概念については
以前に 一つ お話しました。
そういった概念が ないんだから
また、同じような 問題で
やや 深刻さを 感じる ことが 発覚しました。
● 発達障害の 子供には
幼い子のように 『いつまでも』 注意を 払い続ける
吾子は 満身創痍です。
その一つが 外反母趾。
小学校 中学年 ~ 中学は 殆ど 不登校で
外出もせずに 靴を 履くことも なかった ハズなのに・・
理由を 聞いてみると
「上履きが 小さいのを 履いていた。」
当時は 亡父が 入院中で
私は 残業の 激しく 多い フルタイムで 働いていて
薬も 飲んでいなかったので
月一日を 除いては 頭が 重かった 日々。
子供の事に 細かい 配慮が
行き届いていなかった みたい。
外履きを 買いなおしたときに
上履きは 買いなおさなかった ?
と 尋ねると
「いつも 小さい 上履きを
履いていて、踵を 踏んで 履いていた。」
どうして 言わなかったの ?
「そもそも、それを 言うという 概念が なかった。」
未就学の頃から
人と ぶつかって 怪我をしても
転んだと 私には 言っていた 吾子。
先生からの お話で 事実を 知るのですが
日中の 生活の様子は
聞いて欲しい・話す 子供では ないと 感じていました。
親への 信頼が 足りないのかと 思っていましたが
発想自体が 欠落していたのかも。
もしも
幼いときに 人見知りが 無かった という事実に
もっと 違和感が あったなら
吾子への 配慮は 違ったものに 出来たかも。
最近は 安易に 発達障害の 診断が 出るとも
聞きますが
うちの子 みたいな タイプは
もっと 早くに 気が付いて あげられれば
良かったのに。
でも、最も 望んでいるのは
診断だけでなく、スキルトレーニングで
「持っていない 概念・発想を 知らしめる」
ことでは ないかと 私は 思います。
ただ、一般的な やり方を 習得する ということは、
いつも 自分の 本当の 世界から 遠ざかった 場所で
生きているような 感覚。
「違和感」を 持ち続ける 才能は
やがて 新しい 考えや 物を 生み出す 原動力なのに
一般に 協調することに
毎日 激しく 労力を 消耗してしまい
どう あがいても
一般には 届かない レベルを ようやく 作り出して
生きるのが 精一杯になる 可能性も。
私は 吾子に
一般に 協調する 方法を 教え続けましたが
幼い子には
辛い割りに 実入りが 少なかった みたいです。