ホスピス、緩和ケア看護覚書*カナダ編

ホスピス看護をカナダから。2013年大学院を卒業しました。カナダ人の夫とは14年たっても熱愛中。

嬉しいよやっぱり 1

2012年07月10日 | ホスピス
4日連休の前、ローカルのGPから電話が入る。ホスピスに入れたい患者がいるんだけどと。ホスピスに入るためには緩和ケアコンサルテーションチームによるアセスメントが必要。いつもならGPからの紹介は緩和医が行くのだが彼女は午前中ミーティングなので私が行くことになった。ターミナルとわかれば早めに訪問看護部へ紹介になり、在宅緩和ケアが始まり、そこから緩和チームに依頼されるケースが普通なので今回のケースはまれだ。

連休中は緩和チームもホスピス入院も活動しない。なにもかもがストップするのでホスピス入院が必要ならその日の3時までにすべての書類を済ませなければならない。

しなければならないことは

1)ホスピス入院に適切かどうかのアセスメント。身体的、精神的に準備ができているかどうか。予後が適切かどうか(予後が3-4ヶ月以下であること)。急性期の治療が必要でないこと、もしくはそういう治療を希望しないこと。点滴による化学療法をしていない。身体的に適切であっても、精神的に準備できていないケースもある。延命につながるような治療(点滴による補液や抗生剤投与、輸血などだ)をもうしないと決意するのはほとんどの人にとって大きなハードルだ。

2) ホスピスへ行くと決める前に、すべての情報は伝達されなければならない。最近の在宅看護の発達により在宅死は可能な時代だ。しかしその資源やサポートを知らない人は多い。それを踏まえた上でホスピスへ入院を希望しているのか確認しなければならない。

情報の提供、アセスメント、意思決定の介助。することはたくさんある。焦って決断を迫ったりしてはならない。人生の大きな曲がり角。患者のペースにあわせて進めなければ信頼関係を失い失敗する。連休前というプレッシャーはあるが、患者が決心することができなければ、それはそれで良いとする姿勢が大切なのだ。あくまでもプレイヤーは患者と家族で私たちはプレイヤーを支える裏方であることをわすれてはならない。

訪問前にすることはアクセス可能なデータのすべてに目を通す。HAのデータベースで血液検査やレントゲン、他科のコンサルテーションの結果など。これをすると疾病のどの辺りにいるのかだいたい検討がつく。しかしこればかりに頼るとこれまた失敗する。私達が扱っているのは人間でナンバーや写真ではない。

訪問するとアイリーンはベッドに横たわっている。夫のトーマスが玄関で迎えてくれた。昨夜アイリーンがトイレから立ち上がれなくなって怖くなってGPに朝一に電話をいれたとか。

アイリーンはあんなに頑張って治療をしたのにこんなに早く癌が進んで、毎日自分でできることが少なくなって、トーマスに頼ると事が多くなって情けないと泣きじゃくる。アイリーンの最後の化学療法は4月。骨転移した場所に痛み緩和のためにした放射線療法は5月。

続く

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卒業おめでとう

2012年07月01日 | 子育て
先日AJが高校から卒業しました。ガウンとハットをかぶっての式典。



先日は父兄主催のパーティー。日本の成人式みたいなものでしょうか。ドレスにお金をかけます。彼女もドレスやを転々として決めた一点。白い肌に映えます。20年代30年代のファッションに興味があるので髪の毛もそんな感じでアレンジ。パーティーのエスコートはもちろん現在進行形のブライアン君。一歳歳下でも大丈夫。



朝から化粧や髪のセットをしてもらい、



豪邸を持つ友人宅に集合。カップルや友達同士で写真撮影。



リムジンに乗り込みダウンタウンバンクーバーへ。





スタンレーパークでまたもや撮影会の後、会場のハイアットホテルへ。夕食とダンスパーティーは真夜中過ぎまで。次の会場はスコシアバンクシアターを借り切ってのゲームやらエンターテイメントナイトは朝五時まで続きます。大型バスに乗って高校まで戻って解散。

アルコールやドラッグは一切禁止で、会場に入る時にボディーチェックがありがあります。誰一人怪我や病気をすることもなく戻ってきました。

北米で子供を育てている方、卒業間近になるとお金が沢山かかります。しっかり貯めておきましょう。

9月からはSFUへの進学が決まっている彼女。フランス語を頑張ったので、卒業は英語とフランス語のダブル卒業でした。よく頑張ったと思うし、飛びっきりの美人に育ったなあ、と嬉しく思いました。

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葬儀葬祭の意味

2012年06月28日 | 暮らし
祖母は出雲大社教だったので、葬儀はもちろん神道形式だった。お通夜ではなく、前夜祭。葬儀ではなく葬祭。仏式は7日ずつだが神道は10日ずつ。初七日ではなく、10日祭。49日ではなく50日祭となる。

父がたの祖父母がなくなった時は仏式だった。両方を経験して、名前や形式は違っても、どちらも同じような目的があるのだと感じた。それは儀式化という行動をすることで、遺族の悲嘆を柔らかくすることだ。海外に出るまで葬儀の意味を見出せなかった。形式はばかりで中身がないと感じていた。故人を敬う場というより、家の面目などが重要な要素に思えた。海外に住むようになりホスピスでたくさんの死に出会い、悲嘆について学ぶようになってから考えが変わった。

移民の国北米では古くからの儀式がなくなっている面が多い。お葬式はせず、お墓を作らない人さえもいる。お金もかからず、お墓の世話をする必要がないが、故人の家族や友にとって悲しみを分かち合う場がないのだ。私の旦那は祖父母の墓がどこにあるかも知らない。なので実家に帰る度に墓を訪れる私をみて、この世から去っても子孫に敬ってもらえる、死んでからもその存在の意味があることを素晴らしいことだと言っている。

99歳と言う天寿を全うしたと言っても良いほどなのに多くの参列者がいて驚いた。遠く故郷を離れた私は小さい頃あんなに遊んだ従兄妹達に会うこともなかった。しかし祖母の死を通して再会。お互いに父や母になり随分年をとったものだと笑った。本家の叔母たちからは自分が知らなかった、自分や家族について話してもらえる機会もあり、人と人のつながりを確信し、自分がそのネットワーク(コミュニティー)の一部であり、他に影響を与えていることに気づいた。こういう点からも葬儀の大切さを感じた。

コミュニティーの崩壊なども言われるご時世。良い儀式や習慣がコマーシャル化して、行う意義が薄れないように願っている。

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手厚いケア

2012年06月23日 | ホスピス
祖母の最期にあたって、施設にいる間とても良いケアをしてもらったと思った。スタッフの態度はとても良いし、祖母の口の中や手をみるとケアが行き届いていることが伺えた。ベッドにいる時間が長くなってからは床ずれ防止のエアーマットレスに変えて欲しいと頼む前に変更されていた。

食事を取らなくなってから、点滴をするかどうかと話があった。できるだけ自然にと叔父や叔母の意見は一致で点滴をしないことに。私が訪問したとき「点滴しない人は初めてですから、、、、何もしていないようでほったらかしみたいで申し訳ないですね」と担当の看護師さんが母に言った。慣れていない医療者にとってこの気持ちがつらいのはよくわかる。「最善を尽くす」というのが治す医療のモットーで、治ることができなくなった死に逝く人に対して「見守る」ことも医療の一部だと認識できる人は多くない。清潔や安全のケアがきちんと提供できて家族に対する配慮などなどこれらも立派なケアだ。

ベッドサイドに座っていて、祖母が落ち着きなさそうにごそごそする。眉間にしわが寄ってどこか不快があるように思えた。同じ体位をしていて痛いのかなと思って聞いていると、母がおばあちゃんは痛いところがあると言うから、と。ただ見ているのは家族にとってもつらい。体位を変えてみても祖母は落ち着かなかった。これが自分の仕事場だったらきっと痛み止めや鎮静剤を使っただろうな、と思っていた。ま、あきらめずに祖母に聞いてみようかと質問を続けるとかゆいところがあってのこと。かゆいところを見つけて掻いてあげて、着替えるといえば着替えを手伝いようやく落ち着いた祖母。やっぱり言いたいことがあったのね、と思うと「うーん仕事で患者の声を聴かずに薬を使うことってどれくらいあるのかな?」と思った。しかしながらここには国民性の違いもある。痛みや不快感に弱い患者、それを見るのに耐えることができない家族。その人たちの性格にもよる。一概には言えない。ここでも個別性があるってことか、と。

深夜に電話をもらって駆けつけた。施設の入り口にはスタッフ全員がいた。こんなに夜勤のスタッフがいるのかと思いきや、こういう時はスタッフ全員呼び出されるとか。事務の人までだ。4年という長い間にお世話になった方々。そのお心使いがありがたいと思った。部屋に入ると、酸素ボンベや吸引の機械があった。叔父がいうには呼吸が変化してから酸素はずっとついていたとか。あー何かをしなければと見せ場的な行動があったのね、と日本で働いていたころのことを思い出した。自然に最期を見守るってそれが当たり前になるまで時間のかかるもの。見捨てているのでもなく、ほったらかしにしているのでもなく、家族と患者の時間と空間を見守る、、、。回復することがないと知りながらベッドサイドでガチャガチャは無意味です、、、。

祖母の顔はとてもリラックスしていて良い顔だなと思った。仕事でも思うのだが‘力が抜けって楽になった、ほっとした顔‘。間に合わなかったけどおじいちゃんと再会して良い顔になったね、と。

エンゼルケアってカナダではしないのです。日本では看護の大切な一部だけれど。顎が落ちないようにきれいなフリルのバンドで顎が固定され、手も同じく組まれて、お化粧をしない祖母に軽く化粧がされて。ちょっぴり俗っぽいなと感じたけれど、これが日本の習慣だから仕方ないか、と。

祖母の家に帰って不思議なことがありました。祖母にはとても大切にしている置き時計がありました。それが動かなくなって叔父や叔母たちは何とかして直そうとしたけれど動きませんでした。祖母が帰ってくると家具を動かしていたら、昔のようにチックタックと動き出したのです。なつかしい響きでした。しばらくして、あんなに大事にしていた時計だからそばに置いてあげようとまたもや時計を祖母のそばへ動かしました。そしたらやっぱり止まってしまいました。止まっちゃったねと時計をみてびっくり。祖母が亡くなった時間でした。人間って素敵な力がひそんでいるんですよ。

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大好きなおばあちゃん

2012年06月21日 | 家族
私の祖母は99歳、数えだと100歳になる。44年前祖父が死んだ後から独り身。祖父が広範囲な心筋梗塞で急死した時私は母のお腹の中にいた。臨月少し前だった。よく祖母にあんたの年とお父さん(祖父)の死んでからの年が一緒だけえねえ、と言われた。あんたはおじいちゃんの生まれ変わりみたいなもんだわねとも。

毎年夏休みは祖母のところへ泊りがけで遊びに行った。祖母の家は海辺にあって楽しいことはたくさんあった。祖母は海岸で海苔を摘んで自家製の板海苔を作ったり、畑で野菜を作ったり自分の家では経験できないことができるところでもあった。
しつけに厳しい人で、箸の持ち方の特訓は忘れられない。何せきちんと持てるまでご飯はダメと言われたので、それはそれは頑張って大豆を皿から皿へ移す練習をした。
もてなしが上手な祖母はお客さんが来るとなるとそれはそれはたくさんの食事を作りテーブルに隙間がないほどだった。お正月は親戚中が集まり、叔父や叔母いとこに会えるあの家は楽しい集いの家でもあった。
自転車でバス停まで迎えに来てくれた祖母が電動スクーターで道先まで来てくれるようになり、小高い山にある祖父の墓に最後に一緒に行った時は急な階段で祖母を旦那が負ぶって行った。

物忘れが激しくなり、火事を起こしそうにり、施設へ行ったのが4年前。認知症が進んでも、きりっとした祖母の態度に変わりはなかった。
2年ぶりに再会して小さくなった祖母に驚いたがそれでも気品高い祖母の気配は変わっていなかった。胃腸のどこからか出血しているが検査を拒み(年齢的に検査をして出血もとがわかっても手術にはならないので、私も叔父や叔母の決断に賛成だ)。食べる食べないもはっきりしている祖母。食べるのをやめてから随分経つそうだ。水分も気が向いた時に少しだけ。わたしが訪ねた時もはっきりいら無いと首をふった。目は開けない祖母だが首を少しだけ横か縦に振るかでしっかり意思を伝える祖母。痒いところをうまくかけなくて「そこじゃないわね!」と突然大声が出た祖母。

祖父の命日に「あー迎えにきてくれたん?」と一言、言ったことに母を驚かせた。数日後私は、今度おじいちゃんが迎えに来て、おばあちゃんが行きたかったら行っていいよ、と言うと祖母の首が縦に動いた。
しっかり厚く働く人の手だったのに小さく柔らかい手になっていた。その手を握りながら、心の中でありがとうとさようならを言った。4人の子供、10人の孫、15人のひ孫。長い人生。終幕も祖母らしく、変わらない祖母に熱い気持ちがこみ上げてくるのであった。

そして祖母は19日早朝、台風接近の嵐とともにやってきたた祖父と一緒に去って逝った。

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自分勝手

2012年06月18日 | 家族
ってどういう意味なんでしょうか?祖母の調子が良くない、その上父が前立腺がんと聞き、どうしようかなと思った。最後に会ったのは2年前。お金節約のため大学院卒業までは日本に帰らないと決めていた。おばあちゃん大好きっこだった私にしてみると日本へ駆けつけたい気持ちは山々。しかし年度末の6月。AJの卒業式を控えているし(式典やパーティーと子供にとっては一大イベントなのです)、父の日も控えているし(北米では母の日、父の日も大切な日です。プレゼントを送るというより家族と過ごすことが大切)、飛行機代は高いし、どうしようかと迷った。

絵里佳にはキッパリ、学校があるから私は行かないよ。お父さんとお姉ちゃんと留守番してるから、と言われた。悲しい。AJの卒業式を欠席することをAJは私だったら日本行きを選ぶから、卒業式は写真で我慢してね。料理したり、絵里佳のこととかお父さんを手伝うから、父の日も絵里佳と二人で盛大に祝うから行っておいでよと。あー頼りがいのある子に育ってくれたものだと感心。旦那は一人で行くことをとても心配しているけど(13年前に一人で帰った時喘息発作を起こして入院した私なので)、賛成してくれた。家族に背中を押されて帰国を決心した。

で、そのことを両親に伝えた時、帰ってきて欲しいなど言っていないし、そんなことはしなくても良いのにと言われた。家族を置いて、仕事も休んでくるなんて、なんて自分勝手な娘なのかと。

グサリときた。自分を振り返るといつも自分のしたいことが一番になる私。カナダへ来たことも、永住を決めたことも、大学院へ進んだことも。自分がしたいと思うことを突き進める私だ。妥協ということを考えないのも私の特徴だ。自分が幸せでなければ他人を幸せにすることはできないという信念もある。もし私が子供のために大学院進学を断念したら、私の性格では将来、後悔するというより、子供のせいで行けなかったと恨むようになると思う。こんな私だからだろうか、子供達も旦那もすんなり日本行きを認めてくれたのだろうか。仕事だって生きていくのに必要だからという目的もあるが仕事が好きだから働いている。絵里佳にとって共働きの両親は当たり前の環境なのだ。これって異常?私はいつも家族に迷惑をかけている?と深く落ち込んだ。

旦那に相談すると笑い飛ばされた。そういう芯の強いところに惹かれたから一緒になったんだよと。大学院生だからと言って母親業を放棄しているわけでもないし。いつも自分の目的をしっかり持っていて行動に移せるってなかなかだよと。妥協ではなくてお互いが支え合って、家族としても強く育って行くのではないかなと。

あー旦那と一緒になれて本当に幸せな私だと涙ぐむ私でした。

追伸
読み返していてギョッとした。絵里佳の一言って私に似ている?!あー貴方も両親にとっては頭の痛い子になるのねー

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やっぱり好きです。緩和。

2012年06月16日 | ホスピス
夏休み中はフルタイムアワーでしっかりお金を稼ぐ時期 (大学院の授業が始まると働く時間はぐっと減るので)。訪問看護がメインの仕事だけれど、今年も頼まれる緩和のコンサルテーションチームの仕事もかけ持ちでしている。

活動域は病院と在宅。コンサルタントとして緩和医療の助言をしたり、プログラムにふさわしい疾病時期か評価したり、ホスピスやTPCUへの移動が相応しいか評価したり、移行が難しいケースカンファレンスに参加したりと、というのが仕事内容。

最初の数日、緩和のペースを忘れていて、つまずいてしまった。あー患者、家族のペースに合わせて、ベストな意思決定につながるように、と歩調を合わせてと、ペースを変えて調子が戻ってきた。難しいとケースが良い方向に向かうととてもうれしい。満足感の高い仕事だ。NPコースに進んでいなかったら、きっとこれを職にしたがるだろうなと思うほど。

この仕事を引き受けた理由はもう一つ。病院や在宅を扱うので、紹介者の医師とのコミュニケーションがとても重要になる。自分の顔を売る良いチャンスだから、と就職活動、地元のネットワーク作りのためでもある。このために仕事用ではなく、私用の名刺まで作ったのだ。で、その成果はいまいち。ここぞという時に勇気が出ない私なのだ。しかし緩和医師とは馴染みの仲。学校のことや将来のことをオープンに話せるのできっと良い方向へ向かうはず。卒業、ライセンス試験まであと一年。頑張ります。

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うれしいニュース

2012年06月14日 | NP大学院

先日、BC政府が次の3年の間に190のNPの仕事を作る政策を発表しました。22ミリオンドルの投入とか。今現在BC州に登録しているNPは225人。そのうち、75人はNPとして働いていない。今年は30人の卒業生が生まれる。てことは来年以降に残るのは90ポジションぐらいか。毎年卒業生は最大で45人。ということは就職先がある!ということだ。
自分のクリニックをオープンしたい私だが、情報を得れば得るほどその大変さを知るばかり。なので政府の元でプライマリーケアができたらなー、もちろん地元でと夢を膨らませる。

先週、今年卒業するNPたちの卒業パーティーに招かれて行ってきた。看護学校の時の帽子式や卒業式も感動だったけど、ホワイトコートセレモニーもなかなかでした。来年は私の番だぞーと意欲が湧きました。ガウンで参加する卒業式と二日連続。家族同伴で。楽しみだ。そのためにも夏の間に卒論を済ませなければ、、、、。

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素敵な学校

2012年06月03日 | 家族
絵里佳の通っている学校のWebサイトが新しく変わりました。結構いけるので紹介を。

http://www.langleyfinearts.com/

ホームページの右側にYouTubeのウィンドウがあるのでぜひそこのクリップをみてくださいませ。生徒が作ったビデオだけれどよくできているな、と思いました。

左のコラムのそれぞれの科目を選ぶとその内容や生徒の作品、表情やビデオクリップや音楽が聴けるようになっています。小中高一環の芸術学校。2つのダンススタジオ、レコーディングスタジオ、音楽用の個室やオーケストラルーム、劇場なども持っている、アートギャラリーも。

トップバーのElementaryをクリックすると1年生2年生の様子が出てきます。今あがっているビデオは最近の様子をまとめたもの。ピンクの豚の後に絵里佳がちょこっと写っています(顔だけ)。

絵里佳は低学年なので音楽、美術、ダンス、ドラマの4メイジャーを取っていますが、7年生になるころには2つに絞って最後の3年間はひとつに絞るようになっています。いったい何を選ぶのやら、楽しみ。

先日も1-2年生の発表会がありました。発表会というよりショータイムと言ったほうが妥当なノンストップの1時間のショーでした。絵里佳は蜂になってダンスをして、コーラスにも参加していました。みんな生き生きして楽しそうでした。

素敵な学校に入れて本当に良かった。

ショータイムと言えば週末にはバレエ学校のショーもありました。れっきとした劇場を借りて3時間のショーを2回。絵里佳のバレエの出番は一度とフィナーレそして凧を舞台に出すチョイ役が一回。クラスのリードダンサーをしっかりこなして、母の目はうるうるしていました。今年で3年目。そういえばうまくなりたいって願っていたな~立派になったものだとしんみり。ほら、ポーズだって様になって来ました(アーやっぱりローテンションの仕方がわからない)。



今回はボランティアとして舞台裏を手伝いました。リハーサルから当日まで、2日間丸まる費やして(義姉は3日間)、母はどっと疲れました。昨夜は10時半帰宅で絵里佳をベッドに連れて行ってから(車の中ですでに寝ていた彼女。お疲れ様でした)、ビールを一杯。おいしかった。

楽屋で子供たちのメーキャップや髪結い、衣装そして出番の間の監督、舞台裏で出番を待たせたり、思ったよりずっと大変でした。大きな子たちは自分で何もかもするけれど、衣装のピースが見つからなかったり、髪が崩れたりするとパニックになったり、とにかく舞台裏はぴりぴりしている子供たちのバイブが伝わって来ました。

あまりの労力の多さにもう絶対このボランティアはしない!と思ったけれど、これを15年もしている義姉。頭が下がりますわ~

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依存症 最終回

2012年05月18日 | 家族


数ヶ月前にBrodyが家から出て行き母親と暮らすようになった。何故かというと家族全員がBrodyと住むことがとてもストレスになり、、、、私たちが追い出したのか、彼は自分から出て行った。

Brodyは小学校4年生の時にADDと診断され内服を始めた。彼の落ち着きのなさ、強い不安症は1年生のころから表れていたが遅生まれなので診断がなかなかつけられなかった。内服を始めてからクラスで集中することができるようになったし、不安症状がぐっと減った。

ティーンになって食べ盛りになったからだと最初は思っていたが、異常なまでの量を食べるようになった。特に自分が好きなものは見境がなく目の前からなくなるまで食べ続ける。サバンナでようやく獲物にありつけたライオンみたいな食べっぷりで見ているだけでこちらの気分が悪くなるほどだ。仕事が忙しい私は食事の作りおきをすることもある。明日の夕食だから食べないようにと伝えて、メモまで入れ物に張っていても食べてしまう。仕事から戻ってきて夕食がなくなっていることに腹を立てる私にまったく悪びれる風もない。買い入れの量を増やしても彼の好きなものはあっという間になくなる。

テレビゲームが好きな彼。昔は一日のリミットも決まっていた。それが母親が買い与えたテレビを部屋に置くようになり、ゲームもすべて部屋の中でするようになった。私も旦那も忙しさのあまりか規則もゆるくなって部屋に閉じこもってゲーム三昧の日々になった。XBOXをせがまれ最初はPS2があるから買わないと言っていたがあまりの懇願に誕生日とクリスマスプレゼントと自分のお小遣いを合わせて購入。正直XBOXが何であるか知らなかった私たち。WiFiをつなげて以来彼の生活、性格、習慣は急激に変わっていった。部屋に閉じこもって食事にも出てこない、成績はどんどん下がり学校もサボりだした。家族との外出も参加しなくなり、シャワーも浴びなければ下着も替えない。XBOXやWiFiにタイマーをパスワードつきで入れてもそれを変えられたり、強制的に電源を抜くとそれはそれは怒りまくるようになり。体も大きくなり知識もついたので小さいときのように親が大きく出ることで解決するような状態ではなくなった。食事に来ないのに急に部屋から出てきたかと思うと台所をあさり食べのをつかんではまた部屋へ引きこもり。部屋中にごみや食べかす、食べ残しのものが腐り、食器は割れ異臭を放つようになった。たまに納得させて食事に参加すると、家族の会話にはまったく参加せず食べ終わると食卓につっぷしていつになったら部屋へ戻っていいのかとそればかりだ。こんな状態なので顔を合わせると小言から大喧嘩になる状態で誰もがぴりぴりしていた。

カウンセリングにも連れて行った。セラピーが始まると行くのを拒否するようになった。子供のころからお世話になっている小児科の先生からも部屋からテレビやゲーム類をすべて除くように言われ、それを実行、もう一度家の規則をきっちりしていこうと、家族会議をした後、それがいやで出て行ったのだ。

出て行ってしまうと親としてもう少しがんばれたのではないかとか後悔すると同時に平和を心の底から喜ぶ自分たちがいた。
そう、Brodyは恋ちゃんなのだ。愛ちゃんの4倍も食べないと満足しない。そしてサイバー依存症でもあり、、、この上タバコやアルコールの味を覚えたらどうなるのだろう。考えただけでも恐ろしい。

カンファレンスのとき講義がすべてBrodyと重なった。しつけでどうにかなることだと、お手本を見せればどうにかなるかと、欲望に流されずに自分をコントロールできる子になってほしいと思っていた。それがすべて間違いだと気づかされた。化学物質の変化がああさせていると理解できると彼の行動がとても理解できる。テレビゲームを買い与えたのは最大の過ちだった。朝から晩まで時には眠ることもなく一日何十時間も戦争のゲームをしている。友達はオンラインでたくさんいるようだが実際付き合う友は一人しかいない彼。どれだけ彼のピッチャーは大きくなったのだろうか。もともと基礎があった上にゲームによって加速、悪化させてしまった。

今のところは母親が張り切って”母親”になっている。しかし長持ちはしない彼女。彼が母親と暮らすことは永遠ではないと旦那も私も感じている。もっと早くゲームの害を知っていれば、依存症のことを理解していれば、、、後悔は止まない。

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