弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

アウトテイク・フラグメンツ─4

2011年08月02日 | 原発 3.11 フクシマ
 しつこくアウトテイク集。別にこの形式が気に入っているわけではない。



 別冊宝島の「原発の深い闇」というムックが、本屋に並んでいた。
 もちろん、読む必要はない。
 原発に深い闇など、最早ない。闇があっても、そんなに深く潜ることなく、脱原発の必要性は理解できていなければおかしい。
 むしろ、
 「深い闇がある」
→深いなら脱却は難しい
→だからひとまずあきらめよう
という思考形式をサポートするために、こうした本が出版されているのではないかと思えるフシもある。
 だとしたら、こういう本自体が「深い闇」の一部ではないか。



 小出裕章(京大助教)非公式まとめで少し前に紹介されていた、TBSの報道特集「レンガの原料はウラン残土だった」(5月29日放送)は面白かった。短い番組だが、事の本質をよくとらえていた。

 報道特集「ウラン残土レンガ」

 「迷惑なものを迷惑じゃないものに変える」という錬金術。
 人形峠のウラン採掘により生じたウランまじりの残土を、レンガに成型にして日本原子力開発機構(旧日本原子力研究所と旧核燃料サイクル開発機構の統合体)から売り出す。アイデアを出したのは当時の文科省大臣、小阪憲次。政府の放射能拡散の発想はすでにこの頃から。
 100万個以上生産のうち、すでに64万個販売。買うと、自宅まで運んでくれたりとか、そういう時だけやたらサービスがいい。
 1個90円だが、それ以上の開発費、人件費等がつぎ込まれている。人形峠環境技術センター(なんというネーミング)の副所長なる人物は、「そういう試算はしていない」と驚くべきことを言うが、どこの世界にかかった費用を計算せずに行なう事業があるものか。国の原子力予算=すなわち税金のおかげで、1個90円にまで下がっていることは明らかだ。日本人が汗水たらして働いて納めた税金が、1個当たり0.22μSvの放射能付きで国民の元に返ってくる。そんなことを頼んだ憶えはないのに。
 「拡散」して「希釈」すればいい。総量は減りはしないのだけど、リスクを分散することで、一つ一つのリスクは小さくなる。すると、全体のリスクも小さくなった「気がする」。「気がする」気にさせるのが、政治の役目だ。これすなわち偽装国家の要諦。
 「迷惑なものを迷惑じゃないものに変える」──言葉のたくらみを見破れず、今日も人は騙される。
騙されるのは人の勝手だが、巻き込まんでほしい。


■地震の話(1)

 福島原発事故の、少なくとも1号機については、津波の襲来以前に、地震動だけで配管系の損傷が起き、メルトダウンが始まっていた──という、石橋克彦氏、田中三彦氏らの分析が、いよいよ有力な見解になってきているらしい。
 それで、津波の大きさのせいにするのを手控えるかと思っていたら、今度はM9.0「超巨大」地震のせいにする、という傾向が見え始めている──安全委員会にしろ保安院にしろ電力会社にしろ、要するに犯人側は。それに、交渉する市民側も乗せられている面があるようで、気になる。

 マグニチュードは、地震の規模。ものすごく簡単に言ってしまえば、どれだけの広さの地殻岩盤がズレ動いたか、という断層運動のサイズの話である(断層運動=地震は面状に起きる。基本中の基本)。規模は必ずしも地震動の「強さ」に比例しない(地震動の継続時間には大雑把に比例する)。
 今回の東北の地震は、そのように「超巨大」な面上に起こったのだけれど、だからといって地震動そのものの破壊力は、「超巨大」どころか「巨大」ですらなかった。阪神・淡路の時や、新潟中越地震の時の方が、もっとはるかに強烈な地震動に見舞われている。直下の浅いところで起きた地震だったからである。
 端的に言っても、東北では震度7は宮城県北部の一箇所でしか観測されていない。建物の破壊はほとんどの場合津波によるものであり、津波到達以前には(少なくとも外見上は)損壊を免れていた。誰もが映像を観て知っているとおりだろう。

 福島第一原発の付近でも、振動自体は震度6程度である。しかし2007年中越沖地震の際、柏崎刈羽では震度5の強程度でも、耐震基準を超える瞬間的な応答加速度を観測している。その結果柏崎刈羽原発は損傷し、停止した。大事故にならなかったのは幸運だった。
 福島でも、柏崎刈羽のそれには及ばないにしろ、相当に強い衝撃が3分に及ぶ長い継続時間の中で複数回襲来した。石橋教授はその「くり返し荷重」が福島事故の主因だろうと推測しているけれど、それでも震度でいえばあくまで「6」程度のなかでの出来事だ、という現実を忘れてはいけない。震度6程度の揺れなど、M9.0だろうとM7.0だろうと、下手をすれば(直下なら)M6.5程度の地震でも、瞬間的には記録してしまうのだから。

 つまり今度の事故の件で、マグニチュードがどんなに大きかったからといって、それを「想定外」の言い訳にすることなどできない。耐震基準が大甘なのは、マグニチュード以前の話である。
 かといって、本当に今あるデータの最大限(たとえば柏崎刈羽で記録した最大応答加速度1699ガル!)を基準に原発を設計するなど、そもそも技術的・経済的に非現実的である。しかもその基準すら上回る地震動が、いずれ起こりえるとしたら──というより、そんな非現実的な設定をしなければいけない地震国に原発をおっ立てることが、やはりそもそも非現実的なのだ。

 ということはまた、他の原発がある地域でも、「M9.0の地震」が起きる可能性があるか・ないか、その可能性が大きいか・小さいかなどを論じるのは、事故対策としてはまったく無意味ということだ。そんな無意味な議論にゆめゆめ乗っかってはいけない。


■地震の話(2)

 駿河湾で3月15日以来、久しぶりに大きめの地震があった(8/2未明)が、その3月の時と同じく、気象庁は「想定されている東海地震に直ちに結びつくものではない」と発表した。
 これはそのとおりだろう。だがそれを受けてのマスコミ各紙の文面、「東海地震との関連なし」は完全に間違っている。
 
 関連がないわけがない。近年、東海地震の想定震源域で起きた中小の地震は、すべて広い意味で東海地震の「準備」である。
 海のプレートが、駿河トラフ~南海トラフから陸のプレートの下に着々と押し寄せ、もぐりこんでいる。その着々とたまっていく歪みの解放が地震であり、小さな地震によって外堀が埋められた後、大きな本丸が倒される。その予想される本丸の地震(海洋プレートもぐりこみ型の巨大地震)と発震メカニズムが違っても──たとえばもぐりこむプレート内の破壊による地震、あるいは押されている内陸のプレート内の破壊による浅い地震であっても──、大きなひとくくりの「歪みの解放」ステージのなかにあるのだから、関連はあるのだ。ただ、そのうちの一個、今回のものが、すぐさま東海地震本震の直前の前触れとまでは疑える材料がない、だけの話である。

 これは枝葉の「言い方」の問題ではない。地震動はお互いに関係し合っている、一つながりの自然現象という、基本的な理解がどうなっているのか、という話だ。地震国日本の人間なら、それくらいの基本を身につけていたっていいじゃないか、と僕は思う。
 それとも、ここでも「安心」優先、なんだろうか?「関連なし」と言われれば安心でしょ、てな?

 科学部というところが書いている記事ならば、せめて「直接の前兆ではない」くらいの表現を使うかもしれない。でもベタ記事を書くのは違う、一般的なセクションだから仕方ない、のだろうか。
 原発報道に比べて脇に置かれがちな地震についての報道だが、こっちはこっちでいくらでも問題が露呈している。こういう理解の風土なればこそ、あのような原発ののさばり、そして事故、ともいえるのに。

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