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CTNRX的見・読・調 Note ♯005

2023-09-23 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(5)

 ❖ アフガニスタン
       歴史と変遷 (4) ❖ 

 ▶クシャーノ・サーサーン朝

 3世紀と4世紀、及び6世紀から7世紀の間、インド亜大陸の北西部に支配を確立したサーサーン朝の分流である。

 ◆最初のクシャーノ・サーサーン朝

 サーサーン朝は、パルティアに対する勝利のすぐ後、アルダシール1世の治世中の230年頃にはバクトリアまで領土を拡大し、彼の息子シャープール1世(240〜270年)の時代にはクシャーナ朝の旧領(今日のパキスタンと北西インド)まで拡大した。

 弱体化していたクシャーナ朝は西部領土を喪失し、バクトリアとガンダーラはクシャーンシャー(Kushanshahs クシャーナ王)と称するサーサーン朝の藩王に支配されるようになった。

 325年頃、シャープール2世は南部領域を直接管理の下に置いていたが、北部ではキダーラ朝の興隆までの間クシャーンシャーの支配が維持された。

 ◆インド・エフタル

 410年からバクトリア、続いてガンダーラはエフタルの侵入を受け、彼らは一時クシャーノ・サーサーン朝に取って代わった。
 彼らはインド・エフタルとして知られるようになった。

 ◆第2のクシャーノ・サーサーン朝

 突厥西面の室点蜜とサーサーン朝のホスロー1世とが共同で、558年にエフタルへの攻撃を開始し(ブハラの戦い(英語版))、565年に連合軍によってエフタルが打倒されるまでインド・エフタルによる統治は続いた。
 以後、再びサーサーン朝の王族がこの地に支配を確立した。

 《宗教的影響》

 預言者マニ(210年〜276年マニ教の教祖)はサーサーン朝の東への拡大につれて東へ向かった。
 それはマニをガンダーラで栄えていた仏教文化(ガンダーラ美術)に触れさせることになった。
 彼はバーミヤーンを訪れたと言われており、そこには彼の作になるという幾つかの宗教画があり、彼が暫くの間そこに住んで教えを広めたと信じられている。
 また、彼は240年か241年に、インドのインダス川流域に向かって出帆し、仏教徒であったトゥーラーンの王(Turan Shah)を改宗させたと伝えられている。
 その際、様々な仏教の影響がマニ教に浸透したと考えられる。
 「仏教の影響はマニ教の教義構成にあたって重要であった。
 輪廻(The transmigration of souls)の思想は、男女の僧侶らに与えられたマニ教の共同体における4つの位階(選良者 The 'elect')を定めるものとなり、それを補助した在家衆(聴講者 The 'hearers')は、仏教徒のサンガ(Sancha)を元にしたものと考えられる。(Richard Foltz, Religions of the Silk Road).

 ▶アフリーグ朝

 ▶キダーラ朝

 ▶エフタル

 エフタル(英: Hephthalite、パシュトー語: هپتالیان)は、5世紀から6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家である。
 名称は史料によって異なり、インドではフーナ (Hūna),シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝ではスペード・フヨーン(白いフン)、ヘテル (Hetel)、ヘプタル (Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス (Ephtalites)、アラブではハイタール (Haital)、アルメニアではヘプタル (Hephtal),イダル (Idal),テダル (Thedal) と呼ばれ、中国史書では嚈噠(ようたつ、Yàndā),囐噠(ようたつ、Yàndā),挹怛(ゆうたつ、Yìdá),挹闐(ゆうてん、Yìtián)などと表記される。
 また、「白いフン」に対応する白匈奴の名でも表記される。

 ◆概要

 5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝)を滅ぼしてトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
 これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。
 さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。

 6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。
 これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。

 しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。
 エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。

 ◆起源

 エフタルの起源は東西の史料で少々異なり、中国史書では「金山(アルタイ山脈)から南下してきた」とし、西方史料の初見はトハリスタン征服であり「バダクシャン(パミール高原とヒンドゥークシュ山脈の間)にいた遊牧民」としている。

 ❒中央アジア・インドを支配

 410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入(彼らはインド・エフタルとして知られるようになる)。

 425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、バハラーム5世(在位:420年〜438年)により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。

 エフタルはクマーラグプタ1世
(在位: 415年頃 - 455年)のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。
 また、次のスカンダグプタの治世(435年〜467年もしくは455年〜456年/457年)にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。

 サーサーン朝のペーローズ1世(在位: 459年〜484年)はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル(アフシュワン)に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。
 アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。
 484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させた。

 エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えた。

 508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。 516年、高車王の弥俄突が柔然可汗の醜奴(在位: 508年〜520年)に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた。
 ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた(インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照)。
 520年、北魏の官吏である宋雲と沙門の恵生は、インドへ入る前にバダフシャン付近でエフタル王に謁見した。
 523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された。
 北魏の太安年間(455年〜459年)からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光(520年 - 525年)の末にも師子を貢納し、永熙年間(532年 - 534年)までそれが続けられた。

 533年頃、マールワー王ヤショーダルマンがエフタル王ミヒラクラを破る。
 ミヒラクラはカシミールに逃亡した。
  546年と552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した。

 ❒衰退と滅亡

 558年、エフタルは北周に遣使を送って朝献した。
 この年、突厥の西方を治める室点蜜(イステミ)がサーサーン朝のホスロー1世(在位:531年〜579年)と協同でエフタルに攻撃を仕掛け(ブハラの戦い)、徹底的な打撃を与えた。
 これによってエフタルはシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を突厥に奪われてしまう。
 567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)を占領した。 隋の大業年間(605年〜618年)にエフタルは中国に遣使を送って方物を貢納した。
 エフタル国家の滅亡後も、エフタルと呼ばれる人々が存続し、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争や619年の第二次ペルソ・テュルク戦争に参戦していたが、8世紀ごろまでに他民族に飲み込まれて消滅した。

 ❒政治体制

 中国の史書の『魏書』列伝第九十(西域伝)には、嚈噠(エフタル)国の政治体制などについて、次のとおり記す。
 「嚈噠(エフタル)国は大月氏の種族であるが、また、高車の別種であるとも言われ、その起源は塞北にある。金山より南方、于闐(ホータン)国の西方にあり、馬許水を都とし南200余里、長安を去ること10,100里である。
 その王は抜底延城(バルフ)を都としており、蓋し、王舎城である。城市は10余里四方で、寺塔が多く、みな金で装飾している。

 ・・・王は領国内を巡回し、月ごとに居処を替えるが、冬の寒冷な時期には、3箇月間移動しない。
 王位は必ずしも子に引き継がれる訳ではなく、子弟でその任務をこなせる者がいれば、(王の)死後に王位を継承する。・・・性格は兇悍で、戦闘を能く行う。

 西域の、康居・于闐・沙勒・安息及び諸々の小国30国ほどが、皆、嚈噠国に従属しており、大国と言っている。」

 ▶カブール・シャヒ朝

 ◆イスラーム化の進展

 アラビア半島で興ったイスラーム教はイランや中央アジアに浸透し、トルコ人とイラン人によるいくつかの地方勢力を生み出し、9世紀から10世紀の間に最後の非イスラーム王朝は滅亡した。
 イランのターヒル朝はバルフやヘラートを領有しており、これは後に土着のイラン系サッファール朝が勢力を引き継ぐ。北部では地方有力者がイラン系のサーマーン朝に属してブハーラ、サマルカンド、バルフは発展した。

 《イ ス ラ ー ム 化
          の 進 展 》

 ◆正統カリフ

 正統カリフ(せいとうカリフ、アラビア語: الخلفاء الراشدون, ラテン文字転写: al-Khulafā’u r-Rāshidūn、アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教・イスラム帝国の初期(アラビア語: الخلافة الراشدية, ラテン文字転写: al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語である。
 正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。

西暦654年の正統カリフ時代の最大版図

 ◆アブー=バクル

 632年に神の使徒ムハンマドが死去した後、アブー・バクルがイスラム共同体の長に選出された。
 リッダ戦争(632年〜633年)。
 ドゥーマト・アッ=ジャンダルの戦いを指導し、634年する。
 以降は、同様にイスラム共同体の合議によって選出され継承を行った。

 アブー・バクル・アッ=スィッディーク( ابو بكرالصدّيق عبد الله ابن ابي قحافه عثمان بن عامر بن عمرو بن كعب بن سعد بن تيم‎ Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b. Sa‘d b. Taym, 573年〜634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年〜634年)。
 預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムのひとりであり、カリフすなわち「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」( خليفة رسول الله‎ Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。

 ❒正統カリフまでの経緯

 預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの近親を除く最初の入信者であったとされる。
 ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアーイシャをムハンマドに嫁がせたため、ムハンマドの義父にもあたる(ただし年齢はムハンマドより3歳程度若い)。
 632年、ムハンマドが死去した後、選挙(信者の合意)によって初代正統カリフに選出された。
 選出に先立って最初期からの最有力の教友で同僚でもあったウマル・ブン・アル=ハッターブとアブー・ウバイダ・アル=ジャッラーブのふたりが、アブー・バクルを預言者ムハンマドの後継者である代理人(カリフ、ハリーファ)として強力に推して人々に支持を求めて働きかけたため、初代カリフとなった。

 アブー・バクルはムハンマドの死後、イスラーム共同体全体の合議によってムスリムたちの中から預言者ムハンマドの代理人(ハリーファ)として共同体全体を統率する指導者(イマーム)、すなわち「カリフ(ハリーファ・アル=ラスールッラーフ)」として選出された。
 このようにして選ばれたのは、アブー・バクルを嚆矢としてその後に続くウマル、ウスマーン、アリーの4人であった。
 アリー以降はイスラーム共同体内部の対立によってシリア総督となっていたムアーウィヤが共同体全体の合意を待たずに事実上実力でカリフ位を獲得し、イスラーム共同体最初の世襲王朝であるウマイヤ朝の始祖となった。
 そのため、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの4人を指して、スンナ派では伝統的に「正統カリフ」 الخلفاء الراشدون al-Khulafā' al-Rāshidūn 〔「正しく導かれた代理人たち」)と呼んでいる(後述のように、シーア派ではほとんどの場合、アリー以外の預言者ムハンマドからのイスラーム共同体の教導権(イマーム権)・代理権(カリフ権)の継承を否定している〕。

 ❒正統カリフとしての
          アブー・バクル

 カリフとなったアブー・バクルは、「ムハンマドは死に、蘇ることはない」「ムハンマドは、神ではなく人間の息子であり、崇拝の対象ではない」と強調した。
 しかし、かつてムハンマドに忠誠を従ったアラブ諸族の中には、その忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブー・バクルに忠誠をみせない勢力もあった。
 アブー・バクルはハーリド・イブン=アル=ワリードらの活躍によってこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した(リッダ戦争)。
 また、イスラーム勢力拡大のためにサーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国と交戦したが、こうした戦争を通じてムスリム共同体の結束を強める狙いもあったと推測される。
 アブー・バクルは、カリフ在位わずか2年にして病のため亡くなった。
 そのため、一連の征服活動は2代カリフのウマル・イブン・ハッターブに受け継がれることになった。

 ◆ウマル

 634年にカリフに選ばれ、636年ヤルムークの戦い・カーディシーヤの戦い、
 642年ニハーヴァンドの戦いを指導する。
 644年に刺されて、息を引き取る前に後継者候補と選挙方法を残した。

 ウマル・イブン・ハッターブ(عمر بن الخطاب‎ ʿUmar ibn al-Khattāb)、(592年?〜644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年〜644年)。

 ❒生い立ち

 アラビア半島西部の都市マッカ(メッカ)に住むアラブ人のクライシュ族に属するアディー家の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、クライシュ族の遠い親族であるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラーム教を開くと、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からその布教活動を迫害する側に回った。
 伝えられるところによれば、血気盛んな若者であったウマルはある日怒りに任せてムハンマドを殺そうと出かけたが、その道すがら自身の妹と妹婿がイスラームに改宗したと聞き、激怒して行き先を変え、妹の家に乗り込んで散々に二人を打ちすえた。
 しかし、ウマルは兄の前で妹が唱えたクルアーン(コーラン)の章句に心を動かされて改悛し、妹を許して自らもイスラームに帰依した。ウマルがムスリム(イスラーム教徒)となると、クライシュ族の人々はウマルの武勇を怖れてムハンマドに対する迫害を弱め、またマッカで人望のあるウマル一家の支援はマッカにおいて最初期の布教活動を行っていたムハンマドにとって大いに助けとなったといわれている。

 622年にムハンマドらムスリムがマッカを脱出し、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に移住するヒジュラ(聖遷)を実行したのちは、マディーナで樹立されたイスラーム共同体の有力者のひとりとなり、イスラーム共同体とマッカのクライシュ族の間で行われた全ての戦いに参加した。
 また、夫に先立たれていたウマルの娘ハフサはムハンマドの4番目の妻となっており、ムハンマドの盟友としてウマルは重要な立場にあったことがうかがえる。

 ❒ムハンマドの死から

 632年にムハンマドが死去すると、マディーナではマッカ以来の古参のムスリム(ムハージルーン)とマディーナ以降の新参のムスリム(アンサール)の間で後継指導者の地位を巡る反目が表面化したが、ウマルは即座にムハンマドの古くからの友人でムハージルーンの最有力者であったアブー・バクルを後継指導者に推戴して反目を収拾し、マッカのクライシュ族出身の有力者が「神の使徒の代理人」を意味するハリーファ(カリフ)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。
 アブー・バクルが2年後の634年に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなる。

 ❒2代目カリフとして

 ウマルは当初「神の使徒の代理人の代理人」(ハリーファ・ハリーファ・ラスールッラー خليفة خليفة رسول اللّه‎ khalīfa khalīfa Rasūl Allāh )を名乗る一方、後世カリフの一般的な称号として定着する「信徒たちの指揮官」(アミール・アル=ムウミニーン امير المؤمنين‎ amīr al-mu'minīn )の名乗りを採用した。
 また、ヒジュラのあった年を紀元1年とする現在のイスラーム暦のヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準備した 。
 伝承によると、「信徒の指揮官」という称号は、彼の治世時代に教友のひとりがたまたま口にした言葉をウマルが非常に好ましい名称と思い、採用したと伝えられる。彼をこのように呼んだ最初の人物は預言者ムハンマドの従兄弟のアブドゥッラー・ブンジャフシュとも、アブー・バクルと同じタイム家の重鎮ムギーラ・イブン・シュウバとも、アムル・イブン・アル=アースとも言われている。

 政治の面では、アブー・バクルの時代に達成されたアラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出してアラブの大征服を指導した。
 当時この地方では東のサーサーン朝と西の東ローマ帝国とが激しく対立していたが、長期にわたる戦いによって両国ともに疲弊しており、イスラム帝国はその隙をついて急速に勢力を拡大しつつあった。
 すでにアブー・バクル期末の633年にはメソポタミア地方に兵を出し、フィラズの戦いにおいてサーサーン朝に痛撃を与えていた。
 このような情勢下、イスラーム軍は635年9月には東ローマ領だったダマスカスを占領し、さらに636年8月20日には東ローマの援軍をハーリド・イブン・アル=ワリードの指揮の元でヤルムークの戦いで撃破し、シリアで東ローマとサーサーン朝の連合軍をも打ち破り、シリアを制覇した。
 636年11月にはカーディシーヤの戦いによってふたたびサーサーン朝を撃破し、637年7月にはサーサーン朝の首都クテシフォンを占領。639年にはアムル・イブン・アル=アースに命じて東ローマ領のエジプトに侵攻し、642年にはアレキサンドリアを陥落させてエジプトを完全に自国領とした。
 642年にはイランに進んだムスリム軍がニハーヴァンドの戦いに勝利し、ヤズデギルド3世率いるサーサーン朝を壊滅状態に追い込んだ。
 644年にはキレナイカまで進撃し、ここをイスラーム領としている。

 征服した土地では、アラブ人ムスリム優越のもとで非ムスリムを支配するために彼らからハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収する制度が考案され、各征服地にはアーミル(徴税官)が派遣される一方、軍事的な抑えとしてアミール(総督)を指揮官とするアラブ人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設された。
 ウマルの時期に建設されたミスルとしては、イラク南部のバスラ(638年)やクーファ(639年)、エジプトのフスタート(現カイロ市南部、642年)などがある。
 ウマルはミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税機構を生かすための財政・文書行政機構としてディーワーン(行政官庁)を置き、ここを通じて徴税機構から集められた税をアター(俸給)としてイスラーム共同体の有力者やアラブの戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築き、歴史家によって「アラブ帝国」と呼ばれている、アラブ人主体のイスラーム国家初期の国家体制を確立した。

 638年には首都のマディーナを離れて自らシリアに赴き、前線で征服の指揮をとった。
 同じ年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の支配下に入ったことを宣言するとともに、キリスト教のエルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)とし、彼等がイスラームの絶対的優越に屈服しジズヤを支払う限りに於いて一定程度の権利を保障することを約束した(ウマル憲章)。
 また、このときにユダヤ教徒にも庇護民の地位が与えられ、このときからエルサレムにおいてイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3つの宗教が共存するようになった。
 このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが一夜にしてマッカからエルサレムに旅し、エルサレムから天へと昇る奇跡を体験したとき、ムハンマドが昇天の出発点とした聖なる岩を発見し、そのかたわらで礼拝を行って、エルサレムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝する慣行をつくったとされる。
 この伝承に従い、ウマイヤ朝時代にこの岩を覆うように築かれた岩のドームは、通称ウマル・モスクと呼ばれる。またウマルはソフロニオスから神への祈りを共にするよう誘われたが、ムスリムとして先例を残す事を好まずそれを断ったとされている。

 ❒ジハード、死

 644年11月、ウマルはマディーナのモスクで礼拝をしている最中に、個人的な恨みをもったユダヤ人ないしペルシア人の奴隷によって刺殺された。
 この奴隷はウマルの奴隷ではなく、教友のひとりでウマルによってバスラ、クーファの長官となっていたアル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷(グラーム)のアブー・ルウルウであった。
 殺害の動機はウマルがハラージュ税を定めた時に彼の主人にも課税されたためこれを恨んだからであったという。
 ウマルはこの時6ケ所を刺される重傷を負い、3日後に非業の死を遂げた。
 ウマルはマディーナにある預言者のモスクに葬られた。

 伝承によると、アブー・ルウルウは彼自身その場で取り押さえられて報復として殺害されているが、この時彼はモスク内で詰め寄ってきた人々をさらに11人刺しており、内9名が死亡するという大惨事となった。
 ウマルは刺された後、死の直前に後継のカリフを選ぶための、ウスマーン、アリー、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー、アッ=ズバイル・イブン・アル=アッワーム、アブドゥッ=ラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビーワッカースの6人からなる有力者会議(シューラー)のメンバーを後継候補として指名し、さらにアンサールのアブー・タルハ・ザイド・イブン・サフルに命じて他のアンサールから50人の男を選んで、彼らの6人から一人を選ぶようにも命じた。
 このような経過の末ウマルの死の後、互選によってウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選出された。
ウマル時代のイスラーム共同体最大領域(644年、ウマル没時)

 ◆ウスマーン

 ウスマーン・イブン・アッファーン
(アラビア語: عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن امية‎ ‘Uthmān ibn ‘Affān b. Abī al-‘Āṣ b. Umayya, 574年?[2]/76年?〜656年6月17日)は、イスラームの第3代正統カリフ(在位644年〜656年)。

 マッカ(メッカ)のクライシュ族の支族であるウマイヤ家の出身。
 預言者ムハンマドの教友(サハーバ)で、ムハンマドの娘婿にあたる。

 ムハンマドの妻ハディージャを除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている。
 クルアーン(コーラン)の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている。
 651年頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される。
 656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって殺害され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された。 
 莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー(「富めるウスマーン」の意)と呼ばれた。
 また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン(ذو النورين Dhū al-Nūrain、「二つの光の持ち主」)とも呼ばれる。

 ❒生涯

 イスラームへの帰依前

 ウマイヤ家の豪商アッファーン・イブン・アビー・アル=アースとアルワ(ウルワー)の子として、ウスマーンは生まれる。
 母のウルワは預言者ムハンマドの従姉妹にあたる。

 ウスマーンの幼年期については、不明な点が多い。
 子供のころに厳格な教育を受けたと思われ、マッカに住む若者の中でも特に読み書きに長けた人間に成長した。
 幼少のウスマーンが他のアラブ人の子供に混ざって脱いだ服に石を集めて運ぶ遊びをしていた時、何者かに「服を着よ、肌を出してはならない」と言われてすぐに遊びを止めて服を着、以来人前で服を脱ぐことは無くなったという伝承が残る。

 ウスマーンが20歳になった時、父のアッファーンが旅先で客死し、ウスマーンは父の遺した莫大な財産を相続した。
 父と同様に交易に携わったウスマーンは事業で成功を収め、跡を継いだ数年後にはクライシュ族内でも有数の富豪になっていた。
 商売で不正を行うことは無く、慎重かつ公正な姿勢を心掛けていた。

 ❒イスラームへの改宗

 ウスマーンが改宗した理由について、彼がムハンマドの娘のルカイヤに恋焦がれていたためだと言われている。
 ウスマーンは密かにルカイヤを想っていたがムハンマドに結婚を言い出す事が出来ず、ルカイヤはムハンマドの従兄弟ウトバの元に嫁いだ。
 叔母のスウダーに相談したウスマーンは、やがてムハンマドに重大な出来事が起こり、その時にはルカイヤが自分の下に嫁ぐと言われ、叔母からの助言を心に留め置いた。
 610年初頭、ウスマーンは旅先でマッカに預言者が現れた声を聞き、マッカに戻ったウスマーンは友人のアブー・バクルの勧めを受けてムハンマドに帰依した。

 クライシュ族内ではウマイヤ家とムハンマドが属するハーシム家の対立が深まり、ウマイヤ家の人間はウスマーンがムハンマドの教えに入信したことを喜ばなかった。
 ウマイヤ家の家長であるアル=ハカムはウスマーンを縛り付けて棄教を迫り、母のアルワと継父のウクバからも棄教を説得された。
 それでもウスマーンの決意を翻すことはできず、アル=ハカムはウスマーンをクライシュ族の信仰に立ち返らせることを諦め、アルワはウスマーンを勘当した。
 スウダーはウスマーンを擁護し、ウスマーンの異父妹であるウンム・クルスームは兄に続いてイスラームに改宗した。

 ムハンマドがハーシム家の人間から迫害を加えられた時、ウトバ親子もムハンマドを責めて、ルカイヤはムハンマドの下に帰された。
 また、ウスマーンはイスラームの教えを拒否する二人の妻と離婚した。
 ウスマーンが離婚したことを知ったアブー・バクルは、ムハンマドにウスマーンとルカイヤの結婚を提案する。
 ムハンマドはクライシュ族の有力家系であるウマイヤ家の人間の改宗を喜び、ルカイヤをウスマーンの元に嫁がせて友好関係の継続を望んだ。

 ウスマーンとルカイヤは幸福な結婚生活を送っていたがクライシュ族内でのイスラーム教徒への迫害は激しさを増し、ウスマーンはムハンマドと話し合った末、交易でつながりのあったエチオピアへの避難を決定した。
 615年、ウスマーン夫妻は信徒を連れてエチオピアに移住する。
 移住先のエチオピア王国では歓迎を受け、マッカ時代と同じように交易を続け、貧窮した人間に援助を与えた。
 また、エチオピア滞在中にルカイヤとの間に男子が生まれ、ウスマーンは息子にアブドゥッラーと名付けた。
 移住から2年後にマッカのクライシュ族がイスラム教を受け入れた報告を受け取り、ウスマーン夫妻は何人かの信徒を連れてマッカに帰国した。
 帰国後、報告が誤りだと分かった後もウスマーンたちはマッカに留まり続け、迫害に耐え続けた。

 ムハンマドの家族とハーシム家の人間がマッカ郊外の渓谷に追放された時、ウスマーンはムハンマドたちに食糧を供給し続けた。同時にムハンマドたちへの制裁の廃止をクライシュ族の若者たちに説き、ムハンマドへの制裁は中止される。
 622年のヒジュラに際し、ウスマーンも他の信徒と同じようにヤスリブ(後のマディーナ、メディナ)に移住する。

 ❒ヒジュラ後

 マディーナで新たな生活を始めたウスマーンは、ユダヤ教徒に独占されている商行為にイスラム教徒も参入するべきだと考え、マッカから運び込んだ財産を元手に商売を始める。
 ウスマーンはマディーナでも慈善事業に携わり、ムハンマドの邸宅とモスク(寺院)の建立に必要な土地を購入する資金を捻出した。また、水の確保にも尽力し、ユダヤ教徒と交渉し邸宅の権利を買い取ることができた。

 624年頃にマディーナで天然痘が流行し、ルカイヤは天然痘に加えてマラリアに罹る。
 同624年のバドルの戦いではウスマーンは従軍を志願したが、ムハンマドは自分の代理としてマディーナに残り、ルカイヤの看病をするように命じた。
 バドルでイスラム軍とクライシュ族が交戦している時にルカイヤは病没し、マディーナに勝利の知らせが届いたときには彼女の埋葬は終えられていた。
 バドルの戦いから1年が経過した後もウスマーンはルカイヤを亡くした悲しみから立ち直れず、またウフドの戦いで誤報を信じて退却したことを悩んでいた。
 625年末、ムハンマドはウスマーンを慰めるため、ルカイヤの妹であるウンム・クルスームを彼に娶わせた。
 翌626年にアブドゥッラーを亡くし、630年にウンム・クルスームも早世する。

 628年3月にムハンマドがカアバ神殿巡礼のためにマッカに向かった時、同行したウスマーンはマッカのクライシュ族との交渉役を任せられる。
 交渉の後、ムハンマドとマッカの間に和約が成立した(フダイビーヤの和議)。和議はクライシュ族にとって一方的に有利な内容になっていたため、イスラム教徒の中には和議に不服な人間も多かったが、ウスマーンはクライシュ族の中にイスラム教徒が増えてやがて事態は好転すると考えていた。
 ウスマーンの予測は当たり、クライシュ族内の有力者にイスラームに改宗する者が多く現れる。
 信徒の増加に伴うマディーナのモスクの増築にあたっては、ウスマーンは工事費の全額を負担し、自らもレンガを運んで工事に参加した。

 632年6月9日にムハンマドが没し、マディーナでその知らせを聞いたウスマーンは憔悴するが、アブー・バクルの励ましを受けて立ち直る。
 アブー・バクルがカリフに就任した後、ウスマーンはウマルの次にバイア(忠誠の誓い)を示した。
 厳格なウマルがカリフに就任した後、ウマルは自分に正面から意見をするウスマーンに信頼を置いていた。
 ウスマーンは若者の多いイスラム教徒の間で温厚な人物として尊敬を受けていたが、ウマルの治世の末期まで目立った動向は無かった。
 ウスマーンは政治顧問としてマディーナに留まり、ウンマ(イスラーム共同体)の運営に従事していた。

 ❒カリフ即位後

 ウスマーンは死に瀕したウマルから後継者候補の一人に指名され、同じく後継者候補に指名されたアリー、タルハ、ズバイル、アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビー・ワッカースらクライシュ族出身のムハージルーン(マッカ時代からのムハンマドの信徒でマディーナに移住した人間)の長老と会議(シューラー)を開いた。
 カリフの候補者はウスマーンとアリーに絞られ、アウフが議長を務めた。
 ウマルが没してから3日間、アウフは指導者層以外のマディーナの人間にもいずれがカリフに適しているかを諮り、最終的にウスマーンをカリフの適格者に選んだ。
 644年11月7日、ウスマーンはマディーナのモスクでバイアを受け、カリフに即位する。
 ウスマーンはカリフという職務に強い重圧を感じ、最初の演説を行うために説教台に登った彼の顔色は悪く、演説はたどたどしいものとなったと伝えられている。
 クライシュ族の長老たちにはウスマーンの支持者が多く、アリーの主な支持者であるアンサール(ヒジュラより前にマディーナに住んでいたイスラム教徒)には発言権が無かったことが、ウスマーンのカリフ選出の背景にあったと考えられている。
 さらに別の説として、ウマル時代の厳格な統治からの脱却を望んだ多くの人々が、禁欲的な生活を求めるアリーではなく、ウスマーンを支持したためだとも言われている。
 史料の中には、他の長老からの「先任の二人のカリフの慣行に従うか」という質問に、ウスマーンは「従う」と断言し、アリーは「努力する」と答えたことが選出の決め手になったと記したものもある。

 645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部は東ローマ帝国の攻撃を受ける。
 ウスマーンはそれらの土地の騒乱を鎮圧し、中断されていたペルシア遠征を再開した。
 ニハーヴァンドの戦いの後に進軍を中止していた遠征軍は、ウスマーンの命令を受けて進軍を再開した。
 650年にジーロフトに到達した遠征軍は、三手にわかれてマクラーン、スィースターン(シジスターン)、ホラーサーンを征服し、ペルシアの征服を完了する。
 翌651年にメルヴに逃亡したペルシアの王ヤズデギルド3世は現地の総督に殺害され、サーサーン朝は滅亡した[41]。シリアからはメソポタミア北部への遠征軍が出発し、646年にアルメニア、650年にアゼルバイジャンを征服する。
 こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人の征服活動は、650年に終息する。
 ウスマーンはカリフとして初めて中国に使者を派遣した人物と考えられており、651年に唐の首都である長安にイスラーム国家からの使者が訪れた。

 治世の後半、エジプトやイラクではウスマーンの政策への不満が高まった。
 シリアにはウマルの時代に総督に任命されたムアーウィヤを引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーンの乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。
 ウスマーンが実施したウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた。
 バスラやクーファに駐屯する兵士は俸給の削減によって苦しい生活を送り、地方公庫からの現金の支給を要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった。
 ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた。

 最期

 654年にウスマーンは各地の総督をマディーナに招集して政情について討議を重ね、ムアーウィヤからシリアに避難するように勧められたが、ウスマーンは避難と護衛の派遣を拒否してマディーナに留まった。
 656年バスラ、クーファ、エジプトの下級兵士は総督の不在に乗じて連絡を取り合い、マディーナに押し寄せた。ウスマーンはディーワーン職に就いていたマルワーンと改革派からの批判の対象となっている統治官の解任を条件にムハンマドの従兄弟アリーに助けを求め、アリーは兵士たちを説得して彼らを帰国させた。 
 しかし、数日後に兵士たちはマディーナに戻り、ウスマーンの退位を要求した。モスクでの説教と礼拝はウスマーンの支持者と反乱者の衝突の場となり、礼拝に現れたウスマーンに石が投げつけられる事件が起きる。

 数百人の反乱者はウスマーンの邸宅を取り囲んで方針の転換を要求し、ウスマーンの政策に不満を抱くマディーナの住民は彼を助けようとしなかった。
 ウスマーンはイスラームとマディーナの守護のために各地の総督に援軍の派遣を要請し、またウスマーンの元を訪れた教友たちは反乱者の討伐、あるいは亡命を進言したが、ウスマーンは攻撃を拒んで邸宅に残った。
 6月17日、兵士たちは彼の邸宅に押し入り、包囲の中でもウスマーンはクルアーンを読誦していた。
 アブー・バクルの子ムハンマドが最初にウスマーンを切りかかり、ウスマーンは切りつけられながらもなおクルアーンの読誦を続けていた。
 深手を負った後もウスマーンはなおクルアーンを抱きかかえ、クルアーンは彼の血で赤く染まったという。ウスマーンを殺害した兵士たちは、国庫から財産を奪って逃走した。

 ウスマーンの遺体は、殺害当日の日没の礼拝と夜の礼拝の間の時間にマディーナのハッシュ・カウカブに密かに埋葬される。
 ウスマーンの墓の側には、彼を助けようとして殺害された召使いのサビーフとナジーフの遺体が埋葬された。
 ハッシュ・カウカブは墓地であるバギーウの東に位置し、ハッシュ・カウカブを買い上げたウスマーンはこの場所が将来墓地となることを予見していたが、彼自身が最初に墓地に埋葬された人間となった。
 ムアーウィヤはウマイヤ朝の建国後にハッシュ・カウカブのウスマーンの墓を詣で、土地の周りを取り囲んでいた壁を壊して、この地を墓地にするように命令した。
 また、ウスマーンが読んでいたと伝えられるクルアーンの写本は、タシュケント(ウスマーン写本)、イスタンブールのトプカプ宮殿(トプカプ写本)に保管されている。

 没時のウスマーンの年齢は80歳、85歳、あるいはイスラム教徒にとって重要な年齢である63歳と諸説ある。
 歴史家のマスウーディーはウスマーンが没した時、彼の財産として東ローマの金貨100,000ディナール、ペルシアの銀貨1,000,000ディルハム、100,000ディナール相当の邸宅、私有地、多くの馬とラクダが遺されていたと記述している。
 ウスマーンの殺害について、正統な権力の拒絶である故意の殺人で極刑に処すべきだとする意見、地位を乱用した人間に処刑を下したに過ぎないという意見が出され、二つの立場の議論は形を変えて数百年の間続けられた。
 このため、ウスマーンの死はイスラームの政治理論と実践に大きな影響を与えたと考えられている。

 〔ウィキペディアより引用〕




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