エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

父の思い出(4)― “雪中のタケノコ”、“寒中のうなぎ”

2016年11月01日 | 雑感

 2016年11月1日

 

                                     

 

                                    

 

 “雪中のタケノコ”、とは、中国の故事で、中国二十四孝の一人、呉の孟宗が、病にふせっている母のために、冬、竹林に入って、好物の筍を得てきた、  つまり、親孝行もさることながら、非常に得難いものを努力して得ることを意味するらしい。

 

父は鹿児島の川内市から川内川にそって30キロほどさかのぼった宮之城町(今はさつま町)のある寒村に生まれた。 

 昔の宮之城、それは今から考えればものすごい田舎だったが、ランプ生活をしていた子供のころの父にとっては、ほんの5キロくらい先のその町はまるで “みやこ” のようなはなやかさに見えたという。

  

明治維新や西南戦争を経験した人が沢山いて、その余波が残っている時代に長男として生まれた父は、極端に大事にされた。

昔の長男というのは権利、義務、一家にかぶさる負債への責任、いずれも大したものだったが、鹿児島は特にそれがきつかった。

 父の父親は、30才のころから眼が見えにくくなって、青雲の志の道を閉ざされ、長男である父に最大の期待をかけ、大切にした。

しかしながらそのことは、結局のところ難しいことはできるだけ回避して他人にまかせるという父の本来的性格を助長しただけだった。

残りの父の兄弟たちはみなたくましく育ち、後で皆羽振りよく社会的にも活躍した。

 

鹿児島の高校で寮生活をしていた大事な長男のために、親に云われて村中をまわって、いい卵を集めてくるのは私の好きな気のいい四男叔父だった。

 叔父さんはその卵集めの苦労を、後年楽しそうに私に語った、

 卵の黄身の大きさと質をランプの灯にすかして見極める道具があって、それを持って村中をまわったと。

 

 作家の“ねじめ正一”さんの実家が乾物屋で、子供のころ店番をしていた。

あるとき卵をかざしてそのよし悪しを見ている感じのよくない変な客がいたが、それは俳優の伊藤雄之助だった、と書いている。

うろおぼえで間違っていたら、ねじめさん、申し訳ありません。 

 

さて、父親は、この大事な長男のために川内川の猟師に、ウナギを取ってくるように度々頼んでいた。夏でも冬でも関係ない。 冬のウナギはおいしいが獲るのは大変だったらしい。

叔父が云うには、

 「川内川の漁師はバカじゃ、夏にとっておいて、それを生かせておいて、云われた冬に、獲ってきました、といえばいいんじゃ。まったく”雪中のタケノコ“よ」

たしかに、そのとおりだ。しかし昔も今もかわらず誠実と律儀は人間の基本だ。

 

ところで、叔父が集めてきた貴重な卵、バカな川内川の漁師が獲ってきた “寒中のウナギ”、その他が父のもとに届けられたられたとき、 「それ来た!と仲間の寮生が待ち構えて、ほどんど彼らの腹におさまった」 と父は懐かしそうに語っていた。