弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

『アバター』

2010年04月06日 | 映画
 遅ればせながら、大ヒットしまくりの映画『アバター』を地元のローカルな映画館で観て来た。さすがに今頃はもうピークは過ぎていて、僕の観た回は観客七名だった(僕を含めて)。あまりに空いているので、上映中周りに気兼ねなく、アルコールをちびちびやりながら観ることができて何よりだった。
 別に観たいと思っていた映画ではない。たまたま中途半端に時間が空いて、映画でも観ようと思った時、近場で他に目ぼしい作品をやっていなかったので、話のタネに『アバター』でも観るか、というノリで行ったのだった。この映画は3D上映も話題だったが、その映画館でやっていたのは普通の2D、しかも日本語吹き替え版である。テレビならともかく、映画館まで行って吹き替え版なんて、普段なら絶対嫌なのだけど、そんなことにこだわる気も起きないくらい、作品自体に興味がなかった。
 案の定、始まってしばらくは日本の声優によるハリウッド映画吹き替えの典型的な“わざとらしく肩の力の抜けた・フランクなトーン”が耳について、頭の中を友近となだぎ武が駆け回っていたが(なにせシガニー・ウィーバーも出てるし)、しばらくするとそれも気にならなくなった。それどころか、字幕がない分、緻密に作ってある映像の方に集中できて、これはこれでいいもんだなと、途中から思い始めた。
 内容についても、期待していなかった分、いいものをみせてもらったという感動が素直に心に残った。長くサボっていたこのブログを久しぶりに書こうという気になったのもそのおかげである。自分でも、まさかこんなベタな(旬を過ぎているのはいつものことだが)ネタで文章を書く気になるとは、思ってもみなかった。

 これは言ってみれば、ジェームズ・キャメロン版『もののけ姫』というか、アメリカ版『もののけ姫』である。ひょっとしたらと思って先ほどネットで調べてみたら、やはりキャメロン監督は宮崎駿作品、とりわけ『もののけ姫』に相当な感銘を受けた人らしい(ウィキのページ下部参照)。まあそんな情報は知らなくても、実際に観れば誰もが、『もののけ姫』との類似性に嫌でも気づかされるだろう。
 ただ、『もののけ姫』は日本の、歴史的に古い時代を舞台にしているのに対して、『アバター』は未来の、それも地球外惑星に進出した地球人と現地先住民との衝突を描いている。なのに、それによって観る者の脳裏に去来するのは、「こういうことが未来に起こるかもしれない」というよりは、「まさに、これを私たちはやってきた・・・今も!」という思いであるはずだ。少なくとも、近現代の歴史に関して、一定以上の知識を備えた人ならば。
 キャメロン監督がアメリカ人として、アメリカの歴史、そして現代の有様を強く意識していることは明白だろう。この物語の中での惑星先住民ナヴィは、姿やしなやかな身体の動きなどはアフリカの黒人諸部族を彷彿とさせるけれど、歴史や哲学などはアメリカ・インディアン(インディオ)のそれを下敷きにしている部分が大きい。我々日本人にとっては、アイヌのそれである。
 一方で、地球人開発資本の進出目的は特殊な鉱石の鉱床がこの惑星にあるためだ。それは言うまでもなく、石油を狙ってのアメリカの中東戦略と重なる。そしてこの戦略を安全に推し進めるための担保となるのは、圧倒的な軍事力。主人公の出身母体はなんと「海兵隊」である。物語では、現地の文明を破壊する侵略の尖兵は民間の傭兵企業だけど、こんな未来の世界にやはり「海兵隊」もある、というのはずいぶん皮肉の効いた設定だ。よくぞこの設定で映画を撮ろうと思ったものだと、素直に感心してしまう。

 それで思い起こすのは、アカデミー賞でこの『アバター』と、キャメロン監督の先妻・ビグロー監督作『ハート・ロッカー』が争ったことだ。
 周知のとおり、作品賞は『ハート・ロッカー』の方がさらったわけだが、巷のニュースではそれをもっぱら「元夫婦対決」という話題性でのみ盛り上げつつ、伝えていたように思う。だが、むしろ内容に即して比較してみた時に、この両者が対照的であることがよほど大事なポイントなのではないか──といっても、僕は『ハート・ロッカー』を観ていないので、確信をもって言えるわけではないのだけど。つまり何となく、アメリカの映画界としては、西洋キリスト教社会、資本主義、軍事主義、そしてそれらと水面下で手を結ぶグローバリゼーション──という名の現代の植民地主義、に対する根底的な批判を含む『アバター』には作品賞をあげづらかった、のではないか。対して『ハート・ロッカー』は、毎度のごとくというか、「アメリカ軍は今日もこんなに頑張っています・苦労しています」という筋の話としてオチをつけやすいのではないか、という。いや、観てないからうかつなことは言えないけど。

 ただ、そうしたテーマと並んで、僕自身が実はもっと大事かもしれないと思ったのが、“アバター”という設定それ自体である。“アバター”とは、ネット上では仮想の分身キャラクターだが、この映画では具体的な肉体を備えた分身である。主人公達は、自らの脳を通じて遠隔操作するその分身の生身の肉体を通して、ナヴィの世界を経験し、その素晴らしさを知り、守ろうとする。
 一方、その素晴らしさを学ぼうとしない生身の地球人達は、堅牢なガンシップやロボット・スーツに身を沈めて行動する。それも鎧越しの、一種の「遠隔操作」である。一切の痛みを感ずることなく、危険に身をさらすことなく、ナヴィの世界を蹂躙するための。そうした現代先進社会の精神性を象徴するような、言わば「ガンダム」タイプの兵器と、生身の肉体の“アバター”との対決というのが、個人的には一番痛快な、この映画のハイライトだった。
 同じように、我々現代の普通の人間は、様々な情報メディアなどの“アバター”を通して世界を「知る」ことができる。しかしそれを本当に血肉化することができるかどうかは、本当に現実に対してその人自身が開かれていくことができるかどうか、なのではないか。そういうことを問いかけているという意味において、思いのほか、示唆するところの深い映画だと感じたのである。

 確かに、ドラマの作りやアクションの派手さで引っ張るところなどはあくまで“ハリウッド映画”で、要するに娯楽映画の範疇ではある。僕として、もう一度観たいとはまず思わない。
 キャメロン監督作品というのは、「大人のディズニー」みたいなもんなのだろうな、と思う。だからこれだけヒットするのだろう、と。
 しかし、決して子供騙しの映画ではない。この映画を、その学術的な面や、政治的・歴史的認識の甘さという点から「幼稚」呼ばわりするのは、いかにも的外れだ。逆に、多少の甘さを抱えてはいても、これだけの内容を持った作品が興行収入記録を塗り替えたという事実は、映画史上、というより人類史上、一つの転換を象徴する出来事かもしれない、とすら思う。かなり期待を込めつつ、そう思うのだけど。特にこの映画を考えついた・作ったのがアメリカ人自身であるということが、「アメリカ」の終焉を決定付けているような気もするのだ。

 まだ観てないけど観ようかどうか迷っている人がいたら、観ておいた方がいい、と言っておきます。3Dでなくても充分楽しめます。

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