ホスピス、緩和ケア看護覚書*カナダ編

ホスピス看護をカナダから。2013年大学院を卒業しました。カナダ人の夫とは14年たっても熱愛中。

嬉しいよやっぱり 2

2012年07月12日 | ホスピス
彼女の気持ちを汲みながら話を進める。在宅のことを全く知らなかった二人は、そういう援助を受けられるのなら、もう少し長く家に入れるかもと喜ぶがトーマス自身があまり健康でないので、トーマスの負担が心配と。ホスピスは子供達に近いところを選ぶのか、それとも二人の家に近いところにするか、二人は迷う。

アイリーンの息切れが気になった。どれぐらい続いているか聞くとそんなことはないと言う。具体的な質問をすると過去2週間ぐらい歩くと息切れがしていたと。会話が長く出来ないのは緊張する性格だし、不安からくるものかと思ったと。診察を始めると右肺の下葉に全く息が入っていない。打診も鈍い音。触診でも音の振動が伝わっていない。という事は胸水の貯留か、無気肺の可能性。呼吸数は早いし、心拍数も1分間に140と早い。全身の観察を終えて、どうするか迷った。

11時半、オフィスに戻ってもう一度データーに目を通す。最後の胸部レントゲンは2ヶ月前。左の肋骨の転移以外に異常所見はない。GPに電話を入れる。最近の検査結果がないかと。GPは私の所見を聞いて驚く。10日前にきた時はそんなことはなかったと。

自分の観察力と診断力に自信がない。NPになるまでにはあと一年ある。思い違いだったらどうしよう。ホスピスではなくて病院に連れて行って、取越苦労だったらどうしよう、と。

緩和医のゾイに電話をいれる。丁度会議が終わったと話ができた。TPCUか ER、それともホスピスなのか自分の意見を伝えるが自分の中でもどうしていいか決めれない。相談しているうちに考えがまとまってきた。結局GPが病院で患者を診ることができるので、TPCU (他病院になる)ではなくERへ行くことにした。

こうすることで肺炎による無気肺なら抗生剤の投与。胸水なら穿刺ができる。これぐらいならTPCUへ行かなくてもどんな病院でも治療が受けれる。顔見知りのGPに診てもらえることもできる。それにアイリーンはまだ真にホスピスへいく準備ができていないと私は感じた。。病院へしばらく入院することがトランジッションの期間になりスムースなホスピス入院が出切るだろうという見込みからだ。

二人にチームの意見を伝えると、二人もそうしたいと言う。私は救急車を手配し、ERに連絡を入れる。レントゲンの結果が出るまでとても不安だった。間違っていたら、、、、と。

で結果は胸水貯留。穿刺が行われて彼女の呼吸状態は改善された。嬉しかった。自分の観察と診断の正確さが認められたようで。連休明けの火曜日は彼女はホスピスへ入所した。丁寧なお礼の言葉をもらった。私の訪問で不安だったガンとのその後が明確になった。暗闇に灯りがついたような気持ちだった。それに胸水をみつけ適切に治療してもらえたことを心から感謝していると。嬉しい。NPになるために新しい技術を身につけてそれを使って適切な方向へガイドできるようになって。自分の観察力や診断力にもっと自信を持っていいのだと、嬉しい日だった。

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嬉しいよやっぱり 1

2012年07月10日 | ホスピス
4日連休の前、ローカルのGPから電話が入る。ホスピスに入れたい患者がいるんだけどと。ホスピスに入るためには緩和ケアコンサルテーションチームによるアセスメントが必要。いつもならGPからの紹介は緩和医が行くのだが彼女は午前中ミーティングなので私が行くことになった。ターミナルとわかれば早めに訪問看護部へ紹介になり、在宅緩和ケアが始まり、そこから緩和チームに依頼されるケースが普通なので今回のケースはまれだ。

連休中は緩和チームもホスピス入院も活動しない。なにもかもがストップするのでホスピス入院が必要ならその日の3時までにすべての書類を済ませなければならない。

しなければならないことは

1)ホスピス入院に適切かどうかのアセスメント。身体的、精神的に準備ができているかどうか。予後が適切かどうか(予後が3-4ヶ月以下であること)。急性期の治療が必要でないこと、もしくはそういう治療を希望しないこと。点滴による化学療法をしていない。身体的に適切であっても、精神的に準備できていないケースもある。延命につながるような治療(点滴による補液や抗生剤投与、輸血などだ)をもうしないと決意するのはほとんどの人にとって大きなハードルだ。

2) ホスピスへ行くと決める前に、すべての情報は伝達されなければならない。最近の在宅看護の発達により在宅死は可能な時代だ。しかしその資源やサポートを知らない人は多い。それを踏まえた上でホスピスへ入院を希望しているのか確認しなければならない。

情報の提供、アセスメント、意思決定の介助。することはたくさんある。焦って決断を迫ったりしてはならない。人生の大きな曲がり角。患者のペースにあわせて進めなければ信頼関係を失い失敗する。連休前というプレッシャーはあるが、患者が決心することができなければ、それはそれで良いとする姿勢が大切なのだ。あくまでもプレイヤーは患者と家族で私たちはプレイヤーを支える裏方であることをわすれてはならない。

訪問前にすることはアクセス可能なデータのすべてに目を通す。HAのデータベースで血液検査やレントゲン、他科のコンサルテーションの結果など。これをすると疾病のどの辺りにいるのかだいたい検討がつく。しかしこればかりに頼るとこれまた失敗する。私達が扱っているのは人間でナンバーや写真ではない。

訪問するとアイリーンはベッドに横たわっている。夫のトーマスが玄関で迎えてくれた。昨夜アイリーンがトイレから立ち上がれなくなって怖くなってGPに朝一に電話をいれたとか。

アイリーンはあんなに頑張って治療をしたのにこんなに早く癌が進んで、毎日自分でできることが少なくなって、トーマスに頼ると事が多くなって情けないと泣きじゃくる。アイリーンの最後の化学療法は4月。骨転移した場所に痛み緩和のためにした放射線療法は5月。

続く

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手厚いケア

2012年06月23日 | ホスピス
祖母の最期にあたって、施設にいる間とても良いケアをしてもらったと思った。スタッフの態度はとても良いし、祖母の口の中や手をみるとケアが行き届いていることが伺えた。ベッドにいる時間が長くなってからは床ずれ防止のエアーマットレスに変えて欲しいと頼む前に変更されていた。

食事を取らなくなってから、点滴をするかどうかと話があった。できるだけ自然にと叔父や叔母の意見は一致で点滴をしないことに。私が訪問したとき「点滴しない人は初めてですから、、、、何もしていないようでほったらかしみたいで申し訳ないですね」と担当の看護師さんが母に言った。慣れていない医療者にとってこの気持ちがつらいのはよくわかる。「最善を尽くす」というのが治す医療のモットーで、治ることができなくなった死に逝く人に対して「見守る」ことも医療の一部だと認識できる人は多くない。清潔や安全のケアがきちんと提供できて家族に対する配慮などなどこれらも立派なケアだ。

ベッドサイドに座っていて、祖母が落ち着きなさそうにごそごそする。眉間にしわが寄ってどこか不快があるように思えた。同じ体位をしていて痛いのかなと思って聞いていると、母がおばあちゃんは痛いところがあると言うから、と。ただ見ているのは家族にとってもつらい。体位を変えてみても祖母は落ち着かなかった。これが自分の仕事場だったらきっと痛み止めや鎮静剤を使っただろうな、と思っていた。ま、あきらめずに祖母に聞いてみようかと質問を続けるとかゆいところがあってのこと。かゆいところを見つけて掻いてあげて、着替えるといえば着替えを手伝いようやく落ち着いた祖母。やっぱり言いたいことがあったのね、と思うと「うーん仕事で患者の声を聴かずに薬を使うことってどれくらいあるのかな?」と思った。しかしながらここには国民性の違いもある。痛みや不快感に弱い患者、それを見るのに耐えることができない家族。その人たちの性格にもよる。一概には言えない。ここでも個別性があるってことか、と。

深夜に電話をもらって駆けつけた。施設の入り口にはスタッフ全員がいた。こんなに夜勤のスタッフがいるのかと思いきや、こういう時はスタッフ全員呼び出されるとか。事務の人までだ。4年という長い間にお世話になった方々。そのお心使いがありがたいと思った。部屋に入ると、酸素ボンベや吸引の機械があった。叔父がいうには呼吸が変化してから酸素はずっとついていたとか。あー何かをしなければと見せ場的な行動があったのね、と日本で働いていたころのことを思い出した。自然に最期を見守るってそれが当たり前になるまで時間のかかるもの。見捨てているのでもなく、ほったらかしにしているのでもなく、家族と患者の時間と空間を見守る、、、。回復することがないと知りながらベッドサイドでガチャガチャは無意味です、、、。

祖母の顔はとてもリラックスしていて良い顔だなと思った。仕事でも思うのだが‘力が抜けって楽になった、ほっとした顔‘。間に合わなかったけどおじいちゃんと再会して良い顔になったね、と。

エンゼルケアってカナダではしないのです。日本では看護の大切な一部だけれど。顎が落ちないようにきれいなフリルのバンドで顎が固定され、手も同じく組まれて、お化粧をしない祖母に軽く化粧がされて。ちょっぴり俗っぽいなと感じたけれど、これが日本の習慣だから仕方ないか、と。

祖母の家に帰って不思議なことがありました。祖母にはとても大切にしている置き時計がありました。それが動かなくなって叔父や叔母たちは何とかして直そうとしたけれど動きませんでした。祖母が帰ってくると家具を動かしていたら、昔のようにチックタックと動き出したのです。なつかしい響きでした。しばらくして、あんなに大事にしていた時計だからそばに置いてあげようとまたもや時計を祖母のそばへ動かしました。そしたらやっぱり止まってしまいました。止まっちゃったねと時計をみてびっくり。祖母が亡くなった時間でした。人間って素敵な力がひそんでいるんですよ。

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やっぱり好きです。緩和。

2012年06月16日 | ホスピス
夏休み中はフルタイムアワーでしっかりお金を稼ぐ時期 (大学院の授業が始まると働く時間はぐっと減るので)。訪問看護がメインの仕事だけれど、今年も頼まれる緩和のコンサルテーションチームの仕事もかけ持ちでしている。

活動域は病院と在宅。コンサルタントとして緩和医療の助言をしたり、プログラムにふさわしい疾病時期か評価したり、ホスピスやTPCUへの移動が相応しいか評価したり、移行が難しいケースカンファレンスに参加したりと、というのが仕事内容。

最初の数日、緩和のペースを忘れていて、つまずいてしまった。あー患者、家族のペースに合わせて、ベストな意思決定につながるように、と歩調を合わせてと、ペースを変えて調子が戻ってきた。難しいとケースが良い方向に向かうととてもうれしい。満足感の高い仕事だ。NPコースに進んでいなかったら、きっとこれを職にしたがるだろうなと思うほど。

この仕事を引き受けた理由はもう一つ。病院や在宅を扱うので、紹介者の医師とのコミュニケーションがとても重要になる。自分の顔を売る良いチャンスだから、と就職活動、地元のネットワーク作りのためでもある。このために仕事用ではなく、私用の名刺まで作ったのだ。で、その成果はいまいち。ここぞという時に勇気が出ない私なのだ。しかし緩和医師とは馴染みの仲。学校のことや将来のことをオープンに話せるのできっと良い方向へ向かうはず。卒業、ライセンス試験まであと一年。頑張ります。

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休日

2011年12月18日 | ホスピス
先々週タームが終わって冬休み中の私。勉強しなくていいから、なんだか一日が24時間以上ある気分。

パンを焼いたりデザートを作ったり凝った料理をしたり、編み物もしている。読みたかった本も図書館に注文した。

ママが帰ってきたと家族は大喜び。

学校がないとフルタイムで仕事も入る。いつもは休み時間返上で勉強していたので、今はゆったりゆっくり仕事もできる。スキー旅行へ行くので詰めて仕事を入れたから、それはちょっと辛いけれど。

あーなんて幸せなんでしょう、としみじみ。

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心の健康

2011年06月11日 | ホスピス
数週間前の話。ホスピスへのアセスメントを頼まれた。非がん患者さん。しかし慢性で難治の疾患をもちここ一週間嘔気嘔吐がひどく、痛みも強く食事も取っていない。子供たちに「今回はだめかも、もう疲れた」と言う彼女。子供たちはいつもと違う。死が近いのなら一日でも早くホスピスへ移してくれと頼む。診察して気付いたのだが、疾患の部位と痛みの部位が一致していない。前回のカルテをみると以前の部位とも違う。血液検査もこれといって目立ったことはない。嘔気嘔吐はどこから来るのだろう。受け持ち医師はありとあらゆる制吐剤を使ってみたが効果がないと言う。診察前に痛みと制吐剤のレスキューを使ったがまったく効果は見られない。患者は薬はぜんぜん効かないと、とても苦しそうにしている。過去の記録には多くの精神科のエントリーがあった。子供のころの虐待による後遺症で精神的に難しい生涯を送っている姿がみられた。もしかしたら身体的な症状は精神的苦痛から起こっているのかも知れない、と思った。子供たちの一人は麻薬や薬をどんどん使えるんですよね。しっかり使って苦痛を取り除いてください、と言う。

私はこういうケースの症状管理の難しさについて話をした。薬物療法単独では効果が得れないまま中毒症状が出たりする可能性など。子供たちに過去の記録から彼女はいろいろ背負って生きてきたことが伺えます。心の傷の深さはこういう時に再び大きくなることもあるし、何かお母さんが'やり残した、これだけはしておきたい’など思い当たることはないですか?と聞くと子供たちは「いつもいつも、悪い母親で悪かったって言うんです。でも本当に素敵な母親なんです。だからどれだけお母さんがすばらしいか伝えるんですけど」と。あ~もしかして、、、、。
私は子供たちに「お母さんがどれだけ素敵なお母さんだったかあなたたちをみてすぐわかりますよ。もしかしたらお母さん、素敵なお母さんだといわれてもお母さん自身は悪い母親って思えて、それがつらいのかも。お母さんが素敵だと言う変わりに、’そういう風に思っていてつらかったね’と彼女の気持ちを認めてあげたらどうですか?」と言ってみた。子供たちはすぐそうすると言っていた。

ホスピスのベッドに空きはなく週末を病院で過ごすことになった彼女。それを伝えにもう一度病室へよった。別人のような和やかな彼女。痛みもなく吐き気もないという。午前中は声かけに目を開けることもなかったのに、目を開ける彼女。「何かよいことでもあったのですか?」と訪ねるとにっこりとうなずく彼女。私の予感は的中したのかも。子供たちに否定され続けた’悪い母親’ようやくその苦しみを子供に認められて心のつっかえが取れたのだろうか。

結局、週末明けには食事も少量だが取れるようになった。数日後には歩けるようにまでになった。もちろんホスピスへの入所は中止となり、自宅退院に向けてしばらく内科病棟で観察ということになった。心の健康はとても大切だと思った。

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3週間

2011年06月06日 | ホスピス
のCRNの仕事が終わりました。は~よくがんばった、と自分をほめたいぐらい目まぐるしい3週間だった。この仕事の忙しさはアップダウンがあるけれど、今回の3週間はノンストップでとても難しいケースのオンパレード。身体的症状の難しさではなくて家族関係や信頼関係の難しさ。一筋縄ではいかないケースばかりだった。

中でも印象強かったのはセナのケース。以前にも書いたが患者に正確な情報を伝えるのは医療者の義務で患者に「私ではなくて家族に言ってください」と言われない限り、一番初めに情報が行くのは患者だ。患者が病名や予後を知らずにいるということはまずない。で、このセナのケース家族がとても強い希望で本人に伝えてほしくない、と言う。こういう家族は多い。しかし患者の権利や情報を隠すことから患者が孤独感疎外感を味わうことなどを話すと、ほとんどの家族が納得をする。しかしセナのケースは違った。そんなことを言えば、それから生きる希望をなくして予後が早まるから言わないで、と。頼むだけではなかった脅しにまで至ったのだ。もし私がセナに伝えたら、ただではおかないと。子供が6人いるが一人がリーダー格でまくし立てるといったらありゃしない。もちろん私は他のチームメイトに助けを求めた。誰もが患者の知る権利を主張するが娘はまったく聞こうとしなかった。

娘の計画はホスピスへ行くと言わず「他の病院へ移る」だった。ホスピスへ行けばサインも名札もどこもかしこもホスピスと書いてあるに隠し通すことはできない。しかしその娘妙に自信を持っている。セナは目が悪いからめがねを隠せば良いと。そういう問題ではない。で、もちろん受け入れ先のホスピスからは拒否された。患者本人の承諾なしには受け入れられませんと。頑として考えを変えない娘。いつもミーティングは嫌気がするぐらいネガティブなエネルギーに包まれていた。彼女の態度も強暴的だからだ。他のチームメイトもうんざりしていた。娘として母を守らなければならない、と言うのが彼女の口癖だった。いったい過去に何があったのか、なんだか根深い何かを感じるのだが、オープンになろうとしないし、助けは要らないと拒絶するし、で八方塞がりだった。セナもセナではっきり返答してくれれば私たちもやりやすかったのに「私も知りたいけど、娘だけにも話してほしいし、半分半分なんてできますか?」ってケーキを半分こにするのとは違うのに、、、、。結局最後には患者に伝えることを決心した娘。セナはあっけらかんと受け入れた。拍子抜けするぐらいのリアクションだった。

いつも思うのだが、家族は患者を守ろうとする。しかし本人が一番知っている。自分の体だもの当たり前だ。私たちは患者を守るために(知る権利を守る)患者の代弁者となる。同時に家族も患者を守ろうとして(情報から守る)私たちに対抗する。両サイドが患者を思ってなのに反対側に立つというへんてこりんな図形だった。

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