Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【6月23日・土曜日】山荘にて
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
「もう本は書かない」と思っていた。
「本より、ネット」と。
そう思っていた。
が、書くことにした。
その本の原稿が、今日、ほぼ完成した。
この月曜日に書き始めたから、6日間で書いたことになる。
出版社への売り込みはこれから。
しかし長年の勘というか、「この本は出る」と思う。
「出る」というのは、書店に並ぶという意味。
若いころには、1年間で、10冊の本を出したことがある。
ただし誤解がないように。
私は自費出版なるものは、したことがない。
私にとっては、自費出版は、屈辱以外の何ものでもない。
昨夜、ワイフに、「原稿はできたよ」と言うと、ワイフでさえ、驚いていた。
6日間というのは、私にとっても、最短記録。
明日から推敲に入る。
が、山登りにたとえるなら、下り坂。
家の建築にたとえるなら、内装工事。
あとは楽。
「あさってからはつぎの本を書くよ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●64歳の生きがい
恩師の田丸謙二先生は、80歳を過ぎてから、本を出版している。
80歳だぞ!
そういう(事実)が、私を勇気づける。
「先生ができるなら、ぼくにもできるはず」と。
……このところ、何をしても、落ち目。
負け戦(いくさ)。
それで本を書く気になった。
人間というのは、怠惰な生物。
崖から落とされないと、空を飛ばない。
崖から落とされてはじめて、翼(つばさ)をもっていたことを知る。
言い換えると、安逸な生活からは、何も生まれない。
平凡は美徳だが、平凡な人生からは、ドラマは生まれない。
が、同時に、私は感謝している。
何に対して……というのではない。
こうして前向きに、生き甲斐をもって文章が書けることに感謝している。
またそれができることに感謝している。
今回も、本を書く気になったら、6日間で、それができた。
そういう自分がうれしい。
それに感謝している。
●山荘にて
ワイフは、先ほど、「12時には寝ようね」と言った。
素直に、私は同意した。
が、今は、まだ10時。
2時間、ある。
2時間も、ある。
で、この文章を書き始めた。
2時間もあれば、20ページは書ける。
単行本だと、120~150ページで1冊の本になる。
そう考えれば、6日で、1冊の本を書くのは、それほどたいへんなことではない。
もちろん内容にもよる。
目下、出版業界は、大不況。
それなりにインパクトのある本でないと、出版社がつかない。
で、月曜日に、企画書を、T社という出版社に送った。
このところT社の本を買うことが多い。
販売力がある。
それでT社にした。
すぐ「検討させてください」という返事が届いた。
今は、そういうやり取りが、ネットを介して、即日にできる。
仕事のテンポが、20年前、30年前とは、比較にならないほど速い。
以前は、見本原稿を10~20作、プリントアウトし、あちこちの出版社に原稿を送った。
こうしたやりとりだけで、数週間はかかった。
●盗作
私が元気そうだと、ワイフも、うれしそう。
そうでないと、そうでない。
それがよくわかる。
「出版が決まったら、また温泉に行こうね」と声をかけると、うれしそうに笑った。
もし出版が決まれば、10年ぶりの本ということになる。
先週までは、「原稿は無料で……」と考えていた。
しかし盗作、盗用、無断転載の多いのには、驚いた。
先月は、1000枚(40字x36行)近くが、あるサイトに、無断転載されていた。
「はやし浩司」の名前は、すべて削ってあった。
同時に、あたかも本人が書いたかのように、体裁を整えていた。
こういうことがつづくと、まじめにものを書いている自分が、阿呆に見えてくる。
馬鹿ではなく、「阿呆」。
お人好しの阿呆。
善人になる必要はない。……私は善人ではない。
悪人でもないが、しかし悪人の餌になってはいけない。
その悪人が多すぎる。
一方、私は、いまだかつて、(当然のことだが)、他人の文章を流用したり、あたかも自分の文章のように偽ったことはない。
これを「盗作」という。
私は無名のもの書きだが、そんな私でも常に、自分にこう言い聞かせている。
「盗作したら、おしまい」と。
……若いころ、Kという日本を代表する作家と交流させてもらった。
たくさんの著作物を残した。
が、その作家は、N県に住む無名の作家の原稿を買い取り、それに自分の名前を載せ、本にした。
それがその作家の死後、発覚した。
原稿を売った作家が、名乗り出た。
以後、そのKという作家は、文壇の世界から、消えた。
この世界では、「盗作」というのは、それを言う。
●挑戦
私「今さら、有名になりたいとは思わない。なってもしかたないし……」
ワ「じゃあ、なぜ本を書いたの?」
私「自分への挑戦みたいなものかな……。このところ脳みその老化を強く感ずる。気力も弱くなってきた」
ワ「まだ、あなたは若いわよ」
私「そうかなア……。でもまだ10年くらいは、がんばれるような気がする」
ワ「そうよ。がんばれるわよ」と。
2、3日、運動をさぼると、とたんに体がだるくなる。
動きが鈍くなる。
で、昨日、薬局で、栄養ドリンク剤を買ってきた。
たてつづけに、2本飲んだ。
それがきいた。
テレビのコマーシャルに出てくる男性のように、元気になった(?)。
「ファイト!」という、あれである。
「あんなものは、効果がないよ」と言う人もいる。
しかし私にはきいた。
それで今夜も、この山荘へ来る前、ドラグストアに寄り、ドリンク剤を3本、買った。
「アリナミン・ゼロ7」と、瓶の表には、そう書いてある。
「7種類の有効成分が入っている」ということらしい。
●旅館の米
……ということで、今夜は気分がよい。
少しだが、昨日、ある出版社から原稿料が振り込まれた。
予定していなかっただけに、うれしかった。
即座に、「xx日に、温泉へ行こうか?」と私。
……と書いたところで、「待った!」。
今夜もここへ来る途中、KE苑というラーメン屋に寄った。
全国規模のチェーン店を展開している。
その店で「ここでは、どこの米を使っていますか」と聞くと、店長がテーブルまでやってきた。
一枚のプリントアウトされた紙を、私に見せた。
それには、「栃木米と山形米のブレンド米」と書いてあった。
ともに、東北産。
どうして?
2週間ほど前、浜名湖周辺のホテルや旅館に電話をかけ、調べた。
どこの米を使っているか、それを知りたかった。
結果、どこも東北産の米を使っていた。
この静岡県で、東北産?
ファーストフードの、「すきや」では、鳥取米を使っていると教えてくれた。
そういうことなら、話もわかる。
が、どうしてどこも、東北産?
このことを先日、タクシーの運転手に話すと、運転手はこう言った。
「ワシなんかさあ、3食とも、外食だよ。今さら、……遅すぎるよ」と。
つまりもう手遅れ、と。
……ということで、今月は、温泉巡りは、2度だけ。
「お金が入ったら、温泉」という話は、あまりしない。
●相談
たった今、マガジン読者の方から、相談が入った。
返事を書いた。
「相談内容を掲載してよろしいですか?」という一文も添えた。
明日の朝までに許可がもらえれば、掲載する。
許可がもらえなければ、回答の部分だけ、掲載する。
【はやし浩司より、NGさんへ】
(掲載許可が届かなかったので、回答の部分のみ。6月24日、朝記)
NG様へ
こんばんは。
NGさんは、すでに自分の過去を冷静に分析しています。
こうした問題は、過去を冷静に見ることができれば、半分は解決したことになります。
あとは時間がかかります。
10年単位の時間です。
ただし一度傷ついた心は、もとには戻りません。
つまりもうもとに戻ろうとは思わないこと。
仲よくつきあうことです。
だれにも、ひとつやふたつ、大きな傷(トラウマ)があります。
私にもあります。
で、私のばあいも、もう闘うのをやめました。
受け入れたのです。
ぼくは、どうしようもない人間、とです。
あとは、そういう自分と知った上で、それに合った生活を組み立てていきます。
たとえば私は、この年齢になっても、夜がこわくてなりません。
ひとりで寝るのがこわいです。
だからいつもワイフといっしょに、寝ます。
ワイフは、もうあきらめていますが、そういう私と知った上で、つきあってくれます。
NG様も、自分を責めてはいけません。
あなたはあなた。
みな、平然としていますが、傷のない人はいません。
またあなたが経験した程度の苦しみや悲しみは、乗り越えられるものです。
今は、お母様の介護で、たいへんでしょうが、この時期も、振り返ってみると、あっという間に終わります。
なお「自己愛的」ということですが、一方で完璧主義になっていないか、注意してみてください。
世の中、いいかげんなものです。
今のあなたには、許せないかもしれませんが、そういうものです。
もし怒りを感じたら、文章なり、絵画なりに、それをぶつけてみたらいいですよ。
私はいつも、書きまくることによって、怒りを燃焼させています。
何か、そういう方法があるといいですね。
何か、ありませんか。
あなたはすばらしい経験をしています。
すばらしい青春時代を過ごしています。
ほかの人が見ることができない世界を見てきています。
そういった自分に自信をもちなさい。
それがあなたの灯台ですよ。
あなたの人生の、あなたの足元を照らしている。
あとはその光に沿って、前に進めばいいです。
ぼくも、さみしい。
あなたもさみしい。
みんな、さみしい。
けっして、自分だけがと思わないこと。
追い詰めないこと。
40歳?
うらやましいほど、若いですよ。
私はもうすぐ65歳になります。
が、負けてはおれない。
ということで、この6日間で、一冊の本を書き上げました。
来週から出版社との交渉に入ります。
40歳、すばらしい年齢ですよ。
エリクソン(ユングだったかな?)が説いた、まさに人生の正午。
どうか今というすばらしい時を見失わないように!
賢人は、それを失う前に、その価値を知ります。
愚人は、それを失ってから、その価値を知ります。
どうか賢人であってください。
なおたぶん、だめだと思いますが、いただいたメールを明日のBLOGに載せていいですか?
もちろん内容(固有名詞など)は、すべて改変し、NG様とはぜったいにわからないようにします。
いかがでしょうか。
同じような悩みを抱えている人は、多いと思います。
みなの力になると思います。
最後に、あのマザーテレサは、こう書いています。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012-01-01夜記)
++++++++++++++++++++++++
年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。
思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。
ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。
人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。
子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。
その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。
では、私は、どうなのか?
これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。
最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。
が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。
要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。
そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。
もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。
ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。
では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。
+++++++++++++++++++++++++
【己こそ、己のよるべ論】
●ジョン・レノン
ジョン・レノンは、つぎのように言っている。
★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's
Yoko's story . That's what I'm saying now. Produce your own dream. If you
want to save Peru, go save Peru. It's quite possible to do anything, but not
to put it on the leaders and the parking meters. Don't expect Jimmy Carter
or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or Jesus Christ to
come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great
masters and mistresses have been saying ever since time began. They can
point the way, leave signposts and little instructions in various books that
are now called holy and worshipped for the cover of the book and not for
what it says, but the instructions are all there for all to see, have always
been and always will be. There's nothing new under the sun. All the roads
lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You
can wake you up. I can't cure you. You can cure you.
……John Lennon, In Music/John Lennon
君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。そのことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルーへ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。
ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、あるいはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだよ。自分でしなければ、いけないよ。
それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼らはみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできるよ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方というのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。
太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のためにはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だけが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)
●仏教では
ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あなたを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●中日新聞に掲載記事より
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。
(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)
釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【家庭内宗教戦争】
福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。
●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。
●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫してしまう。
●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。
●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やしている。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。
●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。
●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」と、逆にやり返される。
今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。
こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。
よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。
『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。
生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。
「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたもって、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。
そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。
また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。
たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは常識。
中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。
私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。
【6月23日・土曜日】山荘にて
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
「もう本は書かない」と思っていた。
「本より、ネット」と。
そう思っていた。
が、書くことにした。
その本の原稿が、今日、ほぼ完成した。
この月曜日に書き始めたから、6日間で書いたことになる。
出版社への売り込みはこれから。
しかし長年の勘というか、「この本は出る」と思う。
「出る」というのは、書店に並ぶという意味。
若いころには、1年間で、10冊の本を出したことがある。
ただし誤解がないように。
私は自費出版なるものは、したことがない。
私にとっては、自費出版は、屈辱以外の何ものでもない。
昨夜、ワイフに、「原稿はできたよ」と言うと、ワイフでさえ、驚いていた。
6日間というのは、私にとっても、最短記録。
明日から推敲に入る。
が、山登りにたとえるなら、下り坂。
家の建築にたとえるなら、内装工事。
あとは楽。
「あさってからはつぎの本を書くよ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●64歳の生きがい
恩師の田丸謙二先生は、80歳を過ぎてから、本を出版している。
80歳だぞ!
そういう(事実)が、私を勇気づける。
「先生ができるなら、ぼくにもできるはず」と。
……このところ、何をしても、落ち目。
負け戦(いくさ)。
それで本を書く気になった。
人間というのは、怠惰な生物。
崖から落とされないと、空を飛ばない。
崖から落とされてはじめて、翼(つばさ)をもっていたことを知る。
言い換えると、安逸な生活からは、何も生まれない。
平凡は美徳だが、平凡な人生からは、ドラマは生まれない。
が、同時に、私は感謝している。
何に対して……というのではない。
こうして前向きに、生き甲斐をもって文章が書けることに感謝している。
またそれができることに感謝している。
今回も、本を書く気になったら、6日間で、それができた。
そういう自分がうれしい。
それに感謝している。
●山荘にて
ワイフは、先ほど、「12時には寝ようね」と言った。
素直に、私は同意した。
が、今は、まだ10時。
2時間、ある。
2時間も、ある。
で、この文章を書き始めた。
2時間もあれば、20ページは書ける。
単行本だと、120~150ページで1冊の本になる。
そう考えれば、6日で、1冊の本を書くのは、それほどたいへんなことではない。
もちろん内容にもよる。
目下、出版業界は、大不況。
それなりにインパクトのある本でないと、出版社がつかない。
で、月曜日に、企画書を、T社という出版社に送った。
このところT社の本を買うことが多い。
販売力がある。
それでT社にした。
すぐ「検討させてください」という返事が届いた。
今は、そういうやり取りが、ネットを介して、即日にできる。
仕事のテンポが、20年前、30年前とは、比較にならないほど速い。
以前は、見本原稿を10~20作、プリントアウトし、あちこちの出版社に原稿を送った。
こうしたやりとりだけで、数週間はかかった。
●盗作
私が元気そうだと、ワイフも、うれしそう。
そうでないと、そうでない。
それがよくわかる。
「出版が決まったら、また温泉に行こうね」と声をかけると、うれしそうに笑った。
もし出版が決まれば、10年ぶりの本ということになる。
先週までは、「原稿は無料で……」と考えていた。
しかし盗作、盗用、無断転載の多いのには、驚いた。
先月は、1000枚(40字x36行)近くが、あるサイトに、無断転載されていた。
「はやし浩司」の名前は、すべて削ってあった。
同時に、あたかも本人が書いたかのように、体裁を整えていた。
こういうことがつづくと、まじめにものを書いている自分が、阿呆に見えてくる。
馬鹿ではなく、「阿呆」。
お人好しの阿呆。
善人になる必要はない。……私は善人ではない。
悪人でもないが、しかし悪人の餌になってはいけない。
その悪人が多すぎる。
一方、私は、いまだかつて、(当然のことだが)、他人の文章を流用したり、あたかも自分の文章のように偽ったことはない。
これを「盗作」という。
私は無名のもの書きだが、そんな私でも常に、自分にこう言い聞かせている。
「盗作したら、おしまい」と。
……若いころ、Kという日本を代表する作家と交流させてもらった。
たくさんの著作物を残した。
が、その作家は、N県に住む無名の作家の原稿を買い取り、それに自分の名前を載せ、本にした。
それがその作家の死後、発覚した。
原稿を売った作家が、名乗り出た。
以後、そのKという作家は、文壇の世界から、消えた。
この世界では、「盗作」というのは、それを言う。
●挑戦
私「今さら、有名になりたいとは思わない。なってもしかたないし……」
ワ「じゃあ、なぜ本を書いたの?」
私「自分への挑戦みたいなものかな……。このところ脳みその老化を強く感ずる。気力も弱くなってきた」
ワ「まだ、あなたは若いわよ」
私「そうかなア……。でもまだ10年くらいは、がんばれるような気がする」
ワ「そうよ。がんばれるわよ」と。
2、3日、運動をさぼると、とたんに体がだるくなる。
動きが鈍くなる。
で、昨日、薬局で、栄養ドリンク剤を買ってきた。
たてつづけに、2本飲んだ。
それがきいた。
テレビのコマーシャルに出てくる男性のように、元気になった(?)。
「ファイト!」という、あれである。
「あんなものは、効果がないよ」と言う人もいる。
しかし私にはきいた。
それで今夜も、この山荘へ来る前、ドラグストアに寄り、ドリンク剤を3本、買った。
「アリナミン・ゼロ7」と、瓶の表には、そう書いてある。
「7種類の有効成分が入っている」ということらしい。
●旅館の米
……ということで、今夜は気分がよい。
少しだが、昨日、ある出版社から原稿料が振り込まれた。
予定していなかっただけに、うれしかった。
即座に、「xx日に、温泉へ行こうか?」と私。
……と書いたところで、「待った!」。
今夜もここへ来る途中、KE苑というラーメン屋に寄った。
全国規模のチェーン店を展開している。
その店で「ここでは、どこの米を使っていますか」と聞くと、店長がテーブルまでやってきた。
一枚のプリントアウトされた紙を、私に見せた。
それには、「栃木米と山形米のブレンド米」と書いてあった。
ともに、東北産。
どうして?
2週間ほど前、浜名湖周辺のホテルや旅館に電話をかけ、調べた。
どこの米を使っているか、それを知りたかった。
結果、どこも東北産の米を使っていた。
この静岡県で、東北産?
ファーストフードの、「すきや」では、鳥取米を使っていると教えてくれた。
そういうことなら、話もわかる。
が、どうしてどこも、東北産?
このことを先日、タクシーの運転手に話すと、運転手はこう言った。
「ワシなんかさあ、3食とも、外食だよ。今さら、……遅すぎるよ」と。
つまりもう手遅れ、と。
……ということで、今月は、温泉巡りは、2度だけ。
「お金が入ったら、温泉」という話は、あまりしない。
●相談
たった今、マガジン読者の方から、相談が入った。
返事を書いた。
「相談内容を掲載してよろしいですか?」という一文も添えた。
明日の朝までに許可がもらえれば、掲載する。
許可がもらえなければ、回答の部分だけ、掲載する。
【はやし浩司より、NGさんへ】
(掲載許可が届かなかったので、回答の部分のみ。6月24日、朝記)
NG様へ
こんばんは。
NGさんは、すでに自分の過去を冷静に分析しています。
こうした問題は、過去を冷静に見ることができれば、半分は解決したことになります。
あとは時間がかかります。
10年単位の時間です。
ただし一度傷ついた心は、もとには戻りません。
つまりもうもとに戻ろうとは思わないこと。
仲よくつきあうことです。
だれにも、ひとつやふたつ、大きな傷(トラウマ)があります。
私にもあります。
で、私のばあいも、もう闘うのをやめました。
受け入れたのです。
ぼくは、どうしようもない人間、とです。
あとは、そういう自分と知った上で、それに合った生活を組み立てていきます。
たとえば私は、この年齢になっても、夜がこわくてなりません。
ひとりで寝るのがこわいです。
だからいつもワイフといっしょに、寝ます。
ワイフは、もうあきらめていますが、そういう私と知った上で、つきあってくれます。
NG様も、自分を責めてはいけません。
あなたはあなた。
みな、平然としていますが、傷のない人はいません。
またあなたが経験した程度の苦しみや悲しみは、乗り越えられるものです。
今は、お母様の介護で、たいへんでしょうが、この時期も、振り返ってみると、あっという間に終わります。
なお「自己愛的」ということですが、一方で完璧主義になっていないか、注意してみてください。
世の中、いいかげんなものです。
今のあなたには、許せないかもしれませんが、そういうものです。
もし怒りを感じたら、文章なり、絵画なりに、それをぶつけてみたらいいですよ。
私はいつも、書きまくることによって、怒りを燃焼させています。
何か、そういう方法があるといいですね。
何か、ありませんか。
あなたはすばらしい経験をしています。
すばらしい青春時代を過ごしています。
ほかの人が見ることができない世界を見てきています。
そういった自分に自信をもちなさい。
それがあなたの灯台ですよ。
あなたの人生の、あなたの足元を照らしている。
あとはその光に沿って、前に進めばいいです。
ぼくも、さみしい。
あなたもさみしい。
みんな、さみしい。
けっして、自分だけがと思わないこと。
追い詰めないこと。
40歳?
うらやましいほど、若いですよ。
私はもうすぐ65歳になります。
が、負けてはおれない。
ということで、この6日間で、一冊の本を書き上げました。
来週から出版社との交渉に入ります。
40歳、すばらしい年齢ですよ。
エリクソン(ユングだったかな?)が説いた、まさに人生の正午。
どうか今というすばらしい時を見失わないように!
賢人は、それを失う前に、その価値を知ります。
愚人は、それを失ってから、その価値を知ります。
どうか賢人であってください。
なおたぶん、だめだと思いますが、いただいたメールを明日のBLOGに載せていいですか?
もちろん内容(固有名詞など)は、すべて改変し、NG様とはぜったいにわからないようにします。
いかがでしょうか。
同じような悩みを抱えている人は、多いと思います。
みなの力になると思います。
最後に、あのマザーテレサは、こう書いています。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012-01-01夜記)
++++++++++++++++++++++++
年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。
思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。
ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。
人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。
子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。
その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。
では、私は、どうなのか?
これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。
最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。
が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。
要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。
そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。
もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。
ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。
では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。
+++++++++++++++++++++++++
【己こそ、己のよるべ論】
●ジョン・レノン
ジョン・レノンは、つぎのように言っている。
★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's
Yoko's story . That's what I'm saying now. Produce your own dream. If you
want to save Peru, go save Peru. It's quite possible to do anything, but not
to put it on the leaders and the parking meters. Don't expect Jimmy Carter
or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or Jesus Christ to
come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great
masters and mistresses have been saying ever since time began. They can
point the way, leave signposts and little instructions in various books that
are now called holy and worshipped for the cover of the book and not for
what it says, but the instructions are all there for all to see, have always
been and always will be. There's nothing new under the sun. All the roads
lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You
can wake you up. I can't cure you. You can cure you.
……John Lennon, In Music/John Lennon
君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。そのことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルーへ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。
ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、あるいはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだよ。自分でしなければ、いけないよ。
それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼らはみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできるよ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方というのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。
太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のためにはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だけが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)
●仏教では
ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あなたを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●中日新聞に掲載記事より
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。
(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)
釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【家庭内宗教戦争】
福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。
●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。
●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫してしまう。
●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。
●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やしている。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。
●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。
●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」と、逆にやり返される。
今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。
こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。
よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。
『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。
生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。
「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたもって、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。
そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。
また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。
たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは常識。
中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。
私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。