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悲しみの王妃、祟り神となる?

2017-06-22 20:49:40 | 60十市皇女と天武朝の姫

悲しみの王妃、祟り神となる?

この小さな神社のご祭神は十市皇女、天武天皇と額田王の間に生まれた長女になります。比賣神社に十市皇女が鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日となっています。脇座には、市杵嶋比賣が寄り添っています。市杵嶋比賣は、女神として十市皇女の周りを祓い清めているのでしょう。

この小さな神社は、奈良の新薬師寺の門前に在ります。新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した寺院です。有名な十二神将像がある寺院です。

十市皇女は額田王の娘なのですが、母と違って万葉集に皇女自身の詠歌はありません。が、十市皇女のために詠んだ歌は四首あります。一首目は22番歌です。22番歌の前にある20番歌と21番歌は、額田王と天武帝の歌です。十市皇女の両親の歌が、20・21番歌なのです。

20 あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

21 むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人嬬ゆゑに我れ恋ひめやも

次は、22番歌です。「十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時に、波多の横山の巌を見て、風芡(ふふき)刀自が作る歌」と題があり、ふふき刀自については詳細は分かりません。

22 川の上のゆつ岩群に草生さず 常にもがもな常処女(とこをとめ)にて

川の中にある岩は常に清められていて草が生えないが、常にそうであったらいいですね。そうであれば常乙女でいられるのですから。

書紀によると天武天皇の四年(675)春に、十市皇女・阿閇皇女が伊勢神宮に参赴しています。当時、伊勢神宮には大伯皇女(大津皇子の姉)が斎宮として赴任していました。そこへ出かける時の歌ですが、何をするために二人の皇女は出かけたのでしょう。

十市皇女は壬申の乱(六七二)の時の、敵将・大友皇子の妃でした。阿閇皇女は天智帝の皇女で、後に草壁皇子の妃となる人です。十市皇女は大友皇子が勝利したら皇后になっていたかもしれない女性です。しかし、大友皇子は天武帝に破れました。父が夫を倒したのでした。大友皇子の忘れ形見の息子(葛野王)を連れて明日香に戻った十市皇女の心は晴れなかったことでしょう。そこで、同じ天智帝を懐かしむ皇女(阿閇)と一緒に伊勢に参赴させたと云うことです。身も心も再生するようにと、天武帝の娘への心使いだったのではないでしょうか。

祟り神となっていた藤原 広嗣

さて、案内板によりと、比賣神社は鏡神社の摂社でしたね。

十市皇女を祀る比賣神社は、新薬師寺の門前に在りますが、そこは鏡神社の鳥居の前でもあります。鏡神社と云えば、九州の唐津に「鏡神社」があり、藤原広嗣を祀っています。ここは、その鏡神社から806年に勧請されました。

806年に、鏡神社は光明皇后所縁の寺・新薬師寺の守護神として勧請された…のです。広嗣は祟り神から守護神へと転身しました。806年は、桓武天皇の没年であり、平城天皇の即位年です。平城帝の御代が平安であるように、祟り神を鎮めようとしたのでしょう。奈良教育大の辺りまであった新薬師寺の境内は、火災により縮小していたので、鏡神社が現在地に造られることになったのでしょう。

で、では、十市皇女は祟り神の神社の摂社であれば、 十市皇女は祟り神だったのでしょうか? もともと比賣塚があったらしいのです。そういう謂れのある塚だったと思います。

天智帝の後継者・大友皇子の王妃だった十市皇女ですから、大きな悲しみを背負っていたのは間違いありません。なのに敵将の妃となり、苦しんだ挙句の自死ですから、祟り神となったでしょう。恨みを持って没したと、誰もが思ったでしょう。

 悲しみの王妃の霊魂をどのように慰めたらいいのか、当時の人は悩んだと思います。残された息子の葛野王だけでなくその末裔も悩み続けたでしょう。そのささやかな名残が、比賣神社の横に残されていました。

それは、次に紹介しましょう。