危険性を増す地震列島
ダンディ・ハリマオ氏のカレイド・スコープの12月18日の記事「琵琶湖周辺で大きな地震の準備がされている」を読むと、活動期に入った弧状列島において、原発を稼働することがいかに危険かがわかる。一部引用してみよう。
「非常に不気味なのは、新潟・神戸歪集中帯の広いゾーンではなく、この帯状の中心線上で、この数年、多くの地震が起こっており、琵琶湖の高島沖の湖底、遠く離れた兵庫県猪名川町にある井戸も、この線上にぴったり乗っていることです。そして、福井県の高浜原発、大飯原発から約50km、敦賀原発、美浜原発、もんじゅ、ふげんからは約30kmしか離れていないということです(略)。これらの原発のうち、稼動しているのは大飯原発の3号機、4号機だけです(略)。その他の原発は停止してはいるものの、活断層の真上にある敦賀原発は、欠陥原子炉と言われている改良前のマークⅠ型原子炉です(略)。また、停止しているとはいっても、核廃棄物の行き場がなく、使用済み燃料プールには使用済み燃料がぎっしり詰まっているはずですから、電源喪失したときには破滅的な事態に至るでしょう(略)。何よりも心配なのが、新潟-神戸の歪みベルト地帯で起こる地震が、プレート型地震ではなく、内陸直下型地震であるということです(略)。福島第一原発とは違った形の放射能災害が起こるのです。それは断層がずれる-「原子炉本体が壊れ、すぐに放射性物質が放出されるので逃げる時間がほとんどない」ということです(略)。その後で、使用済み燃料プールが冷却できずに放射能火災を起こすのです」
粉砕された脱原発諸派
にもかかわらず、今回の選挙によって、明確に反原発を掲げた派諸政党は見事に砕け散った。共産党は9議席が8議席と1議席減にとどまったが、日本未来の党は選挙前の62議席がわずか9議席となり、「廃炉こそ新しい公共事業」と唱えた新党日本は消え去り、新党大地も3議席から1議席となった。
個々に見ても反原発を唱えて民主党を離脱した平智之氏は議席を失い、山本太郎氏は石原伸晃氏に敗れた。また、「泊原発再稼働に反対します。日本の脱原発はロシアから北海道に天然ガスのパイプラインを引けば可能です。パイプラインを引けば、北海道にLNG関連産業を誘致出来ます。ロシアとの友好でこれは短期的に可能であり、私自身すぐにでもロシアとこの交渉を進めることが出来ます」とユニークな代替え政策を提唱していた苫米地英人氏も議席を確保できなかった。あのフィデル・カストロ・ジュニアと対談すらしているというのにだ。
僅差が増幅される複雑系のシステム効果を持つ小選挙区制の特徴をさておいても、「憲法9条を守りさえば平和は守れる」という戦後護憲左翼の主張は、今回の選挙で大きく後退した。わずか比例代表で1議席、小選挙区では沖縄で1議席しか確保できなかった社民党の凋落ひとつとってもそれがわかる。沖縄には「ぬちどうたから(命こそが宝)」という言葉がある。第二次世界大戦で多くの住民が亡くなった経験から得た貴重な言葉だという。だが、このメッセージは本土には届かなかった。
37年ぶりの圧倒的都民の信託
未来、共産、社民が支持し、格差是正を訴えた宇都宮健児氏も猪瀬直樹氏に完敗した。なおかつ、猪瀬氏は、433万8936票という都知事選史上最多の都民の支持を受け、あの美濃部スマイルで鳴らした美濃部亮吉氏の361万5299票(1971年)を遥かに凌駕した。1975年の都知事選では、美濃部氏は268万8566票を得て、新人、石原慎太郎氏の挑戦をなんとか退けるが、その差はわずか35万2207票でしかなかった。だが、今回は違う。猪瀬氏は挑戦者、宇都宮健児氏の 96万8960票に対して、 336万9976票と10倍もの差をつけたのだ。
「未来ら脱原発諸派の敗北は無党派層が選挙に行かなかったからだ」という主張がある。たしかに全国的に見れば投票率は59.32%と戦後最低ではあった。急に解散を決め込んだ首相が悪いという説もある。だが、石原元都知事の突然の辞任で、いきなり選挙を行うこととなった意味では東京都も同じだった。そして、都知事選の投票率は62.60%もあった。都知事選で60%を越す投票がなされたのは、実にあの美濃部氏と石原氏の大バトルが繰り広げられた1975年以来のことだ。それだけ、都民の関心が高かった、と言えるだろう。
1991年には剛腕でならす自民党幹事長が4選をめざす鈴木都知事を推薦せずに対立候補を擁立した。鈴木シンパの粕谷茂氏ら自民党東京都連は、中央の一方的な決定に猛反発し「東京の知事は我々東京の人間が決めるんです。岩手県かどっかから出てきたような(小沢一郎自民党幹事長)に決められたんじゃ困る」と名セリフを残し、鈴木都知事を勝利に導いた。故郷がないかのように思われがちな都民も珍しくパトリアティズム(郷土愛)に燃えたのだ。だが、この時の投票率も52%弱にすぎず、鈴木俊一氏が得たのは229万2846票と今回の猪瀬新知事の半分でしかない。
なんという完璧な勝利であろう。37年ぶりの6割を越す都民の強い関心を得て、なおかつ、圧倒的な勝利を収めたのだ。都知事選を見る限り、「いのちは大切」というメッセージよりも、高まる中国や韓国(我が日本の象徴たる天皇陛下に無礼を働いた反日的な李明博元大統領を継承する保守系の与党・セヌリ党の朴槿恵が勝利したではないか!)・北朝鮮の脅威に対して強くナショナリズムを訴えた石原氏の主張の方が強く都民の琴線に響いたということがわかる。
国防上の核シュミレーションと脱原発の必要性
となれば、ウヨの論理から原発のあり方を考えるしかない。「キューバはサヨで愛に溢れているから子どもたちを大切するために脱原発したの」などという軟弱サヨの賞味期限が切れた、あきられちゃった論理は打ち捨てて、原発のあるべき論を考え、前進していかなけばならない。
ウヨとなれば石原慎太郎氏であろう。氏は2012年12月12日のNEWSポストセブンの記事、「核武装論者と叩かれても核保有の想定すべき」で、櫻井よしこ氏の「中国の存在が現実の脅威として迫る中で、国を守るためには物理的な「力」が必要です。海軍力を中心に軍事力を増強するのはもちろんのこと、私は核保有の議論もタブー視すべきではないと思っています」との発言に対して「日本は核についてちょっと何か言うと核武装論者だと叩かれる。でも、最低限、核保有のシミュレーションはやるべきだと思う」と語っている。
ナショナリストとして、筆者はまったく同感だ。もし、中国や北朝鮮、韓国の反日の脅威が迫っているとするならば、「9条さえ守っていれば日本は攻撃されない」という純情サヨの世間知らずの幻想を打ち捨て、まさに核攻撃された場合のシミュレーションを行い、直ちにこの日本の弱点を抹消すべきなのだ。
で、鈴木傾城氏のブログ、Darknessの2012年12月10日の記事「列島を取り囲む原発。通常兵器で攻撃されても日本は壊滅する」を是非読んでいただきたい。これは極めて示唆的なリポートである。
「原発がテロの標的になったらどうなるだろうか。その時点で日本は核爆弾が落とされたのと同じになる。通常兵器で原発を狙われても、それで『核ミサイルを撃ち込まれたのと同じ』事態になる(略)。狭い日本を取り囲むように、四国にも九州にも北海道にも、あたかも日本全土、どこでも標的にできるかのようにそれは建っている(略)。あたかも、日本中どこに逃げても、日本人が安心できないように、わざと散りばめたかのようだ」
氏は続ける。
「本当に日本の国防を考えるのであれば、むやみやたらに原発を作るのは逆に致命傷になる(略)。右派の人間は、『原発は核兵器に転用できる』『核兵器の保有が国家防衛になる』と考える(略)。だが、本当に日本の国防を考えるのであれば順番があって、(1)国防上の弱点となる原発を一刻も早く廃止し、(2)自衛隊をきちんと日本国軍に昇格させ、(3)通常兵器を増やし、(4)売国政治家を排除する、というのが本筋だ」
ほぼ同じことをユニークな思想家、笠井潔氏も『8・15と3・11 戦後史の死角』(2012)NHK出版新書で指摘し、歴史的に見れば冷戦以降、原発を持つことは無意味でありむしろ最大の脅威であると分析する。
「潜在的核保有の論理がリアリティをもてたのは冷戦期にすぎない(P156)。だが、9・11を契機としてテロと戦争が区別できない世界内戦へと突入した(P136)。北朝鮮の旧式のミグ戦闘機による自爆攻撃ひとつを考えても、日本全国の海岸に軒を連ねる原発は最大の軍事的脅威となっている(P157)。ソ連崩壊以降の世界構造の変化を的確に捉えれば、潜在的核保有の国策は放棄され、原子力ムラは解体されるであろう(P156)。だが、日本の支配層は、父ブッシュの国際新秩序構想、湾岸戦争の意味、9・11テロの意味を理解できていない(P133)。日本イデオロギーは歴史意識が欠如しているため、最悪の事態を想定して準備することが原理的にできない(P132)」
ウヨとして著名な小林よしのり氏も『ゴーマニズム宣言・脱原発論』(2012)小学館でP296~300で次のように描いている。
「原発が核兵器に準ずるものだとしても、それは敵国を威嚇、攻撃するためのものには全然なっていない。実態は自国に甚大な被害を及ぼしかねない『潜在的自爆核兵器』とも呼ぶべき存在である」(略)「日本では原発の警備を非武装の民間警備会社が担当するという牧歌的な状況だった」(略)「テロリストが電源設備や取水ポンプなど、原発の冷却系統を破壊してしまえば、もうオシマイである。つまり、原発があるからこそ安全保障が脅かされているのである」(略)「世界中に原発が存在する現状では日本はわざわざ核武装する必要すらないとも言える。敵国の原発を破壊すれば、核攻撃と同等の被害を与えることができるではないか!」(略)「安全保障を考えるなら、日本は脱原発をし、一方で敵国の原発を攻撃する能力を備えればよいのである」
小林よしのり氏の後半の主張「安全保障を考えるなら、日本は脱原発をし、一方で敵国の原発を攻撃する能力を備えればよいのである」という発言には、純粋サヨは眉をひそめるだろう。だが、リアリティがある。
核兵器よりもソフトな兵器の怖さ
例えば、佐藤優氏は『国家と神とマルクス』(2007)太陽企画出版で、このように指摘する。
「東西冷戦が終わった以上、親米保守が成立する基盤はなく、日本の保守は親日保守しかありえない(P132)」
そして、米国が我が旧帝国陸軍の秘密兵器をいかに恐れ、嘘の物語を作ったかについてこう語る。
「風船爆弾は1000個近くが米国に着いており、生物・化学兵器が付いていれば大変な危害が及ぶことから、米国はこれを恐れ、2個しかないとした(P130)」
風船爆弾とは、「ふ号兵器」との秘匿名称で呼ばれ、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器である。ただ和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、あとは、大気高層のジェット気流、すなわち、地球の恵みだけで米国本土を攻撃できるまことにエコロジー的な兵器である(1)。現時点ではリアリティはないだろうが、戦前の我が陸海軍の発想が大和やゼロ戦というハード路線だけではなかったことを知るうえで手掛かりにはなる。
ということでソフト路線の論理を掘り下げてみよう。
佐藤優氏は陸軍中野学校ができた経緯をこう説明する。
「初代校長、秋草俊は対ロ情報の神と言われていたが、1930年代にソ連にNKVD(内務人民委員部)ができてから、インテリジェンス活動ができなくなった。そこで、秋草は陸軍学校を創設した。日本陸軍は、諜報、防諜、宣伝、謀略からなるインテリジェンスを『秘密戦』と呼んだが、よい熟語だ(略)。そして、拓殖大学はインテリジェンスのプロ要請のための教育機関として大川周明が深くかかわっていた(P115)」
ここで、いささか話を脱線させる。
日本人と東洋人とは区別が付かない。日本人が中国人である、韓国人であると自称してもわからないし、逆も真だ。陸軍士官学校出身の作家、山中峯太郎の名著『亜細亜の曙』(1932)では、中国人に化けた主人公の剣侠児・本郷義昭が敵国米国の秘密装置によって頭脳の優秀性を検査され、中国人にはありえない頭脳の明晰さから日本人である正体が暴露されてしまうという、笑えるシーンが登場するのだが、現実には無理だ。
例えば、元参議院議員、山口淑子氏は、戦前には李香蘭(Lǐ Xiānglán)の芸名で、満洲映畫協會の専属女優として日本映画に多く出演し人気を得ていた。そして、戦中には中国人記者から「あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。なぜあのような日本映画に出演したのですか。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか」と問われている。そして、終戦後には祖国を裏切った売国奴(漢奸)として軍事裁判にかけられた。誰も山口氏を日本人とは見抜けなかったのだ。この死刑を救ったのが、奉天時代の幼なじみのロシア人、リューバである。リューバの働きで日本国籍が証明され、国外追放処分となったのだ(1)。戦前の日本人の国際性の潜在力をうかがわせる物語だ。
私が何が言いたいかわかるだろうか。小林よしのり氏が「一方で敵国の原発を攻撃する能力を備えればよいのである」というようなアイデアは、とっくに敵国が思いついているということだ。山口淑子氏が中国人に化けていた如く、流暢な日本語を話し、日本文化にも精通して日本人になりすましている某国のテロリストが国内の諸原発に技術者として勤務していて、有事の場合に電源喪失を引き起こせば、ミサイルを撃ち込まれなくても日本は核攻撃を受けたのと同じ大打撃を受けるということだ。そんなことは被害妄想だと思われるかもしれない。だが、ヤクザを通じて純正愛国日本人作業員が確保できなくなれば、経費節減のため、平気で外国人労働者に原発の運営作業をまかせかねないこの国のことだ。これほど危険極まりないことはない。国防は経済性で図ってはならない。となれば、どれほど、原発が「低コスト」であったとしても、国防の論理からすれば、より軍事的防衛力の高い電力にシフトしなければならないではないか。
民兵によるゲリラ戦で米国と対峙するキューバ
軍事の話を続ける。
拙著「200万都市が有機野菜で自給できるわけ」(2002)築地書館の『コラム地方分権と軍』(P313~314)では、こう書いたことがある。
「キューバの(地方分権化に向けた改革)には、軍が深く関係している。キューバの改革は1984年の米国のグレナダ侵攻後から国防体制の見直しという形でスタートしている(略)。キューバは米国の軍事的侵攻の可能性がきわめて高いものとして深刻に受け止めざるを得なかった。そして、ソ連や東欧のように国民のごく一部の正規軍だけに依存した国防体制ではとうてい国は守りきれないという結論に達する(略)。キューバは四方を海に囲まれた島国である。四方八方から攻め込まれたらとうてい守りきれない。ならば、どこに上陸されても民兵を中心にゲリラ戦を展開するという気概を見せたのである(略)。300万の民兵が組織化され、米国が侵攻した場合には、どの場所でも戦闘が行えるよう、工場、農場、大学など全土にわたって武器を配備した(略)。そして、こういう分権的な自衛団が作られた結果、その後各地を襲ったハリケーンなどの災害でも市民が自発的に自衛活動を行い、被害を最小限を抑えるということにつながった」
共著「防災大国キューバに世界が注目するわけ」(2011)築地書館に登場してもらった、大学で防災学の教鞭を取るエベリオ・ラミレス・キンデラン教授の発言もこれに呼応して次のようなものとなっている。
「今も危機的状況(米国の軍事侵攻)にさらされているため、48時間では200万人、72時間では700万人の民兵を動員できる制度を整えています。例え米国が勝っても大きな犠牲がでる。キューバが米国から侵略されずにきたのは、そのためです」(P45~46)
国防としての脱原発と送電分離のレジリアンス
キューバは2006年にエネルギー革命に取組み、大規模火力発電所から、小規模分散型の発電所によるエネルギー分散化政策に着手した。共著「防災大国キューバに世界が注目するわけ」のコラム3『エネルギー革命宣言』では、キューバが脱原発をしたことについてもふれた。フィデル・カストロは、2006年5月のメーデーでこう述べている。
「もし、今、キューバによってなされている努力が、世界のそれ以外のすべての国においても模倣されるならば、新たな原発建設に15年のモラトリアムが宣言できよう。何も我々を止められない。祖国か死か、我々は勝利する!」(P232)
だが、このフィデルの脱原発とエネルギー分散化の背景には、単に経済的効率性やハリケーン被害からの復旧力を高めるという現実的な選択肢だけではなく、国防上の配慮があったのではないだろうか、ともかんぐりたくなる。それというのも、キューバで自然エネルギーの開発普及に取り組むNGO、クーバ・ソラールのルイス・べリス(Luis Bérriz)代表は、2006年から始まったキューバの「エネルギー革命」のひとつの柱として、全域に多数の発電所を設置する「分散型の発電」の国防上のメリットをあげているからだ。
「別のメリットは戦争にあります。キューバの長年の敵、米国は、以前には6個か7個の爆撃で、国家送電システムを殺すことができたでしょう。ですが、もうそうではありません。我々には数千もの発電所があります。(発電システムを麻痺させるために彼らは)何千もの爆弾を送らなければならないのです」(2)
そう。観念的な言葉遊びとしてのナショナリズムではなく、本気で世界最大の軍事帝国と対峙するキューバは、国土が爆撃されることを想定したうえで、エネルギーの分散化を図っているのだ。そこには、今回の選挙で完敗した未来や共産、民主といった軟弱サヨの「いのちは大切なのー」などという生易しい路線はない。自然エネルギーNGOといっても、軍事上の国防がタブー視されるどころか、優先されているのだ。
平時でこそ「子どもたちは幸せになるために産まれてくる」というスローガンを抱えているキューバだ。だが、それはキューバの一面にすぎない。同時に国家総動員体制を整え、有事には1100万国民のうち64%の700万人が命を落としたとしても、社会主義キューバの国家システム、すなわち、「國体」を護持する気概を見せている。まさに「國体」を護持するためには、1100万国民が玉砕してでも米国と刺し違えるという覚悟が常にあるのだ。そして、その上でのエネルギー分散化、レジリアンス強化なのだ。これこそ、京都大学の藤井聡教授の国土強靭化をさらに進めた国家非常時強靭化計画なのではあるまいか。
そして、ラテンアメリカには、3・11以降、原発推進計画を白紙に戻し、ラテンアメリカ全土に脱原発を呼び掛けているフィデルとは別の大統領がいる。もちろん、サヨだが、軟弱サヨではなく、反米主義を掲げ真っ向から超大国米国に対峙している超ナショナリストである(続)。
【引用文献】
(1) ウィキペディア
(2) Daniela Estrada, "Energy is an Instrument of Power", Inter Press Service, Dec 13 , 2009.