またまたドキュメンタリーを観てきてしまった──といっても今回のそれは「フェイク(やらせ)・ドキュメンタリー」、すなわちドキュメンタリーの形式を借りたフィクションである。
夏に別の映画を観に行って、そこの劇場でたまたまこの『大統領暗殺』のチラシを見た時から、僕はこれは面白そうだと目星をつけていた。その予想は当たった。
非常に真面目に作ってある映画で、チラシから受けたやや「悪フザケ」っぽい印象は、実は本編では微塵もない。その意味では予想以上でもあった。
現職のブッシュ大統領が今年10月19日に暗殺されるという事件から、事件の波紋、国内・国外政策への波及までを、事件の背景とともに様々な当事者証言──ブッシュの側近から警護の人間、捜査官、複数の容疑者とその身内など──を中心に組み立てていく。もちろんその「証言者たち」は全員俳優で、演技をしているに過ぎないのだが、その設定・演出が実に巧妙で、なおかつ実際の記録映像(およびフェイク映像)も巧妙に差し挟まれているので、頭ではフィクションだとわかっていても、心情的にはすっかり話に乗せられてしまう。真犯人は誰かをめぐって、サスペンス・ドラマのように容疑者が二転三転して、そういう謎解きの展開に思わず惹きつけられるという面もあるが、そのせいだけではない。
まずもって、この映画の本当に肝心なところは、現存の人物が殺される話だという話題性や、現実と区別がつかないほどの「真に迫った」演出の凄さ・それ自体ではないと思う。それだけだったら僕は大して感心しなかっただろうし、そもそも観に行っていなかっただろう。
僕にとってこの映画の重要性は、フェイク・ドキュメンタリーという手法を駆使しながら、僕らのもとに日々届けられる「現実」が、大いなるフェイク・ドキュメントそのものであることを否応なしに実感させること。もう一つは、いわゆる「ドキュメンタリー」へのまなざしとして、それを作る人も観る人も、「フェイク」の側からの揺さぶりにどう応えるか、そんな問いかけを内に含んでいることだ。
TVドキュメンタリー出身という監督ガブリエル・レンジ(イギリス人)は、その2つのことをしっかり自覚してやっていると感じた。パンフでは彼の「未来のレンズを通して現在を見つめ直す手法」という言葉が紹介されている。いずれもうちょっと時間が経てば、この映画に描かれた「未来」は時間設定としては過去(起きなかった過去)に属してしまうわけだが、そういう表面上の時間設定は実はどうだっていい。
問題は今の歴史の流れの中で“アメリカ大統領”を暗殺したらどうなるか、そして暗殺に及ぶ背景はどういうものであるはずか、という点だ。その点では、問題はしばらくの間(おそらく僕などが生きている間・・・)、延々と「現在」であり続ける。この映画の「フェイク」は、まさにそうした不動の「現在」を、実は足場にしている。
ちょっと不満だったのは、大統領の暗殺を受けて、国際社会がどう反応するだろうか、そのことがほとんど描かれていない点だ。
イラク侵略に首まで浸かっている状況や、暗殺への関与を疑われる中東の国(ここでは主にシリア)からの応答は設定されているが、それ以前に英国など西欧諸国、日本などのアジアの同盟国、あるいは中国、ロシアのような大国の反応なども「フェイク」で交えてくれれば、より説得力が増しただろう。国内が暗殺を機に警察国家としての傾向を強めていくのはわかるとして、同時に対外政策も凶暴化し・孤立化していくことも明らかで、そうなるのを周りの国々が黙って見ているわけもない。まるで今のアメリカの一国中心主義そのままに、映画の方もアメリカ国内での展開を追うばかりになってしまっているのが物足りない。
本当はそれに加えて証言者、とりわけ容疑者たちや、反ブッシュの陣営(たとえばデモをする平和団体)の言い分や暗殺後の心境など、もっと詳しく掘り下げてみてもいいのでは、という不満もある。その他細かな注文はまだあるのだが、あまり細かいことを言ってもしょうがない、のかも知れない。証言内容を「詳しく」すれば、「フェイク」が「リアル」に見えるとしても、それがどうした、という話もある。ブッシュを殺したところで世界は良くならない──むしろ「暗殺」は世界をより窮地に立たせる、ということまでが納得できるように描かれた時点で、「アメリカ問題」の厄介さは十分に伝わる。そういう勝算が監督たちにはあったのだろう。
この映画を「反ブッシュのプロパガンダ」だと評して、けなしたつもりになっているおめでたい人もいるようだが、僕のように「反ブッシュのプロパガンダ」の何が悪いのか理解できない人間(たぶん世界に20億人くらいはいる)にとっては、どれだけ真に迫った、いわば魂のプロパガンダになっているかどうかが焦点ではないかと思う。その意味でこの映画は、僕的には十分及第点に達している。
フェイク・ドキュメンタリーというジャンル(ジャンルとして確立されているかどうかは知らないが)の可能性も、この作品によって広がったのではないか。こういう作品が登場することによって、映画という表現にはまだ未来がある、ことを実感もした。いわゆる「ドキュメンタリー」を撮る人にとっても、大いなる刺激になるだろう。
公式サイトはこちら:『大統領暗殺』
追記:映画は非常に真面目ですが、日本語公式サイトはそうでもありません。でもって「ブッシュすごろく」はやってみる価値あります。笑えます。
夏に別の映画を観に行って、そこの劇場でたまたまこの『大統領暗殺』のチラシを見た時から、僕はこれは面白そうだと目星をつけていた。その予想は当たった。
非常に真面目に作ってある映画で、チラシから受けたやや「悪フザケ」っぽい印象は、実は本編では微塵もない。その意味では予想以上でもあった。
現職のブッシュ大統領が今年10月19日に暗殺されるという事件から、事件の波紋、国内・国外政策への波及までを、事件の背景とともに様々な当事者証言──ブッシュの側近から警護の人間、捜査官、複数の容疑者とその身内など──を中心に組み立てていく。もちろんその「証言者たち」は全員俳優で、演技をしているに過ぎないのだが、その設定・演出が実に巧妙で、なおかつ実際の記録映像(およびフェイク映像)も巧妙に差し挟まれているので、頭ではフィクションだとわかっていても、心情的にはすっかり話に乗せられてしまう。真犯人は誰かをめぐって、サスペンス・ドラマのように容疑者が二転三転して、そういう謎解きの展開に思わず惹きつけられるという面もあるが、そのせいだけではない。
まずもって、この映画の本当に肝心なところは、現存の人物が殺される話だという話題性や、現実と区別がつかないほどの「真に迫った」演出の凄さ・それ自体ではないと思う。それだけだったら僕は大して感心しなかっただろうし、そもそも観に行っていなかっただろう。
僕にとってこの映画の重要性は、フェイク・ドキュメンタリーという手法を駆使しながら、僕らのもとに日々届けられる「現実」が、大いなるフェイク・ドキュメントそのものであることを否応なしに実感させること。もう一つは、いわゆる「ドキュメンタリー」へのまなざしとして、それを作る人も観る人も、「フェイク」の側からの揺さぶりにどう応えるか、そんな問いかけを内に含んでいることだ。
TVドキュメンタリー出身という監督ガブリエル・レンジ(イギリス人)は、その2つのことをしっかり自覚してやっていると感じた。パンフでは彼の「未来のレンズを通して現在を見つめ直す手法」という言葉が紹介されている。いずれもうちょっと時間が経てば、この映画に描かれた「未来」は時間設定としては過去(起きなかった過去)に属してしまうわけだが、そういう表面上の時間設定は実はどうだっていい。
問題は今の歴史の流れの中で“アメリカ大統領”を暗殺したらどうなるか、そして暗殺に及ぶ背景はどういうものであるはずか、という点だ。その点では、問題はしばらくの間(おそらく僕などが生きている間・・・)、延々と「現在」であり続ける。この映画の「フェイク」は、まさにそうした不動の「現在」を、実は足場にしている。
ちょっと不満だったのは、大統領の暗殺を受けて、国際社会がどう反応するだろうか、そのことがほとんど描かれていない点だ。
イラク侵略に首まで浸かっている状況や、暗殺への関与を疑われる中東の国(ここでは主にシリア)からの応答は設定されているが、それ以前に英国など西欧諸国、日本などのアジアの同盟国、あるいは中国、ロシアのような大国の反応なども「フェイク」で交えてくれれば、より説得力が増しただろう。国内が暗殺を機に警察国家としての傾向を強めていくのはわかるとして、同時に対外政策も凶暴化し・孤立化していくことも明らかで、そうなるのを周りの国々が黙って見ているわけもない。まるで今のアメリカの一国中心主義そのままに、映画の方もアメリカ国内での展開を追うばかりになってしまっているのが物足りない。
本当はそれに加えて証言者、とりわけ容疑者たちや、反ブッシュの陣営(たとえばデモをする平和団体)の言い分や暗殺後の心境など、もっと詳しく掘り下げてみてもいいのでは、という不満もある。その他細かな注文はまだあるのだが、あまり細かいことを言ってもしょうがない、のかも知れない。証言内容を「詳しく」すれば、「フェイク」が「リアル」に見えるとしても、それがどうした、という話もある。ブッシュを殺したところで世界は良くならない──むしろ「暗殺」は世界をより窮地に立たせる、ということまでが納得できるように描かれた時点で、「アメリカ問題」の厄介さは十分に伝わる。そういう勝算が監督たちにはあったのだろう。
この映画を「反ブッシュのプロパガンダ」だと評して、けなしたつもりになっているおめでたい人もいるようだが、僕のように「反ブッシュのプロパガンダ」の何が悪いのか理解できない人間(たぶん世界に20億人くらいはいる)にとっては、どれだけ真に迫った、いわば魂のプロパガンダになっているかどうかが焦点ではないかと思う。その意味でこの映画は、僕的には十分及第点に達している。
フェイク・ドキュメンタリーというジャンル(ジャンルとして確立されているかどうかは知らないが)の可能性も、この作品によって広がったのではないか。こういう作品が登場することによって、映画という表現にはまだ未来がある、ことを実感もした。いわゆる「ドキュメンタリー」を撮る人にとっても、大いなる刺激になるだろう。
公式サイトはこちら:『大統領暗殺』
追記:映画は非常に真面目ですが、日本語公式サイトはそうでもありません。でもって「ブッシュすごろく」はやってみる価値あります。笑えます。
大阪のほうでも上映してくれるのかなあ。
わたしは個人的に、アメリカ映画に現実離れしたファンタジーのような印象をたびたび受けるんですけれど、それは「銃」による解決、という筋書きがあるから。
でもそれって、アメリカじゃ現実に存在する恐怖であって、決してファンタジーじゃない。ここにアメリカという国の病理の根源があるんだと思います。
テロ対策を例に挙げると、テロを起こす国々と交渉し、譲歩と駆け引きで解決に近づいて行こうとするんじゃなくて、「テロを起こす政権がなくなれば解決する」という思考。ここから「予防戦争」という発想が生まれてきます。
こういうのって、アメリカの悪い性向なのに、日本は丁寧にそれに倣おうとします。
福田政権になって、憲法改変の脅威は少し去ったという向きもありますが、わたしはそうは思いません。これからも抗議の声をあげ続けてゆこうと決意しています。
>アメリカ映画に現実離れしたファンタジーのような印象をたびたび受けるんですけれど、それは「銃」による解決、という筋書きがあるから。
それは多分にそうですね。そこから政治的な問題を軍事で解決できるという錯誤にもつながるんでしょう。
しかし「予防戦争」ってったって、元々の争いの種を蒔いているのはアメリカ自身だっていう面も相当にあるわけで、それで「予防」もないだろうっていう。しかもそれをわかってやっている確信犯だという面もあります。
ただ、「力による解決」っていう病理についての無自覚(または開き直り)は、僕は日本の一連のSFアニメなんかからも濃厚に感じるんですよね。最後には結局優れた兵器を持つもの、知的で優れた戦闘技術を駆使したヒーロー・ヒロインが勝つっていう。
「力」っていうものを無効にするような民衆の政治的な意思というものは、一切登場しないまま。そこが僕には、いかにも「ファンタジー」だなあって思わないではいられない。
まあ、映像の中でいくらファンタジーに浸っていても構わないけど、頼むからそれを現実の政治とかに持ち込まないでくれよな、って感じですね。
信じるも信じないも、そんなこと書いてないもん。たとえ思っていても、そんなことわざわざ書かないもん。
この映画作った人も同じ。ブッシュが死んでハハハざまーみろ、なんてトーンは一切ないのよ、この映画には。逆に暗殺なんかしたって事態は悪くなるだけ、っていう暗いシナリオなわけ。
普通に文章読めって。おまえ、現国赤点だろ。