の中でビン・ラーディンは、「私は攻撃を実行していないと強調する。
 攻撃は別の個人によって、彼自身の動機に基づいて実行されたように見える」と述べた。
 2001年11月、アメリカ軍はアフガニスタン東部のジャラーラーバードで1本のビデオテープを回収した。
 このテープにはビン・ラーディンと他のアルカイダ構成員との会話が記録されており、その中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを認めていた。

 2004年のアメリカ大統領選挙の直前、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明を発表し、アルカイダが同時多発テロ事件に関与したことを公式に認め、自らが実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた。
 2006年9月にアルジャジーラが入手したビデオテープには、ビン・ラーディンとラムジ・ビン・アル=シブが、2人のハイジャック犯(ハムザ・アル=ガームディーおよびワイル・アル=シェフリと共に同時多発テロの準備をしている模様が記録されていた。
 ビン・ラーディンは、同時多発テロ事件に関してアメリカ政府当局から正式に起訴されたことはなかったが、ケニアの首都ナイロビとタンザニアの首都ダルエスサラームにおけるアメリカ大使館爆破事件に関する容疑でFBI10大最重要指名手配者に指定されていた。
 2011年5月2日、10年間の追跡の末に、アメリカ軍特殊部隊はパキスタンのアボッターバードに潜伏していたビン・ラーディンを急襲の上で殺害した。
 なお、この時の映像は当時のオバマ大統領ら閣僚に生中継された。

 ◆動機

 ウサーマ・ビン・ラーディンが1996年に発表した対アメリカ宣戦布告と、1998年に発表したアメリカ国民の無差別な殺害を呼びかける布告は、ビン・ラーディンの動機を示す証拠として扱われている。
 ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、湾岸戦争が勃発した1990年8月以降アメリカ軍がサウジアラビアに駐留していることに強い怒りを抱いていた。
 1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対するジハード(聖戦)を宣言すると共に、異教徒であるアメリカ人をアラビア半島から駆逐するよう全世界のムスリムに呼びかけた。
 1998年2月、ビン・ラーディンは第2の「ファトワー」を発し、アメリカ軍によるサウジアラビア駐留へ再度抗議すると共に、アメリカの親イスラエル的な外交政策を批判した。
 1998年の「ファトワー」はさらに、世界各地でアメリカおよびその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスクとメッカの聖なるモスクを解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言していた。
 ビン・ラーディンは自らの直接的関与を認めた2004年の声明の中で、テロ攻撃を行った動機について以下のように述べた。

 ●1982年、アメリカはイスラエルがレバノンを侵略することを許可し、侵略を助けるためアメリカ第6艦隊を派遣した……
 レバノンの破壊されたタワーを目にした私の心に、我々も迫害者たちを同じやり方で罰するべきだという考えが浮かんだ。
 我々はアメリカのタワーを破壊して、我々が体験したものの一端を迫害者たちにも体験させるべきであり、そうすることで彼らが我々の女や子供を殺すのを思いとどまるようにすべきだと考えた。

 ◤ウサーマ・ビン・ラーディン
            に就いて◢
 [アルカーイダの指導者]

 ウサーマ・ビン・ムハンマド・
 ビン・アワド・ビン・ラディン
 (أسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin
 1957年3月10日〜2011年5月2日)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。

 サウジアラビア有数の富豪の一族に生まれたが、1994年にサウジアラビア国籍を剥奪され、以降は無国籍であった。
 1988年に国際テロ組織「アルカーイダ」を設立してその初代アミール(司令官)となり、以降アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件を首謀したことで知られる。
 連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。
 2011年5月、パキスタンのアボッターバードにおいてアメリカ海軍特殊戦開発グループが行った軍事作戦によって殺害された。

 《経歴》

 ▼出自

 ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。
 また、最初の妻以外は短期間で離婚している。
 ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。
 ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた。

 ▼出生から青年期まで

 ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス)の間に生まれた。
 生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている。
 父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった。
 ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた。
 その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学と経営学を学んだ。
 ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する。

 大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか、詩作にも興味を示し、バーナード・モントゴメリーやシャルル・ド・ゴールの著作を好んで読んだと言われている。
 思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。
 さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。
 ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。
 その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、1979年にはF1 ウィリアムズとスポンサー契約を結ぶ、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった。

 ▼アフガニスタン紛争への参加
  (1979–1989年)

 ソビエト連邦がアフガニスタンに進攻した1979年、ビン・ラーディンはサウジアラビアを離れてパキスタンやアフガニスタンを初めて訪れ、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーンを支援するための活動を始めた。
 のちにビン・ラーディンは当時の心境を回想し、「アフガニスタンの人々に対する不公正な行いに憤慨を覚えた」と語っている。
 1979年から1984年までの期間、ビン・ラーディンの支援活動は募金が中心であり、サウジアラビアなどの湾岸諸国を活動拠点としてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金や建設機械を提供していた。
 ビン・ラーディンはその後、パキスタンのペシャーワルで活動していた大学時代の恩師アブドゥッラー・アッザームと合流した。
 1984年までにアッザームと共に「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織して、外国からムジャーヒディーンの新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を始めた。
 1984年には自ら「ベイトゥルアンサール(支援者たちの館)」という施設をペシャワールに建設し、以降1986年までパキスタンを拠点として活動した。
 ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーやアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー、オマル・アブドッラフマーンなどと関係を構築したのもこの時期であった。

 1986年以降、ビン・ラーディンは活動の拠点をアフガニスタン国内に移した。
 1986年から1987年にかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部の村ジャジ (Jaji)近郊に自らの基地を建設し、数十人のアラブ人ムジャーヒディーンを指揮下に置いた。
 この基地を拠点として、ビン・ラーディンとその軍団はソ連軍と交戦し、ビン・ラーディン自身も一兵士として戦闘に参加した。
 特に、1987年のジャジの戦い(英語版)ではソ連軍に勝利したことになり(実際には、ソ連軍の死者2名に対しゲリラ側の死者120名という惨状であった)、アラブ系の主要メディアではこの戦果が華々しく報道され、ビン・ラーディンの知名度は高まった。
 ビン・ラーディンがアラブ世界の一部で英雄視されるようになったのもこの時期であった。
 1979年から1989年にかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンの軍統合情報局 (ISI)を通じ、アフガニスタンで戦うムジャーヒディーンへ400億ドル相当の援助を行った(サイクロン作戦)。
 ジャーナリストのジェイソン・バークによれば、ビン・ラーディンが設立したMAKもアメリカから提供された資金を受け取っていた。
 ビン・ラーディンはまた、ISI長官のハミド・グル中将と知り合い、関係を深めていた。
 アメリカはムジャーヒディーンに資金と武器を提供したが、実際の軍事訓練はISIとパキスタン陸軍が全面的に担当していた。

 ▼アルカーイダの結成

 1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。
 ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった。
 1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した。
 サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた。
 帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された。

 ▼湾岸戦争と米軍駐留・
     サウジアラビアからの追放          
       (1990–2000年)

 1990年8月2日、サッダーム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。
 サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒のアメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した。
 しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた。
 1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した。
 ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、メッカ・マディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した。
 それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した。
 湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。

 1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した。
 サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した。
 アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた。

 スーダンに渡ったビン・ラーディンは同国の政権を担う民族イスラーム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカーイダを国際的なテロ組織へと発展させた。
 1992年12月29日、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡した。
 これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている。
 1993年2月26日、ビン・ラーディンとの関係が疑われるテロリストによってニューヨークで世界貿易センター爆破事件が引き起こされ、6人が死亡した。
 1993年、アメリカ政府はスーダンをテロ支援国家に指定した。
 1994年、サウジアラビア政府はビン・ラーディンの国籍を剥奪し、サウジアラビア国内に残された彼の財産を全て凍結した。
 同年には、ビン・ラーディンの一族も彼との関係を断絶した(それまでウサーマは一族の財産から毎年1億ドル余りを受け取っていた)。
 1996年5月、スーダンのオマル・アル=バシール政権はアメリカおよびサウジアラビアからの圧力に屈し、ビン・ラーディンを国外に追放することを決定した。
 ビン・ラーディンは亡命先としてアフガニスタンのジャラーラーバードを選び、5月18日にチャーター機でスーダンを離れた。
 アフガニスタンに帰還したビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権の庇護を受け、ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた。

 1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した。
 このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒のアメリカ軍をアラビア半島から駆逐し、占領されている2つの聖地(メッカとマディーナ)を解放するよう全世界のムスリムに呼びかけた。
 1997年5月、ジハード団の指導者であったアイマン・ザワーヒリーがアフガニスタンのビン・ラーディンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった。
 1997年3月、ビン・ラーディンはパキスタン人ジャーナリストのハミド・ミル(英語版)によるインタビューでアメリカは間もなく超大国ではなくなると予測してアフガニスタン、パキスタン、イラン、中華人民共和国による反米同盟を提案し、中国の新疆ウイグル自治区でのテロは中国とイスラム世界が団結することを阻みたいCIAによるものだとして関与を否定した。
 1998年2月、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成した上で新たな「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスク(エルサレム)と聖なるモスク(メッカ)を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した。

 1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアのダルエスサラームとケニアのナイロビのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した。
 テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった。
 1998年8月20日、テロへの報復として、アメリカ大統領ビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された。
 1999年6月、FBIはビン・ラーディンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した。
 アメリカ政府はターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、ターリバーンは応じなかったため、1999年10月には国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める国際連合安全保障理事会決議1267が採択された。
 ターリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
 2000年10月、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した。
 2000年12月、国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、ターリバーン政権に対し再度ビン・ラーディンの引き渡しが求められた。

 ▼アメリカ同時多発テロ事件以後
  (2001–2011年)

 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後から、ビン・ラーディンには首謀者の嫌疑がかけられた。
 2001年9月16日、ビン・ラーディンは衛星テレビ局アルジャジーラを通じて声明を発表し、事件への関与を否定した。 
 ビン・ラーディンはこの声明の中で、「私は攻撃の実行者ではないと強調しておく。
 今回の事件は別の個人によって、彼自身の動機によって実行されたように見える」などと述べた。
 2001年9月20日、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「対テロ戦争」を宣言すると共に、アフガニスタンのターリバーン政権に対し、ビン・ラーディンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた。
 ターリバーン政権はビン・ラーディンらの引き渡しを拒否し、2001年10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始した。 
 2001年11月、ジャラーラーバード郊外のビン・ラーディンの隠れ家とされる場所がアメリカ軍による爆撃を受けた。
 その際にアメリカ軍が回収したビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成員ハレド・アル=ハルビとの会話が記録されており、会話の中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを暗に認めていた。
 11月末には有志連合の侵攻によってターリバーン政権が崩壊し、以降ビン・ラーディンの正確な足取りは不明となった。

 2001年12月17日、ビン・ラーディンがザワーヒリーと共にアフガニスタン東部ナンガルハール州トラボラの渓谷にある洞穴に潜伏しているという情報からアメリカ・イギリス・ドイツ・北部同盟各軍が捕獲作戦(トラボラの戦い)を実施したが失敗した。
 その後はビン・ラーディンはターリバーン幹部らと共にパキスタンの北西辺境州の洞窟に潜伏していると考えられていた。
 2004年10月、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自らが同時多発テロ事件に関与したことを公に認めた。
 18分にわたるビデオ声明の中でビンラーディンは、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認め、ワールドトレードセンターのツインタワーを標的としたのは1982年にイスラエルがレバノンを侵略した際に見た光景がきっかけであったと説明した。
 2004年以降、ビン・ラーディンが腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道され、死亡説も浮上した。
 これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、腸チフスで死亡したとの記事であった。
 しかし、フランスのシラク大統領が、「死亡したとの情報はない」などとし、死亡説を否定した。
 2008年11月13日、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官(当時)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡と逮捕は現在でもCIAの最優先事項とした上で、潜伏先をアフガニスタンとパキスタンの国境地帯(トライバルエリア・FATA)ではないかという見解を示した。
 2010年10月18日、CNNは北大西洋条約機構当局者の話として、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、パキスタン国内の家屋で「快適に」暮らしていると報じた。
 同当局者は「洞窟で暮らしているアルカーイダのメンバーは誰一人としていない」と述べた。
 ビン・ラーディンらは、パキスタン情報機関や地元住民に保護され、同国北西部の家屋に居住しており、付近にはアイマン・ザワーヒリーも住んでいるとされた。

 ▼発見と死

 2010年8月頃、配下の連絡係の行動分析からウサーマ・ビン・ラーディンの居所が突き止められた。
 2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいてバラク・オバマ大統領(当時)に命じられて米国海軍特殊部隊・DEVGRUが行ったネプチューン・スピア作戦によって殺害された。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的事件File. ♯008ー①

2023-09-10 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 アメリカ同時多発テロ事件
 (英: September 11 attacks)

 2001年9月11日(火)の朝にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃。
 9.11事件と呼称される場合もある。

 一連の攻撃で、日本人24人を含む2,977人が死亡、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドルのインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した。
 アメリカの歴史上、最も多くの消防士および法執行官が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった。

 また、この事件を契機としてアフガニスタン紛争 (2001年〜2021年)が勃発し、世界中でテロ対策が強化された。

 《概要》

 2001年9月11日火曜日の朝、アメリカ合衆国北東部の空港からカリフォルニアに向けて出発した旅客機4機が、アルカイダのテロリスト合計19人にハイジャックされた。

 ▼ワールドトレードセンターへの
   (世界貿易センター) テロ攻撃


 そのうちアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便の2機はロウアー・マンハッタンのワールドトレードセンターへと向かい、午前8時46分(日本時間で午後9時46分)にアメリカン航空11便がノース・タワー(北棟)に、午前9時3分(日本時間で午後10時3分)にユナイテッド航空175便がサウス・タワー(南棟)にそれぞれ突入した。
 南棟は突入から56分後、北棟は1時間42分後に崩壊し、破片とそれに伴う火災は、47階建ての7 ワールドトレードセンタータワーを含むワールドトレードセンターの他のすべての建物の一部または完全な崩壊を引き起こしただけでなく、周囲にある他の10の大規模構造物に大きな損害を与えた。

 ▼ペンタゴンへのテロ攻撃

 3機目のアメリカン航空77便はバージニア州アーリントン郡のペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)に墜落し、建物の西側が部分的に崩壊した。

 ▼テロ攻撃の失敗

 4機目のユナイテッド航空93便はワシントンD.C.に向かって飛行していたが、乗員乗客がハイジャック犯の拘束を試みた結果、ペンシルバニア州ストーニークリーク郡区の野原に墜落した。

 ワールドトレードセンターとその周辺のインフラの破壊は、ニューヨーク市の経済に深刻な打撃を与え、世界市場に大きな影響を与えた。
 アメリカとカナダの民間空域は9月13日まで閉鎖され、ウォール街は9月17日まで閉鎖された。
 さらなる攻撃への警戒や恐れから、多くの閉鎖、避難、キャンセルが続いた。

 捜査の結果アルカイダと指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンに嫌疑がかけられ、アメリカは2001年10月に対テロ戦争を開始してアフガニスタンに侵攻し、アフガニスタンからのアルカイダの追放と、指導者であるビン・ラーディンの引き渡しという自らの要求に従わなかったタリバンを退陣させた。
 ビン・ラディンは当初、関与を否定していたが、2004年にはテロ攻撃の責任が自らにあることを認めた。

 アルカイダとビンラディンは、アメリカのイスラエル支援、サウジアラビアにおけるアメリカ軍の存在、イラクに対する制裁を動機として挙げた。
 ビンラディンは10年近く捕縛を逃れ、パキスタンの国境付近に居を構えていたが、2011年にアメリカ軍の急襲により殺害された。

 ワールドトレードセンター跡地の清掃は2002年5月に完了し、ペンタゴンは1年以内に修復された。1(ワン) ワールドトレードセンターの建設は2006年11月に始まり、2014年11月にオープンした。
 ニューヨーク市の911メモリアル&ミュージアム、バージニア州アーリントン郡のペンタゴンメモリアル、ペンシルバニア州の墜落現場にある93便ナショナルメモリアルなど、多数の慰霊碑が建設されている。

 《ハイジャックされた旅客機》

 2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系の集団によってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室に侵入し、操縦士を殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨーク・マンハッタンへ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)をワシントンD.C.へ向かわせた。


 なお、乗っ取られた4機のうち2機が米ボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。
 この2種類の機体は、運行する航空会社の操縦士に互換性を持たせるために、操縦室の操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。

 また、実行犯のリーダー、モハメド・アタをはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国内にある民間の航空学校(ホフマン飛行機学校)で小型機の自家用操縦免許を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。

 これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者[要出典]もいる。
 なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。

 ▼アメリカン航空11便


アメリカン航空のボーイング767-200ER(N334AA)

 ボストン発ロサンゼルス行きアメリカン航空11便(AA011; ボーイング767-200ER型機・機体記号N334AA)は、乗客81人(日本人1人を含む)・乗員11人を乗せ、午前8時00分頃にローガン国際空港を離陸し、ロサンゼルス国際空港に向かった。
 その後、11便は午前8時14分頃に始められたハイジャックにより、コックピットを乗っ取られた。
 11便は午前8時27分に進路を南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク・ロウアー・マンハッタンのワールドトレードセンター・ツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上した。
 角度、速度ともに浅い離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。

 11便がWTC北棟に衝突する瞬間は、ニューヨーク市消防局Ladder Companyの取材をしていたフランスの映像作家、ノーデ兄弟によって撮影されていた。
 また、ホームビデオや定点カメラに写り込んだ映像も存在する。

 ▼ユナイテッド航空175便


ユナイテッド航空のボーイング767-200(N612UA)

 ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空175便(UA175; ボーイング767-200ER型機・機体記号N612UA)は、乗客56人・乗員9人を乗せ、午前8時14分にローガン国際空港を離陸し(アメリカン航空11便でのハイジャック発生とほぼ同時)、ロサンゼルス国際空港に向かった。
 午前8時42分頃、UA175便のパイロットは離陸直後に耳にした不審な内容の無線(ハイジャックされたアメリカン航空11便からの無線だった)について管制官に報告したが、それから午前8時46分までの間にUA175便もハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。
 その後、UA175便は午前8時58分にニューヨークへ進路を変え、午前9時03分にWTC・ツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上した。
 南棟では北棟の爆発を受けて多くの人が避難を開始していたため、人的被害は北棟よりも少ないが、先に突入を受けた北棟より早く南棟が崩壊している。

 11便とは異なり、175便の突入時には、既に多くの人に事態が認識されていたことから、突入の瞬間の映像や写真が多数記録されている。
 なお、105階に居たエーオン副社長のケビン・コスグローブ(南棟の崩壊時に死亡)が、南棟が崩壊する瞬間まで911番へ電話で状況を伝えていた音声が録音されており、
 この録音はザカリアス・ムサウイの裁判において証拠として用いられた。

 ▼アメリカン航空77便


アメリカン航空のボーイング757-200

 ワシントンD.C.(ダレス国際空港)発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757-200:機体記号N644AA)は、乗客58人・乗員6人を乗せて、午前8時20分に出発した。
 午前8時50分頃までにハイジャックされコックピットを乗っ取られた。
 直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。
 最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、その後通信不能となった。
 そして午前9時38分、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。
 激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録されており、また付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって降下し激突する瞬間が目撃された。

 防犯カメラなどの映像によると、機体は水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突していたが、高速で建築物に激突・炎上したため機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。

 ▼ユナイテッド航空93便


ユナイテッド航空のボーイング757-200(N591UA)

 ニューアーク(ニューアーク空港)発サンフランシスコ(サンフランシスコ国際空港)行きユナイテッド航空93便(UA093; ボーイング757-200、機体記号N591UA)は、午前8時42分、乗客37人(日本人1人を含む)(乗客37人中4人はテロリスト)・乗員7人を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。
 乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。
 オハイオ州クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂かホワイトハウスであったと推測されている。
 午前9時57分、機内電話や携帯電話による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。
 午前10時03分、93便は490ノット (563マイル毎時 (906 km/h)) の速度でペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィル(ワシントンD.C. 北西240キロの場所)に墜落した。
 離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。
 なお、地震計のデータから墜落の時刻を午前10時06分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。

 乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ・よし、皆かかれ)」を合図にしたと言われている。
 この「Let's Roll」は、9・11事件以降のアフガニスタンでの「報復戦争」において一種のスローガンとして用いられた。
 9・11事件の調査委員会は乗客は操縦室内に進入できなかったと結論づけているが、一部の遺族はCVR音声に乗客が操縦室に進入した証拠が記録されていると主張している。
 なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93』が2006年に公開された。

 《被害》

 ▼ワールドトレードセンター      
              (WTC)

ワールドトレードセンター(ツインタワー)

 午前8時46分40秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便がワールドトレードセンター北棟(1 WTC)の北面、93 – 99階の部分に衝突した。
 衝突によってハイジャック機のジェット燃料が引火したことで北棟の高層階では爆発的な火災が発生し、また燃料がエレベーターシャフトを通じて落下したことで地上ロビー等の低層のフロアでも爆発が起こった。
 衝突から間もなく火災と黒煙は周辺階に広がり始め、8時52分には、過酷な状況に耐えかねて高層階から飛び降りる人々も現れた。
 この時点では、北棟への航空機の突入は(テロ攻撃ではなく)事故であるとの見方が大勢を占めていた。
 当時の大統領ジョージ・W・ブッシュも第一報を受けて「これはパイロットエラーによる事故だ」と発言した。
 9時00分までに、ニューヨーク市消防局の消防車やニューヨーク市警察のヘリコプターが現場に到着し、救助を試みていた。

 午前9時02分59秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟 (2 WTC) の南面に突入し、南棟は爆発炎上した。
 ハイジャック機は機体を傾けながら南棟の77 – 85階の部分に衝突しており、当時78階のスカイロビー(英語版)でエレベーターを待っていた数百人に及ぶ避難者の多くが死傷した。
 この衝突によって南棟が負った構造的ダメージは、北棟と比較してより深刻だった。
 2機目のジェット機が南棟に衝突した瞬間は既に多数の報道カメラが記録を始めており、一般者も含めた数多のカメラによって様々な角度から捉えられた。
 この時点で、一連の出来事が事故ではなく故意に起こされた攻撃であることが広く認識された。
 午前9時37分、ハイジャックされた旅客機(アメリカン航空77便)がペンタゴンに突入した。
 9時42分、連邦航空局 (FAA) はアメリカ合衆国大陸部内のすべての民間航空機を離陸禁止とし、すでに飛行中の民間機にはただちに着陸するよう指示した。
 午前9時59分、ユナイテッド航空175便の南棟突入から56分後、ワールドトレードセンター南棟が崩壊した。
 その直後の10時03分11秒、ハイジャックされたユナイテッド航空93便がペンシルベニア州で墜落した。
 10時28分、アメリカン航空11便の北棟突入から1時間42分後、南棟に続きワールドトレードセンター北棟が崩壊した。

 ワールドトレードセンターのツインタワーは、航空機の衝突による大規模な構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱で構造部材(鉄骨柱・床トラス部材等)の強度が著しく低下したことで崩壊したと考えられている。
 アメリカ国立標準技術研究所の報告書によれば、火災によるダメージは(ジェット燃料ではなく)主にオフィス内の可燃物によるものであり、それらの可燃物が火災を増長しなければ、ツインタワーは崩壊を免れていた可能性がある。
 ツインタワーは、建設当時に世界最大のジェット旅客機であったボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、漏れ出したジェット燃料とそれによる大規模火災の影響は設計上考慮されていなかった。
 日本の鹿島建設は事件の翌年にWTC建物内部の損傷について独自のシミュレーションを実施し、崩壊が火災によるものであることを裏付けた。
 北棟の崩壊時の瓦礫が隣接する7 ワールドトレードセンタービル (7 WTC) に降り注ぎ、7 ワールドトレードセンターは損傷、さらに火災が数時間にわたって発生し、ビルの構造的健全性は失われた。
 午後5時21分、7 ワールドトレードセンターは倒壊した。
各旅客機のツインタワー両棟への突入の様子

 7 WTC以外にも、ワールドトレードセンター・コンプレックスと周辺の多くのビルが壊滅的な被害を受けた。
 全壊した施設には聖ニコラス聖堂も含まれていた[57]。1 WTC(北棟)、2 WTC(南棟)と同様に、3 WTC(マリオット・ワールドトレードセンター)と7 WTCは跡形もなく破壊された。
 4 WTC、5 WTC、6 WTC(合衆国税関ビル)、ウエスト・ストリートを渡る2つの横断歩道橋は激しく損壊した。
 リバティ・ストリートを隔てたドイツ銀行ビルは部分的に損壊し、2007年に始まった解体作業で取り壊された。
 ウエスト・ストリートを隔てたワールドフィナンシャルセンターの2棟のビルもダメージを被った。
 ワールドトレードセンター・コンプレックスの地下にはPATHトレインのワールド・トレード・センター駅が位置していた。
 ツインタワーの崩壊時、この駅は完全に破壊され、この駅からハドソン川の下を通ってニュージャージー州ジャージーシティのエクスチェンジ・プレイス駅へ向かうトンネルも水没した。
 北棟の崩壊により、北棟の屋上に設置されていた通信アンテナも破壊された。
 一時的に多くのTV局・ラジオ局の放送が断絶したが(WCBS-TVのみがエンパイアステートビルにバックアップ用の通信装置を持っていた)、それらの放送局はすぐに別ルートでの通信を確立し、放送を再開することができた。
 ワールドトレードセンターの敷地における火災は、テロ事件から100日後の12月20日にようやく鎮火した。
 この事件以降、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地は「グラウンド・ゼロ」や「ワールドトレードセンター・サイト(跡地)」とも呼ばれている。

 〔ウィキペディアより引用〕