郡山対話の会のご協力を得て、中村和恵さんが3.11をめぐって書かれた「ワタナベさん」という詩を朗読しながら、それぞれの思いを語る会が開催れました。(詩の一部はこちらををご覧下さい⇒〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会の案内)
「ワタナベさん」という詩と出会ったのは偶然ですが、これをもとにどこまで対話が可能か。
〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語るというテーマには、福島での原発事故の語りにくさを突破・開放される可能性がどこにあるのか、という思いを込めていました。
が、すっかりそのテーマそのものを途中まで主催者として忘れていたという失態をおかしていました。
ともあれ、対話の進行は郡山対話の会の「たけさん」であれば、そんなのおかまいなしに大丈夫という安心感もあり、すっかりゆだねてしまいました。
対話の記録の詳細に関しては、今後、参加者の承諾を得ながら時間をかけてまとめてまいりますので、以下ではワタシ(渡部)の個人的な雑感を書きしるしておきます。
約5時間にわたる長時間の対話の時間に参加して下さった方々は、最大で17名。
福島市から二本松市、いわき市、郡山市からはもちろん、遠くは熊本から東京からお越しいただきました。
そして、今回の「ワタナベさん」を書かれた中村さんと編集の方までもが、お忙しいなか参加して下さりました。
出版から7年近くが経って、突如再びその声が福島で召喚されたことの不思議な縁を感じました。
さて、会では本当に様々な立場の声を聞きました。
「ワタナベさん」とは誰か?
ワタシ個人は
「ワタナベさん!じわじわ殺されても黙っているんですか。 あんたの人生じゃないですか。
だれのために黙っているんですか。家族だってたまには本音聞きたいんですよ、ワタナベさん!」
という一文に引きつけられたというお話をさせていただきました。
それは自分が誰かに差し向けた言葉であり、誰かに差し向けられた言葉でもあったからです。
高線量に汚染される異常事態にもかかわらず、業務を継続する上司にその言葉を差し向けていました。
ただし、津波ほど被害の直接性がないせいか、被ばくにたいする温度差は顕著でしたから、自分も含めその判断にかなりの迷いがあったことは事実です。周囲を見てもその温度差は顕著でした。
避難所となった職場の運営を同僚とともに奔走しながら、ときに危険性を口にし、ときにその言葉を飲みこむ時間が被災直後でした。
しかし、予定通りに学校を始業し入学式を開始したことに対しては、「5年後10年後、生徒たちにあのとき先生たちは何をしていたんですか?と問われたらどうするんですか」という問いを投げかけた記憶があります。
特にそれに対する周囲からのレスポンスはありませんでした。
そのとき「ワタナベさん」という言葉を知っていたら、その言葉を何度も心で反芻したことでしょう。
しかし同時に、その問いかけは東京に住む知人からワタシ自身に差し向けられたものでもありました。
「お前は教員のくせに妊婦や子どもをなぜ避難させようとして動かないんだ」と責められたことがあります。
被ばくの恐怖と教師としての罪悪感をえぐるようなその言葉に、ずいぶんと焦燥感に駆られた覚えがあります。
これがワタシにとっての「ワタナベさん」の詩がもつ両義的な意味です。
実は、この会の参加者の一人に誘われて、翌日にはあの「大川小学校」の遺族らが運営する「小さな命の意味を考える会」の現場ガイダンス&座談会に参加させていただきました。
東日本大震災による津波によって校庭にいた児童78名中74名と校内にいた教職員11名のうち10名が死亡したという事故です。
詳細は述べられませんが、現場に訪れるのは4度目ですが、遺族・生存者の卒業生の言葉とともに現地を歩くことの大切さを痛感したものです。
たくさんの印象に残るお話のなかでも、とりわけ印象に残ったのは、防災放送も津波の襲来を告げ、近隣住民や迎えに来た保護者が「ラジオで津波が来るといっている山へ逃げて!」という忠告を耳にし、児童も教員の何人かも「山さ逃げっぺ!」と訴えていたにもかかわらず、津波に襲われる校庭に50数分留まってしまったのはなぜなのか。しかも、避難し始めたとき、その先が山ではなく、三角点だったのはなぜなのか、という論点です。
つまりは、教員集団の思考と判断の停止がどうして生じたのか、というものです。
遺族の佐藤敏郎さんは同じ教員として、なぜ「山へ逃げろ」の一言が言えなかったのか、と何度も悔しそうな思いを述べられていました。
同業者として身につまされたものです。
裁判の中で裁判官から「学校は子どもの生命を守れる場所ですか」というといかけに、被告である教委は一言も返さなかったそうです。
ここにも「ワタナベさん」たちの姿を垣間見た気がしました。
実は、参加者の一人にその当時の教え子がいました。
卒業以来、何度か対話の場に参加してもらってきましたが、迂闊なことにこの話をじっくりしたことがなかったことに気づかされました。
そして、そのとき、当時の彼女自身がこの地で生き残ることに絶望感を抱いていたことをはじめて知りました。
「5年後10年後、生徒たちにあのとき先生たちは何をしていたんですか?と問われたらどうするんですか?」
「ワタナベさん」に問うたはずの当時の言葉が、そのまま自分に還ってきたように思え、足元が揺らがされるような気持ちになりました。
教育の重要性についても話になりました。
この手の話では必ず出てくる話題です。
アレクシエーヴィチの「この国には抵抗の文化がない」という言葉を用いたことに対し、今の大人世代に期待することはないという意見も挙げられました。
せめて我々大人の世代ができることは、子どもたちにこの原発事故の教訓を伝えることしかできない、というお話も出ました。
この問題は何世代にもわたって解決するしかない。
だから、自分で考え、判断する、何でも忖度なく話し合える文化を伝えたい。
まったくその通りだと思いました。
しかし、いつもこういう話に出てくる「教育は大事」論には違和感も抱いてきました。
そういう教育が不必要だ、ということではありません。
その手前にまず、大人が語ったり考えたりする姿勢を示さずに、そんなことが可能なんだろうか?という疑問があるからです。
もう少し言いましょう。
自分たちが原発事故前にどうであったかのか、その責任を問おうという姿勢なしに、いくら福島県議会が「脱原発」「廃炉」を決議したとしても、何の意味があるのでしょうか?
どうして喜んでオリンピックを福島に誘致できるのでしょうか?
しばしば指摘されるように、戦後、軍国主義者が一晩で民主主義者に変わった転向の問題はここにも垣間見えてなりません。
教育の大切さを説くのであれば、その大人がこれまでなしてきたことを反省し、なぜこうなってしまったのかをもっと語りつくさなければ、若い世代に響いていかないのではないでしょうか。
もっとも、こんな話を、こうした問題意識を持つ方々ばかりの場で話すことは蛇足なような気がしたので、対話の中に出すことはありませんでしたが。
いみじくも、大川小学校の座談会で知り合った東京の女性のお話が、その点でとても印象に残りました。
彼女は大学で地震研究を学んでいたそうですが、その分野において東日本大震災という出来事はかなりの学問的危機をもたらしたそうです。
彼女自身はそのショックで研究に取り組むことができなくなり、就職はまったく関係のない分野へ進んだというのですから、相当な衝撃だったのでしょう。
印象的だったのは、3.11後に地震研究の教授・助教授たち全員が、それぞれの講義の前に地震を予測できなかったことの学問的反省・謝罪の弁を述べてから始めたそうです。
この研究で何をしてきて、なぜ今回のことが予測できなかったのか。そうした先行世代の失敗に対する潔さを目にしなければ、その後に続く世代の姿勢も思考も何も変わらないのではないか。そんなことを感じさせられました。
くり返すと、子どもの思考・判断・議論の力をはぐくむのは大切ですが、果たしてその手前で大人世代が〈語れない〉などといっている状況では、戦後民主主義と同じ運命を辿らないだろうか、という気がするのです。
今回の議論では、いくつかのキーワードがありましたが「今さら」という言葉が何度も出てきたことをファシリテーターのたけさんが途中で指摘してくれました。
「7年も経ってまだ言ってんの」、「7年も過ぎて今更なんなの」
こうした話がつい最近も身近で話題になったことを話してくれた方がいました。
「あきらめ」という言葉といっていいのかわかりませんが、みんなが前向きになっているのに、何を今さら過去をほじくり返すのか。
7年が経ち、ますます語りにくくなっている福島のなかでは、こうした気分が同調圧力となってますます語りにくくしているという話は何人かの人から挙げられた感想です。
ますます、大人たちが目をふさいでいくしかないような気持ちを追認させられたものです。
「抵抗」もキーワードの一つでした。
「ワタナベさん」は誰にでも備わっている複数的なものではないか。
だから、実はこの詩を読むものは共感とともに、自分自身が責められていると感じる言葉でもあるのではないか。
「ワタナベさん」の葛藤は現場にいなければわからない、被災当事者の葛藤や困難があるのは事実です。
それをわからずに外部の人間が差し向ける「ワタナベさん」への問いは、その葛藤で苦しむ人々を追い詰める言葉になりかねない。
実際、対話では当事者の内と外の話になり、事情も知らない外側の人間がとやかく言うことは避けるべきだという意見や、いや外側の人間が言うべきことを言わなければ誰もが忖度してしまうことになってしまう。そんなことには耐えられないという話にもなりました。
「ワタナベさん」は抵抗しない。
アレクシエーヴィチは福島や日本の人びとがみんな「ワタナベさん」にみえたのでしょうか。
その言葉に「ふざけるな」という感情を抱いた知人のエピソードも紹介しました。
何もかもが破壊された故郷に帰ってきて、自分たちの手で復興を目指そうとした人間にとっては「バカにするな」という思いだったのかもしれません。
では、その場合の「抵抗」とは何を意味するのか。
訴訟やデモ、反対の表現をする形の抵抗はあるとしても、この地に残ることを選択する中で日々を生き延びることそのものもが「抵抗」であることを、郡山対話の会に参加する中で教えられたものです。
世間という圧力に潰されずに、しかし自分の子供たちの生命をなんとか守り切ろうとしたたかに生きる母親の姿はその一つではないでしょうか。
しかし、それでは世界は変わらない。そんな声も聞こえてきそうです。
どうせ自分の力なんて世界を変えることに何の力も持っていない。
地元出身者でありながら原発事故のあいだ他所で生活していたこともあり、当事者性もないと感じ、一切この話題について語らないと決めた自分がいると教えてくれた人もいました。
しかし、そこにはどこかこの出来事と自分とのあいだでどのような折り合いをつければいいのか、と考えに考えつくした痕跡が垣間見られた気がします。
この当事者性をめぐっては、今回の議論のなかでもっともも熱を帯びた感じがしましたが、驚いたのは先の発言者が対話を通じて、自分の言葉で「自分の旗を立てる」ことがレジスタンスそのものなんだ、という境地に立ったという言葉です。
その境地に至る回路はご本人に教えていただきたいことですが、「抵抗」の意味が豊かになったというのは別の参加者の意見でもありました。
「ワタナベさん」という一篇の詩「抵抗」という言葉に結びついていくことは、もとより予想できませんでしたが、それでも「ワタナベさん」は変わることができるんだろうか、という思いが残りました。
あのときに存在した無数の「ワタナベさん」。
実は、ワタシ自身、こうした対話の場をやり続けることに意味などあるのか、という無力感というか無気力感を抱くことがしばしばです。
話し合ったて、自分の気持ちが解消されて終わり、場の消費で終わり、これが何かを生み出すことをどう見出だせばいいのか。
そんなことを日々抱いているのですが、こうした活動を続けることとのものが「抵抗」の一つの形であるのかもしれないなと得心させられました。
大寒波の大雪の後に、17名もの方々が集まってくださったことは望外の喜びでした。
詳細の対話記録は時間をかけてまとめさせていただきます。
こうした言葉の一つひとつが、今回の「ワタナベさん」のように何十年何百年後かに回帰してくれるかもしれないという、希な望みを抱きつつとりあえずの雑感を書きつらねました。
また皆さんと語らえる日を楽しみに。(文:渡部 純)
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