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CTNRX的見・読・調 Note ♯007

2023-09-27 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(7)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(6) ❖

 ▶ガズナ朝

 ガズナ朝(ペルシア語: غزنويان, )

 現在のアフガニスタンのガズニーを首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年〜1187年)。
 ガズニー朝ともいう。

 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。
 また、その言語、文化、文学、習慣はペルシャのものだったことから実質的にはイラン系の王朝とする見方もある。
 その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。

 ◆サーマーン朝からの半独立

 サーマーン朝のアブド・アル=マリク1世に仕えていたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)だったアルプテギーンが、マリク1世の死後に失脚して、955年にガズナで半独立化して立てた政権を基礎としている。

 ◆アフガニスタン支配の確立

 元アルプテギーンのマムルークで、ガズナ政権の5代目の支配者となったサブク・ティギーン(在位977年〜997年)のとき勢力を拡張し、サーマーン朝に代わって現在のアフガニスタンの大部分を支配するようになり、南のパンジャーブにも進出した。
 スブクティギーンより政権の世襲が始まるため、スブクティギーンを王朝の初代に数えることが多い。

 ◆マフムードのインド侵攻

 サブク・ティギーンの死後、998年にen:Battle of Ghazni (998)で弟イスマーイール(在位997年〜998年 )を倒して即位したマフムード(在位998年〜1030年)のとき、ガズナ朝は最盛期を迎えた。
 マフムードはサーマーン朝に対する攻撃を強めてこれを滅亡に追いやり、イラン方面のホラーサーンに勢力を広げるとともに、パンジャーブから本格的にインドに進んで北インドやグジャラートに対して17回にわたる遠征を連年行った。
 異教徒に対するジハード(聖戦)の名目のもとに行われた遠征により、ガズナ朝は1018年にはカナウジのプラティハーラ朝を滅ぼすなど勢力をインドに大きく広げる。
 マフムードの治世において、ガズナ朝の領域は北は中央アジアのサマルカンドに及び、西はクルディスタン、カスピ海から東はガンジス川に至るまで広がって、ガズナ朝のマフムードの権威は鳴り響いた。

 マフムードの遠征を支えたガズナ朝の軍隊の中核は、テュルク系主体のマムルークからなっていた。
 文化面では、行政の実務はペルシア人の官僚が担当したので、ペルシア語が公用語になり、マフムードの時代には、その惜しみない援助を頼って『シャー・ナーメ』で名高い詩人フィルダウスィーを初めとする文人たちがガズナに集い、マフムードのもとでペルシア語文学が大いに盛行した。
 首都ガズナもまた繁栄を極め、文人たちはその壮麗さと征服者マフムードの名を称えた。その盛名は、ガズナ、ガズナ朝といえば、マフムードの名と永遠に結びつくといわれるほどである。マフムードが1030年に亡くなると、広大に過ぎる征服地を維持することはできなかった。

 ◆セルジューク朝の台頭

 マフムードの後を継いだ息子のマスウード1世(在位1031年〜1041年)は、1040年に新興のセルジューク朝にダンダーナカーンの戦いで敗れ、ホラーサーンなど支配領域の西半を失った。
 その後、ガズナ朝はイブラーヒーム(在位1059年 - 1099年)の治世に幾分か勢いをとりもどしたが、かつてのような栄光や力はもはや失われ、12世紀前半にはホラーサーンを本拠地としたセルジューク朝のサンジャル(在位1118年〜1157年)に臣従して貢納を行うほどであった。

 ◆滅亡

 1150年、もとガズナ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落させられ、その略奪によってガズナの繁栄も地に落ちることとなった。
 ガズナ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。

 ▶セルジューク朝

 セルジューク朝 (ペルシア語: سلجوقیان‎, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。
 大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。


 テュルク系遊牧民オグズの指導者セルジュークおよび、彼を始祖とする一族(セルジューク家)に率いられた遊牧集団(トゥルクマーン)により建国された。
 この遊牧集団を一般にセルジューク族というが、セルジューク族という語にあたる原語セルジューキヤーンは「セルジューク家に従う者たち」という程度の意味で、全てが血縁的結合をもった部族集団というわけではなく、セルジューク家の下に結集した様々な集団の集合体というべきものである。
 セルジューク族のトルコ国家という意味から、かつてはセルジューク・トルコやセルジューク・トルコ帝国、セルジューク朝トルコ帝国という呼称がしばしば用いられたが、現在はセルジューク朝と呼ぶのが一般的である。
 セルジュークはテュルク語による人名をアラビア文字で記したもの( سلجوق Saljūq/Seljūq )をペルシア語風に発音した形で、元来のテュルク語ではセルチュク(Sälčük/Selčük)といった。

 ◆セルジューク朝の勃興

 王朝の遠祖セルジュークは、オグズ族のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属するテュルク系遊牧集団(部族)の君長であった(セルジューク朝時代の資料では、むしろ『シャーナーメ』などのイラン世界伝統の歴史観に基づいて、古代のトゥーラーンの王アフラースィヤーブの後裔を名乗る場合が多く見られる)。
 10世紀後半頃にセルジュークらの遊牧集団はアラル海の北方から中央アジアに入り、アラル海東方のジャンド(現カザフスタン領)に拠を構え、南のステップ地帯や丘陵部へ定着して遊牧生活を送りながらイスラム教に改宗した。
 このように遊牧生活を守りながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語でトゥルクマーンという。 10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下してトゥーラーン(現ウズベキスタン・タジキスタン)に入り、サーマーン朝に仕えて勢力を蓄えた。
 セルジュークの子のひとり、イスラーイールは、11世紀初頭に配下のトゥルクマーン4000家族とともにさらにアム川を南渡してガズナ朝のマフムードに仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。
 しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーンの統制は失われ、アム川以南のホラーサーン地方(現トルクメニスタン)には多くのトゥルクマーンが流入し略奪が行われるようになった。

 一方、トゥーラーンに残ったイスラーイールの甥、トゥグリル・ベグをリーダーとするセルジュークの子と孫たちは、サーマーン朝を滅ぼしてトゥーラーンを支配したカラハン朝と対立して1035年にアム川を渡り、1038年にニーシャプール(現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。
 この事件がセルジューク朝の建国とされる。トゥグリル・ベグ兄弟はホラーサーンのトゥルクマーンを統御して軍事力を高め、1040年にはガズナ朝のマスウード1世の軍をダンダーナカーンの戦いで破ってホラーサーンの支配を固めた。
 トゥグリル・ベグは1042年にはアム川下流のホラズム(現ウズベキスタン西部)を占領し、1050年にはイラン高原に転進してイスファハーンを取り、イランの大部分を手中に収めた。
 また、スルタン(スルターン)の称号をこの頃から称し始めた。
 スンナ派のムスリム(イスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、バグダードにいるアッバース朝のカリフに書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派の擁護者としてシーア派に脅かされるカリフを救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つ、という大義名分を獲得した。
 1055年、バグダードのカリフから招きを受けたトゥグリル・ベグはバグダードに入城し、カリフから正式にスルタンの称号を授与された。
 同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号がイスラム世界において公式の称号として初めて認められた。

 ◆セルジューク帝国

 1063年にトゥグリル・ベグは亡くなり、甥のアルプ・アルスラーンがスルタン位を継承した。
 アルプ・アルスラーンは傅役(アタベク)のペルシア人官僚ニザームルムルクを宰相(ワズィール)として重用し、彼のもとで有力な将軍に対するイクター(徴税権)の授与による軍事組織の整備や、マムルーク(奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却した君主権力の確立が目指された。
 アルプ・アルスラーンは積極的に外征を行って領土を広げ、1071年にはマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)で東ローマ帝国に勝利し、皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕虜とした。
 この戦いによって東ローマ帝国のアナトリア方面の防衛が手薄になり、セルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなど多くのテュルク系の人々がアナトリアに流入し、アナトリアのテュルク(トルコ)化が進んだ。
 翌1072年、アルプ・アルスラーンの子マリク・シャーが、イラン東部のケルマーンにセルジューク朝のアミールとして地方政権を立てていた伯父、カーヴルト・ベグのスルタン位を狙った挑戦を破り、スルタン位を継承した。
 18歳のマリク・シャーは全権をほとんど宰相ニザームルムルクに委ね、君主の仕事は狩猟だけであるといわれたほどであった。大宰相ニザームルムルクの補佐を受けたマリク・シャーの時代に、セルジューク朝の支配は最大領域に広がった。
 西方ではセルジューク朝の権威はアナトリア、シリア、ヒジャーズに及び、東ではトランスオクシアナまで支配下に収め、セルジューク朝は中央アジアから地中海に及ぶ大帝国へと発展した。
 しかし、この時期にトゥルクマーンの一集団がファーティマ朝から聖地エルサレムを占領したことが西ヨーロッパに「トルコ人が聖地を占拠してキリスト教徒の巡礼を妨害している」という風評を呼び起こし、また東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスがアナトリアの領土奪回のためローマ教皇に対して援軍を要請したため、1096年の第1回十字軍が編成されることになる。

 版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。
 このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。
 セルジューク朝の地方政権の中では、トゥグリル・ベグが子を残さずに没したときアルプ・アルスラーンと戦って敗北したクタルムシュの子、スライマーンがアナトリアのトゥルクマーン統御のためマリク・シャーによって送り込まれ、1077年にニカイアを首都として建国したルーム・セルジューク朝(1077年〜1308年)が有名である。
 同じくマリク・シャー期にはマリク・シャーの弟トゥトゥシュによりダマスクスにシリア・セルジューク朝(1085〜1117年)が立てられ、ルーム・セルジューク朝と抗争した。
 ケルマーンには、先に触れたカーヴルト・ベグの敗死後も、その子孫がケルマーン・セルジューク朝(1041年〜1184年)として存続する。
 トゥグリル・ベクによって建国されイラク・イランを中心に支配したセルジューク朝の大スルタン政権は、これらのセルジューク朝地方政権と区別するために、大セルジューク朝とも呼ばれる。

 ◆大セルジューク朝の混乱と終焉

 1092年、宰相ニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に暗殺され、さらに同年翌月マリク・シャーが38歳で死ぬと、カラハン朝の王女テルケン・ハトゥンを母にもつ4歳のマフムードを支援する勢力と、12歳の長男バルキヤールク(ベルクヤルク)を支援する故ニザームルムルクの遺臣勢力の間で後継者争いの内紛が起こり、大セルジューク朝に2人のスルタンが並存した。1094年にマフムードが夭折するとバルキヤールクは単独のスルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャーの弟たちとの間でも後継者の座を巡って争いが続き、1099年に十字軍がシリアに到来してエルサレムを奪ったときも十分な対応をとることができない状態であった。
 さらに、バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルらがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争いを起こすと、大セルジューク朝の支配領域はバルキヤールクとムハンマドの間で分割されることになった。
 この内紛は、バルキヤールクが1104年、その子マリク・シャー2世が1105年に若くして没したために、ムハンマド・タパルのスルタン位継承をもって終結するが、もはやスルタンの権威は大きく失墜していた。

 1119年に至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーンに派遣され、イラン西部から中央アジアにかけて勢力を確立していたムハンマド・タパルの同母弟サンジャルが、前年に亡くなったムハンマド・タパルの子マフムードを破り、甥にかわって兄ムハンマド・タパルの後継者としての地位を確立した。
 これをきっかけにサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たち、イラク・セルジューク朝(1118年〜1194年)に対しても大スルタンとして宗主権を行使するようになり、1123年には断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻して、大セルジューク朝を復興させた。
 サンジャルはガズナ朝の都ガズナを征服し、ガズナ朝を支配下に置いた。
 1121年には現在のアフガニスタンに勃興したゴール朝を服属させ、1130年にはカラハン朝を宗主権下に置き、支配下にありながらサンジャルに反抗したホラズム・シャー朝のアトスズを攻撃して屈服させた。
 こうしてサンジャルは大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功したが、1141年に東方から襲来してカラハン朝を侵食した耶律大石率いるキタイ人の西遼軍を撃退しようと出撃してカトワーンの戦いで敗れた。
 この敗戦やキタイ人に追われて中央アジアから新たにホラーサーンに逃れてきたトゥルクマーンの増加はサンジャルの地盤であったホラーサーンを脅かすようになった。
 1153年、トゥルクマーンの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した。
 1157年のサンジャルの病没によってセルジューク朝の全体に権威を及ぼす大スルタンは消滅し、大セルジューク朝は事実上滅亡した。

 ◆イラクとケルマーンにおける
       セルジューク朝の滅亡

 サンジャルの死後、ホラーサーンは将軍たちの内紛の末、ホラズム・シャー朝の手に渡った。
  一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、サンジャルの先代の大スルタン、ムハンマド・タパルの子孫でイラン西部(イラーク・アジャミー)とイラク(イラーク・アラビー)を支配したイラク・セルジューク朝が存続したが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、アタベクたちが実権を掌握し、支配は有名無実化していった。
 1194年、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュはイランに進出し、イラク・セルジューク朝最後のスルタン・トゥグリル3世を敗死させた。ケルマーン・セルジューク朝は、既に1186年にトゥルクマーンによってケルマーンを奪われ滅亡しており、トゥグリル3世の死によりイラン・イラク・ホラーサーンにおけるセルジューク朝は完全に滅亡した。
 ルーム・セルジューク朝は他のセルジューク朝諸政権が内紛から衰退に向かう12世紀後半にただひとつ最盛期を迎えたが、1243年にモンゴルの支配下に置かれた。
 ルーム・セルジューク朝はその後も名目の上では存続し、セルジューク朝の地方政権のうちでは最も長く続いたが、1308年に最後のスルタンが没して消滅した。

 ▶ホラズム・シャー朝

 ホラズム・シャー朝(ペルシア語: خوارزمشاهیان‎ Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年〜1231年)。
 ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。


 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。

 ◆建国から拡大の時代

 ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。
 アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。
 ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。
 1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルターン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。
 この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ・キタイ(西遼)を中央アジアに呼び寄せたという節もある。
 1141年、カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。
 しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。
 1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。

 1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。
 争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。
 テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。
 1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
 1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。
 もともとホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民カンクリやキプチャクの力が大きな役割を果たした。
 テキシュの妻の一人であるテルケン・ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムハンマド(アラーウッディーン)が1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。

 ◆大帝国の建設と崩壊

 テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた。
 アラーウッディーンはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。
 カラ・キタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝は臣従と引き換えにアラーウッディーンにカラ・キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ・キタイを攻撃した。
 アラーウッディーンはカラ・キタイに敗れてホラズム内に彼が戦死した噂まで流れるが、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟してスィル川を渡り、キタイ人を破った。
 同1210年(もしくは1212年)にホラズムへの臣従を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフルを勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した。
 さらにはシハーブッディーンの死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。
 アラーウッディーンはゴール朝のホラズム侵入をアッバース朝の扇動によるものと考え、バグダードの領有とカリフの地位を望んだ。
 アッバース朝が招集したファールスやアゼルバイジャンのアタベク政権を破り、1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。

 しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。
 ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラ・キタイの政権を奪ったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた。
 アラーウッディーンはモンゴル帝国のチンギス・ハーンと誼を通じていたが、1216年にスィル川河畔のオトラルで、ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュクが、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。
 モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラーウッディーンはテルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した。

 ◆モンゴル襲来と滅亡

 おそらくかねてから中央アジア侵攻の機会をうかがっていたモンゴル帝国のチンギス・ハーンは、この事件を機にホラズム・シャーへの復讐を決し、1219年にハーン自ら率いるモンゴル軍の大規模な侵攻を開始した。
 アラーウッディーンはカンクリ族を含む、遊牧民諸部族の寄り合いだったため、モンゴルの侵攻に対しては内紛と反抗の危険性に脅かされていた。
 これにより、モンゴルの侵攻に対して寝返りの危険がある野戦で迎撃する作戦を取ることができず、兵力を分散してサマルカンド、ブハラなど中央アジアの各都市での籠城戦を行なった。
 その結果、各都市は綿密に侵攻計画を準備してきたモンゴル側の各個撃破にあって次々に落城、破壊され、ホラズム・シャー朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事実上崩壊した。
 アラーウッディーン・ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先のカスピ海上の小島で死亡した。
 モンゴル軍の侵攻に際し辛うじて抵抗を続けることができたのは、アラーウッディーンの子ジャラールッディーンであった。
 ジャラールッディーンはアフガニスタン方面でモンゴルと戦い[24]ながら次第に南へと後退し、一時はインダス川を渡ってインドに入った。
 ジャラールッディーンはインドの奴隷王朝に支援を求めるが拒絶され、奴隷王朝とインドの領主たちはジャラールッディーンを放逐するために同盟した。
 ジャラールッディーンはイランに戻って各地を転戦、エスファハーンで独立した弟ギヤースッディーンを破る。
 イラクを経てアゼルバイジャンに入り、1225年に当地のアタベク政権イルデニズ朝を滅ぼしてタブリーズに入城した。

 ジャラールッディーンはアゼルバイジャンを根拠にグルジア王国を攻撃して南カフカスから東アナトリアに勢力を広げるが、1227年にギヤースッディーンの裏切りによってモンゴル軍との会戦に敗れる。
 ジャラールッディーンはギヤースッディーンを再び破り、イラクに進出した。アナトリア中央部を支配するルーム・セルジューク朝と婚姻関係を結ぼうと試みたが、東部アナトリアの領土を巡って交渉は決裂した。
 1230年、ジャラールッディーンは東部アナトリアのエルズィンジャン近郊でルーム・セルジューク朝とダマスカスを支配するアイユーブ朝の地方政権の連合軍に敗れ、その兵力の半数を失った。 1231年、チンギスの死後に後を継いだオゴデイ・ハーンはイラン方面に将軍チョルマグンを指揮官とする討伐隊を派遣する。宰相シャラフ・アル=ムルクをはじめとする配下と、モンゴル軍の到来を知ったアゼルバイジャンの住民はジャラールッディーンに反旗を翻した。
 モンゴル軍の攻撃を受けたジャラールッディーンは東部アナトリアのアーミド(現在のディヤルバクル)近郊の山中に逃亡するが、怨恨を抱く現地のクルド人によって殺害される。
 ジャラールッディーンの死により、ホラズム・シャー朝は滅びた。

 《モンゴルのホラズム・シャー朝征服》

 1219年から1222年にかけて行われたモンゴル帝国によるホラズム・シャー朝の征服について。

 この遠征によって中央アジアには多大な被害がもたらされたとされるが、その規模については諸説ある。

 ◆戦争の背景

 ❒両国の交流

 13世紀初頭、中央ユーラシアの東方(モンゴル高原)ではテムジン(チンギス・カン)率いるモンゴル国、西方(中央アジア)ではアラーウッディーン率いるホラズム国という2大勢力が急速に勢力を拡大しつつあった。
 更に、1211年から1215年にかけてモンゴル帝国は第一次対金戦争によって華北の大部分を制圧し、ホラズムは1212年/13年までにマー・ワラー・アンナフル地方を制圧してアフガニスタンのゴール朝を併合し、
 1217年/18年にはバグダード遠征を実施してアッバース朝のカリフに圧力を加えイラン方面にも勢力を拡大した。
 一連の戦役によって多民族を統べる大帝国を築きつつあった両国は既に互いの存在を意識しており、イルハン朝の歴史家ジュヴァイニーは、1200年に没したホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・テキシュは西遼の後方に存在する「恐るべき民族」の存在をアラーウッディーンに警告し、聖職者のサイイド・モルタザは「恐るべき民族」の防壁となる西遼の衰退を嘆いたことを伝えている。 
 1215年、アラーウッディーンはサイイド・バハーウッディーン・ラーズィーが率いる使節団をチンギスの元に派遣した。
 チンギスは使節団を厚遇し、ホラズム地方出身のマフムードらが率いる返礼の使節団を派遣するなど、表面上の友好関係を築いた。

 一方、同時期に両国の中間にあたるアルタイ山脈から天山山脈にかけては、かつてモンゴル帝国によって滅ぼされたメルキト部とナイマン部の残党が逃れ込み、ナイマン部のクチュルクはカラ・キタイ朝を乗っ取るに至っていた。
 1216年に中国方面の攻略を将軍ムカリに委任しモンゴル高原に帰還したチンギス・カンは、翌1217年にはスブタイ(「四狗」の一人)率いる軍団をケム・ケムジュートのメルキト部残党の下に、ボロクル(「四駿」の一人)率いる軍団を叛乱を起こした「森林の民(ホイン・イルゲン)」の下に、そして1218年にジェベ(「四狗」の一人)率いる軍団を天山山脈のナイマン部=カラキタイの下へ、それぞれ派遣した。
 このうち、ジェベとスブタイは順調に敵軍を討伐したが、ボロクルのみは敵軍の奇襲を受けて急死してしまったため、1218年にチンギス・カンの長男ジョチが後詰めとして出陣し、恐らくはスブタイらの軍団も指揮下に入れ、キルギス部を初めとする「森林の民(ホイン・イルゲン)」を平定した。

 また、ジェベが率いる遠征隊が西遼を滅ぼして東トルキスタンを支配下に収めると、西遼を吸収したモンゴル帝国はホラズム・シャー朝と領土を接するようになった。
 一方、スブタイらに敗れたメルキト部残党の中でクルトゥカン・メルゲンのみは更に西北方面に逃れてキプチャク草原東端に進出し、これを追ったジョチ率いるモンゴル軍は期せずしてホラズム朝の支配圏に侵入することになった。
 一方、ホラズムのアラーウッディーンもまた早い段階から自国領に侵入したメルキト部の動きを察知しており、これを撃退すべくサマルカンドからブハラを経由してジャンドに至った。
 ジャンドに到着したアラーウッディーンはメルキト部を追撃するモンゴル軍もまた西進してきたことを知ると、モンゴル軍に打撃を与える絶好の機会と見てサマルカンドに戻って精鋭軍を招集し、自ら軍勢を率いて北上した。

 ❒オトラル事件

 このようにモンゴル・ホラズム両国の対立が深まっていた1218年に、アラーウッディーンはブハラにおいてモンゴル帝国から派遣された使節団と謁見し、「両国の友好を望み、自分の子のように見なしたい」というチンギスからの申し出を受け取った。
 アラーウッディーンは使節の一人であるマフムードにモンゴル帝国の兵力について尋ねたとき、アラーウッディーンに怒気を帯びていることに気付いたマフムードはモンゴルの兵力はホラズム・シャー朝に比べて弱いものだと答え、平静を取り戻したアラーウッディーンは友好的な回答を与えて使節を送り返したと伝えられている。
 同年、モンゴルが派遣した使節団と隊商がオトラルの町で総督イナルチュクに殺害され、財貨が略奪される事件が起きた。
 モンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征の原因を使節団の虐殺に対する報復とすることが従来定説とされているが、先述したようにメルキト部・ナイマン部残党の動向を巡って両国は1217年から既に軍を動かしており、「オトラル事件」はモンゴル側にとってホラズム侵攻の正当化の方弁に過ぎないと指摘されている。

 そもそも中央アジア遠征の補給基地たるチンカイ・バルガスンが1212年に建設されているように、ホラズム・シャー朝の攻撃は前もって計画されたものであり、使節団は遠征の前に派遣された偵察隊の役割を担っていたと推定する見解が現れている。
 モンゴルの中央アジア遠征の動機として、王侯貴族への新たな牧地の授与、従属民への戦利品の分配による社会的矛盾の緩和が挙げられている。
 また、オトラルの虐殺はモンゴル帝国とホラズム・シャー朝の友好による交易路の保護と拡張を期待していたムスリム商人に打撃を与え、彼らの交易ネットワークは破綻した。

 ❒カラ・クムの戦い

 それぞれメルキト部残党を追ってシル河北方の草原地帯に至ったジョチ率いるモンゴル軍とアラーウッディーン率いるホラズム軍は、1219年初頭に「カンクリ族の住まう地」カラ・クムにて激突した。
 両軍はともに遊牧国家伝統の右翼・中央・左翼からなる3軍体制を取って戦闘に臨んだが、両軍ともに決めてを欠いたまま日没を迎え、遂に明確な勝敗が決まらないまま両軍は撤兵した。
 ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』は、戦後に戦闘の経過を聞いたチンギスが「ホラズム軍の勇敢さを品定めし、スルターン軍の程度と規模がはたしてどれほどのものなのか、かくてわれらにはどのような取り除けない壁も、抗しえない敵ももはやないとわかって、諸軍をととのえ、スルターンに向かって進軍した」と記しており、この一戦でホラズム軍の力量を見切った事でチンギス・カンはホラズム侵攻を最終的に決断することになった。
 一方、ホラズムの側では国王自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援がなければ自らの身すら危うかったスルターン=アラーウッディーンは自信喪失してしまった。
 モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなくオアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている。
 なお、古くはロシア人史家V.V.バルトリドの学説に基づいて「カラ・クムの戦い」の戦いが起こったのは1216年のことで、モンゴルのホラズム侵攻とは直接関係ない戦いであったとする説が有力であったが、バルトリドの議論は史料の誤読に基づくものであって現在では成り立たないと指摘されている。

 モンゴル帝国で開催されたクリルタイでホラズム・シャー朝との開戦が正式に決定されると、軍隊の編成が協議された。
 チンギスは末弟のテムゲ・オッチギンをモンゴル高原に残し、1218年末にホラズム・シャー朝への行軍を開始した。 
 1219年夏にチンギスはイルティシュ河畔で馬に休息を取らせ、同年秋に天山ウイグル王国、アルマリクのスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンの軍隊を加えて進軍した。
 開戦前にモンゴル帝国は西夏にも援軍の派遣を求めていたが、西夏から援軍は送られなかった。
 経済的な危機に直面するムスリム商人はモンゴル帝国の征西に積極的に協力し、ホラズム・シャー朝の国情や地理に関する詳細な情報を提供するだけでなく、遠征の計画の立案にも関与していたと考えられている。

 ▶ゴール朝

 ゴール朝(ペルシア語: دودمان غوریان, ラテン文字転写: Dudmân-e Ğurīyân))は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝(11世紀初め頃〜1215年)。
 グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家(ペルシア語: شنسبانی, ラテン文字転写: Šansabānī)という。


 ◆ゴール朝の先祖

 シャンサブ家を首長とするシャンサバーニー族は、現在のアフガニスタン中部、ハリー川上流にあたるヘラートの東の山岳地帯ゴール地方(グール、マンデーシュとも)に居住しイラン系の言語を話していた人々で、地名からゴール人あるいはグール人と呼ばれたため、王朝の名が起こった。
 王統の起源については詳しいことは不明であるが、ゴール朝滅亡後にまとめられた年代記によると、その先祖は第4代正統カリフ、アリーの時代にイスラム教に帰依し、バンジー・シャンサバーニーのとき、アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードによってゴール地方の領主に定められたという。
 確実なところでは11世紀初頭頃に歴史上にあらわれ、ガズナ朝の英主マフムードの遠征を受けてガズナ朝に服属した。その後、ガズナ朝衰退後の11世紀末にガズナ朝とセルジューク朝との緩衝地帯になったことから自立し、1099年に独立を認められたが、1108年にはアフガニスタン北西部からイランにかけてのホラーサーンに拠るセルジューク朝のサンジャルによる支配を受け、セルジューク朝に服属した。
 ゴールの地方勢力であった頃のゴール朝は、シャンサバーニー族の部族制国家の性格が強く王朝内部の争いがしばしば起こったが、12世紀には、王家の一員クトゥブッディーンが兄弟たちの争いからガズナの宮廷に逃れたところ毒殺される事件があった。
 また、この事件の後には、ゴール朝のサイフッディーンは一時ガズナを占領したもののガズナ朝を支持する民衆たちの反感からまもなく捕虜となって処刑され、ゴール朝とガズナ朝は対立を深めた。

 ◆アラーウッディーンの勃興

 1150年に至り、ゴール朝のアラー・ウッディーン・フサイン2世(フランス語版)(ʿAlāʾ-ud-Dīn Ḥusayn II)は、カンダハール付近の戦いで、ガズナ朝のバフラーム・シャーに大勝した。この戦いで、歩兵を中心としたゴール軍は、防御用の盾を連ねて堅固な陣地を築いてガズナ軍の戦象隊を食い止め、攻撃の決定力をもたないガズナ軍をさんざんに打ち破り、ガズナを最終的に奪ってガズナ朝をホラーサーン・アフガニスタンからインド方面へと追った。
 ガズナへ入城したゴール軍は積年の恨みを晴らさんばかりに略奪、蹂躙の限りを尽くし、ガズナの歴代スルタンの遺骸まで掘り出して焼いたという。
 これによってゴール朝は、カーブルからガズナまで現在のアフガニスタン東部を広く支配することとなり、自立、発展の基礎を築いた。
 ゴール朝の君主はそれまでマリクあるいはアミールと称していたが、こののちスルタンを称するようになり、儀礼用の日傘を用いるようになった。
 1152年、ゴール朝はセルジューク朝への貢納を停止し公然とこれに宣戦したが、テュルク系の兵力がセルジューク朝側に降ったため惨敗し、アラーウッディーンは捕虜になった。
 しかし、まもなくセルジューク朝のサンジャルがトゥルクマーン遊牧民(オグズ)との戦いで捕虜となったことをきっかけにセルジューク朝のホラーサーン政権は無力化し、西のホラーサーンが政治的空白地帯になったため、ゴール朝は急速な勢力拡大に向かう。 アラーウッディーンは、シャンサブ王家の王族の間で領域を三分割支配する体制を築き、ゴール地方のフィールズクーフを宗家が支配し、ガズナとバーミヤーン(Bamiyan Branch)をそれぞれ分家が支配するようになった。
 バーミーヤンのゴール朝は西方に勢力を伸ばしてアム川流域にいたる地方を支配し、ガズナの分家がインド支配を企てることになる。

 ◆最盛期

 アラーウッディーンの死後、王位を奪手中に収めた甥のギヤースッディーン・ムハンマドがゴールを支配し、弟のシハーブッディーン(ムイッズッディーン・ムハンマド、ムハンマド・ゴーリーとも)がガズナを支配した12世紀後半から13世紀初頭に、ゴール朝は最盛期を迎えた。 兄弟は連携して領域を拡大し、ギヤースッディーンは弟と協力して1186年にラホールにいたガズナ朝を滅ぼした。
 北では、1190年にホラズムからホラーサーンに支配を広げつつあったホラズム・シャー朝を破ってその君主を捕虜とし、1198年にはカラキタイ(西遼)の侵入を撃退した。
 こうして1200年には、ホラーサーンの大半を支配することに成功し、ニーシャープールにホラーサーン総督を置いた。
 一方、弟のシハーブッディーンはラホールからインド奥深くへと侵攻し、1191年にはタラーインの戦いでラージプート軍を破り、ベンガルまで軍を進めて事実上の北インド支配を達成した。
 ゴール朝の国力が絶頂となったギヤースッディーンの治世には、王朝の本拠地ゴールやヘラートで盛んに建設事業が行われた。中でもゴール地方のハリー川支流のほとりに立つジャームのミナレットは現存し、世界遺産に登録されている。

 ◆ゴールの支流とデリー・スルターン朝の成立

 1203年、ギヤースッディーンが病没すると弟のシハーブッディーンがその後を継いで西方経営に力を注いだが、ホラズム・シャーとカラキタイに敗れ、ヘラートを除くホラーサーンのほとんど全土を失った。
 1206年にシハーブッディーンがインド遠征の帰途に陣没すると、ギヤースッディーンの息子であるギヤースッディーン・マフムードが王位を継いだが、支配下のゴール人やアフガン人の歩兵軍団と、テュルク系の奴隷身分出身のマムルーク騎兵軍団がそれぞれ後継者を擁立した。北インドに残されていたマムルークの将軍・クトゥブッディーン・アイバクは自立してインドに奴隷王朝を開いた。
 これ以降、デリーを中心にデリー・スルターン朝と総称されるムスリムの王朝が5代続き、そのもとでインドのイスラーム化が進んだ。
 1210年にギヤースッディーン・マフムードが暗殺されると、息子バハー・ウッディーン・サーム3 世が擁立されたが、これ以降、バーミヤーンの支流と互いに争いを繰り返したためゴール朝は急速に解体に向かった。

 ◆滅亡

 1215年に最後の君主・アラー・ウッディーン・ムハンマド4世がホラズム・シャー朝の君主・アラーウッディーン・ムハンマドによって廃され、ゴール朝は滅亡した。
 1245年にギヤースッディーン・ムハンマドの封臣の一族であるクルト家のシャムスッディーン・ムハンマドは、クルト朝をホラサーンで興した。

 《 モ ン ゴ ル 時 代 》

 ▶モンゴル帝国

 アラー・ウッディーンの死後にゴール朝は崩壊してアフガニスタンの支配権はアラー・ウッディーン・ムハンマド(ホラズム・シャー)に移る。
 ホラズム・シャー朝の時代にはアフガニスタンの勢力は中国、トルキスタン、イラクにまで達していた。
 ホラズム・シャーはアッバース朝カリフの地位を獲得するために1219年にバグダードにまで進軍するが、チンギス・ハンが率いるモンゴル帝国軍がアフガニスタン東部へ侵略して諸都市が占領され、これに反撃するものの失地の回復は失敗してホラズム・シャー朝は滅亡した。
 しかしチンギス・ハンの死後にアフガニスタン各地で族長が独立国家を打ちたてた。

 ▶チンギス・カンの西征

 チンギス・カンの西征は、13世紀にモンゴル帝国によって行われた征服戦争。1219年から1223年までの一連の戦闘によってモンゴル帝国は飛躍的に領土を広げ、1225年に帰還した。

 ◆背景

 1206年にチンギス・カンによって建国されたモンゴル帝国は、第一次対金戦争で成功を収めて東アジア最強の帝国に成長した。
 一方、ホラズム地方を中心として1077年に成立したホラズム・シャー朝も、ほぼモンゴル帝国と同時期に急成長し、西アジア最強の帝国となっていた。

 ❒西遼侵攻

 1204年にチンギス・カンがナイマン部族を征服した後、1208年にナイマンの族長タヤン・カンの子であるクチュルクは西遼(カラ・キタイ)に亡命する。西遼の皇帝である耶律直魯古はクチュルクに将軍の地位と自身の娘を与え、モンゴル帝国への備えとしようとした。
 しかし耶律直魯古は人望がない上に暗愚であり、属国であったホラズム・シャー朝や西カラハン朝、天山ウイグル王国などに次々と独立をされていた。
 1211年にホラズム・シャー朝と西カラハン朝が再び反乱を起こすと、耶律直魯古は軍に命じてサマルカンドを包囲させるものの、今度は西遼軍不在の間にクチュルクが西遼本国で反乱を起こす。
 一度はクチュルクを撃退した耶律直魯古であるが、反撃を許し捕縛され、幽閉されてしまう。
 この簒奪の時点で西遼は事実上滅亡した。
 1218年、西遼がほぼ自滅に近い形で滅び、その多くがモンゴル帝国の領土になると、モンゴル帝国とホラズム・シャー朝は直接領土を接することとなった。
 同年、ホラズムの東方国境近くのオトラルで太守イナルチュクによってチンギス・カンが派遣した通商団が虐殺され、この事件の報復を理由にしてモンゴル帝国はホラズム・シャー朝への遠征を決定したといわれる。
 しかし、後述のようにホラズムへの遠征はかなり計画的なものであり、このことから通商団はモンゴルのスパイであり、この理由はきっかけにしか過ぎないという説もある。

 ❒ホラズム侵攻

 1219年、モンゴル高原を弟のテムゲ・オッチギンに任せ、チンギス・カンはホラズム・シャー朝への遠征を開始した。モンゴル軍はオトラルに到着すると、第一次対金戦争の時と同様全軍を三つに分け、整然とホラズムに侵入した。


 一方でホラズム・シャー朝は専守防衛を基本戦略とし、各都市ごとに分散して防衛させた。これは戦力の分散にあたり、後によく批判の的になったが、そうせざるをえない原因がホラズム内にあった。
 もともとホラズムの急激な発展は、アラル海北方に遊牧するテュルク系のカンクリ族を味方に引き入れたことが背景にあったが、カンクリ族が実際に支持するのは国王アラーウッディーン・ムハンマドの実母テルケン・ハトゥンであり、ホラズムはモンゴル来襲時にはこの母子によって二分された状態にあった。
 結果的に、カンクリ族の戦場での反乱を恐れたムハンマドは野戦でのモンゴル軍の迎撃を断念せざるを得ず、モンゴル軍を引き入れて長期戦に持ち込み、相手が撤退するところを反転攻勢する、という作戦をとった。
 しかし、おそらく事前に周到に情報収集をしたであろうモンゴル軍は、対金戦争の経験も活かし、冷静に各都市を各個撃破した。
 サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチといった名だたる都市を墜とした上、見せしめのため抵抗した都市は破壊された。
 また、この頃チンギス・カンの長子ジョチと次子チャガタイとの間でウルゲンチの攻め方で対立があり、三男のオゴデイが仲裁に入ったことでその器量を示したという逸話もある。

 完全に読みの外れたムハンマドは、カラハン朝から奪い取って首都としたばかりのサマルカンドから逃走し、本来の中心地であるマー・ワラー・アンナフルをも見捨てた。
 そして息子たちに撤退命令を出し、アムダリヤ川を越えて西へと逃走していった。この撤退には、アムダリヤ川以南にモンゴル軍を引きずり込んでゲリラ戦を展開しようという狙いもあったらしいが、モンゴル軍がこれに冷静に対応したこと、またあまりにも無様な国王の撤退によるホラズム軍の指揮系統の混乱によって、1220年にホラズム・シャー朝はほぼ崩壊した。
 一方、逃走したアラーウッディーン・ムハンマドはニシャプール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)に立ち寄ったりしながらも、結局モンゴル軍との戦争に対する指示を出したりすることもなく、カスピ海西南岸近くのアーバスクーン島で死んだ。

 ◆アフガニスタン・インド侵攻

 ジャラールッディーン・メングベルディーは、カーブルの近郊でのパルワーンの戦いに勝利し、インドを目指したがインダス河畔の戦いでモンゴル軍に大敗した。
 西方の新興国、ホラズム・シャー朝を開戦後わずか約2年で破ったモンゴル軍であったが、アムダリヤ川を越えた後、急に無秩序な戦闘を始め、無意味な虐殺を行ったりする。
 これはあまりにもあっけなくホラズム・シャー朝が壊滅した結果、十分な計画・準備を整える間もなく、逃走するホラズム軍に引きずられる形でホラーサーン・アフガニスタン方面に入り、戦局が泥沼化したことが原因ではないか、という指摘がモンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによってなされている。
 この頃のモンゴル軍の損害としては、ジャラールッディーンによってパルワーンの戦いでシギ・クトク率いるモンゴル軍が大敗を喫したこと、バーミヤーン包囲戦でチャガタイの嫡子モエトゥケンが流れ矢を受けて戦死したことなどがあげられる。もともとモンゴル軍とはいっても生粋のモンゴル兵(モンゴル高原出身の騎兵)は少なく、現地で投降した兵が多かった。
 そのため、モンゴル軍の戦法は基本的に味方の損害を避けるやり方が多く、これらの損害はモンゴル人の上層部にとって衝撃的なものだった。
 これらの報復として、バーミヤーンにはチンギス・カンにより「草一本も残すな」という命令が出たとされ、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、などといった古代からの大都市も略奪され、完全に破壊されたとされる。

 ジャラールッディーンを追撃しつつ、南下したモンゴル軍はインダス川のほとりにおいてようやくジャラールッディーンを追い詰め、インダス河畔の戦いが行われたが、肝心のジャラールッディーンは川を渡って逃げ去ってしまう。

 〔ウィキペディアより引用〕




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