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CTNRX的見・読・調 Note ♯008

2023-09-28 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(8)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(7) ❖

 ▶イルハン朝

 イル・ハン国 フレグ・ウルス

 イル・ハン国
 (ペルシア語: ايلخانيان‎ Īlkhāniyān、)
 (英語 : Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1258年〜1335年/1353年)。


 ◆フレグの西征

 フレグは兄であるモンゴル帝国第4代皇帝(カアン)モンケによりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征(フレグの西征)を命ぜられ、1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。
 1256年にニザール派(暗殺教団)のルクヌッディーン・フルシャーが降伏すると、フレグはイランの制圧を完了させた。
 1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)、アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き、西部進出を伺った。
 1260年、フレグはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻)、アレッポとダマスカスを支配下に置いた。


 ◆建国期

 1260年春頃に兄モンケ死去の報を受けると、フレグはカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄クビライ(元世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断した。
 フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。

 また、成り行きで西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルスのベルケとは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャンの支配権を巡って対立し(ベルケ・フレグ戦争、1262年)、チャガタイ・ウルスとはマー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って対立したが、ジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスがオゴデイ家のカイドゥを第5代皇帝クビライに対抗して盟主に推戴したため、フレグはクビライの支配する大元ウルスとの深い友好関係を保った。
 さらにジョチ・ウルスのベルケはマムルーク朝のバイバルスと友好を結び、イルハン朝挟撃の構えを見せた。

 ◆十字軍遠征

 対抗してイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んでいた。
 イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカがネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。
 1268年、バイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。
 1269年、バラクとカイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻。
 1270年、第8回十字軍で苦戦していたアッコン防衛にエドワード1世が派遣される。1270年7月21日、カラ・スゥ平原の戦い。

 ◆後継者争い

 イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。
 そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。
 ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。
 その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。

 ◆イスラム王朝への転身

 1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。
 イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
 さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。
 この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
 さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。
 この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 ◆オルジェイトゥ

 ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続し、また1301年にカイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。
 オルジェイトゥは新首都スルターニーヤ(ソルターニーイェ)を造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラム神学に関わる著作集を執筆させている。
 さらにガザン、オルジェイトゥの時代には用紙の規格化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。
 地方史の編纂も盛んであった。『集史』編纂の影響と考えられているが、特に挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成されるようになったのも両ハンの時代からであった。
 この時代にはイルハン朝におけるイラン・イスラーム文化の成熟が示された。

 ◆アブー・サイード

 1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー・サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョバンが宰相として実権を握った。
 1317年、ラシードゥッディーンと政敵タージェッディーン・アリー・シャーの政争でラシードが失脚し、翌年処刑された。
 成人したアブー・サイードは、チョバンの娘バグダード・ハトゥンを巡ってチョバンと対立するようになり、1327年にチョバンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。
 ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する陣中で、ディルシャド・ハトゥンを寵愛するアブー・サイードは、1335年に子のなかったバグダード・ハトゥンに暗殺された。
 フレグ王統の断絶をもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。

 ◆イルハン朝の解体

 アブー・サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーンは、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。
 しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害された。
 以来イランは様々な家系に属するチンギス・カンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。



 アリー・パーディシャーはバイドゥの孫のムーサーを擁立したが、ジャライル部のハサン・ブズルグ(大ハサン)が取って替わりフレグの子モンケ・テムルの玄孫であるムハンマドを擁立した。
 一方でホラーサーンではチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの後裔であるトガ・テムルが周辺諸侯からハンと認められつつあり、逃げのびたムーサ―と反乱を起こした。
 これは失敗に終わったが、大ハサンもすぐにチョバン家のシャイフ・ハサン(小ハサン)に敗れて傀儡の君主であるムハンマドを失った。
 小ハサンが一族のサティ・ベクを女王として擁立すると大ハサンはこれに対抗してトガ・テムルをハンとして認めて擁立した。
 一時はトガ・テムルとサティを結婚させる案も出たが流れてしまい、トガ・テムルを見限った大ハサンはゲイハトゥの孫のジハーン・テムルをハンに擁立。小ハサンもフレグの子イシムトの後裔のスライマーンを老齢のサティと結婚させてハンに擁立した。
 抗争に勝利した小ハサンが1343年に暗殺されるとスライマーンはサティと共に混乱するチョバン家へ大ハサンの介入を求めた。
 しかしこれは失敗し、ハンたちは小ハサンの弟のアシュラフに追放されてしまった。
 以降はアヌシルワンという名の家系不明で実体すら定かでないハンが立てられる。
 1357年にチョバン家がアゼルバイジャンを巡ってジョチ・ウルスに滅ぼされるとイルハン朝は完全に滅亡した。

 一方でホラーサーンを支配していたトガ・テムルは周辺諸侯から1350年前後まではハンと認められ続け、一度は見限った大ハサンもチョバン家に対抗して1344年までは改めてトガ・テムルをハンと認めていた。
 1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残っていたトガ・テムルが殺害され、イランからはチンギス・カン一門の君主は消滅した。
 イラクでも大ハサンが1356年に死去すると次代のシャイフ・ウヴァイスは傀儡を立てずに自らハンに即位してジャライル朝を建国してジョチ・ウルスに滅ぼされたチョバン家領を併合していった こうしたアブー・サイード死去以来の混乱で、イランの各地にはムザッファル朝、インジュー朝、クルト朝、サルバダール政権、ギーラーン、マーザーダラーン諸政権など遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していった。
 アナトリアも同様でルーム・セルジューク朝時代から分離傾向にあったベイリクやトゥルクマーン諸政権が乱立した。
 これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。

 ▶クルト朝

 クルト朝(Kurt dynasty)は、13世紀から14世紀にかけてイラン東部のホラーサーン地方を支配した、タジク人[1][2]のスンナ派イスラム教徒の王朝。
 首都はホラーサーン地方の都市ヘラート。



 カルト朝(Kart dynasty)とも表記されるが、いずれの表記が正確なのかは定説が無く、王朝の名前の由来となった「クルト」の意味も明確になっていない。
 クルト朝の王家は元々はゴール朝のスルターン・ギヤースッディーン・ムハンマドの封臣であり、ゴール朝の王室とつながりを持っていた。
 13世紀半ばに、クルト朝はモンゴル帝国に臣従を誓う。
 モンゴル帝国の王族フレグが建国したイルハン国が成立した後はその臣従国としてアフガニスタンに相当する地域を支配し、クルト家はフレグ一門と婚姻関係を結んだ。
 1335年にイルハン国が無政府状態に陥った後、クルト朝の君主ムイズッディーン・フセインは王朝の勢力の拡大に努めた。
 クルト朝の統治下でモンゴル帝国の破壊によって荒廃したホラーサーン地方が復興されるとともに同地のイラン文化が維持されたが、1381年にティムール朝の攻撃によって王朝は滅亡した。

 ◆ゴール朝時代

 クルト朝の王統はゴール朝の貴族シャンサバーニー家に連なる。
 クルト家をセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーの末裔とする説も存在する。
 王朝の祖であるタージュッディーン・オスマーン・マルガーニーは、ギヤースッディーン・ムハンマドの宰相イズッディーン・オマル・マルガーニーの弟にあたる。
 タージュッディーンは、兄からヘラートの東に位置するハイサル城を領地として与えられた。
 タージュッディーンの死後、彼の子であるルクンッディーン・アブー・バクルが跡を継いだ。
 ルクンッディーンはモンゴル帝国がゴール地方に侵入した際にいちはやくチンギス・カンに臣従を誓った。
 ルクンッディーンはギヤースッディーン・ムハンマドの王女と結婚し、1245年に2人の子であるシャムスッディーン・ムハンマドが父の跡を継ぐ。
 シャムスッディーンはマリク(Malik、「王」の意)の称号を名乗った。

 ◆モンゴル帝国の封臣時代

 1246年にシャムスッディーンはモンゴル帝国の将軍サリ・ノヤンが指揮するインド遠征に参加し、1247年/48年にムルターンでスーフィーの聖者バハーウッディーン・ザカリーヤーと対面した。1248年のモンゴル帝国第3代皇帝グユクの死後、シャムスッディーンはトゥルイの長子モンケの即位を支持し、オゴデイ家を支持する党派と戦った。
 1251年にシャムスッディーンはモンケ・カアンの即位式に出席し、ヘラートとアフガニスタンに相当する範囲の地域の支配を認められる。
 1253年ごろ、シャムスッディーンは任地のヘラートに入城した。
 モンケの弟フレグが西征を実施した時、1255年にシャムスッディーンはサマルカンドのフレグに謁見し、遠征の協力を約束した。
 1256年から1257年にかけて、イラクに向かったフレグの本隊とは別に、シャムスッディーンはアフガニスタンからインダス川沿岸部にかけての地域で軍事活動を展開する。
 クルト朝の遠征は同時期にサリ・ノヤンが行ったインド侵入に呼応したものと考えられており、フレグの本隊が攻撃の対象としていたアラムートのニザール派の暗殺教団、アッバース朝とインドの連絡を絶つことができた。

 ◆イルハン国への従属

 1263年から1264年にかけて、シャムスッディーンはスィースターン(英語版)を征服し、西アジアでイルハン朝を創始したフレグの元に出頭する。
 1266年にクルト朝の軍隊はフレグの跡を継いだアバカ・ハンの軍事遠征に従軍し、コーカサス地方のデルベントとバクーでジョチ・ウルスのベルケ・ハンと交戦した。
 1270年にイルハン国に進軍するチャガタイ・ウルスのバラクの使者がヘラートを訪れた時、シャムスッディーンはバラクへの協力を約束し、アバカとバラクのどちらが勝利するかを静観した。
 シャムスッディーンがバラクに物資を供給したことを知ったアバカは激怒し、ヘラートの略奪を命令したが、周囲の人間のなだめによって略奪を中止する。アバカはバラクに協力したシャムスッディーンの態度に疑いを抱き、またシャムスッディーンの政敵から讒言を受けたため、彼をタブリーズの宮廷に召喚した。1278年にアバカの命令によってシャムスッディーンは毒殺され、シャムスッディーンの子ルクヌッディーン(シャムスッディーン2世)が新たなクルト朝の君主に据えられる。
 1283年にシャムスッディーン2世はハイサル城砦に移り、子のギヤースッディーンにヘラートの統治を委任した。
 また、シャムスッディーン2世は長子のファフルッディーンの行状が悪い点を考慮し、彼を城砦内の牢獄に監禁した。シャムスッディーン2世はイルハン国内の政敵の讒言から身を守るためにハイサル城砦に閉じこもり、やがてギヤースッディーンもハイサル城砦に逃げ込んだ。
 統治者を失って不安に襲われたヘラートの住民は他の地に移住し、さらにニクーダリーヤーン部族が人口の減少したヘラートで略奪と住民の拉致を行ったため、ヘラートは無人に近い状態になった。

 1291年にイルハン国の王子ガザンは将軍ナウルーズをヘラートに派遣し、ナウルーズは荒廃したヘラートの復興を推進した。
 シャムスッディーン2世はナウルーズからヘラートへの帰還を求められたが、シャムスッディーン2世は政務への復帰を拒んだ。
 結局、ナウルーズは脱獄したファフルッディーンを新たなヘラートの君主として迎え入れ、退位したシャムスッディーン2世はハイサル城砦で隠遁生活を送った。
 ガザンの宮廷を訪問したファフルッディーンは破格の待遇を受け、金品、礼服、1,000人のモンゴル兵を下賜される。

 ◆ガザン、オルジェイトゥ時代の
             クルト朝

 1296年ごろにナウルーズがハンに即位したガザンに対して反乱を起こしたとき、ファフルッディーンは反乱に失敗したナウルーズを匿った。
 しかし、ガザンの軍がヘラートに接近すると、ファフルッディーンはナウルーズをガザンの元に引き渡した。
 ナウルーズの処刑後、ファフルッディーンは改めてガザンから国の領有を認められ、イルハン国のオルド(宮廷)への出仕を免除される。
 やがてファフルッディーンはイルハン国からの独立を図り、ヘラートの防備を固め、貢納と物資の徴発を拒否した。
 ファフルッディーンはイルハン国から敵対視されたために領内に逃げ込んできたニクーダリーヤーン(カラウナス)に保護を与え、近接する地域に彼らを派遣し、破壊を行わせた。
 ニクーダリーヤーンの被害を受けた地域の人間はガザンに保護を求め、彼らの訴えを聴きいれたガザンは弟のハルバンダ(オルジェイトゥ・ハン)にファフルッディーンの討伐を命じた。
 1299年にヘラートはハルバンダの攻撃を受け、両軍に数千人の死者を出した戦闘の末、ファフルッディーンが金を支払うことを条件に和約が成立した。
 1304年にオルジェイトゥがイルハン国のハンに即位した後、ファフルッディーンはオルジェイトゥからの報復を恐れ、祝賀のためにイルハン国の宮廷を訪問しようとしなかった。
 1306年にオルジェイトゥは将軍ダーニシュマンドが率いる討伐隊をヘラートに派遣し、ヘラートは一時的にダーニシュマンドに占領され、ファフルッディーンはヘラート近郊のアマーン・クー城砦に避難した。
 ファフルッディーンがヘラートに残したクルト朝の将軍ムハンマド・サームが城内でダーニシュマンドを殺害し、ヘラートは解放される。
 ダーニシュマンドの殺害後、ヘラートは彼の子ブジャイ、タガイらの包囲を受け、包囲中にアマーン・クーのファフルッディーンが没する。
 包囲を受けたヘラートは食料が欠乏して飢餓に陥り、ムハンマド・サームはブジャイに降伏を申し出た。
 開城後にムハンマド・サームは処刑され、オルジェイトゥは人質として預かっていたファフルッディーンの弟ギヤースッディーンを新たなヘラートの領主に任命した。

 ブジャイをはじめとする一部のイルハン国の廷臣はギヤースッディーンを敵対視し、オルジェイトゥに讒言を行った。
 1311年にギヤースッディーンはオルジェイトゥの元に召喚され、3年にわたって拘留された末、所領の領有権を認められ、多量の財宝を下賜された。
 1315年にギヤースッディーンはヘラートに帰国する。
 ギヤースッディーンの時代にヘラートはチャガタイ家の王子ヤサウルから攻撃を受け、またイスフィザールの領主クトゥブ・ウッディーンやスィースターンの住民と対立する。
 1318年にヤサウルがイルハン国に侵入した際、クルト朝の領土はヤサウルの略奪を受け、翌1319年にヘラートはヤサウルの包囲を受けた。
 ギヤースッディーンはイルハン国の将軍フセインの援軍と共にヤサウルの包囲を解き、戦後アブー・サイード・ハンから新たな領地と領民を与えられた。
 1320年8月にギヤースッディーンはメッカ巡礼に向かい、子のシャムスッディーン3世にヘラートの統治を委任した。
 1327年にイルハン国の有力者チョバンがギヤースッディーンに助けを求め、ヘラートに亡命する。ギヤースッディーンはチョバンと旧交があったが、アブー・サイードの命令に従ってチョバンを殺害した。
 ギヤースッディーンの死後、彼の子たちが跡を継ぐが、シャムスッディーン3世とハーフィズはどちらも短期間で没する。友人であるチョバンを殺害したギヤースッディーンの背信行為のため、子供たちの治世が長く続かなかったのはチョバンの呪いと噂された。
 ハーフィズが暗殺された後に、ハーフィズの弟であるムイズッディーン・フセインが即位し、ムイズッディーン・フセインは兄を暗殺した貴族たちを討伐する。

 ◆王朝の独立

 1335年にアブー・サイードが没した後にイルハン国は急速に崩壊し、ムイズッディーン・フセインはハン位の請求者の一人であるジョチ・カサル家のトガ・テムルと同盟し、彼に貢納した。そして、ホラーサーン地方の小勢力の領主たちの多くはクルト朝の保護下に入った。
 イルハン国の崩壊後、ムイズッディーン・フセインはサブゼヴァール(英語版)を中心とする隣国のサルバダール政権と争った。
 トガ・テムルと対立していたサルバダール政権は彼の同盟者であるクルト朝も敵とみなし、クルト朝の領土はサルバダール政権の侵入に晒される。
 1342年7月18日のザーヴァの戦いでクルト軍とサルバダール軍が衝突した時、当初はサルバダール軍が優勢だったが、サルバダール軍内部の不和のためにクルト軍が勝利を収める。
 戦勝を収めたムイズッディーン・フセインはフトバ(英語版)の文に自分の名を刻み、独自の貨幣を鋳造し、王号を称して独立を宣言した。
 ムイズッディーン・フセインは西チャガタイ・ハン国の影響下にあったマー・ワラー・アンナフルに侵入し、西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンはクルト朝への報復を計画した。
 1351年にカザガンはバヤン・クリ・ハンを奉じてヘラートに遠征を行い、クルト朝の西チャガタイ・ハン国への臣従と貢納を条件に講和が成立した。
 1362年にサルバダール政権はクルト朝の攻撃を企てるが、サルバダール内部の不和のために遠征は行われなかった。
 政敵を殺害したアリー・ムアイヤドがサルバダール政権の指導者となった後、クルト朝はアリー・ムアイヤドの元から亡命したシーア派のダルヴィーシュたちを受け入れた。
 クルト朝はマー・ワラー・アンナフルに新たに成立したティムール朝の領土に侵入するが、そのためにティムールとの緊張が高まった。
 1370年にムイズッディーン・フセインは没し、彼の子であるギヤースッディーン・ピール・アリーが領土の大部分を継承し、サラフスとホラーサーン南部のクーヒスタンの一部はギヤースッディーンの義兄弟であるマリク・ムハンマド・イブン・ムイズッディーンが継承した。

 ◆滅亡

 ギヤースッディーン・ピール・アリーはティムールへの臣従を表明したが、1380年にティムールからクリルタイへの参加を求められた時、クリルタイに出席しなかった。
 1381年にティムールはヘラート遠征を実施し、戦闘に参加しなかったヘラート市民に財産の保障を約束した。
 短い抗戦の後にギヤースッディーン・ピール・アリーはティムールに降伏し、ギヤースッディーン・ピール・アリーはサマルカンドに移された。
 ティムールの支配下に置かれたヘラートの市民には重税が課され、有名な住民たちはティムールの故郷であるケシュ(シャフリサブス)に移住させられる。
 約束を反故にされた住民の反発を危ぶんだティムールはヘラートの城壁と塔を破壊し、1383年にティムールの予測通りヘラートの住民は蜂起した。
 また、ギヤースッディーン・ピール・アリーは子のピール・ムハンマドとともにサマルカンドに移送された。
 反乱はティムールの王子ミーラーン・シャーによって鎮圧され、同年にギヤースッディーン・ピール・アリーと彼の家族は反乱の計画に関与した疑いをかけられて処刑された。
 1389年にギヤースッディーン・ピール・アリーの子と孫はサマルカンドで処刑され、生き残ったクルト家の王族は1396年にミーラーン・シャーによって宴席の場で殺害された。

 ▶ティムール朝

 14世紀末にティムールがアフガニスタンの各地を征服してその大部分を支配した。
 ティムール朝は、かつてのモンゴル帝国の復興を目指した。
 ティムールの死後には後継者たちが学問や芸術の発達を推進し、ヘラートが文化的・政治的中心地として繁栄した。

 ▶アルグン朝

 ▶ムガル朝とサファヴィー朝の抗争

 16世紀にウズベク族のシャイバーニー朝はムハンマド・シャイバーニー・ハーンの支配下で中央アジアに勢力を伸ばし、1507年に戦争に勝利してヘラートを占領し、ティムール朝の支配は終わる。以前にウズベク族によりフェルガナを追放されたティムール家の子孫のバーブルはカーブルを領有していたためにアフガニスタン中部にカーブルを首都とする国家を建国していた。
 バーブルはサファヴィー朝のシャー・イスマーイールとともにウズベク族のムハンマド・ハーン・シャイバーニーと戦い勝利する。
 バーブルはカーブルの南北に征服し、1527年、アーグラを首都としてムガル朝の基盤を築く。
 バーブルは1530年に死ぬが、ムガル朝は、この後200年にわたってインドを支配し、大いに栄える。
 その後の16世紀と17世紀の200年間はアフガニスタンの統一は失われ、ムガル朝とサファヴィー朝によって分割統治される。
 とはいえ、17世紀前半には両国は係争地カンダハールを巡り、二度にわたるムガル・サファヴィー戦争を行った。

 《 ア フ ガ ン の 
   王 家 に よ る 統 治 》

 ▶ホータキー朝

 1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族の族長の一人ミール・ワイス・ホータキーに率いられサファヴィーに反乱を起こした。
 まず、カンダハールを攻撃し、陥落させた。
 その後、ペルシャに乗り込んだ。
 1715年ミールワイスが死ぬと息子のマフムードが争いの末後継者となり、サファヴィー朝の王座を奪い、1722年ペルシャの首都イスファハーンに向かい、ペルシャ軍を破り、長きにわたる戦いの末、イスファハーンを襲撃する。
 1725年世を去った。
 その後を従弟のアシュラフが継ぎ、オスマン軍を破ったが、1729年にナーディル・クリー・ベグの率いる復活したペルシャ軍に敗北する。

 ホータキー朝(パシュトー語: د هوتکيانو ټولواکمني)は、18世紀のアフガニスタンでギルザイ部族連合が興したイスラーム王朝。
 1709年4月、ギルザイ族の一支族、ホータク族の族長ミール・ワイスがローイ・カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻し成立した。
 最盛期には、短期間ではあるが現在のアフガニスタン、イラン、パキスタン西部、タジキスタンやトルクメニスタンの一部に跨る広大な土地を支配していた。
 1738年のカンダハール包囲戦においてフサイン・ホータキーがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗北し滅亡。

 ローイ・カンダハール(アフガニスタン南部の地域)は、16世紀から18世紀初頭までシーア派のイスラーム王朝であるサファヴィー朝最東端の支配域であったが、元々ローイ・カンダハールに居住していたパシュトゥーン人はスンナ派を信仰していた。
 彼らのすぐ東にはスンナ派のムガル帝国が位置しており、しばしばこの地域でサファヴィー朝と戦闘を繰り広げることがあった。
 また、同時期には北部地域がブハラ・ハン国の支配下に置かれている。
 17世紀後半に差し掛かると、サファヴィー朝は度重なる紛争や宗教対立に見舞われるようになり、次第に衰退の一途を辿るようになった。
 1704年、サファヴィー朝第9代シャーであるフサインは、属国のカルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルギーン・ハーン)を帝国最東端の総督に任命した。
 フサインは統治力に欠けており、既に国内は混乱しきっていた。
 ローイ・カンダハールを含むアフガニスタンでも帝国に対する反乱の気運が高まっており、総督ギオルギ11世の任務はこの地域の反乱を鎮圧することであった。
 この時拘束されたうちの一人は、後にホータキー朝初代首長となるミールワイス・ホータクである。
 彼は囚人としてイスファハーンの法廷へ送られたが、彼に対する嫌疑はフサインによって免じられたため自由の身でカンダハールに帰還した。

 17世紀後半に差し掛かると、サファヴィー朝は度重なる紛争や宗教対立に見舞われるようになり、次第に衰退の一途を辿るようになった。
 1704年、サファヴィー朝第9代シャーであるフサインは、属国のカルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルギーン・ハーン)を帝国最東端の総督に任命した。
 フサインは統治力に欠けており、既に国内は混乱しきっていた。
 ローイ・カンダハールを含むアフガニスタンでも帝国に対する反乱の気運が高まっており、総督ギオルギ11世の任務はこの地域の反乱を鎮圧することであった。
 この時拘束されたうちの一人は、後にホータキー朝初代首長となるミールワイス・ホータクである。彼は囚人としてイスファハーンの法廷へ送られたが、彼に対する嫌疑はフサインによって免じられたため自由の身でカンダハールに帰還した。
 1709年4月、ミールワイスはガズナ朝の流れをくむナーシル氏族の支援を受け、カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻した。
 叛逆は、郊外の農場でミールワイスが主催した宴会にギオルギ11世とその護衛をおびき寄せ、その場で彼らを殺害したことから始まった。
 その宴会で振舞われたワインに細工が施されていたとされている。
 次いで彼はこの地域に残るサファヴィー朝の兵士らの殺害を命じた。
 その後、彼の軍勢は反乱を鎮圧するためイスファハーンより派遣されたサファヴィー軍を撃破している。
 なお、サファヴィー側の軍勢はミールワイス側の2倍の規模を誇っていた。

 反抗的な都市を征服するためのいくつかの中途半端な試みは失敗している。
 ペルシア政府はギオルギ11世の甥であるカイホスローを鎮圧のため3万の軍勢とともに派遣したが、最初に成功を収めたにもかかわらず、条件に応じて降伏を申し入れてきたアフガニスタンに対して彼は妥協しない態度をとったため、軍は絶望的な努力を強いられた。
 結果としてペルシア軍(700人が逃亡)は完全に敗北し、彼らの将軍は死亡した。2年後の1713年、ルスタム率いる別のペルシア軍もまた、
 ローイ・カンダハール全体を支配した反乱軍に敗北した。

     —E・G・ブラウン、1924

 この反乱を機にホータキー朝が成立したが、ミールワイスは王の称号を拒否したため、彼のアフガニスタンの同郷からはカンダハールのヴァキール(摂政)にして国軍の将軍と呼ばれていた。
 彼が1715年11月に自然死すると、彼の兄弟であるアブドゥルアズィーズ・ホータキーにその地位は引き継がれた。
 なお、後に彼はミールワイスの息子であるマフムードによって殺害されている。
 1720年、マフムードはスィースターンの砂漠を越えてケルマーンを占領した。
 彼の計画は、サファヴィー朝の首都であるイスファハーンを征服することであった。
 1722年3月8日、グルナバードの戦いでサファヴィー軍を破った彼の軍勢はイスファハーンへ進軍し、6か月にわたってここを包囲、陥落させている。
 10月23日、フサインは退位し、マフムードを新たなシャーとして承認した。

 だが、ペルシア住民の多くは当初からアフガニスタンの反乱軍が政権を簒奪したとの認識を持っていた。
 1729年までの7年間はホータキー朝が事実上のペルシア支配者であり、アフガニスタンの南部と東部に限っては1738年まで支配下に置いていた。
 ホータキー朝は紛争によって成り立った王朝であるため、永続的にその領域を支配するのは困難であり、当初からその統治には苦境と暴力が伴っていた。
 マフムードはイスファハーンにおいて何千人もの民間人(宗教学者や貴族、サファヴィー家の一族など3000人以上)を虐殺するなど血に塗れた治世を行い、ペルシアでの王朝の影響力は徐々に失われていった。
 一方でホータキー朝を興したパシュトゥーン人も、1709年に反旗を翻すまではギオルギ11世を始めとするサファヴィー朝の勢力に迫害されている。

 ◆滅亡

 1725年、アシュラフ・ギルザイがマフムードを殺害してその地位を奪った。
 彼の軍勢は1729年10月にダームガーンでアフシャール族のナーディル・シャー率いるペルシア勢力と衝突したが、ホータキー朝は大敗を喫した。
 なお、後にアフシャール族はサファヴィー朝に代わってペルシアの覇権を握ることになる。
 ナーディル・シャーはペルシアからギルザイ部族連合の残党勢力を追放し、ファラーフやカンダハールのドゥッラーニー部族連合から軍勢を募った。
 軍備を整えたナーディル・シャーはアフマド・シャー・ドゥッラーニーなどを従えてカンダハールに進軍し、1738年にここを占領した。
 カンダハールの包囲によって権力の座は失われ、約30年に渡ってペルシア一帯を支配したホータキー朝は滅亡した。

 ▶アフシャール朝

 ペルシャの王位に就いたナーディルはナーディル・シャーと名乗って、カンダハールとカーブルへ進撃した。1738年に両都市を攻略し、インドへ向かった。インドでは、アブダーリー族の親衛隊がナーディルを助けた。
 彼はムガル帝国軍を下し、デリーを陥落させ、ペルシャに戻った。
 その後もオスマン帝国やサマルカンド、ヒヴァ、ブハラへ出征を続けた。
 1747年部下に殺害された。親衛隊を率いていたアフマド・ハーン・アブダーリーことアフマド・シャー・ドゥッラーニーは何とかカンダハールへ戻ることができた。


 アフシャール朝(ペルシア語: افشاریان‎、アフシャーリヤーン)は、イラン(ペルシア)の王朝で、首都はマシュハドでナーディル・クリー・ベグによって建てられた。

 ◆初代・ナーディルの勢力拡大

 ナーディル・クリー・ベグ(ナーディル・シャー)は、サファヴィー朝のアッバース3世の摂政として、ホータキー朝やオスマン朝を破って、旧サファヴィー朝が失った領土のほとんどを回復し、一時ペルシアの覇権を握った。
 1736年にサファヴィー朝のアッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーとして即位した。
 ナーディル・シャーはバルーチスターンへ侵攻し、カルホラを占領した。
 晩年になるとナーディルは息子を盲目にしたり、甥の息子ら親族を大量に殺したり、市民や役人を殺戮したりした。
 この反動により、1747年に部下の兵士らによって暗殺された。

 ◆衰退・抗争期

 ナーディルの死後、跡を継いだのは暗殺に一枚噛んでいたとされるアーディル・シャーであった。
 彼はナーディルの直系親族を一部を例外として殺戮したが、弟のイブラーヒームに背かれて廃された。
 だが、イブラーヒームも有力者の支持を得られず、すぐに廃された。

●ナーディル・シャー暗殺直後
(1747年12月ごろ)のイラン

 人に代わって擁立されたのが、ナーディルの嫡孫であるシャー・ルフである。しかし1750年、シャー・ルフは有力者によって退位させられ、サファヴィー朝の末裔とされるスライマーン2世が傀儡として即位した。
 しかしすぐに亡き祖父ナーディルの旧臣らが反乱を起こしてシャー・ルフは復位した。

 ◆滅亡

 以後のシャー・ルフは有力者の傀儡として利用された。
 そして1796年にアーガー・モハンマド・シャーがマシュハドを占領することでアフシャール朝は滅亡し、カージャール朝に取って代わられた。

 ▶ドゥッラーニー朝

 ドゥッラーニー朝(د درانیانو واکمني)は、18世紀にアフガニスタンにあった成立した王朝。
 1747年にアフマド・シャーがイランのアフシャール朝から自立して興した。
 ただし「ドゥッラーニー朝」の呼称が指し示す範囲についてはいくつかの定義がある。
 アフマド・シャーはパシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族の出身であった。
 狭義のドゥッラーニー朝(1747〜1826年)は、アフマド・シャーとその子孫の王朝(サドーザイ朝)・国家(ドゥッラーニー帝国)を指す。
 ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747〜1826年)と、続くバーラクザイ朝(1826年〜1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。

 「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。
 1747年から1973年までの王朝について「ドゥッラーニー朝+バーラクザーイー朝」、「ドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)+ドゥッラーニー朝(バーラクザイ朝)」、「サドーザイ朝+バーラクザイ朝」という3つの名称が鼎立している状況である。

 ◆サドーザイ朝

 1747年にイラン系遊牧民パシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合の一派ポーパルザイ部族(Popalzai)のサドーザイ部族がアフシャール朝から独立して建国。

 清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。
 以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。

 外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。

 ❒ドゥッラーニー帝国
 (パシュトー語: د دورانیانو امپراتوري)、またはアフガン帝国(パシュトー語: د افغانانو واکمني)は、アフマド・シャー・ドゥッラーニーが興した帝国である。



 最盛期には現在のアフガニスタン、パキスタン、イラン北部、トルクメニスタン東部、カシミール渓谷を含むインド北西部に跨る領域を支配下に置いていた。
 1747年にナーディル・シャーが死亡すると、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはカンダハール地域を獲得した。
 そこを拠点に彼はカーブル、次いでガズニーの征服を始め、1749年にはムガル帝国から現在のパキスタンやパンジャーブ北西部にあたる地域の主権を譲渡された。
 さらにアフシャール朝のシャー・ルフが支配していたヘラートを獲得するため西へ進軍し、続いてヒンドゥークシュ山脈も手中にしようと目論み軍を送り込んだ。
 ヒンドゥークシュの全部族は短期間のうちにアフマドの軍勢に加わっている。
 彼の軍は4度に渡りインドへ侵攻し、カシミールとパンジャーブを支配下に置いた。
 1757年初頭、彼はデリーの略奪を行ったが、既にデリーにおけるムガル帝国の影響力は低下していたため、アフマド・シャーによるパンジャーブ、シンド、カシミールの宗主権を認める限りにおいて帝国の維持は約束された。
 1762年にはパンジャーブにおいてシク教徒の虐殺事件を引き起こしている。
 1772年にアフマドが死亡すると、新たなドゥッラーニー朝の支配者に息子のティムール・シャーが即位した。
 ティムールは帝都をカーブルへ移し、ペシャーワルを冬季の帝都に定めた。
 ドゥッラーニー帝国は現在のアフガニスタンにおける国家の基盤と考えられており、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは国民の父と称されている。

 ◆バーラクザイ朝
 (Barakzai dynasty)

 19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカーブル。

 1826年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。

 中央アジアがロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)の舞台となる中で、両者の対立を利用しつつ3度にわたってイギリスと戦争を繰り広げ(アフガン戦争。1838年〜1842年、1878年〜1881年、1919年)、独立を確保して現在のアフガニスタンの国境線を画定した。
 外敵との戦いは「アフガン人」の国民意識の形成にも寄与した。

 ❒ドースト・ムハンマドの自立

 18世紀末以来サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は内乱状態に陥り、カンダハールを拠点とするバーラクザイ部族が勢力を伸ばした。
 バーラクザイ部族はサドーザイ朝で宰相(ワズィール)を出す部族であり、勢力拡張を嫌ったカームラーン王子 (Shahzada Kamran Durrani) が1818年に部族の長ムハンマド・アズィーム(別名ファトフ・ハーン。
 1778年〜1818年)を殺害すると、バーラクザイ部族は各地で反乱をおこし、サドーザイ朝は事実上崩壊した。
 ムハンマド・アズィームの弟であるドースト・ムハンマドは1826年にカーブルを掌握し、ハーンを称してハン国を建国した。
 しかし、その後もしばらくは、彼の兄コハンデル・ハーンがカンダハールを本拠とし、カームラーン王子と宰相ヤール・ムハンマド・ハーンのサドーザイ朝残存勢力がヘラートを本拠として、アフガニスタンに鼎立する状態が続いた。
 こうした対立は、当地を支配下に置こうとするイラン(カージャール朝)の動向や、ロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)と結びついた。

 ❒アフガニスタン首長国

 1835年、ドースト・ムハンマドは君主の称号をアミール(首長)に変えた(アフガニスタン首長国)。

 ドースト・ムハンマドのロシアへの接近を警戒したイギリスは、サドーザイ朝の復興を目指すシュジャー・シャーを支援してアフガニスタンに介入(第一次アフガン戦争、1838年〜1842年)。
 ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスによる逮捕・追放などを経ながら、1843年に復位し、その後20年間アフガニスタンを統治した。
 1855年にはイギリスとの友好条約(ペシャーワル条約)を締結し、インド大反乱ではイギリスを支援した。
 国内にあっては、コハンデル・ハーンの死(1855年)後の混乱に乗じてカンダハールを占領、1863年にはサドーザイ家の手にあったヘラートを併合し、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた。
 ドースト・ムハンマド・ハーンの跡を継いだシール・アリー・ハーン(在位:1863年〜1866年、1868年〜1878年)は、同族間の紛争に直面した。
 1878年には、シール・アリーのロシアとの接近を危惧したイギリスからも宣戦された(第二次アフガン戦争、1878〜1881年)。
 シール・アリーの跡を継いだヤアクーブ・ハーン(在位:1879年)は、イギリスとの間にガンダマク条約を結び、イギリスの保護国となることを認めたものの、アフガニスタンの抵抗は強く、ヤアクーブも退位した。

 妥協を図ったイギリスは、シール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880年〜1901年)を保護国アフガニスタンのアミールとして認めた。
 この際、ガンダマク条約が確認され、アフガニスタンの南東国境(現在のアフガニスタンとパキスタンの国境)が画定された。
 ただし、その後もイギリスとアブドゥッラフマーン・ハーンを認めない抵抗は続き、1880年にはマイワンドの戦いにおいてイギリス軍がアイユーブ・ハーン(シール・アリーの子)に大敗を喫した。
 アブドゥッラフマーン・ハーンは、中央集権を推進したが、一方で抵抗も根強く、イランに亡命したアイユーブ・ハーンとの戦いも行われた。

 〔ウィキペディアより引用〕




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