最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

絵画指導(幼児)&折れ線グラフ(小2児)

2012-06-26 23:39:20 | 日記
【6月26日・火曜日のBW教室】(はやし浩司 2012-06-26)

●年長児クラス(ぬり絵とお絵描き指導)

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●小2児クラス(変化と折れ線グラフ)

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 幼児教室 幼児教育 抽象画 印象画 描き方指導 幼児の才能教室)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司

モンスタママの子育て狂騒(3)

2012-06-26 07:39:29 | 日記
●ザワザワとした不安感(6月26日朝記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 昨夜床に就いてから、あちこちのニュースサイトをのぞく。
Bloombergm、ロイター、MSN……。
とたんザワザワとした不安感?
得体の知れない不安感?
「このまま世界は、どうなるのだろう……」と。

 欧州不安は、今や、世界中に拡大しつつある。
インド、ブラジルからも、資金の引き上げが始まっている。
予想はされていたこととはいえ、実際に始まると、「この先は……?」と、どうしても考えてしまう。

わかりやすく言えば、世界中が、札の印刷合戦をした。
「我も、我も……」と、札を市中へばらまいた。
日本にいるとその実感は薄い。
が、世界中が今、バブル経済状態にある。
そのバブルが、はじけ始めた?

 が、それにしても、この不況感はどこから来るのか?
今、市中を歩いても、どこも元気がない。
飲食店や販売店は言うに及ばず、ふと足下の商店街をながめると、どこもシャッターを下ろしたまま。
こんな状況であるにもかかわらず、消費税はあがり、札は紙くず化する。
本来なら、強固な政府が、国民を先導しなければならない。
が、この体(てい)たらく!
与党は目下、内ゲバ状態(6月25日現在)。

 消費税UPに賛成なわけではないが、今ごろ消費税をあげても、焼け石に水。
どうしようもない。
その前に、どうして行政改革をしないのか?
無駄な公共事業をやめないのか?
借金に借金を重ね、道路ばかり立派にしても、しかたない。

 それを話すと、ワイフはこう言った。
「若いときなら、5年くらいなら穴にこもることもできるわ。
経済の回復を待てばいい。
でも、私たちの年齢になると、それができないわね」と。

 5年も待ったら、私も70歳。
再起不能。
だったら「今」にしがみつくしかない。
この緊迫感。
この悲壮感。

 そう言えば、G県で理容業を営んでいる友人(65歳)も、こう話していた。
「もう店を閉めようかと思っている」と。
が、閉めたら最後、未来が消える。

 で、先ほど、個人商店の景況概況を調べてみた。
が、カメラ店、メガネ店、文具店……どれも10%~30%の落ち込み。
自転車屋も悪い。
群馬県T市の調査結果をみると、従業員1~2人の零細商店ほど、落ち込みがはげしい。
大手販売店の安売り競争が激しさをます中、小売店が、どんどんと廃業に追い込まれている。
つまりこの日本は、足下から、総崩れ。
ガタガタ。
そこで若い人たちは、公務員を目ざす。
「公務員になれば、安泰」と。

 が、この状況は、5年前、10年前のギリシャそのもの。
その結果が今ということであれば、どうしても悲観的にならざるをえない。

 ……そう言えば、そのギリシャ。
緊縮案賛成派が政権を握ったが、握ったとたん「緊縮案の実行を2年、延期してほしい」と。
つまり「公務員の削減を2年、延期してほしい」と。
だったら、「賛成派」というのは、おかしい。
「拒否派」と同じ。
あの「やりなおし選挙は何だったのか」と。
そういうことになる。

だからということもあり、ドイツのメルケル首相が、態度を硬化させた。
「こんなことを繰り返していたら、モラル・ハザードが起きる」と。
(すでに起きているが……。)

 はっきり言えば、右も左も、メチャメチャ。
この日本もメチャメチャ。
数日前、ある経済評論家は、こう書いていた。
「これ以上、EUに深入りするな」と。
が、日本はすでに深入りしすぎている。
銀行株、証券株の値動きは、EUの動向にそのまま直結している。
それがその証拠。

 「どうなるんだろう……?」と考えたところで、思考停止。
昨夜は、睡眠導入剤を、そのあと半分割って、のんだ。
「私の知ったことではない」というニヒリズム。
「私ひとりが心配したところで、どうにもならない」という無力感。
それらが混然一体となり、ザワザワとした不安感につながった?

 ともあれ、昨夜は昨夜。
今朝は今朝。
やるべきことをやり、前に進むしかない。

(朝食までの目標)

(1)マガジン7月号の準備をする。
(2)BLOGに原稿を載せる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
【モンスタママの子育て狂騒】(第3回目)

費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)

●費用は一人二万円

 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこう言った。「家でするより楽で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房

 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と言うより、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけでも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」

 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて私も言った。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢心である。その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでなければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生

 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車屋の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガラスさえ拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人はその人だ。が、問題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、その女性が育った家庭環境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。農家の出身だが、子どものころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、その女性はそういう女性になった。

●虚栄の世界で

 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息子がいたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習わせた。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは一事が万事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。たしかにその女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったのかどうかということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?

 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五月の節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は火の車だったが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの

 子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ドラ息子化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになるから、やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいことは言うまでもない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

 日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

●摩擦はつきもの

 こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。が、その直後から、一〇人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。

 が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」

 同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎朝六時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題

 二〇年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに二度ほどかりだされて意見を述べることになったが、そのときのこと。そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。

 いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。

●個人攻撃をしているのではない!

 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!

 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、四つも五つも行かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ四つや五つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたのご主人は、どちらの大学ですか?
学歴に興奮する親たち(失敗危険度★★★★)

●おもしろい習性(失礼!)

 親というのは、自分で自分の子どもをバカと呼ぶのは平気だが、しかし他人に言われるのを許さない。それはそうだが、それと同じように、自分の子どもが評価される場に落とされると、独特の心理状態になる。動物的な嫉妬心や闘争心が刺激されるらしい。

その一つ、親、とくに母親は、学歴の話になると、興奮状態になる。これは親が共通してもつ習性(?)ではないか。夫の学歴、自分の学歴、さらに子どもの学歴となると、興奮状態になる。なぜそうなのかということは、別として、これをうまく利用して、金儲けにつなげている人たちがいる。いわゆる受験屋と呼ばれる人たちである。

●ある教育機器メーカーの戦略

 ある教育機器メーカーの説明会でのこと。私も興味があったので、招待状をもって、その会にでかけた。予定では九時三〇分に始まるということだったが、行ってきると、黒板に、「一〇時から」と書いてあった。そこでしばらく待っていると、うしろのほうからヒソヒソ話が聞こえてきた。サクラである。主催者の教育機器メーカーが送り込んだサクラである。

耳を傾けると、「あなたのご主人は、どちらの大学ですか?」「あなたのお子さんは、将来、公立、それとも私立?」と。とたん、会場の中におかしな緊張感が漂い始めた。しかしそれこそまさに、その会社のねらいである。サクラが、「あの中学はむずかしいそうよ」「進学塾では役にたたないそうよ」と言い出した……。

●親たちは興奮状態に!

 それに拍車をかけるように、一〇時からの説明会では、まずビデオが映し出された。N研という東京の進学塾が制作したビデオだが、子どもの受験勉強の様子、受験会場に行く様子、受験しているときの様子、そして合否発表の様子がつぎつぎと映し出された。意味のないビデオだが、しかし合否発表のところでは、受験に落ちて、泣き崩れる母親や子どもの姿が、これでもかこれでもかとつづいた。時間にすれば、約一〇分間程度だったが、会場がますます異様な雰囲気になるのがわかった。しかしそれこそがまさにその会社のねらいでもあった。

 やがてその会社の教育機器の説明会が始まり、それが終わると同時に、ワンセット二四万円もする教材が、飛ぶように売れていた。驚いたというより、それはあきれんばかりの光景だった。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

近所に人に息子の制服をみられたくナ~イ!
見え、メンツ、世間体(失敗危険度★★★★★)

●家庭教育の元凶

 見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。

まず(1)見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だからどうしてもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親も苦しむが、それ以上に、子どもも苦しむ。
 
つぎに(2)メンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も顔を出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で送り迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だった。また駅の近くの親戚の家で、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。が、こういう姿勢は子どもの自尊心を傷つける。
 
最後に(3)世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「どうしてもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思いますが」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」と。不登校児になった子どもを、親戚の叔父に預けてしまった親すらいた。こうした親は何とか「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立場の人間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、ムダ。このタイプの親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中が自分に注目しているようかのように錯覚している。

●「しかたないので、C中学にしました」

 見えやメンツ、それに世間体を気にするということは、結局は自分を飾るということ。そういう親には共通点がある。自分の周囲をウソで塗りかためる。たとえば……。

「私はどこの中学でもいいと思っているのですが、息子がどうしてもA中学と言いますので、先生、息子の願いをかなえてあげてください」と。そこでその息子にそれとなく聞くと、「ぼくはどこでもいいけど、ママがそうしてもA中学にしろと言ってうるさい」と。あるいは「学校の先生はB中学でも合格できると言っているのですが、息子はどうしてもC中学のほうがいいと言って私の言うことを聞きません。しかたないので、C中学にしました」と。このときも息子に聞くと、「先生がB中学は無理だと言ったので、C中学にした」と。さらにこんな例もある。
 
Tさん親子の間には、息子が中学生になるころから、会話という会話はほとんどなかった。食事も別々、廊下ですれ違っても目をそむけあう。どんな会話をしても、すべて一触即発。そんな関係であるにもかかわらず、Tさん(四五歳女性)は、ことあるごとにその息子が東京のT理科大学に入学したことを自慢していた。「猛勉強をしてくれたおかげで、T理科大学に入ってくれましてね」と。Tさんの家の居間には、息子の卒業証書が高々とかかげられている。もちろん息子はほとんど家には帰っていないのだが……。

●私は私、人は人という人生観

 他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は「自分」を犠牲にすることになる。が、これほどつまらない人生もない。自分の人生をドブへ捨てるようなもの。しかしそれは同時に、他人の目から見ても、それほど見苦しい人生はない。笑うとか笑われるとかいうことになれば、そのほうが笑われる。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。

 この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」という、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうもので、一朝一夕には確立できない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

でも、あの子はD小学校ですって!
ブランドにこだわる親たち(失敗危険度★★★)

●テーマはブランド

 参観日のあと、母親たちが校門の内側に立ってワイワイと話し合っている。教育の話かとおもいきや、そうではなかった。一人の母親がもっていたブランドのバッグについてだった。「どこで買ったの?」「わあ、ステキ!」「いくらだった?」「あら、いいわネ~。私もこんなほしいわ」「あら、あなたのも、ステキじゃない」と。

●人間の思考回路

 人間には思考回路というのがある。人というのは、一度自分の頭の中にその思考回路をつくると、その思考回路にそって、ものを考えたり、行動したりするようになる。脳の神経細胞のシナプス(神経細胞の接合部)※が、そのようにできあがったためと私は勝手に考えている。たとえば暴力団の男たちは、何か問題が起きると、暴力を使ってそれを解決しようとする。私のようなモノ書きは、何か問題がおきると、文を書いてそれを解決しようとする。それが思考回路である。

●ブランドで選ぶ幼稚園

 同じように、ブランドにこだわる親というのは、そのときどきにおいて、ブランドにこだわるようになる。そのほうが本人も楽ということもある。で、一度その思考回路ができあがると、その思考回路からはずれたことをするのは容易なことではない。それはそれとして、このタイプの親は、子どもの教育でもまた、ブランドを重視する。幼稚園でも、学校でも、ブランドで選ぶなど。中身ではない。あくまでもブランドだ。それはもう信仰のようなもの。理由など必要ない。ブランドのある幼稚園や学校なら、安心し、そうでなければ不安になる。そしてその返す刀で、(子どもの中身が変わったわけではないのに)、それ以外の幼稚園や学校へ通っている子どもを「下」にみる。「うちの子はA小学校よ。でも、あの子はD小学校ですって」と。

●しかし失敗も多い

 が、いつもいつもうまくいくとは限らない。このタイプの親は、反対に自分の子どもが、その「下」に落とされると、奇怪な行動をとり始める。毎朝、車で自分の息子を送り迎えしていた母親がいた。息子の学校の制服を近所の人に見られると恥ずかしいというのが、その理由だった。もう一〇年も前のことだが、毎朝、学校の制服を、駅前の喫茶店で着替えさせていた親すらいた。プライドをキズつけられると、親はそこまでする。こうした親の心理を理解できないわけではないが、その結末はいつもおかしい。そして悲しい。

※……人の大脳には、一〇〇億の神経細胞があると考えられ、その一個ずつの神経細胞に、約一〇万個のシナプスがあると考えられている。すると大脳全体で、一〇の一五乗のシナプスがあることになり、その数はDNAの遺伝子情報の一〇の九乗~一〇乗を超えることになる(新井康允氏)。人間の思考が、DNAの設計図の外にあることがこれでわかる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

A中学では、うちの子は不幸になります!
占いにこる親たち(失敗危険度★★★★)

●かわいそうな人たち

 占いや運勢にこる人というのは、自分で考えることのできない、かわいそうな人とみてよい。一見、人間は知的な生き物に見えるが、イヌやサルと、それほど違わない。「思考」ということになると、「思考していない人」のほうが、「思考している人」より、はるかに多い。

 だいたいにおいて、他人の運命が読み取れるような人が、駅前の路地や喫茶店、さらにはデパートの通路などで、若い女性を相手に占いなどするだろか。自分で自分を占い、お金をどんと儲けて、豪邸で遊んで暮らせばよい。自分で自分を占うことはできないというのなら、仲間の占い師にみてもらえばよい。ああいったものは、一〇〇%インチキ。そう断言して、まちがいない。

●私も預言者?

 ただ私は、数一〇分も子どもと接すると、その子どもの能力や性質、さらには問題点やこれから先その子どもがそうなり、どういう問題を引き起こすかが手にとるようにわかる。しかしこれは超能力のようなものではなく、経験だ。三〇年も毎日子どもをみていると、そういうことができるようになる。しかし私は、たとえわかっていても、それは言わない。親に頼まれても言わない。万が一、まちがっていたら……という迷いがあるからだ。それに治療法も用意しないで、診断名だけをくだすのは、良心のある人間のすることではない。が、そういった連中は、平気で、相手の運命を、あたかも知り尽くしたかのように口にする。

先日もテレビを見ていたら、『浄霊』と称して、若い娘にこう言っていたインチキ霊媒師がいた。「あなたの体に乗り移っている悪霊は悪質です。ほうっておくと、あなたの命すらあぶない」(〇二年四月)と。こういうことを平気で口にすることができる人は、人格そのものが崩壊した人とみてよい。

●子どもの教育も占いで……

 若い女性ならまだしも、母親の中にも、いくらでもいる。そして子どもの教育すら、そういう占いや運勢に頼っている……! こういう親を前にすると、会話そのものがかみ合わない。

 「先生、A中学と、B中学の件ですが、私は息子をB中学へ入れたいのですが……」
 「どうしてA中学ではだめなのですか? 距離も近いでしょう」
 「それが先週、うちの主人がG神社で占ってもらったら、A中学では、子どもが不幸になるというのです」
 「不幸って?」
 「いじめにあったりして、結局は転校することになるって。そういう結果が出ました」と。

 そういうとき、私の頭の中では、私の思考回路がショートを起こす。バチバチと火花が飛び散る。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

立派な社会人になれ!
いい学校から、いい家庭へ(失敗危険度★★★★)

●いい家庭を!

 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家庭」であり「家族」。そのよい例が、単身赴任。私が学生時代には、「短期出張」と言った。商社のばあい、六か月以内の短期出張は、単身赴任が原則。しかし六か月で短気出張が終わるとはかぎらない。いわゆる出張のハシゴというので、一度外国へ出ると、数年は日本へ帰ってこられなかった。

それについて、ある日オーストラリアの教授がこう聞いた。「日本には短期出張について、法的規制はないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か」と騒いだ。日本の常識は、決して世界の常識ではない。が、こんな家族もある。

●すばらしい家族

 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、中学二年生のときに、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

●親子関係を破壊する子育て

 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でもふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親はこう言った。「いえ、私は嫌われてもかまいません。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子もそれで私を許してくれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れかわり、仮想世界に住みながら、そこが仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを大切だと思い込んでしまう。

●友だちの数が財産

 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族のきずなこそ財産だよ」ということになる。

 欧米が何でもよいわけではないが、欧米と日本とでは、家族に対する考え方そのものが違う。たとえばオーストラリアでは、学校の先生も親も、子どもには、「よき家庭人になれ」と教える。「よい市民になれ」と言うときもある。カナダでもアメリカでもそうだ。フランスでもドイツでもそうだ。しかしこの日本では、「社会で役にたつ人」、あるいは「立派な社会人」が教育の柱になっている。「社会」という言葉は、「全体」という言葉の代名詞と考えてよい。この違いが積もりに積もって、日本の単身赴任になり、それに驚いたオーストラリアの学生になった。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi