7 額田王が見た有間皇子事件
有間皇子(ありまのみこ)とは何者か? 有間皇子は36代孝徳天皇の後継者です。
孝徳天皇は、大化改新(645)のあと豪族の支持を得て大王(天皇)になった偉大なる天皇でした。しかし、日本書紀によると孝徳天皇の後継者は、皇太子の中大兄皇子となっています。大王にまでなった孝徳天皇の皇子として「有間」しか名が残されていません。それであれば、有間皇子こそが唯一無二の皇太子だった可能性があります。しかし、有間皇子事件により皇子は刑死しました。
その事件を目撃した女性がいました。
有間皇子が中大兄皇子の許へ連れて来られた時、斉明天皇は牟婁温泉の何処にいたのでしょうか。皇族のしかも最高権力者の旅ですから、警護も厳しかったでしょうから、女帝は自分から甥に逢いに行けなかった。しかし、斉明天皇の傍には額田王が居ました。
額田王は、紀伊温泉行幸に従駕していました。万葉集巻一の七・八・九番歌は額田王の作歌となっていますが、八は天皇御製歌とも書かれています。(別の機会に取り上げます)
九番歌の題詞に「紀温泉に幸(いでま)す時、額田王の作れる歌」とありますから、斉明女帝に従駕していたのです。だから、皇子の様子をしっかり見たことでしょう。大事な目撃者の歌なのに、実は一句と二句が読み不明とされています。昔から読み不明のまま今日に至っているのです。
9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつ橿が本
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 わが背の君はお立ちになったであろう いつ橿(聖なる橿の木)の本に
意味不明、読みがわからない、わたしはそこに額田王の本音があると思いました。云うに言えない本音が隠れているとしたらどう読みましようか。漢字をそのまま読んでみましょう。
では、「紀伊温泉に幸す時、額田王の作れる歌」です。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつかしが本
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣には、読みの定説がありません。読みもいろいろです。
ゆふつきの あふきてとひし
ゆふつきし おほひなせそくも
きのくにの やまこえてゆけ
みもろの やまみつつゆけ
まつちやま みつつこそゆけ
さかどりの おほふなあさゆき
ふけひのうらに しつめにたつ
しづまりし かみななりそね
みよしのの やまみつつゆけ
ゆふつきの かげふみてたつ
しづまりし うらなみさわく
どれもピタリと、意味と読みが合致せず、定説がないのです。云うに言えない心のうちを意味不明の漢字に託して、額田王は読んだのでしょう。
これを漢字の意味だけで 読んでみましょう。
莫・日暮れ・広い大きい・寂しい→計り知れない寂しさの中
囂・かまびすしい・うるさい、やかましい→うるさく騒ぐ人や
圓・まどい・おだやか→穏やかな人も
隣・となり、集落に家がある→集まった
之・漢文に用いられる日本独特の終助詞・強めの助詞
大相・大きな会見→尋問がおこなわれた
七・一の中からわずかな変化が斜めに芽を出すこと→些細な事で
兄・あに・二つのものを比べて、その中ですぐれたほう→年上の人が
爪.つめ、爪の先でつまむ→あの方は小さな望みを以って
謁・目上の者に申し上げる→潔白を陳べた
氣・目に見えない力→あの方は凛としておられた
漢字だけで考えると上記のようになります。
わが瀬子とは、有間皇子のことだとしても良い(当の有間皇子を擬する道がありそうである)と、万葉集釋注で伊藤博は書いています。事件は斉明天皇の紀伊國行幸の時に起こったのですから、額田王が知らずに過ごすことはないでしょう。
牟婁温泉での会見ではひとまず許されたかに思えた有間皇子でしたが、中大兄は追っ手を差し向けました。そして、藤白坂での刑の執行となりました。額田王は藤白坂について行くことはできませんでした。
しかし、皇子の最後の様子を聞いたのです。「自分が縊られる樫の木の根元に立った時、皇子は毅然としていて、その様子は傍の人々を圧倒した。そして、家族が泣き叫ぶ中に皇子は家族を諭し、そして最後を迎えた」と。額田王は泣きながら斉明天皇に奏上し、歌を詠んだのです。
有間皇子は額田王の「わが背子」ではありません。斉明天皇の「わが背子」です。女帝に奏上した歌なのでしょう。藤白坂にある藤白神社は斉明天皇の願いで創建されたという伝承があります。