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CTNRX的見・読・調 Note ♯006

2023-09-24 22:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(6)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(5) ❖

 ▶正統カリフ

 ◆アリー・イブン・アビー・ターリブ

 預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。
 後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。
 ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。
 直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。
 早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。

 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。
 アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。
 また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。
 アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。

 ◆ウマイヤ朝の成立

 661年にアリーがハワーリジュ派に暗殺された後、ウマイヤ家のムアーウィヤが実力でカリフ位に就いてウマイヤ朝を興した。
 ムアーウィヤはカリフ位世襲の道を開いたため、正統カリフの時代は終焉した。

 ▶ウマイヤ朝

 イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。
 大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。


 イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。
 第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。
 首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。
 750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。
 非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。
 また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

 カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。
 また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。

 ◆ムアーウィヤによる創始

 656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。
 ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。
 両者の抗争は656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。
 その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。
 ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。
 しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。
 このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。
 和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。
 ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。
 アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。
 ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。
 こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

 第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。
 ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。
 また、東方ではカスピ海南岸を征服した。
 しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。
 ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。
  ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。
 ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

 ◆第二次内乱

 ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。
 680年10月10日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。
 この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。
 ヤズィード1世はカリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。
 シリア駐屯軍は彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに即位後わずか20日ほどで死去した。
 これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。
 これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。

 第二次内乱中の685年にはシーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームでありマフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。
 ムフタール軍は一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。
 ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによってムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。 
 そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。
 すでにイブン・アッ=ズバイルはウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。
 しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。
 自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは691年にムスアブを破ってクーファに入った。
 また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した。
 ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。

 ◆絶頂期

 第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は平和と繁栄に恵まれた。
 彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。
 694年、アブドゥルマリクはアッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方でイラクの治安を回復させた。
 アブドゥルマリクはカリフ位を息子のワリード1世に継がせた。
 征服戦争は彼の治世に大きく進展した。
 ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。
 その後、ヨーロッパ征服は732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。
 また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破ってブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。
 これによって中央アジアにイスラームが広がることとなった。
 中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。

 ◆ウマル2世の治世

 この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して原住民に同化するものが増えた。
 これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて全てのムスリムを平等とした。
 これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。
 彼は今までのカリフで初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。
 また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから征服戦争を中止した。
 ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。
 ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた。

 ◆最後の輝き

 第10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世はウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。
 彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた[36]。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。
 また、ヒシャームの治世では中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。
 その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施にはイラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。

 ◆第三次内乱

 744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍がヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。
 ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。
 その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世がワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。
 彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。
 これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。

 ◆アッバース革命

 680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。
 フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。
 ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。
 しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。
 カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシムがイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。
 さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した。

 アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。
 ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。
 747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。
 イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。
 アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した。
 749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。
 750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。 
 士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。
 750年8月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。

 ❒背景

 正統カリフの時代の後、661年に成立したイスラーム史上最初の世襲王朝、ウマイヤ朝の正統性には当初から疑問が抱かれていた。
 ハワーリジュ派と総称される反体制運動が絶え間なく続いた。
 ムアーウィヤがそれまでの慣例に反して世襲制を導入したことや、その結果即位した第2代カリフのヤズィード1世がカルバラーでアリーの子イマーム・フサインを殺害したことなども、各方面からの非難を招いた。
 さらにウマイヤ朝はアラブ人を優遇し、非アラブ人はたとえイスラームに改宗したとしてもマワーリーとして差別され、ジズヤ(人頭税)の支払いを課せられていた。
 そのうえ歴代カリフのほとんどがイスラームの戒律を軽視し、世俗的享楽に耽ったことも厳格なムスリムたちに批判された。
 ウマイヤ朝治下では絶えざる反乱や蜂起が続いていたが、743年に有能な第10代カリフ、ヒシャームが死去したことによって、王朝の衰勢は決定的なものとなった。
 主要な要因としては以下のものが挙げられる。

 ・南アラビア系アラブ人の子孫と、北アラビア系アラブ人の子孫の対立

 ・それを背景とした宮廷の内紛とカリフ位をめぐる争い

 ・無能なカリフの続出

 ・シーア派の影響力拡大と反体制運動の激化(ザイド派の反乱など)

 ・ウマイヤ朝の支配に対する非ムスリムやマワーリーの不満と、イラン人(ペルシア人)民族主義の台頭(シュウービーヤ運動)

 こうした社会的混乱が広がる中に、預言者ムハンマドの叔父の末裔・アッバース一族が登場し、各地の不満分子を利用しながら自らの権力獲得を目指すことになる。

 ▶アッバース朝

 中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750年〜1258年)。
 ウマイヤ朝に代わり成立した。

 王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。


 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。
 アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。
 また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。
 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。
 イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。
 1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。
 しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。
 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。
 後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

 前史

 ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。
 このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。
 また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。
 ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。
 この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。

 ❒ザーブ河畔の戦い

 こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。
 反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。
 翌750年1月、アッバース軍がザーブ河畔の戦い(英語版)でウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
 ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。
 彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。

 ❒アッバース革命

 シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。
 この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。
 弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。
 アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。
 征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。
 アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。

 ❒アッバース朝の最盛期

 建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。
 その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。一方で、756年に後ウマイヤ朝が建国され、マンスールの軍が敗北したことでイスラム世界の統一は崩れることとなった。
 また、マンスール治世の晩年、776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。
 第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、ティグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。
 この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。
 また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。
 また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。
 アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。
 一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。

 第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。
 その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。
 バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
 一方で地方支配は緩みを見せ始め、789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、800年にはチュニジアのカイラワーンに、アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、マグリブがアッバース朝統治下から離れた。

 ❒衰退への道

 ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して809年に死去したが、2年後の811年、兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、813年にバグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、マアムーンと名乗ってカリフに就任した。
 しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、そのためにバグダードは安定を失った。
 819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。
 第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。
 彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。
 翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に影響を与えた。
 その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。
 バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。 マアムーンが死ぬと、836年に弟のムウタスィムが即位した。
 彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、この軍はバグダード市民と対立したため、836年、バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。
 しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、アッバース朝の権威は低下していく。第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、衰退はさらに進んだ。868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。
 869年にカリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる反乱となり、カリフの権威を損ねることとなった。

 ❒政治的混乱

 9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。
 892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、勢力は衰退を続けた。
 10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。
 さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。
 これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。
 そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。
 長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。
 1055年に入ると、スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。

 ❒アッバース朝のイラク支配回復

 11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、アッバース朝もその庇護下に入る。
 しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、第31代カリフ、ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、イラク支配の回復を目指した。
 第34代カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。
 これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。

 ❒モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡

 1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、1258年1月29日〜2月10日)。
 1258年、当時のカリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、長男、次男と共に処刑された。
 その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。
 バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。

 ▶ターヒル朝

 9世紀にアッバース朝の総督(アミール)としてホラーサーン以東地域を統括したイスラーム王朝である。


 最大領域は現在のイラン、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンにまたがる。首都はニーシャープール。

 始祖のターヒル・イブン・フサインはホラーサーンを拠点としたアラブ戦士集団の有力者の出身で、祖父はウマイヤ朝を打倒したいわゆるアッバース朝革命に参加したひとりである。
 隻眼の武人で二刀流の達人であり、「2本の右手を持った人」と渾名されたという。
 809年にアッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッラシードがマー・ワラー・アンナフルでの反乱鎮圧のため親征した途上ホラーサーンで病没した。
 この時に、これに同行してメルヴにいた世継ぎの一人マアムーンのもとでこれに付き従った。カリフ・ラシードが没した後、ターヒルはアッバース朝第7代カリフとなるこのマアムーンが挙兵した際に協力し、バグダードを包囲して対立するアミーンを降伏させる等、マアムーンのカリフ位奪取に貢献した。
 マアムーン即位後ターヒルはバグダードやジャズィーラの総督職を与えられ、ついでホラーサーン総督に任命され、テュルク系やイラン系のマワーリー軍団、アラブ駐留軍などからなるホラーサーン軍に忠誠を誓わせ、この地域での行政・軍事力を統括するようになった。
 ターヒルはその後軍事力の強大さを警戒したマアムーンと対立するようになり、821年にモスクでの金曜礼拝の際に読み上げられるフトバからカリフ・マアムーンの名前を省き、事実上独立した。
 しかし、ターヒルの死後もターヒル家のホラーサーン以東での実力はカリフ政権側からも引き続き認められるところとなり、ターヒルの息子タルハ(在位822年〜828年)以降も総督職の任命を受け、毎年バグダードへ貢ぎ物や軍事力としてテュルク系奴隷の供給等を請負い、一族からバグダードの警察長官(シュルタ)職を務める者も輩出し、アッバース朝との関係は概ね良好であったようである。

 ホラーサーンはウマイヤ朝・アラブ征服時代以来、イスラーム帝国の東方支配の要であり、ターヒル朝が担ったホラーサーン総督職はマー・ワラー・アンナフルやスィジスターン(スィースターン)からアフガニスタン中南部、インド方面までの諸勢力と対峙するイスラーム支配地域の境域・前線地域でもあった。
 また、ターヒル朝はマー・ワラー・アンナフルや、スンナ派に属していたこともありホラーサーンのハワーリジュ派やカスピ海南岸のタバリスターンのシーア派などの反アッバース朝勢力と対立した。
 やがてスィジスターンからサッファール朝が台頭し、873年に首都のニーシャープールが落とされるまでホラーサーン支配を担い続けた。
 891年にはバグダードの総督職が廃止されて、同王朝は終焉を迎えた。

 ▶サッファール朝

 スィースターン地域(現在のイラン南東部スィースターン・バルーチェスターン州およびアフガニスタン南西部)を中心に存在した王朝。      

 861年から1003年にかけてこの地域を中心とする国家を統治した[2]。サッファール朝の首都は現在のアフガニスタンに位置するザランジュ(英語版)であった。

 この王朝の樹立者はヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールであり、王朝の名も彼の名前に由来する。
 彼は銅細工師(サッファール)という不確かな出自から諸侯の地位まで上り詰めた人物である。
 彼はスィースターン地域を掌握したのを皮切りに現在のアフガニスタン全土とイラン東部、そしてパキスタンの一部を征服した。
 首都ザランジは東西に向けた征服活動の拠点として活用された。
 彼はターヒル朝を打倒し、873年にホラーサーンを征服した。
 ヤアクーブは死ぬまでに、カーブリスターン、シンド地方、トハリスターン、バルーチスターン、ケルマーン、ファールス、ホラーサーンを征服した。
 また彼はバグダードの征服を試みたが、アッバース朝の反撃にあい敗北した。
 ヤアクーブの死後サッファール朝は長くは続かなかった。
 彼の弟であり後継者であるアムル・イブン・アル=ライスは900年にサーマーン朝に敗北し、領土の大半を新たな支配者に割譲せざるを得なくなった。
 サッファール朝の勢力は徐々に本拠地ザランジ周辺のスィースターン地方に限られるようになったが、王朝自体はサーマーン朝とその後継政権の臣下としてその後も続いた。

 ▶サーマーン朝

 サーマーン朝(سامانيان Sā中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。 首都はブハラ。
 中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる。
 ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。
 サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。
 サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。
 英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している。
 このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている。   

 ◆成立の背景

 サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する。
 サーマーン・フダーはサーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている。
 サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに与し、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。
 819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した。
 827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督にサーマーン家の人間が選ばれた。
 ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン・フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する。
 ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった。
 アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。

 ◆サーマーン家の独立

 こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。
 ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。
 ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。
 イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。
 ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。
 ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。
 翌886年にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。
 ナスルはヒジュラ暦279年(892年 - 893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。
 ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。

 ◆最盛期

 893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。
 この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている。
 以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった。
 他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた。
 900年にイスマーイールはバルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・アル=ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える。
 イスマーイールは捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉された後に処刑される。
 ムウタディドはサッファール朝の拡大を抑止できる勢力の確立を望んでおり、サッファール朝を破った後にサーマーン朝はカリフからマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンの支配を認められる。
 サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。
 946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。

 王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。
 北東部ではマー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。
 サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。
 王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた。
 ナスル2世の在位中に王権は弱体化し、西側の領土をブワイフ朝に割譲した。
 910年ごろにエジプトのシーア派国家ファーティマ朝はホラーサーン地方にダーイー(宣教員)を派遣し、シーア派の勢力はブハラの宮廷にも進出する。
 高官、ナスル2世の側近、ナスル2世自身がシーア派に改宗するに及んでウラマー(神学者)やトルコ系の将校はシーア派の排撃を行い、王子ヌーフは父ナスル2世を監禁した。

 滅亡 編集 ナスル2世の没後に王朝の衰退が進み、ヌーフ1世の即位後に地主やグラームの権力闘争が激化する。
 また、スィル川中流域はサーマーン朝の影響下に置かれていたが、上流域と下流域は依然としてテュルク系遊牧民の支配下に置かれていた。
 アブド・アル=マリク1世(英語版)の治世では、グラーム出身の近衛隊長アルプテギーンが宮廷第一の実力者として権勢を誇っていた。
 文人宰相として有名なアブル=ファズル・バルアミーが、アルプテギーンの推挙によって宰相に起用される。
 961年(962年)にアブド・アル=マリク1世は、アルプテギーンを中央から遠ざけるためにホラーサーン総督に任命、同年にマリク1世は没する。
 マリク1世の弟マンスール1世がアミールに即位するが、アルプテギーンはマンスール1世の即位に反対した。
 アルプテギーンはバルフを経て南部のアフガニスタン方面に移動し、ガズナで自立してガズナ朝を開いた。
 マンスール1世はガズナに討伐隊を送るが、アルプテギーンを破ることはできなかった。
 ガズナ朝は名目上はサーマーン朝に臣従していたが、事実上独立しており、ホラーサーン地方の領主も半独立した状態にあった。
 一方、北方のカラハン朝は南下を開始し、980年にスィル川東岸のサイラムがカラハン朝の手に落ちた。
 ホラーサーン総督アブル・アリー・シムジェルとヘラート知事ファーイクはカラハン朝と内通し、992年にサマルカンドとブハラがカラハン朝の手に落ちた。
 カラハン朝の君主アル=ハサンはブハラに入城するが、急病に罹り撤退した。

 ブハラに帰還したアミール・ヌーフ2世は、ガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めた。
 サブク・ティギーンとその子マフムードはヘラート、ニーシャープール、トゥースの反乱を鎮圧し、ファーイクはカラハン朝に亡命した。
 しかし、ヌーフ2世とサブク・ティギーンの間に不和が生まれ、サブク・ティギーンはカラハン朝と講和を締結し、ファイクをサマルカンドの総督に任命した。
 997年、マンスール2世が新たなアミールとなる。
 マー・ワラー・アンナフルはカラハン朝に浸食され、ホラーサーンはガズナ朝の君主となったマフムードに占領された。
 999年にマンスール2世は臣下のベクトゥズンに暗殺され、幼少のアブド・アル=マリク2世が即位する。
 カラハン朝のイリク・ハンはマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の領土に進軍し、999年にブハラは陥落する。
 政府は民衆の抵抗運動に期待したが、イスラーム化したカラハン朝の進攻に対して頑強な抗戦は行われなかった。
 捕らえられたマリク2世は獄中で没し、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。

 ◆滅亡後

 サーマーン朝の王族イスマーイール・エル・ムンタジはイリク・ハンから逃れ、マリク2世の死後も抗戦を続けた。
 イスマーイールはオグズの支援を受けてカラハン朝に勝利を収め、ガズナ朝に占領されていたニーシャープールの奪回に成功する。
 1005年、イスマーイールは遊牧民によって殺害される。
 1007年にはサーマーン朝の残党がアム川南方で再興を図ったが、ガズナ朝によって駆逐された。

 〔ウィキペディアより引用〕