人麻呂の死を知った時、依羅乙女は何処にいたのか
柿本朝臣人麻呂が、死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌とその妻の歌を読んでみましょう。
万葉集・巻二の223番歌
柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
丹比真人、柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ
或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し
上の歌から分かることは、
人麻呂は石見国で死んだ。
その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。
(不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131~139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である。)
人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
224~7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。
(死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)
妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。
依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131~9)の歌群の後にある140番歌の女性である。
「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」
な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ
依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。
以上のことは読み取れます。
では、いったいこの三人は、何処の如何なる人たちなのでしょう。
それは、次回に。
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