大阪のまちづくりぶろぐ

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堺市にある『擁護璽』(ようごじ)をご存知ですか?

2011年07月19日 | その他
大阪には1857年の安政南海地震による津波を記録した石碑が2つあります。

一つはかつて紹介した大正橋の東詰に建碑されている『大地震両川口津波記石碑』です。

(大地震両川口津浪記石碑)

この石碑は安政南海地震が発生した際、過去の教訓が生かされずに多くの人が小舟に乗って避難したため、津波による犠牲者がたくさんいたことを伝え、犠牲になった人々を供養するとともに、次に地震が発生して津波がやってきた際には過去の災害から得た教訓を生かすように戒めているものです。(詳細は大地震両川口津浪記石碑をご覧ください)

もう一つの石碑は堺市の大浜公園内にある『擁護璽』(ようごじ)です。

(大浜公園)

(擁護璽)

『擁護璽』には次の様なことが書かれています。(要約)
嘉永7年(安政元年)の6月14日に激しい地震があった。そして、11月4日と5日にも大きな地震が発生した。5日の地震では津波が発生して川筋に流れ込み、多くの船が流されてあちこちに当たって橋が八つも崩れ落ちるとともに船も大きく破損した。
地震と津波で家が潰れたり、土蔵が傾いたりしたものも多かったが、人々は神社の広庭に避難したため、怪我をしたり死んだりした人がなかったのは大変な幸いである。
他所の入江や川筋では小舟に乗って避難した人がいたため、命を落とした人が数知れないということである。
どんなことがあっても、地震が強い時には船に乗って川筋に避難してはならない。昔にあった宝永地震でも地震が強く、津波が発生した。その時にも、船で避難して命を失うものが多かったと聞いている。この例からも明らかなように、地震が強いときは、津波があることを知るべきである。堺の人々が無事であったのは有り難いことなので、産土神の神明宮、三村宮、天満宮にその喜びの幣を捧げ、後の世も災いが無いことを祈って賜った璽(おしで)をここに祭る。

(擁護璽の碑文)

『大地震両川口津浪記』が犠牲者の供養と後世への戒めを目的としているのに対して、『擁護璽』は堺の人々が無事であったことに対する感謝と今後の加護を目的としており、この二つの石碑は建碑された目的は異なります。しかし、ともに津波による被害から得た教訓として、地震が発生した際には津波がやってくること、川に避難してはならないことを後世に伝えています。

『大地震両川口津浪記』と『擁護璽』を比較し、堺では宝永地震での津波から得た教訓が生かされており、安政南海地震では人々が神社の広庭に避難したため、怪我人や死者がなかったと思われる方がいらっしゃるかもしれません。
しかし、色々な資料を調べてみると、大坂ほど多くはありませんが、船で避難して亡くなった方々もおられたという記録があるようです。船で避難した人が少なかったのは、大坂ほど水路が張り巡らされていなかったからではないかとも…。(参考文献:堺市・『擁護璽』,神から賜った璽(おしで) 長尾武)

どちらにしてもこの2つの石碑からは、過去の教訓を活かすことの大切さとともに、それを後世に伝えて行くことの難しさを感じます。
大きな被害があった直後は世間での関心も高く、さほど気にかけなくても色々な情報が入ってくることもあり、災害に対する備えを行う人も増えますが、時間が経過するとそういったことが難しくなります。
身近な場所に石碑を作って忘れないようにすることは大変難しいことですが、地域で行われている防災訓練に参加するなど、防災意識を高める機会は身近にあると思うので是非活用してください。災害から身を守るためには、地域のコミュニティー力や個人の防災意識が重要な要素になると思います。

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