地元に回転寿司の店がある。新聞広告なんかもバーンと出していて、結構有名なチェーン店だ。値段が手頃で、実際おいしいので重宝していた。
それはいいのだけど、今年に入って(だと思うのだが、もっと前からかも知れない)、その新聞広告でも、また店内放送なんかでも、しきりに「鮮度」について強調している。
鮮度を保つ秘訣は何かと言えば、コンピューター管理で、一定時間(30~55分)を越えた皿はコンベアー上で自動的に検知され、「処分」されるというものだ。それによって、1日あたりに「処分」される量が、他のチェーン店に比べて何割増しかである、という。そのことを、誇らかに宣伝文句にまで使っていたのである。うちはこんなに「処分」してます!と。
しかし「処分」とは、言うまでもなく「捨てる」ということだ。それとも、何か特別な再利用法とかがあるんだろうか?その点が気になっていたので、ある時レジでお金を払いながら店員に聞いてみた。あれ、「処分」するっていうけどさ、要するに全部捨てちゃうわけ?
店員は笑顔で、「ハイ、そうです。」
「うーん、もったいないねえ。」
「そうですねえ。」
「店の人が後で少しは食べたりしないの?」
「いや、それはないです。」
「じゃほんとに全部捨てちゃうんだ?生ゴミとして?」
「ハイ。」
「ふうん。・・・なんかもったいないよねえ。おいしいだけに。」
「そうですねえ。」
確かに、ネタがしなびたり、シャリが固くなった寿司は見栄えが悪いし、食感も落ちる。でも食べられないほどではないし、食べたら体に悪いということでもない(限度もあるが)。
一定時間を過ぎた寿司は取り除き、廃棄するというやり方は、回転寿司というシステム自体が抱える欠点であって、どのチェーンでもやっていることなのかも知れない(たぶん)。だからその点では、この店だけを責めるわけにはいかない。ただ少なくとも、捨てる量が多いことが美点であるような宣伝はいくらなんでも、という感覚はなかったのだろうか。
食べ物を扱う企業が、食べ物を粗末にしていることをセールス・ポイントにするなんて──という抗議があったせいかどうかは知らないが、このチェーン店の「こんなに捨ててます」アピールは長くは続かず、すぐに広告の文面からも姿を消した。だが、相変わらず「他の店より厳しい基準で、確実に処分している」ことは堂々と強調している。「鮮度」と食の「安全」を結びつける消費者の心理にも、訴えるものがあるんだろう。
そんな店のレジの前に、白い子犬の写真が付いた募金箱が置かれている。飼い主から捨てられたペットを救うための基金だという。つぶらな瞳の子犬たちに付けられたコピーに曰く、
「僕たちを捨てないで!」
なーんか間違っとりゃせんか、と思うのは僕だけだろうか。
もちろん寿司は犬猫がそうであるような意味での「生き物」ではないけれど、ネタの魚もシャリの米も、生き物の命から作ったものである。この大量の命を紡いで作ったものを平気で捨てられる人間が、ペットの命を大切にと呼びかける側にいるというのは、悪趣味な冗談のように感じる。
加えて、捕鯨である。魚の命をこれだけ無駄にできるほど裕福な社会に、どうして太平洋の果てのクジラまでが必要なのか、僕には理解できない。少なくともそれは、普通の人間の生活の論理では説明できないだろう。
捕鯨問題が環境問題であるという場合の「環境」には、どうしたってこの飽食の環境を合わせて考えることも含まれる。自分もまたこの飽食の風景の一部であるというところから、今後も捕鯨問題を考えることを続けていきたい。
寿司はなるべく回転寿司ではなく、(かといって本格的な寿司屋は敷居が高いからそうそう行けないし)折り詰めを買って家で食べるようにしようか。でもあの回転寿司、安いしうまいんだよな、悔しいことに。無駄が多い産業が庶民にリーズナブルって、この構造が既に病んでる・・・・。
それはいいのだけど、今年に入って(だと思うのだが、もっと前からかも知れない)、その新聞広告でも、また店内放送なんかでも、しきりに「鮮度」について強調している。
鮮度を保つ秘訣は何かと言えば、コンピューター管理で、一定時間(30~55分)を越えた皿はコンベアー上で自動的に検知され、「処分」されるというものだ。それによって、1日あたりに「処分」される量が、他のチェーン店に比べて何割増しかである、という。そのことを、誇らかに宣伝文句にまで使っていたのである。うちはこんなに「処分」してます!と。
しかし「処分」とは、言うまでもなく「捨てる」ということだ。それとも、何か特別な再利用法とかがあるんだろうか?その点が気になっていたので、ある時レジでお金を払いながら店員に聞いてみた。あれ、「処分」するっていうけどさ、要するに全部捨てちゃうわけ?
店員は笑顔で、「ハイ、そうです。」
「うーん、もったいないねえ。」
「そうですねえ。」
「店の人が後で少しは食べたりしないの?」
「いや、それはないです。」
「じゃほんとに全部捨てちゃうんだ?生ゴミとして?」
「ハイ。」
「ふうん。・・・なんかもったいないよねえ。おいしいだけに。」
「そうですねえ。」
確かに、ネタがしなびたり、シャリが固くなった寿司は見栄えが悪いし、食感も落ちる。でも食べられないほどではないし、食べたら体に悪いということでもない(限度もあるが)。
一定時間を過ぎた寿司は取り除き、廃棄するというやり方は、回転寿司というシステム自体が抱える欠点であって、どのチェーンでもやっていることなのかも知れない(たぶん)。だからその点では、この店だけを責めるわけにはいかない。ただ少なくとも、捨てる量が多いことが美点であるような宣伝はいくらなんでも、という感覚はなかったのだろうか。
食べ物を扱う企業が、食べ物を粗末にしていることをセールス・ポイントにするなんて──という抗議があったせいかどうかは知らないが、このチェーン店の「こんなに捨ててます」アピールは長くは続かず、すぐに広告の文面からも姿を消した。だが、相変わらず「他の店より厳しい基準で、確実に処分している」ことは堂々と強調している。「鮮度」と食の「安全」を結びつける消費者の心理にも、訴えるものがあるんだろう。
そんな店のレジの前に、白い子犬の写真が付いた募金箱が置かれている。飼い主から捨てられたペットを救うための基金だという。つぶらな瞳の子犬たちに付けられたコピーに曰く、
「僕たちを捨てないで!」
なーんか間違っとりゃせんか、と思うのは僕だけだろうか。
もちろん寿司は犬猫がそうであるような意味での「生き物」ではないけれど、ネタの魚もシャリの米も、生き物の命から作ったものである。この大量の命を紡いで作ったものを平気で捨てられる人間が、ペットの命を大切にと呼びかける側にいるというのは、悪趣味な冗談のように感じる。
加えて、捕鯨である。魚の命をこれだけ無駄にできるほど裕福な社会に、どうして太平洋の果てのクジラまでが必要なのか、僕には理解できない。少なくともそれは、普通の人間の生活の論理では説明できないだろう。
捕鯨問題が環境問題であるという場合の「環境」には、どうしたってこの飽食の環境を合わせて考えることも含まれる。自分もまたこの飽食の風景の一部であるというところから、今後も捕鯨問題を考えることを続けていきたい。
寿司はなるべく回転寿司ではなく、(かといって本格的な寿司屋は敷居が高いからそうそう行けないし)折り詰めを買って家で食べるようにしようか。でもあの回転寿司、安いしうまいんだよな、悔しいことに。無駄が多い産業が庶民にリーズナブルって、この構造が既に病んでる・・・・。
私は一時期、とある有名なチェーン店の飲み屋でアルバイトをしていたことがあったのですが、今回のような「飽食」について感じることが多々ありました。特に宴会料理がそうなのですが、最後の方にご飯ものを出しても、残してお会計されるお客さんが多いんです。そこには、
「お酒をたらふく飲んで腹ぱんぱんの所にヘヴィメタルな飯が来ても食えるわけがない」
という不可避の理由がありますが、戻ってきた残飯を厨房で捨てながら、これだけの飯をお客も私も無駄にしているっていう実感はありました。それでいて高い給料貰えたんだから、変な罪悪感が余計募る。立場上、店やお客に対して何かできるわけでもないですからね。私自身も宴会の席で、もう食べきれないと降参してしまうことも多く、あまり強くは言えないのですが。
お寿司屋が「お客が食べそうなものを満遍なく出す」なら、飲み屋は「酒のお供にとにかく出す」。お客の胃袋まで店が把握することはできず、客からしてみれば皿に乗ってきたりコース料理で出てきたりするもの全部を食い切ることもできない……店がお客に料理を提供する点では便利なものですが、いざ余ったものを見ると記事の末尾の一文が強く認識されます。
基本的には、「僕にとっての捕鯨問題」の根っこの部分を説明したくて書いたような文なんです。本当に今さらな話なんですけど、でも、誰もが思い当たるはずだとも思うんですよね。
それがね、たまの宴会とか、高級料理で値段も高くてめったにないことというなら、まあたまには贅沢もありじゃん、って気がするんです。
でも、むしろこれが日常的なシステムの中にあらかじめ組み込まれた無駄であって、しかもなぜか無駄をした方がコスト・パフォーマンスが高いという、ねじれた現実が存在してる・・・・それが「ねじれ」だと実感できないのが困るんだよな、というか。
これはやっぱ、自滅系のシステムでしょう。だからダウンさせるべきシステム、なんだと思うんですよ・・・・
最近は、回転ならぬ流れ寿司というものがあって、そこを時折利用します。「流れ」のシステムは、客がタッチパネルから好きなネタを選んで注文するというものです。しばらくすると、それがコンベアに乗って流れてきます。常時寿司が回転している回転寿司に比べるとロスが少ないでしょうな。
流れ寿司は初耳です。注文した分だけしか作らない、ということなんですね。考えてみたら、伝統的な寿司屋は元々そうやってるんだし、なんで今までなかったのか不思議です。見た目の華やかさはない代わりに、明らかに食材の節約になるんだから、経費の削減にもなるだろうし、今後一般化しそうな気がしますね。そうなってほしいです。
あと僕が個人的に考えたのは、回転寿司でも、一定時間経過して、今までなら「処分」しちゃうものを、割引の表示をつけてもうしばらく流す──その皿のものは通常の2、3割引にする、なんてシステムがあれば、処分する量を少しは減らせるんじゃないかと。僕みたいな貧乏人はそればっかり狙って食べたりして(笑)。
文句や社会問題を取り上げて、したり顔でぶつぶつ言ってれば自分だけは免罪されると思ってるのかも知れないが、そんなことで世界が良くなりますかね?
本気で問題だと思ってるなら、行動したらどうですか?
一応その会社のホームページにメールは打ったんですよ。顧客の意見として。なしのつぶてですけどね。僕みたいに考える人は、そう多くないみたいです。だからブログでも何でも、意見を書けるとこには書いとけば、少しは世論形成につながるんじゃないかと期待して書いたまでなんですが。
ビジネス云々は、自分にはセンスがないんで無理だと思います。