遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

昆虫翁、名和靖『楷書 昆虫桜』

2023年10月01日 | 文人書画

今回の品は、在野の昆虫学者、名和靖の書です。

33.5㎝x68.4㎝(捲り)。昭和17-18年。

名和靖、最晩年の書です。

【名和靖】(なわやすし、安政四(1857)ー昭和元(1926)) 岐阜県生。明治、大正の昆虫学者。ギフチョウの再発見、研究で知られる。自ら昆虫翁と称し、明治29年、名和昆虫研究所を設立、翌年から月刊誌『昆虫世界』を昭和21年まで50年間刊行。昆虫生態学の草分的研究と啓蒙を行った。また、昆虫研究の社会的意義にめざめ、農作物害虫の駆除、虫害予防法などの研究にも力を注いだ。

 

名和靖の書は、稀品といえます。

印譜の「観音力」や

「名和昆虫翁源靖之印」も興味深いです。

先日終了した、NHK朝ドラマ『らんまん』の中で、明治の大野人、南方熊楠が登場しました。実際の人物は出てこず、神社合祀による杜の伐採禁止を訴える彼の手紙に、右往左往する帝大の様子などによって、熊楠という人間の巨大さが描かれていました。もちろん、牧野富太郎をモデルとした槙野万太郎は、植物保護の立場から日本国の政策に疑を呈して、帝大を辞したのでした。

植物学者牧野富太郎と昆虫翁名和靖は、ともに、在野の学者でした。

漂泊の俳人、種田山頭火はつぎのような言葉を残しています。

「正岡子規は嘗て死んで極楽へ行けるものは日本に二人しかない、名和昆虫翁と清沢満之だと云ったことがある、その意味から我輩はもう二人を追加したい。一人は紀州の南方熊楠翁で一人は半狂堂外骨(宮武外骨)である。」

知の巨人南方熊楠、反骨のジャーナリスト宮武外骨、禁欲の学僧清沢満之とならんで、昆虫翁名和靖が明治の四奇人の一人にランクされているのです。

名和靖は、自力で名和昆虫研究所を設立し、月刊誌「昆虫世界」を50年間、発行しました。

大正5年には、名和昆虫博物館を設立し、現在も標本展示、啓蒙活動がなされています。

岐阜城の金華山の麓、広大な岐阜公園の南端、岐阜市歴史博物館の裏に、名和昆虫博物館はあります。

子供の頃は頻繁に通ったのですが、最近は御無沙汰、久しぶりに訪れました。

内部は、所狭しと昆虫標本が展示されています。独特の臭いと雰囲気が少年時代を呼び覚まします。

向かいには、名和昆虫研究所。

実は、私は昆虫少年でした。

物心ついた時には病気で臥せっていました。幼稚園へ上がるまでは、家にあった牧野植物図鑑を眺める日々。その後、外へ出られるようになり、小学生になると、昆虫を追いかける毎日となりました。昆虫への興味からではなく、小遣いを稼ぐためです。戦後すぐ、子供が金を得る方法など皆無でした。

昆虫翁名和靖は、故玩館近くの出身なのです。生家では、当時、近隣の子供たちから昆虫を買い集めていたのです。おぼろげな記憶をたどると、モンシロチョウ、10匹1円、モンキチョウ2匹1円、アゲハチョウ1匹5円、カブトムシ、クワガタムシ1匹5円ほどでなかったかと思います。おそらく、輸出して、外貨を稼いでいたのでしょう。

とにかく、必死で昆虫を追いかけました。常に結果を出せる秘密の生息場所も確保。おかげで、昆虫の生態にはずいぶん詳しくなりました。買い入れ窓口のオバサンともツーカーの仲に。しかし、上には上があるものです。どうしてもかなわない少年がクラスにいました。

彼の名は、名和〇〇、大変変わった子でした(名和靖生家の集落には名和姓が多い)。後期高齢者になっても、まだ昆虫を追いかけているのか、一度聞いてみたいです(^.^)

 

コメント (6)
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