2016年12月8日
ブログ村から1年前の今頃あたりに投稿した文についての感想を書いてみないかとの定例のメールが入った。時間的余裕がないので、昨年のブログで間に合わせる。
以下は、昨年のブログだ。
2015年12月7日
京都上京の千本釈迦堂で年末に無病息災を願って“大根炊きが振舞われる”。
その大根煮を食べると中風除け・厄除けになるらしい。
毎年その記事が朝日新聞の市民版に出るが、ごく最近まで、何十年はオーバーとしてもそう思うほどながい間、“大根炊きがふるまわれる”という表現が使われていた。
しかし“ふるまわれる”には1000円が必要だ。この“ふるまう”という表現に前から私はいらいらしていた。
「ふるまうというなら無料でやりなさい、しかも大根二切れで1000円は法外だ」
我々が行く飲み屋ならK子さんがおでんの大なべから大根二切れをとってくれてカラシときざみネギを添え、さらに熱燗一本がついて1000円でおつりがくる。楽しい会話をしてくれるという点ではK子さんの大根炊きのほうがご利益がある。
いずれにしても“ふるまう”というおかしげな表現を使うな、というのが私の意見だ。
2年前の12月7日の朝日朝刊に、大根炊きの記事が写真入りで出た。
近所のおばさんだろうか、二人で鍋から客に大根が入ったお椀をわたしている。
以下、新聞記事の概要だ。
京都市上京区の千本釈迦堂(大報恩寺)で、7日にお供えの大根を炊いて無病息災を祈る「大根だき」が行われた。
釈迦が悟りを開いた日にちなんで鎌倉時代に当寺の住職が大根に釈迦の名を梵字で書いて厄よけとしたのが始まり。大根5千本を用意して昆布だしとしょうゆで炊き、参拝客に振る舞った。8日も朝10時から千円で授ける。
これを読んだすぐあとで、この問題について話していた友人のMからスカイプが入った。大根炊きの記事を見たので連絡してきたという。
写真を見ると大根だけではなくて油揚げも入っているから大根だけよりはましだ。しかし参拝客に差し出されたお椀の中の大根と油揚げの量をみると、やはり1000円は高すぎる。記事には5千本の大根としか書いていないが、Mが調べたネットでは、一万五千食という。大根の値段を差し引いても、たった二日でものすごい利益だ。
ということで、我々二人の感想は、「えらいこっちゃな!」
「食べている人が納得しているから、“ふるまう”でも、まあ、ええのかな」ということにはなったが、記事の最後の“授ける”という文句に関しては、二人とも苦笑するより仕方なかった。
ところで、
今日、釈迦堂の大根炊きの記事が同じ朝日新聞の夕刊にあった。そこにはもはや“ふるまう”という言葉はない。
「染みるぬくもり」と題された記事、原文のまま。
二十四節気で雪が降り積もるとされる「大雪」の7日、京都市上京区の「千本釈迦堂」(大報恩寺)で、お供えの大根を炊いて無病息災を願う「大根だき」が始まった。直系1メートルほどの大鍋で、輪切りにされた大根と油揚げが、醤油と昆布だしでじっくりと焚かれた。参拝者らは湯気の立つ熱々の大根をほおばり、体をあたためていた。
8日も午前10時から1杯千円で提供され、2日間で約4千本の大根を炊く。
これでまともな文章になった。私のフラストレーションも解消だ。
これが、去年の今頃の私のブログだった。
さて、一昨日の朝日新聞の記事だ。そのまま転載する。
「無病息災 ハフハフ」
二十四節気の一つ、「大雪(注:)大雪と呼ぶらしい」の7日、京都市上京区の千本釈迦堂(大報恩寺)で、お供えの大根を炊いて無病息災を願う「大根(だいこ)だき」が始まった。釈迦が悟りを開いたことを祝う法要「成道会(注:じょうどうえ)」(8日)にちなむ行事。鎌倉時代、寺の住職が大根の切り口に釈迦の名を梵字で書いて厄除けとしたのが始まりとされる。参拝者は、直径1メートルほどの大なべでじっくり焚かれた大根と油揚げをほおばり、体を温めた。8日も午前10時から一杯千円で提供される。
ということで、ここ2,3年になって、やっと自分の頭で考えた文を作れる記者が朝日新聞にも生まれて来たんだな、というのが私の感想だ。
この文章、“私のちまちました揚げ足取りの性格の悪さ”とは思うが、あの記事には結構長年腹が立っていたのだ。
もっと大事な、各新聞の政治姿勢についてはなにも言えませんから言わない。。