Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

朝日新聞の自民党広告特オチ事件

2005年12月19日 16時14分38秒 | ニュースコメント
多少旧聞に属して恐縮だが、10月27日の毎日新聞のコラム一筆入魂で、嶌信彦氏は次のように書いた。

ある自民党の幹部は「総選挙当日の小泉首相をあしらった新聞広告を見たか」と聞く。「改革を止めるな。」というキャッチコピーを入れた小泉首相の大きな顔写真を紙面いっぱいに展開した全面、あるいは見開き二ページのカラー広告である。その幹部によると「当日、朝日新聞だけは掲載せず、その分はスポーツ紙などにまわした」というのだ。事前にこのことを知った朝日側はあわてて自民党へ出向いたが、「朝日読者には自民党支持者が少ないという調査結果が出たうえ、予算もなくなってきたので効果的とみられるスポーツ紙を選ぶことにした」として応じなかったという。朝日だけをはずしたのは前代未聞のことだろう。

これに関する言及はネット内では必ずしも多くはなかったが、広告業界の常識からすると驚天動地の事態である。

なにかにつけて横並び意識の強い朝日・読売・毎日の3紙にとって、他2紙に広告が出たのに自分の新聞だけがはずされる事態は、記事で『特オチ』をしたのと同等のお咎めを社内的に甘受させられることになる。
これまで、毎日新聞は部数の低迷からしばしばその憂き目にあってきた。
毎日新聞の広告営業の基本動作は、他紙への広告申込を調べ、もし毎日だけが落ちているなら広告主へ夜討ち朝駆けをかけることだ。

その状況が、よりにもよって選挙最終日の自民党の全ページ広告の扱いを巡り、朝日新聞に起きたのだ。
しかも朝日分の予算はスポーツ紙の出稿に回された。

そもそも選挙広告は新聞社にとってオイシイ広告である。
立候補者は希望する新聞へ広告を掲載することができ、その広告費用は選挙管理委員会が支払う。
新聞広告には。きめ細かな回数割引制度が存在しており、レギュラー広告主の料金は低く抑えられているが、選挙広告は回数割引が適用されないため、正規料金で請求される。
いざ選挙となると広告会社も新聞社の広告局も色めき立つのはこんな理由からだ。

今回、自民党が朝日への掲載を見送ったのは、選挙管理委員会が料金を支払う候補者の広告ではなく、自民党が自分の財布から支払う広告であるので、そこまで高い料金とは思えないが、それでも4000万円程度の広告費は必要であろう。

労せずして手に入ると思っていた4000万円の油揚げを、直前になってスポーツ紙に攫われてしまった朝日新聞広告局の驚愕はいかばかりか、容易に想像が付くというものであろう。
ちなみに、同じ朝日新聞の発行する週刊朝日が武富士から受け取ってしまい、社会的指弾を受けた裏広告費は5000万円だった。

朝日新聞は役員クラスがおっとり刀で自民党に駆けつけたそうである。
NHK問題を巡り、安倍晋三とトラブッた記事の掲載が今年の1月だったから、ここ半年以上朝日と自民党はギクシャクしていたわけである。
もとよりそれが原因だと自民党が朝日に言うはずもない。
予算上の理由と、自民党のターゲットと朝日の読者層にずれがあるとの理由で門前払い。
官邸に駆け込んでも、そもそもスポーツ紙に思いいれが強いのは小泉総理その人だし、飯島秘書官も朝日新聞からスポーツ紙に予算を移すことは予め了承しているため、官邸ルートも効果を奏さない。
なにより、選挙最終日とあり、朝日新聞が泣きつける政治家はすべて選挙区に貼り付いてしまっている。
役員は子どもの遣いでむなしく引き上げざるを得なかった。
こんな経過から朝日新聞は最終日の自民党全ページ広告を特オチしてしまうという屈辱にまみれることになったようだ。

55年体制というアンシャン・レジームは細川政権で崩壊したし、小選挙区制による選挙が中選挙区制とは全く異なるものであることは今回の小泉選挙が証明した。
選挙報道がかつてとは全く異なるのものであるべきということ、政党とマスメディアも新たな関係を構築すべき段階に差し掛かっていること、選挙広告という経済構造もかつてとは変わり始めていることを、早く旧来のメディアには気づいてもらいたいものだ。

『きっこの日記』に見る参加型ジャーナリズム

2005年12月19日 09時01分08秒 | 参加型ジャーナリズム
きっこの日記にイーホームズの藤田社長からメールが送られ、面白い展開になっている。

『きっこの日記』は11月の早い時点から構造計算偽造問題の黒幕として内河所長の存在をいち早くにおわせ、朝倉育英会を介しての政界への波及ルートを暗示していた。
その真偽は定かならぬが、内容・文体ともに読み応えがあり愛読してきた。

この問題は門外漢にはなかなか理解しにくい世界である。
構造計算や建築確認の作業についての知識や、建築業界の事情や人脈について知らないと判断がむずかしい。

おそらく、新聞やテレビなどのジャーナリストも同様だろう。
そこで、この『きっこの日記』や2ちゃんねるなどのCGM(コンシューマ・ジェネレーテッド・メディア)の役割が大きくなってくる。

一方、昔マガジンハウスでアルバイトをしていたことがあるというイーホームズの藤田社長も積極的発言を続けている。
国会の参考人招致でも、自己の立場を積極的に主張し、しゃべりすぎと質問者にさえぎられるほどだし、イーホームズのホームページでも、連続してコメントを発信している。

もし、藤田社長の発言が正しければ、雪印食品を告発した西宮冷蔵の水谷洋一社長と並ぶ公益通報者としての名前を残すことになるだろう。
水谷社長は当時の扇国土交通大臣により、理不尽な処分を受け大きな不利益を被ったが、今回イーホームズも国土交通省により不可解な立ち入り調査を受けている。
武部幹事長の幕引き発言があったし、飯島秘書官が動いているとの噂もある。

既存ジャーナリズムには、これらCGMの情報の検証を行って欲しいものだ、CGMとマスメディアとの連携ができれば、このような専門的知識を必要とする案件の報道クオリティが向上すると思う。




テレビ報道よしっかりしてくれ

2005年11月02日 07時02分34秒 | PR戦略
ガ島通信さんの「自民党の「第2回メルマガ・ブログ作者との懇談会」に行ってきた」によると、ガ島さんの
『小泉劇場は自民党広報本部の演出なのか、マスコミが作り上げたものなのか』の質問に対し、

>世耕議員は『小泉劇場はマスコミが作り上げたもの。小泉さんは天才、特に言葉に関しては、
>ので(広報本部が)触れないし、機嫌が悪くなる。だから入閣できなかったのかな(笑)』
>『(NTT広報の経験から)経済部と政治部は全くやり方が違う。経済部は裏取りをする。
>役員や大株主、監督官庁、取引先、それらに聞いて(事実関係を)固めたうえで、紙面に載せ、スクープにする。
>政界は、杉村(太蔵議員)さんでもニュースになる。新入社員が会社の入り口で話したことがニュースになってしまう。
>いい悪いは別にして、イージーに、相当いい加減に紙面づくりしている。
>それに、政策はテレビがまともに取り上げてくれない。障害者自立支援法案でも…、
>細かな部分は報道してくれないからテレビに頼っていると無理だ。』

自民党(というよりも取材対象の組織)がマスコミを演出なんてできません。
しかし、戦略をたて、それに則って行動することはできます。
その戦略にまんまとのっかってしまったマスコミのレベルの低さこそ問題だと感じています。
特にテレビ。
杉村太蔵くんを名簿に載せてしまった党本部の見識不足こそ批判すべきですし、現行の選挙制度の問題点を明らかにすべきであるにも拘らず、言動や表情が画になる杉村君ばかりを追いかけます。
これに対し自民党のとった広報戦略は、神奈川の参議院補選で川口候補の応援をさせたり、被災地に派遣したりしました。
結果として、杉村君は自民党の「困ったちゃん」から、自民党の広告塔への出世を遂げたのです。
ね、考えてみれば、まんまと戦略に乗せられてしまったテレビのワイドショー報道ってレベル低いでしょ。

井脇ノブ子っていうピンクおばさんがよくブラウン管(って古い表現か!)に登場するのはなんで?
ピンクのコスチュームだからってだけでしょう。
このおばさんの背後にいて今回見事論功行賞で入閣をなしとげた二階俊博氏の戦略のほうをクローズアップして欲しいなぁ。



世耕弘成参議院議員に注目

2005年11月01日 20時24分41秒 | ニュースコメント
今回の小泉選挙大勝の功労者は、小泉総理や党三役クラスは別にして、若手では「一に世耕、2に小池、3・4がなくて5にチルドレン」だと思っている。
今回の自民党の選挙広報戦略の司令塔が世耕弘成参議院議員だったわけで、あきらかに戦略不在の民主党を圧倒していた。

サプライズの目玉かと注目されていたその世耕議員の入閣はなかったが、1日付の人事で、参議院の総務委員会の委員長に就任した。
選挙中も竹中大臣との連携が密接だっただけに、竹中改革の牽引車としての役割を期待したい。

スーパーのおやじが国会議員に

2005年09月13日 09時12分27秒 | ニュースコメント
びっくりした。
安井潤一郎さんが国会議員に当選しちゃった。
東京ブロックの比例代表に名前を貸したら、思わぬ大勝で議席が転がりこんできたもの。
安井さんの本業は、早稲田のスーパー稲毛屋の社長。
親から受け継いだ肉屋を拡大したものだ。

安井さんは、早稲田商店会の会長に押し立てられ、商店街の活性化に取り組むこととなった。
学生の街早稲田は、夏休みに入ると学生が去り、閑古鳥が鳴くようになる。
そこに人を集めようと知恵を絞っていたところ、大学の先生に勧められ、1996年8月に早稲田大学の構内を借りて「エコサマーフェスティバル」という環境イベントを開催する。
このフェスティバルは回を追うごとに内容も充実し、人も集まり、評価も高まっていく。
それと歩調を合わせるように、会長を先頭とした商店街の面々は、環境問題の重要性に目覚めるとともに、コミュニティの大切さに気がつき、楽しくて儲かるまちづくりを目指し始める。

やがて、商店会会長の活動は早稲田の街にとどまらない広がりを持ちはじめる。
昨年の中越地震。商店会会長はさっそく救援活動を始めた。
その発想がユニークだ。例えば床屋ボランティアが被災地に入って散髪サービスをしたら地元の床屋はどうすりゃいいんだ。
大事なことは被災者の自立を助けることだと考えた社長は、自ら被災地の肉屋に自分の店の仕入れの発注を出す。
そしてこの活動への賛同を呼びかけ、大きな輪に育て上げていくのだ。

そんな安井さんの講演を聞いたことがあるが、抜群に面白い。
飾らない下町のおやじそのものの人柄で、その語り口は、噺家そのもの。
腹を抱えて笑ってしまった。
話しの内容は真っ当な江戸っ子の気概に満ちており、沢村貞子や海老名香葉子などの発言に見られる、「おかげさまの精神」「お互いさまの精神」が横溢しており、聞いていて清々しい。

安井さんが代議士として何ができるかはわからない。
仮に無力であろうと、悪いことは金輪際しないこのような市井の親父さんが議席を占めることは、それだけで心楽しいことだ。
もしできるなら、本当の庶民感覚を失わず、肩に力をいれず、早稲田の横丁そのままの気持ちで、街づくりやNPOの風を国会に送り込んで欲しい。


早稲田商店会
早稲田商店会会長 安井潤一郎のブログサイト

御巣鷹山

2005年08月13日 08時34分00秒 | ニュースコメント
85年8月12日に123便墜落事故。
そのときは、まだJALのコンサル業務は受注しておらずピッチの最中で、六本木のレストランで仲間と食事中に123便消息を絶つとの第一報を受けたことを覚えている。

翌年、体質改善のためのCIプロジェクトを受注し、89年まで当時本社のあった丸の内の東京ビルに通った。
伊藤淳二会長、山地進社長、利光松男副社長の時代である。
85年12月には国際線の独占廃止。87年には日本航空株式会社法が廃止となり完全民営化。VIデザインの導入は89年まで待つことになる。

87年3月だっただろうか、伊藤会長辞任後の混乱と停滞のさなかに、プロジェクトの仲間と御巣鷹山に昇った。愛・地球博のチーフプロデューサーとして活躍する福井昌平氏もその中にいたことを覚えている。
既に整備されていた上野村の駐車場から山に入ると、普段鍛えていない身にはかなりきつい山道である。
ちょうど体がへばっていたところで突然視界が開け谷の向こうに事故現場が広がる。
「見返り峠」と呼ばれ、帰路に遺族が来年の再訪を誓って振り返るスポットである。
そこで元気を取り戻し、再び長い長い山道を辿って事故現場に到着する。

事故現場にはJALが建てた山小屋があり、伝説的な山男、岡崎彬氏に会った。
岡崎嘉平太氏の子息である氏は、JALの貨物部門で実績を挙げていたが、山岳部の中核であったことから事故直後に御巣鷹山に入り、それ以来定年までの期間を山篭りして過ごすという見事な生き方を示した人だ。

御巣鷹山の事故現場までの道筋は、きついことはきついが、体力がなくとも時間さえかければ昇りきることができる。そんなことから、絶対安全の聖地として、JALの新入社員研修のプログラムに慰霊登山を加えることを提案し採用された。
合併後もこの伝統は引き継がれているのだろうか。
その時われわれが開発したJALデザインも新しく塗り替えられ、鶴丸も消えた。
その時の仕事仲間の何人もが今年JALから子会社に転出した。
われわれの仕事を高く評価してくれた山地さんも今年鬼籍に入った。
安全への思いも風化し始めているのか、JALの安全トラブルが連続して耳に入ってくる。
安全体質は果たしてどのようにすれば、体質化できるのだろうか。
当時、中心課題としてディスカッションを重ねた問いかけには、わたし自身いまだ結論が出せぬままでいる。

年々歳々、夏草は変わらず、今年も御巣鷹の尾根に生い茂っている。
その尾根に今年は父を知らない遺児ダイアナ湯川さんの鎮魂のバイオリンが流れたという。

中国・PRビジネスの成長と 取り残される日本

2005年08月11日 11時39分39秒 | PR業界
前回のエントリーから3週間更新をサボってしまった。
愛・地球博で6(土)7(日)と実施したシンポジウムの準備に忙殺されていたためだ。

おかげさまでシンポジウムには、6(土)115人、7(日)142人の聴講者を迎えて盛況であった。
その中には中国のPRビジネスをリードする中国国際公共関係協会と上海市公共関係協会から合計19人のミッション、北京を中心とした中国のジャーナリスト6名も含まれている。
また、日本のマスコミ取材は、NHK、日経、毎日、電通報、PRIRが入った。
特に毎日新聞からは、ガ島通信の藤代さん(彼もしばらく更新が途絶えていましたね)つながりで何度かメールでやり取りさせていただいた「上昇気流なごや」の磯野彰彦さんが自ら顔を出してくださった。

今回のシンポジウムに中国から招聘した講師のひとりは、中国国際公共関係協会常任副会長兼秘書長の鄭硯農氏。
PRのことを中国ではパブリックリレーションズを直訳し「公共関係」というので、中国国際PR協会と訳せるが、外交部管轄下で、全国各地のPR協会を統括する組織である。
もうひとりは、ウェーバーシャンドウィック北京(中国名:万博宣伟国际公关顾问有限公司)総経理のデビッド劉氏。
ウェーバーシャンドウィックは昨年度のランキングで世界最大のPRエージェンシーで、その中国オフィスは北京オリンピックや上海万博の招致活動で大きな力を発揮している。
デビッド劉氏本人は台湾出身で、台湾のPR業界での活躍の後、北京に進出した。
ともに、内容の充実したすばらしいプレゼンテーションだった。

鄭氏の報告によると、04年の中国の広報業界の規模は、日本円で約600億円に達している。前年比136%、00年度と比較するとなんと3倍という急成長振りだ。
日本の業界規模が300~500億円であることを考えると、既にして中国の業界規模は日本のそれを凌駕していることになる。
この驚くべき急成長を支えるのは、外資系および国内系のエージェンシーの増加。北京・上海など主要5都市だけで2000を超える広報エージェンシーが活躍しているという。
もちろんその背後には、中国経済の大きなポテンシャルとそれへの期待が存在する。
北京・上海・広州が牽引し続けてきた経済成長が、やがて東北マーケット(旧満州)や内陸部の西部大開発マーケットなどの経済ブロック波及していくことを考えれば、この成長トレンドは、若干の紆余曲折はあるにせよ、持続していくと考えるべきだろう。
日本企業に取っても、中国での事業展開に当たっての広報戦略の展開は不可欠の要件だ。

しかしながら、一部の企業を除き、この認識は希薄だと思わざるを得ない。
まず何より広報活動への正確な認識が欠如している。
全国メディアが発達し、記者クラブという国際的にはいびつな独占的情報流通システムの存在する日本では、広報イコール記者クラブへのリリース配布という誤解が存在し、多様な広報活動を展開する発想が乏しい。
さらに高度成長時代の広告の発達が、広告への依存度を高め、広報努力をなおざりにする風潮を育んだ。

その結果、欧米企業は中国進出の最初から広報スタッフを現地に派遣するのに、多くの日本企業は広報スタッフを現地に送り込まず、予算も権限も東京に残し、現地への権限委譲を行わない。
必然的に現地の状況もわからないまま、日本的な思考の枠組みでディシジョンし、しかも意思決定スピードが遅れるという構造的な欠陥に直面しているのではないだろうか。

今年4・5月の反日行動に象徴されるように、今中国では日本に対するアゲインストの風が吹いている。
日本ほどではないにせよ、外資系企業一般に対する中国国民の視線もシビアになり、経済的ナショナリズムの萌芽も見え始めた。
このまま推移するなら、何らかの突発的状況が直ちに致命的局面につながりかねない。

今年、北京嘉利智源公关顾问有限责任公司という中国資本のPRエージェンシーが、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジアに続き、本格的な日本進出を果たすという。
欧米系の大手PRエージェンシーはほとんど全て中国進出を果たしている。
ところが、本格的に中国での事業展開を行っている日本のPRエージェンシーは片手に満たない。

広報の重要性を理解せず、戦略展開を怠る日本企業。
中国進出に及び腰の日本の広報エージェンシー。
昇竜中国の発展の勢いをしっかりグリップするためは、広報戦略の本格的取り組みが今こそ求められていると強調したい。


詩を送ってもらった

2005年07月21日 05時38分06秒 | ブランディング
いつも目ざとすぎる
そのくせ放心している
なぜか ひとより先にいる
そのくせ ひとよりあとにいる
きみはどこか過剰だ
きみはどこか欠如している
人生はきみには無数の斜面で構成されており
まっすぐにあたりまえに歩くことができない
軽薄を矛に
饒舌を盾に
中世の夢みる騎士のように
苛酷な戦場にやみくもに打って出る
繊細を磊落にみせ
不器用を器用にみせ
はにかみを厚顔にみせ
博覧強記とありあまる才覚を武器に
野獣のゲームに参加する
見えすぎる相手 わかりすぎる明日が
きみをいらだたせる
だからかんじんのチャンスを逃し
ついミスをおかす
ゴルフは不向き マージャンは不向き
囲碁将棋は不向き 劇場は不向き
きみの本性は何者なのだ
忍者のように隠しているうちに
きみは自身を見失う
きみに向くのは 暗夜の荒海
剛毅な血を身体に甦らせ
きみは進むしかない
羅針盤のない舟にのり
胸騒ぎにかられ
まだ出会ったことのない
圧倒的な大波をもとめて

--------2005年8月




変貌する中国の新聞事情

2005年07月02日 15時59分40秒 | PR戦略
最近の中国の新聞の変化には驚くものがあります。
昔は人民日報とか、解放軍報など、政府や軍の機関紙が中心だった中国の新聞ですが、社会主義市場経済の流れの中で規制緩和が進み、各社が一斉に収益を追求しはじめています。
その結果、いくつかの顕著な傾向が出始めました。

まずは、新聞の増加。
20年前は150紙にすぎなかった新聞が、いまや2000紙を数えるに至りました。
それぞれの新聞が激烈な部数競争を繰り広げています。

そのための戦術のひとつは「別題字戦術」。
北京では人民日報が「環球時報」や「京華時報」などの大衆紙を出し、
上海では歴史のある文匯報が「新民晩報」という夕刊紙で売上げ部数を伸ばしています。
古くからの新聞社が、別の題字の新聞で勝負しているのです。
特に夕刊が娯楽記事を中心に人気を得ています。
例えて言えば、産経新聞社が「夕刊フジ」に社運をかけているような状況です。

もう一つの戦術は、「宅配戦術」。
日本では存続が危ぶまれる宅配ですが、「広州日報」や「北京青年報」が始めた宅配は部数増に大きく貢献し、各紙があいついで導入。上海では宅配専門会社が2社、各紙の宅配を請け負っています。

続く戦術が「過激記事戦術」。
最初にこの戦術を採用した「北京青年報」は、日本の「東京スポーツ」を研修で訪れ、この戦術を思いついたといわれています。
イエロージャーナリズムに近い飛ばし記事が大衆の圧倒的な支持を獲得し、部数を大幅にのばしました。
そして、これら新聞の絶好の話題が日本バッシングであるといえましょう。

部数増がもたらすメリットは、購読料だけでなく、広告費収入にも直結します。
新聞広告費は01年の2050億円から、03年の3160億円に、5割を超える成長を示していますが、部数の多い新聞ほど広告集めのためには有利です。

しかし、より、微細に見ると、都市部の新聞に広告が集中していることに気がつきます。
四川省で見ると、省全体をカバーする「華西都市報」は部数70万部。これに対し成都で発行されている「成都商報」は60万部で、華西都市報に及びません。
しかし、広告収入は、成都商報が4億元を売上げ、華西都市報の3億元を上回っているのです。

今、中国の新聞広告の主力は、不動産広告。不動産広告を打つには、四川省全域より、成都市内の方が効率がいいことは容易に理解できます。
広告を引き金として、朝刊から夕刊の時代を経て、都市報の時代に突入しているのです。

最近の中国の新聞事情に饒舌すぎたかもしれません。
重慶のサッカーの時の騒ぎも、今回の教科書騒動も、あるいは尖閣諸島にかかわる反日の動きも、このような新聞のセンセーショナリズムが深くかかわっていることを申し上げたかったのです。
もちろん、新聞だけでなく、テレビの変貌も著しいですし、インターネット掲示板も、雑誌も日に日に変化し、世論形成に大きな影響を与えています。

さて、このような状況を前に、中国進出の日本企業はどう対応すればいいのでしょう。中国の現地に広報の拠点を設けることが重要になっています。

欧米企業は海外進出に当たっては必ず広報の専門スタッフが当初から現地に派遣されます。
しかし、日本企業の多くは、進出に際して広報スタッフが参画することは稀で、何かあると東京にお伺いを立てるケースが多いようです。
当然、現地の状況を把握できず、意思決定に時間がかかり、何かあっても対応が後手後手になってしまいます。
先日の反日行動の際も、騒ぎが大事にならなかったから良かったものの、充分な危機管理体制をとれずに手を拱いていた企業も多かったようです。

01年のことですが、中国青年報という新聞は「中国人の日本人に対する感情は、大変複雑かつ懐疑的である。よって、欧米企業に比べ日本企業は中国においてなおさらPR活動をする必要がある。しかし残念なことに、日本企業は中国におけるPRの認識が欠如している」と記事で指摘しています。

日本広報学会はこのような状況下での日本企業の対応のあり方を探るため、中国の広報の総本山である中国公共関係協会はじめ諸方面から講師を招聘し、「広報が創る相互理解~日中交流の対話と共創」の統一テーマのもと、日本中国それぞれの広報のエキスパートによる国際シンポジウムを開催します。
最新の状況を踏まえた、生々しい話しが聞けるでしょう。

催事の概要はhttp://www.edogawa-u.ac.jp/~hamada/expo/にホームページを設けています。

今上天皇のファンです。

2005年06月29日 07時41分43秒 | ニュースコメント
戦没者慰霊のためにサイパンを訪れた際、韓国人戦没者慰霊碑に詣でた天皇・皇后。
この人たちの聡明さには、つくづく頭が下がる。

現今の状況を踏まえ、首相の靖国参拝でささくれだった日韓関係の修復のために一石を投じたとの解釈も可能だろう。
しかし、この人たちからは、そうした近視眼的な弥縫策にとどまらず、慰霊の気持ちがひしひしと伝わってくる。

皇太子時代の両陛下の出席する式典をディレクションしたことがある。
1983年は国連の定める「世界コミュニケーション年」だったが、政府は郵政省を中心に、国内でさまざまな事業を行った。
この一連の事業の実施に深くかかわっていたのだが、年度の終わる84年3月に、当時の中曽根首相主催の記念式典を実施し、ここに皇太子ご夫妻の臨席を仰いだのだった。

皇室参加のパーティの準備は大変だ。
例えば警察だけでも、皇宮警察、開催地の所轄警察、警視庁は沿道警備の警備課、要人警護の警衛課など4~5ヶ所と調整しなければならない。
当時の皇太子ご夫妻は、過剰警備を気にして、警察の出すぎを戒めており、東宮と警察の間がややギクシャクしている時期だった。
たとえば、警察としては、舞台の上にもボディガードをあげて、威圧警備を行いたいが、皇太子ご夫妻は国民との接触の場に警察という夾雑物が入ることを嫌う。
あるいは、万が一の事態があっては責任問題なので、自動車の車列は、信号を無視してでもノンストップで突っ走らせたいのだが、東宮はこれを拒否する。

ちなみに、この水面下でのつばぜり合いの結果、今日では天皇の車列の緩やかな警備が定着している。
03年7月、富良野巡行中の天皇皇后の車列に、軽自動車で接近しようとした男がおり、これを阻止しようとした白バイが、はずみで天皇ご料車に接触してしまった事件があった。これが責任問題に発展しなかったのは、国民との対話のためには受容すべきリスクと考える天皇皇后の意向があってのことだろう。
昭和天皇の時代にはありうべからざる事態と受け止められたはずだ。

さて、84年の記念式典。
世界コミュニケーション年の記念切手のデザインは一般公募で決められた。
その決定案の作者がこの式典に招待されたが、2人の当選者のひとりは、豊田市のラーメン店の高校生のお嬢さんで、彼女は気の毒に難聴で発声が不自由な障害を持っていた。
政府高官や財界、学界の大物が集まる、ホテル・ニューオータニ鶴の間の記念式典会場で、小学生の弟を含め、家族4人で出席したラーメン店主一家は明らかに場違いだった。

記念式典後のパーティで、この一家にこころを配ってくれたのは、世界コミュニケーション年国内委員会委員長として民間の動きを主導していた、元文相の永井道雄さんである。
パーティの終盤。永井さんはこの一家を皇太子ご夫妻のもとに伴い紹介した。
彼女の立場と障害を知ったご夫妻は、体の正面を一家に向け、対話を始める。
パーティの進行をつかさどる立場からは困ったことに、その話しがなかなか終わらないのだ。
言うまでもないことだが、皇室の移動スケジュールは分秒の単位まで詳細に組み立てられている。ホテルの出入りも、沿道の警備もそのスケジュールで準備している。
尼崎の事故ではないが、30秒の遅れは後々のスケジュールに影響してしまう。
侍従を通じ、談笑の切り上げを促すが、ご夫妻は応じない。

警察からは、早くパーティをクローズしてご夫妻を退場させろとディレクターのぼくに矢の催促だ。
しかし、彼女にとっておそらくは一生に一度の晴れ舞台をすばらしい思い出にしてあげようとするご夫妻の気持ちはびんびんと伝わってくる。
難聴でことばの発声に障害がある彼女は、ただでさえ話すスピードが遅い。
そこへ持ってきて、話す相手は皇太子ご夫妻、周囲はダークスーツのお偉方ばかり。
気後れもするだろうし、あがりもするだろう。
満足に話せなくなってしまった彼女に話しを急かせたり、途中で話しを切り上げることは、彼女のような障害を持っている人には一番悪い対応であることを良く知っているのだろう。
彼女のこと正面から受け止め、ゆっくり全部のことばを傾聴し、彼女のペースにあわせ対話をしようとの意志を、全身で表現しているのだ。

ぼくは感動した。
この人たちはこのようにして国民と向かい合おうとしているのだ。
この人たちは、なにが大事なのか、しっかりと自分のものさしを持っているのだ。
ひめゆりの塔の火炎瓶にたじろがなかったこの人たちは、覚悟を持ってノブレスオブリージュを果たしているのだ。

終了後、警察筋からはきついお小言があったが、これ以後ぼくは、この人たちの熱烈なファンになった。