弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

『憲法は、政府に対する命令である。』―4~公的絶望状態

2006年12月19日 | 書籍

 だいぶ間が開いてしまったが、ラミス氏の『憲法は、政府に対する命令である。』から、今回は僕が特に感銘を受けた、ある部分を紹介したい。
 かつて氏は「無力感を感じるなら民主主義ではない」という至言を述べた。そのことをあらためて掘り下げたような文章がある。第9章「政治活動は市民の義務である」から、少し長めに引用する(太字はレイランダー)。

 ・・・・普段、社会は「公的あきらめ」または「公的絶望状態」にある。それぞれの個人は社会や政治で変えたいことがたくさんあっても、一人ではできず、他の人たちが一緒に動かないと無理だとわかり、その結果、自分も動かなくなる。そして、そのような無力感自体が、民衆は無力だ、という事実となる。このように、民衆は無力だ、ということが事実になると、あきらめることは偏った気分ではなく、ちゃんと事実を客観的につかんでいる感覚となる
 これは「悪循環」そのものである。この「公的絶望状態」からその因果関係の循環が逆方向に動き始める「公的希望状態」への切り換えはどのように起こるだろうか。
 何らかの理由で人びとが活動し始めると、他の人はそれを見て、民衆の力には効果があるかもしれない、という希望が湧いてくる。そして、自分も動き出す。このようにして多くの人が動き出すと、「民衆の力」は根拠のない夢から、現実的なパワーになってくる。
 そういう意味で、政治活動は、すでに意識していた可能性を求めるだけではなく、活動自身が新しい可能性を生む、ということにある。・・・・
                          
 なんだ、当たり前のことじゃんか、とあっさり言える人には、何かもっと意外な真実でもあると思ってたの?と聞き返したい。僕は「公的絶望状態」にいまだどっぷり浸かっている。救いと言えば、その状態を自覚していることくらいかもしれない。
 もっとも、「公的絶望状態」とは無縁でいられる道もある。体制に逆らわず、長いものに巻かれて生きる道だ。そういう人にとっては、社会や政治で変えたいことなどあるわけがない。というより、政府が変えたいこと=自分の変えたいことだから、自分では何もしないでいい。大船に乗ったつもりで、青臭いサヨクどもの無様な抵抗をせせら笑っていればいい。もちろん、だからといってその人の人生がバラ色であるかどうかは知らないが。
 一方で、僕がこの部分を引用したのは、政治活動に打ち込む人、参加する人をただ賛美する、前向きだと評価するためではない。そうした無垢な「前向きさ」で事態が変わるほど、世の中は甘くない。ただ、やってみなくちゃわからないことというのがあるのだ。たとえ一つの政治活動が敗北という結果しかもたらさなかったとしても、敗北から学べるのは実際に闘った人だけ、それは真実である。

 僕自身は、今回の教育基本法の改悪を阻止できなかったことについて、さほど<敗北>を実感していない。闘い抜いたという実感に乏しいから、負けたという実感もないのだろう。あるいは「負けた」というならそもそも前回総選挙で大敗を喫しているのであって、その敗北からスタートしてどこまで盛り返せるか・抵抗できるかという運動だったという面が(少なくとも僕の中では)大きい。負けたといっても、何か今さらな感じが拭えない。
 だからといって、内なる怒りが治まったとか冷めたというわけはない。むしろ倍加している。ただ、「負けた」から怒っているというのではない。負けるのはほぼ知っていても、自分が戻っていく先が相変わらずの「公的絶望状態」でしかないことに腹が立っているのだ。
 そんな僕ですら、実際に集会や国会前行動に参加してみて、見えてきたものがある。別にこの手の行動に参加するのは初めてではないし、今回の教基法関連のアクションに限って特別なものが見えたというわけでもないのだが、ともかくインターネットのヴァーチャルな空間だけでは知りえない情報が、そこにはあった。それをインターネットという武器に還元していく必要がある。でなければネットでの闘いそれ自体がヴァーチャルなものと化してしまう。
 そうした意味で、ペガサス・ブログ12月17日のエントリーは必読だと思う。


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