最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)モンスタママの子育て狂騒byはやし浩司

2012-06-25 08:28:53 | 日記
あんたさ、英語教育に反対してよ!
おめでたママ(失敗危険度★★★★★)

●英語教育は日本語をだめにする?

 こんな相談も。「今度うちの小学校でも英語教育が始まったが、今、英語なんか教えてもらったら、うちの子(小三男児)の日本語がおかしくなってしまう。英語教育には反対してほしい」と。こう書くと、まともな日本語で母親が話したかのように思う人がいるかもしれないが、実際にはこうだ。「今度、英語ね、ほら、小学校で、英語。ありゃ、うちの子に、必要ないって。あんな英語やらやあ、さあ、かえって日本語、ダメになるさ。あんたさ、評論家ならさ、反対してよ」と。日本語すらまともに話せない母親が、子どもの国語力を心配するから、おかしい。

●この子には、力があるはずです

 が、子どもの受験のことになると、ほとんどの親は自分の姿を見失う。数年前だが、一人の中学生(中一男子)が、両親に連れられて私のところにやってきた。両親は、ていねいだが、こう言った。「この子には、力があるはずです。今までB教室といういいかげんな塾へ行っていたので、力が落ちてしまった。ついては、先生に任せるから、どうしてもS高校へ入れてほしい」と。

 S高校といえば、この静岡県でも偏差値が最上位の進学高校である。そこで私は一時間だけその中学生をみてみることにした。が、すわって数分もしないうちに、鉛筆で爪をほじり始めた。視線があったときだけ、何となく頭をかかえて、勉強しているフリはするものの、まったくはかどらない。明らかに親の過関心と過干渉が、子どものやる気を奪ってしまっていた。私は隣の部屋に待たせていた両親を呼んで、「あとで返事をする」と言って、その場は逃げた。

●「はっきり言ったらどうだ」

 数日置いて、私はていねいな手紙を書いた。「今は、時間的に余裕もないから、希望には添えない」という内容の手紙だった。が、その直後、案の定、父親から猛烈な怒りの電話が入った。父親は電話口の向こうでこう怒鳴った。「お前は、うちの子は、S高校は無理だと思っているのか。失敬ではないか。無理なら無理と、はっきり言ったらどうだ」と。

●デパートの販売拒否

 本当にこのタイプの親は、つきあいにくい。どこをどうつついても、ああでもない、こうでもないとつっかかってくる。公立の、つまり税金で動いている学校ですら、選抜試験をするではないか。私のような、まったく私立の、一円も税金の恩恵を受けていない教室が、どうしてある程度の選抜をしてはいけないのか。

 ほとんど親がそうだが、私が入会を断ったりすると、まるでデパートで販売拒否にでもあったかのように、怒りだす。気持ちはわからないわけではないが、つまりは、それだけ私たちは「下」に見られている。しかし昔からこう言うではないか。『一寸の虫にも五分の魂』と。そういうふうにしか見られていないとわかったとたん、私たちだって、教える気はうせる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

学校の先生が許せない!
自分を知る、子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●汝自身を知れ

 自分を知ることはむずかしい。スパルタの七賢人の一人、ターレスも、『汝自身を知れ』という有名な言葉を残している。つまり自分のことを知るのはそれほどむずかしい。理由はいくつかあるが、それはさておき、自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。

 一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。かなり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いことに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。

●「ちゃんと九九はできます」

 学校の先生に、「どうしてうちの子(小四男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親がいた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、「掛け算の九九をもう一度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。掛け算の九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間には、大きなへだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、それで掛け算をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明するのはたいへんだ。その先生はこう言った。

 「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているようで、つらい」と。私もその気持ちはよく理解できる。

●神経質な家庭環境が原因 

が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、一人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小一男子)が、おもらししたのを皆が笑った」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチック(神経性の筋肉のけいれん)もみられた。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと大きな問題は、ではなぜもらしたかということ。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのかということだ。もらしたことにしても、チックにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多い。

●ギスギスでは教育はできない

学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそんなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。また笑った、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりながら成長する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられる。が、その親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題にする。

●子どもを知るのが子育ての基本

 まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかしい。たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実際には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、気がついていない人のほうが多い。

人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなたが愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはいけない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った
汝(なんじ)自身を知れ(失敗危険度★★★★)

●自分を知ることの難しさ

自分を知ることは本当にむずかしい。この私も、五〇歳を過ぎたころから、やっと自分の姿がおぼろげながらわかるようになった。表面的な行動はともかくも、内面的な行動派、「私」というより、「私の中の私」に支配されている。そしてその「私の中の私」、つまり自分は、「私」が思うより、はるかに複雑で、いろいろな過去に密接に結びついている。

●「ぼくは何も悪くなかった」

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

●問題の本質は?

 ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

●自分であって自分でない部分

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一緒に抗議に行ってほしい!
過関心は百害のもと(失敗危険度★★★★★)

●問題は母親に

 ある朝、一人の母親からいきなり電話がかかってきた。そしてこう言った。いわく、「学校の席替えをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、学校へ一緒に抗議に行ってくれないか」と。その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

●ささいなことで大騒動

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなかった。

●まじめ七割

 しかし問題は、席替えでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかということ。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ七割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

●度を超えた過関心は危険

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズだらけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけをみてくれればいい!
何を考えている!(失敗危険度★★★★★)

●アンバランスな生活

 どうしようもないドラ息子というのは、たしかにいる。飽食とぜいたく。甘やかしと子どもの言いなり。これにアンバランスな生活が加わると、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。「アンバランスな生活」というのは、たとえば極端に甘い父親と極端に甘い母親で、子どもの接し方がチグハグな家庭。あるいはガミガミとうるさい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような環境をいう。

こういう環境が日常化すると、子どもはバランス感覚のない子どもになる。「バランス感覚」というのは、ものごとの善悪を冷静に判断し、その判断に従って行動する感覚をいう。そのバランス感覚がなくなると、ものの考え方が突飛もないものになったり、極端になったりする。常識はずれになることも多い。友だちの誕生日に、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中二男子)がいた。さらにこういう子ども(小三男児)さえいる。学校での授業のとき、先生にこう言った。

●「くだらねえ授業だなあ」

 「くだらねえ授業だなあ。こんなくだらねえ授業はないゼ」と。そして机を足で蹴飛ばしたあと、「お前、ちゃんと給料、もらってんだろ。だったら、もう少しマシなことを教えナ」と。

 実際にこのタイプの子どもは少なくない。言ってよいことと悪いことの区別がつかない。が、勉強だけはよくできる。頭も悪くない。しかしこのタイプの子どもに接すると、問題はどう教えるではなく、どう怒りをおさえるか、だ。学習塾だったら、「出て行け!」と子どもを追い出すこともできる。が、学校という「場」ではそれもできない。教師がそれから受けるストレスは相当なものだ。

●本当の問題 

 が、本当の問題は、母親にある。N君(小四男児)がそうだったので、私がそのことをそれとなく母親に告げようとしたときのこと。その母親は私の話をロクに聞こうともせず、こう言った。「あんたは黙って、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。その母親の夫は、大病院で内科部長をしていた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いらんこと、言わんでください!
女の修羅場(失敗危険度★★★★)

●子どもは芸術品

 母親たちのプライドというのは、男たちには理解できないものがある。その中でも、とくに子どもは、母親にとっては芸術作品そのもの。それをけなすとたいへんなことになる。こんなことがあった。

 スーパーのレストランで、五歳くらいの子どもが子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べていた。体重一五キロ前後の子どもが、ソフトクリームを一個食べるというのは、体重六〇キロのおとなが四個食べる量に等しい。おとなでも四個は食べられない。食べたら食べたで、腹の調子がおかしくなる。で、その子どもと目が合ったので、思わず私はその子どもにこう言ってしまった。「そんなに食べないほうがいいよ」と。が、この一言がそばにいた母親を激怒させた。母親はキリリと私をにらんでこう叫んだ。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと、言わないでください!」と。またこんなことも。

●江戸のカタキを長崎で討つ

 母親というのは、自分で自分の子どもを悪く言うのは構わないが、他人が悪く言うのを許さない。(当然だが……。)たとえ相手が子どもでも許さない。これは実際あった話だが、(ということを断らねばならないほど、信じられない話)、自分の子ども(年長男児)をバカと言った相手の子ども(同じ幼稚園の年長男児)を、エレベータの中で足蹴りにしていた母親がいた。そこで蹴られたほうの母親が抗議すると、最初は、「エレベータが揺れたとき、体がぶつかっただけだ」と言い張っていた。が、エレベータがそこまで揺れることはないとわかると、こう言ったという。

「おたくの子がうちの子を、幼稚園でバカと言ったからよ」と。江戸のカタキを長崎で討つ、というわけであるが、これに親の溺愛が加わると、親子の間にカベさえなくなる。ある母親はこう言った。「公園の砂場なんかで、子どもどうしがけんかを始めると、その中に飛び込んでいって、相手の子どもをぶん殴りたくなります。その衝動をおさえるだけでたいへんです」と。

●「お受験」戦争

 こうした母親たちの戦いがもっとも激しくなるのが、まさに「お受験」。子どもの受験といいながら、そこは女の修羅場(失礼!)。どこがどう修羅場ということは、いまさら書くまでもない。母親にすれば、「お受験」は、母親の「親」としての資質そのものが試される場である。少なくとも、母親はそう考える。だから自分の子どもが、より有名な小学校に合格すれば、母親のプライドはこのうえなく高められる。不合格になれば、キズつけられる。

 事実、たいていの母親は自分の子どもが入学試験に失敗したりすると、かなりの混乱状態になる。私が知っている人の中には、それがきっかけで離婚した母親がいる。自殺を図った母親もいる。当然のことながら、子どもへの入れこみが強ければ強いほどそうなるが、その心理は、もう常人の理解できるところではない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君は一日、一〇〇~一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇~一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。

たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード

 ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

こちらの頭のほうがヘンになる
イメージが乱舞する子ども(失敗危険度★★★)

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしません
でした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

妻の身分も夫しだい!
銀行寮の掟(おきて)(失敗危険度★★)

●ある銀行の現実

 ここは県庁所在地になっているS市の郊外。不況、不況と言われながらも、大銀行だけは別。家族寮なども、ちょっとしたホテル並の豪華さを誇る。そこでのこと。部長の息子と、課長の息子が同じ中学を受験することになった。こういうとき、部長の息子が落ちて、課長の息子が合格したりすると、さあたいへん。課長の息子は入学を辞退するか、その寮を出なければならない。私が「何もそこまで……」と言うと、ある母親はこう言った。「それは現実を知らない人の言うことです」と。

●夫たちの地位で妻の地位も決まる

 何でもその家族寮では、夫たちの地位に応じて妻たちの地位も決まるという。会合でも、中央にデ~ンと座るのが、部長の妻。あとはそれに並んで、次長、課長とつづく。ヒラの妻は一番ハシ。年齢や教養には関係ない。もちろん容姿も関係ない。また廊下ですれちがうときもそうだ。相手がどんなに若くても、相手がどんなにそうするにふさわしくない女性(失礼!)でも、夫の地位が自分の夫の地位よりも高いときには、道をあけなければならない。

 「そういう世界だから、どの母親も、子どもの受験にはピリピリです」と。具体的にはこうだ。まず上司の息子や娘と同じ学校は受験しない。上司の息子や娘が不合格になった学校は受験しない。受験する学校の名前は最後の最後まで秘密にする、と。

●日本人独特の上下意識

 ……私はこの話を聞いたとき、別のところで、「こんなことをしているから日本の銀行は、国際競争力をなくした」と思った。日本人のほとんどは、日本は先進国だと思っている。たしかに豊かで、経済力はある。しかしその中身といえば、アフリカの××部族のそれとそれほど違わない。少なくとも、世界の人はそう見ている。日本の社会の中にどっぷりとつかっている人には、それがわからない。その一つが、日本人独特の上下意識。日本人はたった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と考える。そしてその間にきびしい序列をつける。言いかえると、こうした意識があるかぎり、日本はいつまでも奇異な目で見られる。日本異質論は消えない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

こんなオレにしたのは、お前だろ!
溺愛ママ(失敗危険度★★)

●子どもを溺愛する母親

 親が子どもを溺愛する背景には、親側の情緒的未熟性や精神的な欠陥がある。つまりそうした未熟性や欠陥を代償的に補うために親は子どもを溺愛するようになる。つまり子どもを溺愛す親というのは、どこかに心の問題をもった人とみてよい。が、親にはそれがわからない。わからないばかりか、溺愛を親の深い愛と誤解する。だから人前で平気で、その溺愛ぶりを誇示する。こんなことがあった。

●溺愛を「愛」と誤解?

 高校のワンゲル部の総会でのこと。指導の教師が父母たちに向かって、「皆さんはお子さんたちが汚してきた登山靴をどうしてますか?」と聞いたときのこと。一人の母親がまっさきに手をあげてこう言った。「このクツが無事息子を山から返してくれたと思うと、ただただいとおしくて頬ずりしています!」と。

 あるいは幼稚園で、それはそれはみごとな髪型をしてくる子ども(年中女児)がいた。髪の毛を細い三つ編みにした上、さらにその、三つ編みを幾重にも重ねて、複雑な髪型をつくるなど。まさに芸術的! そこである日、その母親と道路であったので、それとなく「毎日たいへんでしょう?」と聞いてみた。が、その母親は何ら臆することなく、こう言った。「いいえ、毎朝、三〇分もあればすんでしまいます」と。毎朝、三〇分!、である。

●溺愛児の特徴

 親が子ども溺愛すると、子どもは子どもで溺愛児特有の症状を示すようになる。(1)幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的になる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、(4)柔和でおとなしく、満足げでハキがなくなるなど。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わるわけではない。

●カラを脱がない子ども 

子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてあるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。

子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」
母「ごめんなさア~イ。お母さんが悪かったア~!」と。

 しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。
 
 溺愛ママは、あなたの周辺にも一人や二人は必ずいる。いて、何かと話題になっているはず。しかし溺愛は「愛」ではない。代償的愛といって、つまるところ自分の心のすき間うめるための愛。身勝手な愛。一方的な愛。もっと言えば、愛もどきの愛。そんな愛に溺れてよいことは、何もない。

モンスタママの子育て狂騒(見本版)byはやし浩司

2012-06-25 08:03:15 | 日記
モンスタママの子育て狂騒

【ドロ沼の母親狂騒】(付録:ママ診断)

父親族よ、あなたの妻たちは、ここまで狂っている!


【はじめに】

ドロ沼の母親狂騒曲

 埼玉県在住の、Tさん(母親、年長男児をもつ)から、こんなメールが、届いた。 

 「うちの住んでいるところは、新興住宅地。文化性は、まったく、なし。母親のステータスも、ダンナの職種で決まる。

 S放送局や、T銀行、N自動車に勤めるダンナが多いこともある。で、そういうところに勤めるダンナをもつ、妻たちが、いばるわけ。

 で、近くに、このあたりでも有名な、……というか、名門というか、そういう小学校がある。名前はSS小学校。入試が近づくと、その話ばかり。『どうして、あんな子が受けるの?』『あんな子が合格するくらいなら、私、この町を出る!』『幼稚園には、内緒で、SSを受けるそうよ。先生に言いつけてやる』と。

 出るは出るは、低次元な話ばかり。若い母親たちが、集まれば、こんな話ばかりしている。あとはそしてお決まりの、悪口、中傷。

 『あの人、子どもが受験するならするで、一言、言ってくれればいいのに、礼儀知らず。今度は、○○会から、排除よ』

 『Xさんは、幼稚園へ迎えに行くだけなのに、いつもY車(大型の外車)よ。歩いても、五分もかからないのに。でも、幼稚園への寄付は、たったの一万円だったそうよ』

 このあたりでは、SS小学校に合格した子どもを、『勝ち組』。落ちた子どもを、『負け組』といって、差別する。そこらの学習塾でも、差別する。SS小学校の子どもだと、ハイハイと言って、即、入塾。

 しかしそれ以外の小学校の生徒だと、塾長もとつぜん、ふんぞりかえって、『うちはア……』と、しぶってみせる。

 イヤーな雰囲気の地域。

 私は転勤族だから、北は函館から、南は、博多まで、みんなよく知っている。しかし埼玉県のここは、最低。最悪。『このあたりが地球の中心』と思っているような人ばかり。バカみたい。外から見れば、ただの新興住宅地なのに。

 私、奈良にも住んだことあるが、奈良は最高! 京都も近いし。ああいうところの、奥深い文化に接したことがない連中ばかり。

 子どものことで、見栄やメンツを張るなんて、つまらない。私は、自由人。そういう目で見ると、みんな????。本当に、いやになってしまう。先生、こういう地域を、どう思う?」
(たいへん過激な文章だったので、林の方で、要約)

●子どもが親を育てる

 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。……私が、このことを知ったのは、こうした親どうしの、ドロドロのウズに巻き込まれたとき。

 それは想像を絶するほど、低次元な世界だった。

 しかしTさん、そういう親でも、二年、三年と、子育てで苦労すると、やがて人間的な丸みや深みができてくる。つまり、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

 だから大切なことは、(今の母親たち)を見て、それがすべてとは思ってはいけないということ。大切なことは、そういう母親たちが、少しでも、前に向って、伸びることを、手助けすること。どの母親も、そういう意味では、すばらしい母親になる可能性をもっている。

 私も、幼児教育をして、40年になるが、当初より、「幼児教育は、母親教育」ということを、見抜いていた。
(ここが、私のすごいところ。エヘン!)

 だから今、あなたがなすべきことは、そういう母親たちを、つまりは反面教師として、自分の姿を見ていくこと。すでにあなたは、そういう視点をもっている。つまりあなたは、そういう意味で、ほかの母親たちを、一歩、リードしている。

 もしあなたがリードしていなければ、あなたは今、ほかの母親たちと同じことをしていたかもしれない。あなたは子どもを育てながら、実は、その向こうにある、(人間)を見ている。そしてその反射的効果として、(自分)を見ている。

 今のあなたのまわりの(現状)を否定するのではなく、まず(現状)とは、そういうものであることを知る。すべては、そこから始まる。わかりやすく言えば、「今の若い母親たちは、ダメだ」と、言うのではなく、あなたの立場で言うなら、そういう母親たちの中に、自分の愚かな姿を見て、それをバネとして、前に進むこと。

 私は、もう、そういう修羅場を、ゴマンと見てきた。恐らく、一歩離れたところにいる、学校や園の先生たちは、そういう世界を知らないだろう。どの母親も、先生の前では、別人のように振る舞ってみせる。

 しかし、ね、Tさん。それが人間のドラマのおもしろさということになる。私たちは、不完全で、どうしようもない人間。その人間が、懸命に、無数のドラマを展開している。そこでどうだろう。

 「同じ人間」と思うのではなく、こちらのほうが一歩上に出て、あたかも自然動物園の中の動物を観察するような目をもってみたら。そうすれば、母親どうしの醜い狂騒も、これまた、ほほえましく見えてくるもの。

 より高い視点に立ってみると、それまでの世界が、小さく、つまらないものに見えてくる。「自分を伸ばす」ということは、そういうことをいう。

 およばずながら、私は、あなたのような人のために、こうした文章を書いている。どうか、どうか、これからも私のマガジンを読んでほしい。私はいつか、必ず、この荒野の先に何があるか、それを見てやる。そしてみなさんに、報告してやる。

 さあ、あなたも、魂の自由人として、心の中の荒野を歩いてみたら……。その世界は、スリリングで、楽しい。実に、楽しい。いっしょに、前に向って、歩いていこう。

So take my hands (さあ、私の手を取りなさい。)
To walk this land with me.(この土地を、私といっしょに歩こう。)
To walk this golden land with me.(この黄金の土地を、私といっしょに、歩こう。)
(ポールニューマン主演、パットブーンが歌った、「栄光への脱出」より)


【第1章】

モンスタママの子育て狂騒


子育て失敗危険度
あなたは、だいじょうぶ?


                     はやし浩司



「狂騒する子どもの世界」

狂った親たちの世界をえぐりだしながら、新しい教育観を提言。このままでは本当に日本はだ
めになる。そういう切実な危機感からこの本を書いた。

Sec.1……常識からはずれる親たち
Sec.2……子どもをダメにする親たち
Sec.3……親バカにならないために


 この原稿は、2000年ごろ、つまり今から年前に12年前に書いたものです。
ある出版社からの依頼があり、それで書き始めたものです。
が、当時、この原稿を世に発表する勇気がなく(?)、今日に至ってしまいました。
「ここまで書いたら、殺される」と。

 もう一度、(現在)という視点で、書きなおしながら、子育ては今、どうあるべきかを考えなおしてみたいと願っています。
なおこの種の原稿の常として、登場する人物、話の内容は、すべてフィクションです。
……というふうに、一応、断っておきます。

 他人から聞いた話を、自分のエピソードに仕上げたり、反対に自分のエピソードを、他人から聞いた話に仕上げたりしています。
あるいは2つの話を1つにまとめたり、1つの話を2つに分けたりした部分もあります。
親類の話を他人の話にしたり、その逆のこともあります。

 そんなわけで、もし読者の方の中に、「これは私の話だ」と思う人がいても、どうか、それは誤解であることを、ご理解ください。
私はいかなるばあいも、現在、関わりのある人や、交際している人の話を書くということはしません。

                     はやし浩司


第一章……常識からはずれる親たち

 子育てはまさに迷いの連続。迷いのない子育てはないし、迷って当たり前。しかし迷っているうち、ふと袋小路に入ってしまうことがある。問題はそのとき。

 迷いながらも、どこかに指針があれば、その方向に出口を見出すことができる。しかしその指針がないと、迷うまま、まっ暗な世界に入ってしまう。そしていつの間にか、とんでもない非常識なことをしながら、それが非常識だとさえわからなくなってしまう。そんな失敗例を集めたのが、第一章、「常識からはずれる親たち」。

 私はそれを皆さんに伝えながらも、こうした非常識な親を笑っているのではない。楽しんでいるのでもない。こうした失敗は(失敗という言葉は好きではないが……)、だれにでもあるもの。まただれにでも起こりえるもの。決して他人のことではない。第一章は、そんなあなたの指針となることを願って書いた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第二章……子どもをダメにする親たち

 放任がよいわけではないが、子どもというのは、親が子どもに向かって何かをすればするほど、別の方向に行く。そこで親は、また子どもに向かって何かをする。あとはこの悪循環。気がついたときには、親も子どももにっちもさっちもいかない状態になる。

 が、問題は、この悪循環ではない。問題は、その途中でそれに気がつく親はまずいないということ。たいていの親は、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」「うちの子にかぎって」と無理に無理を重ねる。これが子どもをますます悪い方向においやる。そんな失敗例を集めたのが、第二章、「子どもをダメにする親たち」。

今、あなたの子どもが幼児なら、これから先、失敗しないため。今、何か問題があるなら、これ以上その問題を悪くしないため。そそして今、その問題の最中にあるなら、その問題を解決するため。第二章は、それをあなたに知ってほしくて書いた。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第三章……親バカにならないために

 ほとんどの親にとっては、子育てははじめて。しかも一人だけ。多くても、二人、あるいは三人。ある母親はこう言った。「やっと親らしくなれたと思ったときには、子育てはもう終わっていた」と。

 そこで私が登場……、というと、何とも手前ミソのような感じがしないでもない。しかし私ほど、子育ての最前線で数を踏んだ人間もいない。私の頭の中には、無数の成功例と、同じ数だけの失敗例が入っている。そういう経験から得た知識をまとめたのが、第三章、「親バカにならないために」。

 本来ならこうした子育て論こそ、私が書きたいところ。私の子育て論というより、私の前を通りすぎた無数の親や子どもの経験といたほうがよいかもしれない。そこには無数の汗と涙が凝縮している。第三章はそれをあなたに伝えたくて書いた。
 
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

給食もレストラン感覚で!
非常識が常識(失敗危険度★★★)

●「足の裏をみるのですかア」

 「最近の母親たちはバッグを平気でベッドの上に置く」と、ある小児科の医師が怒っていた。が、それだけではない。「子どもをベッドに寝させてください」と言うと、今度はスリッパをはかせたままベッドの上に……! そこで看護婦が、「スリッパをぬがせてください」と言うと、その母親は、「足の裏をみるのですかア」と。

●最近の親たち

 こういう非常識な母親はいくらでもいる。幼稚園へ入園するについても、最近の母親で、「入れていただけますか?」と聞く親はまずいない。当然入園できるという前提で、幼稚園へやってくる。中には幼稚園へやってきて、見学だの、体験学習だの、さらには給食の試食までしていく親がいる。帰りぎわに主任の教師が、恐る恐る、「入園はどうしますか?」と聞くと、「もう二、三か所、あちこちの幼稚園を回って決めるワ」と。私にもこんな経験がある。

●「一回休みましたから」

 そのころ園長の指示で、希望者だけを集めて特別講座を開いていた。わずかだったが、別に講座費(月額3000円)をとっていた。が、それがよくなかった。5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)のクラスだけが、月3回になってしまった。それについて、その母親から、「補講してほしい」と。しかしたまたま月3回になったのは、私の責任ではない。そこで「補講はしません」というと、今度はその父親が電話に出てきて、こう言った。「月4回ということで、講座費を払っている。3回しかしないというのは、サギだ。ついては、お前をサギ罪で訴える」と。市内で歯科医師をしている父親からの電話だった。

 あるいは同じころ、たまたま月1回を病気か何かで休んだ子ども(年長男児)がいた。よくあることだが、あとでみると、講座費がちょうど4分の3の、2250円になっていた。いや、そのときはそれに気づかず、「お金が足りませんが……」と言うと、その母親は平然とこう言った。
「一回休みましたから」と。

●給食もレストラン感覚で

 もっともこの程度の非常識はこの世界では常識。先日も神奈川県のU幼稚園で講演をさせてもらったのだが、その園長がこっそりとこう教えてくれた。「今では、昼の給食もレストラン感覚で出してやらないと親は納得しないのですよ」と。「子どもに給仕をさせないのですか?」と聞くと、「とんでもない! スープでヤケドでもしようものなら、親が怒鳴り込んできます」と。

 今、子育ての世界では、非常識が常識になってしまっている。しかも何が常識で、何が非常識なのか、それさえわからなくなってきている。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

何をお高くとまってんの!
神経質になる母親たち(失敗危険度★★★★)

●「あなたの教育方針は何か」

 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学していたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母親は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えているか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?

 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教室の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれこれ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち

 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通うことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言うのでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」

 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでしょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人

 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキのなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこかインギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃げた。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

 で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったらどうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。私が「息子さん能力とは関係ありません」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみせる!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってしまった。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ……」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

私の考えが絶対に正しい!
自分の世界で子育てをする母親たち(失敗危険度★★)

●「林先生は、ちゃんと指導していない」

 年中児になると、子どもというのは、とくに教えなくても文字を書けるようになる。もちろん我流だが、それはそれとしてこの時期はおお目に見る。で、ある日私が子ども(年中男児)の書いた文字に大きな花丸をつけて返したときのこと。その日の夕方、母親から抗議の電話がかかってきた。「あんなメチャメチャな字に、花丸などつけないでください!」と。そしてその電話のあと園長にまで電話をかけ、「林先生は、ちゃんと指導していない。どうしてくれるのか」と迫った。

●祖父が教師へ飛び込んできた

 これに宗教がからむと、さらにやっかいなことになる。ある日赤ペンで、その子ども(年中女児)の名前を書いたときのこと。あとからその子どもの祖母から抗議の電話があった。いわく、「赤字で名前を書くとはどういうことですか。もし万が一、うちの孫に何かあったら、あなたのせいですからね!」と。何でも赤字で名前を書くのは、不吉なことなのだそうだ。またこんなことも。

 ある日、私が肩が痛いと言うと、「なおしてあげる」と申しでてきた子ども(小五男児)がいた。「ありがたい」と思って頼むと、その子どもは私の肩に手をかざして、何やらを念じ始めた。で、私が「そんなのならいい。どうせなおらないから」と言うと、その子どもは笑いながら手を離した。私も笑った。

が、その翌日、まず祖父が教室へ飛び込んできた。「貴様は、うちの孫に何てことを教えるのだ!」と。つづいて母親までやってきて、「うちの宗教を批判しないでください!」と。その家族はある宗教団体の熱心な信者だった。さらに……。

●「あなたはせっかくのチャンスをムダにした」

 クラスの生徒の家庭に不幸があるたびに、「私なら何とかできます」と申し出てきた女性(四一歳)がいた。私の知人の姉にあたる人だった。話を聞くと、「私なら救うことができます」と。そのときもそうだった。子ども(小二)が、重い小児ガンになっていた。私も何とかしたいと思っていたので、つい気を許して、「お願いします」と言ったが、それからがたいへんだった。

その女性はまず箱いっぱいの書籍をもってきた。みるとその教団の教祖が書いた本だった。
が、それで終わらなかった。ついで、そのガンの子どもの家を紹介してほしいと迫ってきた。しかし、それはまずい。相手の人は、相手の人で、毎日壮絶な苦しみと戦っている。そういう家族に、本当に救えるのならまだしも、宗教をすすめるのは、まずい。しかしその女性にはそれがわからない。私はていねい断ったのだが、こう言った。「あの子は私の力で治せる。あなたはせっかくのチャンスをムダにした」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)

●それを言ったら、おしまい

 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親から、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もありますから」と言いそうになるときもある。が、それを言ったら、おしまい。

●三割削減

 学習内容が全体で三割程度削減されることになったときのこと。それについて、「このあたりには私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校では、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子どもだった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではないのか。

そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラス
でも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ることはないよ」と。

●親の過剰期待

 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。

 誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそういう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、子どもはますますできなくなる。

 誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになるという誤解。しかしダビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と。意欲をともなわない勉強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。

 誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからといって、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなると、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力があるということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。

●一人の母親がやってきた

 しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあいだだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。

●ワークブックがぎっしり!

 で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつう、J社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。

 たとえば同じ見開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。

こうしたワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワークブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものばかり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、それも誤解。ワークブックはスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。

●ワークブックが足かせに

 ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、(1)動機づけ、(2)達成感の二つを大切にする。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感のことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。

 私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけできればいいの!
ガツガツママのモチ拾い(失敗危険度★★★★)

●基礎教養

 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。ある母親は娘(小二)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があった。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信じ、それだけに狂奔する。Rさん(三五歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て

 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫はある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小二男児)の教育には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も四つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語教室、それに水泳教室、と。水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパンク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の一か月の給料でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だがコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?

 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をたいらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾っている女性のようでもある。「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にしてみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った

 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんから子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。最近、子ども(小二男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接してみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、まちがいなく非行化する。

●私は超能力者?

私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どういう問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のようだ」と言われるが、三〇年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。方法は簡単。

 まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そしてその子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校三年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれを思い出しながら、親に話せばよい。そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまった。「それを親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる

 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、その子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話してもムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のしようがない。それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。間に感ずる距離が、あまりにもある!

 Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がないから、成績がさがったらさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子どもの指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれないと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi