2024年6月30日午後2時〜
カフェ・ド・ロゴス:映画『越後奥三面 山に生かされた日々』で語り合おう@如春荘
【話し手】
・フォーラム福島総支配人 阿部泰宏
・民族文化映像研究所理事 姫田蘭
・福島大学准教授 林薫平
【カフェマスター】荒川信一
(注:簡単な脚注を文中※印の後に適宜配し音声不明瞭のところは伏せ字○○とした)
◆荒川信一 お集まりの皆さんこんにちは、暑い中お集まりいただいて大変ありがとうございます。カフェ・ロゴ 映画『越後奥三面』をみて語り合おうということで、このような回を企画致しました。素人ばかりで語り合うのも――と思っておったところなんですが、このような素晴らしい豪華ゲストをお迎えして、この会を迎えることができました。まず最初にゲスト講師の方々のご紹介をしたいと思っております。
映画ご覧になってきた方、ご存知だと思いますけれども、今日きていただきました。民族文化映像研究所理事の姫田蘭さんです。後ほど自己紹介のような形でお話いただければと思いますけれども、姫田忠義監督のご次男ということで映画に携わって来られた方です。
続きまして、福島大学食農学類准教授林薫平さんです。今日は姫田忠義と宮本常一との関わりについてお話をいただけるとおうかがいしております。よろしくお願いします。
それから話を回していただき、映画の専門の見地から色々お話しいただきたいと思っています、フォーラム福島支配人のお阿部泰宏さんです。
今日ですね、後ろのほうにあると思いますが、ポストカードは、姫田さんからのみなさんにプレゼントだそうです。ありがとうございます。
ここからは主催者挨拶で、この紙使いましてほんの少し時間いただいて、私の方からご挨拶がてらこの会を企画した経緯というものを、本当に私ごとなんですけども語らせていただければと。ちょっとお時間ください。
2016年、仕事で3年間、只見町におりました。只見町はユネスコ・エコパークとして登録されている町で、今なおそこかしこに山に寄り添う暮らしが色濃く感じられる土地柄です。
また、只見は昭和30年代の高度成長期、国策によって田子倉ダムなどがつくられた歴史を持ちます。集落が水没し、まちは一時的な好景気に湧くといった時代の波に翻弄されたというような経験を持つ地域です。
そのまちで3年間過ごしたときにですね、只見生活の中で私はたくさんの人に出会うんですけれども、自然愛好家とか都会から移住して来られた方など多くの魅力的な方にお会いします。
その方々の中で女性3人組が只見で自主上映会を行った映画というのがありまして、それがですね、大西暢夫監督の『水になった村』(※2007年)というドキュメンタリー映画でした。
この映画は岐阜県の徳山ダム。徳山村というところで、同じようにやはりダムに沈む村に住み続けたご老人たちを撮り続けたドキュメント映画なんですけど、私深く感銘を受けまして、その映画を福島市でも上映したいと思いまして、阿部支配人にご相談して、福島でもそののちに実現化するんですけれども、コロナ禍だったからちょっと寂しい状況になってしまったんですけれども、そんな経緯があります。
で、その中でですね、只見の自然愛好家の御大、実は今日只見から来て、この映画をみていったんですけれども、只見に帰るということで、この会には参加できませんでしたけれど、その彼がですね「大西監督もいいんだけど、もっとすごいドキュメンタリーあんだぞ」。「もっと」というのは大西監督には失礼かもしれませんが。
というところで名前が出てきたのが、この姫田監督の『越後奥三面 山に生かされた日々』でした。そうなんだ……ということでみたい、みたいと思っていて、また後日ですね。まあ同時期なんですけど、阿部支配人とお話をする機会があったときに、この映画の名前が出てきて、「この映画をフォーラムで、かけないうちは。俺が仕事をやってるうちには絶対かけたいんだ」という熱い思いを聞きまして、2人の師匠といいますか、尊敬する人から同時期にこの映画の名前を私が耳にしまして、その時からですね、この映画をみずして死ねるかと言うような一本になりました。
今回上映ということで、私はこの映画を今日初めてみさせていただきましたけれども、せっかくですので、上映を記念してこのような会を開きたいということで企画を致しました。
このような講師の方々、それから皆様にお集まりいただきましたことを、本当に厚く御礼申し上げたいと思います。どうもありがとうございます。
さっそく、講師の方々のお話の時間としたいと思いますけれども、業務連絡といいますか、この様子を写真に撮ってホームページ等にあげたりすることもあるんですが、写真撮影はお断わりだという方がいれば手を挙げてもらってもいいですか?いらっしゃいますか?はい、わかりました。映らないようにしたいと思います。おひとり手があがりまして、ひとりということでよろしいですか?はい、ありがとうございます。
予定は4時半までということ、4時から4時間半という感じでお話を進めていただければと思います。腰が痛いとか、椅子が必要な方いらっしゃれば、椅子もありますので遠慮なく私の方にお申し出ください。
それでは阿部支配人にバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いします。
◆阿部 ただいまご紹介いただきましたフォーラムの阿部です。今日はお暑い中こちらに来ていただきまして、ありがとうございます。早速、話に入っていきたいと思うんですけれども、林さんから今日ご覧になった感想など。
◆林 はい、ありがとうございます。私も初めて『越後奥三面』拝見しまして、また蘭さんのフォーラムでのお話をお聞きしまして、すごい歴史があるということをつくづく感じました。
特に印象に残ったシーンとしましては、熊の猟に出かけるシーンでありますとか、あと最後の方ですね、丸木舟を簡単な斧のような斧とノミで作ってしまう。また最後のですね。ポスターの写真にもありますけれども、伝統的な毛皮を身にまとって3人で、ダムに沈んでしまう前に、狩りをするという目的ではなく、もう一回雪山に行こうという、悪天候の中ですね、3人の雪山歩きがありましたけれど、なんとも言えないシーンでしたね。
この後、皆さんの感想もお聞きしたいと思うんですけども、まず印象に残ったシーンとしてはこのようなシーンでした。
なお、雪遊びをしていて、雪の玉が顔にぶつかっちゃった赤いジャージを着たヒロインの小学生のお嬢ちゃんがいましたけれど、多分映画が撮影された時期を考えてみますと、僕と同じぐらいな歳なんじゃないかなと思いますね。いまお会いできたらたぶん40代後半ぐらいなんじゃないかなと思いますね。会いたいなと言うふうなことも考えました。まず感想としては以上です。
◆阿部 ありがとうございます。質疑応答をしたいなと思いますが、まずは後ほどそれをやっていきたいなというふうに思います。今日は意外と、僕の予想した以上に、世代的に若い方も来てくれて、すごくうれしいです。
この映画をみたのは今から8年前。2016年、山形だったんですけれども、映画をみたときにすごく重なったのが、やっぱり震災後にこの映画をみてよかったなというふうにすごく思いました。故郷を失う、失郷するっていうメンタリティは、三面の人たちも、立場も状況も全然違うんですけどもすごく通い合うものがあったな、というか、もう今は存在しない人たちかもしれないけど、時空を超えて繋がったなという思いがあって、やはり映像の力ってすごいなって思ったんですね。
今日は若い方もいらっしゃるので、後ほど、どういう風に受け止められたのか、そういったところもお聞きしたいなと思っています。
姫田さんは、今までいろいろな場で姫田忠義さんの映像作品というのは、みていただく機会があったでしょうし、こういった語らいの場にも立ち会われたことがあるかと思うんですけれども、どうでしょうかね。今の時代の方々が民映研の作品をみて、なかなかこれ言い表すのは難しいかもしれないですけど、ザクっとした感じでいいですけれど、どういった感想をお持ちになるのか、どういった所感を皆さんお持ちになるかとちょっと聞かせていただければと思います。よろしくお願いします。
◆姫田 民映研の姫田蘭と申します。よろしくお願いします。この度、劇場でかかるように、DCP(※デジタル・シネマ・パッケージ)というフォーマットでデジタルリマスターをやったおかげでですね、今まで―明日で民映研創立記念日なんですね。7月1日。1976年ですから48年ぐらいです―長い歴史の中で大変革だと思っています。
それで東京で上映しまして、そこで一番最初にやっていただいたんですけど、7割がたの方が民族文化映像研究所も姫田の名前も知らずに予告編をみて来てくださった。(音声不明瞭)お客さんに初めて知っていただいているという、ものすごく驚かれる。「今、この時代にみるべき映画だ」と言ってくださって。
40年、50年、姫田を支えてくださった方が全国におられまして、今でも上映活動をやっているんですけれども、これは本当に地道な出来事になってしまいますが、今回のように1週間、僕らにとってはものすごいロードショーなんですけど、一日何度も上映されるのは、うちのスタッフにとっては本当に初めての経験。
本数はいっぱいあるんですけど、40年経ちまして、1984年に完成しましたけど、ちょっといろいろ復元している部分があるんです。例えば丸木舟の部分ですね。丸木舟は普段は作られてない。
それから、例えば「熊オソ」っていうのは昭和30年代には禁止されたし、ワナ猟は禁止されてますし、例えば最後の衣装、印象的に皆さんに言っていただいてますけど、昔の狩人の衣装を着て山にのぼることはしてないわけですね。猟銃で取りに行きます。
ちょっとよーく見ると、見ていただくとわかるんですけど、40年、たった40年前なのにものすごく昔の生活をしている人たちがいる、と思われていて、そこはちょっとやっぱり言わなきゃいけないなと思ってですね。あそこには自動車ありますし、テレビもありますし、ウォークマンもありますし、さすがにインターネットと携帯電話はございませんでしたけど、何ら変わらない生活で、これは姫田も映像で残していますけど、「どうしてあんな古く見えるんですか?」と言われて、「これはね、あえて排除している部分がある」と。
車があると、現場をよけて撮ってるし、話を聞いているときにテレビがあったらテレビをよけて撮ってるし、だから印象的になんかすごく昔の場面が……。
まあ、でもそれが狙いで、姫田としては狙いで、なくなってしまった生活行為を、完全な復元では、というよりは、若い時になさっていたことをやっていただくという復元を今撮らないともうそれは途絶えてしまうという思いがあったので、いろいろそういうシーンが核心。自給自足の生活、確かに自給自足ともいえますが、購買のマーケット、トラックに積んで野菜とか魚とかも来ますし、そういった意味では日本全国と変わらない生活をしているわけです。
あの大木はチェーンソーで倒しているんです。で、彫るのはよくやってるんですけど―姫田は丸木舟好きでして―ちょっと僕の話、いろいろあっちゃこっちゃ飛ぶんで、ぜひこの今日のパンフレット、最後から2番目のページに作品が出てるんで、それを見ていただくといいんですけど、『奥会津の木地師』(1976年5作目)という、福島県の田島、そこの記録がこの映画の1975年ですから、正確にいうと74年に撮られた民映研でのヒット作があるんですね。
実に貸し出しナンバー1の『奥会津の木地師』というふうに〝奥〟会津、とつけちゃったんですね。まずこれはあんまりいいとは思えなんですけど、姫田、奥をつけてしまうんですよ。で、その土地の方にとっては、なんで奥をつけるんですか?(林 田島は南会津ですから奥会津ではないです)
それでこの奥三面、この集落は奥三面とは言わないです。大字三面なんです。で、三面の衆も三面と言ってますけど。
自分たちが奥会津といっているのは、今だからいいと思います。三面っていう集落が村上にできたわけです。移住されて。今はないところを奥三面と呼ぶのは不都合がないと思うんですけど。当時はなんで奥をつけるの、と。
(阿部 それは差別的な意味合いを感じるから、なんで?ということでしょうか。福島にも町庭坂と在庭坂というのがあって、うちは在庭坂で小さい頃からコンプレックスがあって、なんでうちの住所は在なんだ?と)
◆林 本当に呼ばれていればまだしも、奥は、本当はつかないところわざわざつけちゃったっていう。地元の人は複雑ですよね。
◆姫田 でも最近は逆で、これ40年前の話ですね。今は行政の方が率先して奥飛騨とか率先して付ける時代になって、姫田が生きていたら、ほらみたことか、と思うかもしれない。(林 その第一号だと思います)
◆姫田 先ほど申しましたけれど、割と都会生活者だったので、偏見はないんですけど、皆さんお生まれになったところの因習だとか、そういうものがすごく、この村の中から出たいっていう生き方されている方もいらっしゃると思うんですけど、そういうところが姫田全然なかったものですから、村の生活をみると喜んで。知らないですから、自分が経験してない生活をみるんですから、喜んで入っていけた。
それがまるっきりね、すみません。『奥会津の木地師』というのは木をヨキ一一丁で倒し―それは機会があったらご覧いただきたいんですけど―本当に40分で一本倒すんですね。それで、やま型にとっていって、お椀の木地を作るんですけど、この奥三面の人たちはそれから10年後ですね。「丸木舟作ってたんですか?じゃあやりましょうよ」という。得意の説得があって。だからやってもらって。ただ切り倒すのはチェーンソーでやったんですけど。
それがどんどん発展して、アイヌの北海道二風谷というところでは、『シシリムカのほとりで』(副題 アイヌ文化伝承の記録1996年)っていう作品なんですけど、その中では切り倒した後に縄文土器、要するに石器で丸木舟を作るっていうシーンがあります。見事に石器で彫り上げるんですね。
◆阿部 ありがとうございます。『奥会津の木地師』に関してはこの岩波ブックレットで『忘れられた日本の文化』(副題 撮りつづけて三〇年1991年)という、姫田さんが書いた本があって、ここで姫田さんが、今、蘭さんがおっしゃったことを補足しますと、ちょっと読んでみると
木の内側を深ぶかと(これ、けずっていくというのかな)けずって(※本書には「刳って」とあり、それに従えばこの読みは「えぐって」と思われる)行くこの手引きのロクロが日本に登場したのは、奈良時代のなかごろだと聞いたことがある。もしそうだとしたら。この木地師、藤八(※小椋藤八)さん、平四郎(※星平四郎)さんらの青年期のころまでの千数百年間、それが絶えることなく伝えられてきていたのである。進歩がなかったと笑うことはたやすい。が、ヨキ一丁で巨木を倒す作業からはじまり、手引きのロクロにいたるこれら一連の作業を見つめながら、私はついに一度も笑うことができなかった。それどころか、私はただ感嘆し、いつしかそれが感謝の念に変わって行った。
なぜなら、五〇年も昔にすでに止まってしまったはずのこの一連の作業を、藤八さんたちは少しも忘れず見事に実現して見せてくれた。そしてそれを通じて私は、幼いときからおのれの体にたきこんだものは、老いても決して忘れないという人間のすごさ、素晴らしさを感じることができたからである。
しかも、この老いたる人たちの伝えてくれたものは、ただ単なる人間個人のすごさ、すばらしさのみではない。あえて言えば、千数百年の歴史を一身に体現したもののすごさ、素晴らしさである。(※「壮絶――体の中に伝えられたもの」p33〜34)
今日の丸木舟ですね、あのシーンなんか見てると、まさにこの『奥会津の木地師』のスピリットと一緒かなっていうか、まあ、それは再現してくれっていう姫田さんの思いっていうのは、それを是非映像に記録しておきたい、これはいずれ絶えてしまうものだから、というその哀惜の情から来てるんだろうなというふうに思われるわけですね。
この後、皆さんの方でなにかおっしゃりたいこととか、お聞きになりたいことあったら、双方向でやりたいなと思っているので、どなたか挙手を、ぜひ聞いておきたいということがあったらどうぞ。
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