最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●弱者には弱者の論理がある(対、強者の合理主義)

2011-11-21 11:52:00 | 日記
●悪魔の論理(合理vs弱者の論理)

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抑圧が長くつづくと、心は悪魔的になる。
サイコパスもそのひとつだが、それ以前の段階で、
ものの考え方がゆがんでくる。

たとえばこんな例で考えてみよう。

たとえば今、あなたは失業しているとする。
働いても、働いても、たいした収入にはならない。
子どももいる。
家計は火の車。
明日の食費すらままならない。
もしそんな状態が、1年から10年単位でつづいたとする。

こんな状態で、ものの考え方を正常に保つのは不可能。
ひがみ、ねたみ、不平、不満、怒り、不安、心配……。
これらが混然一体となって、あなたの心をゆがめる。

が、これは個人にかぎらない。
国全体が、そうなることもある。

たとえば北朝鮮。
先のワールドカップ3次予選では、日本側チーム、サポーターは、
「冷遇」(ニュース各社)されたという。
どう冷遇されたかは、すでにみなさんご存知の通り。

それに対して、北朝鮮が、猛然と反論してきた。
「冷遇したのは、日本側」と。
読めば読むほど、ガラスに爪をたて、かきむしるような不快感が充満してくる。
しかしこれが「悪魔の論理」である。
国も心がゆがむと、そこまでゆがむ。

MSNの記事を、そのまま紹介する。

+++++++++++++以下、MSN記事より++++++++++++++

●「まるで監獄だった」北が日本での待遇を逆非難

 北朝鮮・平壌で15日に行われたサッカーワールドカップ(W杯)予選の日朝戦で、日本代表が空港で足止めされるなど異例の対応を受けたと、日本メディアが報じたことに対し、北朝鮮は機関紙を通じて9月に日本であったW杯予選での北朝鮮代表への待遇を挙げ、「まるで監獄だった」と逆非難した。

 ラヂオプレス(RP)によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は18日、ウェブサイトで、北朝鮮選手に対して日本警察がトイレまで付いてきたりしたとし、「まるで監獄に行ってきたようだ」との選手の話を紹介した。入国時にチョコレートを没収されたとも訴えたが、真偽は全く不明だ。

 日本サポーターは日の丸などの応援グッズを没収され、観客席の一角に押し込まれる“冷遇”を受けたが、「選手団も応援団、取材団も平壌に来て、商店をはじめ行きたいところに自由に行った」と事実に反する主張を繰り広げている。

+++++++++++++以上、MSN記事より++++++++++++++

●相手にしない

 こういう国は、相手にしないほうがよい。
言いたいように言わせておけばよい。
こちらが本気になればなるほど、相手の思うつぼ。

 で、ここでは話を、もう一歩、先に進める。

●まともでない国

 経済学がそのつど、かならずといってよいほど、デッドロックに乗り上げるのは、悪魔の論理を計算に入れていないから。
つまり経済学は、(まともな論理)を基盤にし、その上に成り立っている。
が、世界には、(まともでない国)のほうが、多い。
北朝鮮もそうだが、たとえばスペインも症状は軽いが、そのひとつ。

 多額の国家負債をかかえ、明日にでもデフォルト(債務不履行)を起こすかもしれない。
が、スペイン自体は、どこか居直っている?
一部の人たちは都市で、緊縮予算反対などと騒いでいるが、あくまでも一部。
たいはんの人たちは今日も裏通りで、バックギャモンに興じている。

それに対して、ドイツやフランスが、大あわて。
表向きはスペイン救済を口にしているが、実際には、自分たちの救済。
「国」ではなく、「一家」にたとえてみると、それがよくわかる。

●アンダーワールド

 あなた(スペイン)は年収の何倍もの借金をかかえている。
明日の生活を維持するためには、さらに借金を重ねるしかない(=国債を発行するしかない)。
利息も、バカにならない。
この先、増収分よりも、利息のほうが多くなる。
つまり働いても働いても、そこはアリ地獄。

 もうこうなったら、自己破産(デフォルト)するしかない。
自己破産して、借金をチャラにする。
その上で、もう一度、一家を立て直す。

 が、金を貸している銀行(ドイツ銀行)は、そうでない。
もしここでチャラにされたら、元も子もなくなる。
相手が個人なら、財産の没収ということもできるが、相手が国ではそれもできない。
スペインの半分の領土を、ドイツに渡せとも言えない。
本当に、元も子もなくなる。

 つまり(まともな論理)を振りかざすドイツと、(まともでない論理)を振りかざすスペイン。
ここで両者がたがいに、はげしく衝突する。
が、その衝突を裏で支えるグループがある。
それが23%とも言われる、失業中の若年労働者たち。
この人たちにしてみれば、もうこれ以上、失うものは何もない。
このグループが、「力」で、政治を裏で操ろうとする。
つまりここで悪魔の論理が働く。
まともな経済学の論理が通じない、いわば、アンダーワールドの世界。

 このアンダーワールドの世界が、こわい。

●弱者の論理

 悪魔の論理をさらに理解するためには、弱者の論理を知らなければならない。
弱者には弱者独特の論理がある。
またその上で、ものを考える。

++++++++++++++++++はやし浩司

 2006年6月に書いた原稿より。

++++++++++++++++++はやし浩司

【主義の限界】

++++++++++++++++++++

なぜ、共産主義も、資本主義も、そして
民主主義も、最後の最後のところで、
行きづまってしまうのか?

わかりやすく言えば、そのどれも、
最後の、あと一歩というところで、
ほころびを生じてしまう。ボロボロに
なってしまう。

よい例が、今のイラク。民主主義は最善
とばかり、それを押し付けようとする、
アメリカ。

しかしその民主主義とやらを、イラクの
人たちは、どうやら別の目で見ている?

なぜか?

++++++++++++++++++++

●教育論の限界

 教育論という「論」がある。それはそれとして、その「論」にも、限界がある。いくら高尚な教育論を説いたとしても、そこには、一定の限界がある。

 こんな例で考えてみよう。

 私たちが「子ども」というときは、子ども全体をさす。1人ひとりの子どもについて書くこともあるが、しかしそれでも、「個人」については、書かない。また書いてはならない。

 私たちが「子ども」というときは、顔をもたない、子どもたちの世界、全体を意味する。

 教育論は、そうした「子ども」を前提として、組み立てる。が、最後の最後のところで、子どもをもつ親は、こう言う。

 「先生、うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 つまり、「うちの子は、ちゃんと目的どおり、SS中学校へ、入学できるでしょうか」と。

 これが教育論の限界である。私たちは「論」を説きながらも、そこにいつも、一定の限界があることを知る。

●主義の限界

 資本主義にも、共産主義にも、似たような限界がある。民主主義にも、ある。ある一定のところまでは、その「主義」は、有効であり、それなりの支持を得る。が、それを越えると、とたんに、ほころびが生ずる。ボロが出る。矛盾が生ずる。

 なぜか?

 こうした限界も、教育論がもつ限界を当てはめてみると、簡単に理解できる。

 「高尚な教育論も結構だが、私という親が目的とすることは、自分の子どもを、SS中学に入れることなのです」と。

 つまり今日の生活にも困っている人に向かって、資本主義や共産主義、さらには、民主主義という「主義」を説いても意味はない。「高尚な主義も結構だが、今日の生活を、まず、何とかしてくれ。主義の話をするのは、そのあとで、結構!」となる。

●強者の論理vs弱者の論理

 こうした「限界」を、如実に表しているのが、「経済理論」である。ご存知のように、経済理論ほ
ど、ツギハギだらけの理論はない。ツギハギにツギハギを重ねながら、何とかその場、その場をしのいでいる。ごまかしている。

 遠い昔には、アダム・スミスがいた。ケインズがいた。マルクスがいた。最近では、ドラッカー(1909~)がいた。しかし一度とて、その理論どおりに、経済が動いたためしがない。

 理由は、簡単である。

 こうした経済理論は、いわば、強者の論理でしかないからである。わかりやすく言えば、とりあえずは、日ごろの生活には困らない、それなりのエリートたちが考えた論理だからである。

 それに対して、弱者と呼ばれる人たちは、いつも別の論理で、ものを考え、行動する。しかも不幸なことに、そういった弱者は、「もの言わぬ民」である。自分たちの主義(?)を、論理として、まとめることもできない。今日という現在を、生きていくだけで、精一杯。明日の生活を心配しながら、不安な毎日を送っている。

 そのためには、ときには、法もやぶる。悪いこともする。そうでもしないと、生きていかれない。そういう人たちが、時として、主流となり、エリートたちが説く「主義」を、ことごとく否定していく……。

●教育の世界でも……

 高尚な教育論など、受験塾の玄関をくぐれば、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。そこでは、教育そのものが、個人の欲得の追求の場になっている。

 「1人でも多く、他人を蹴落とせ」
 「点数こそ、すべて」
 「人間の勝ちも、それで決まる」と。

 しかしだれが、そういう受験塾を否定することができるだろうか。彼らは、みな、決まってこう言う。

 「私の目的は、SS中学校の入試に、合格すること」と。

 わかりやすく言えば、歴然とした社会的格差をそのままにしておいて、いくら、高尚な教育論を説いても意味はない。親や子どもたちは、日々の生活を通して、否応なしに、その格差を、肌で感じ取っている。

 「来月はどうやって生きていこうか」と悩んでいる人もいれば、数千万円の年収を稼ぎ、外車を何台も乗り回している人もいる。

 その入り口に、「教育」がある。つまり彼らにとっての「教育」とは、そういう教育をいう。そして私たちが説く教育論とは、まったく異質のものである。

●民主主義の限界

 民主主義といっても、いかにいいかげんなものであるかは、すでに、みさなん、ご存知のとおり。国政選挙があるたびに、だれしも心のどこかで、何かしらの疑問を感じている。「こんなことで、本当に政治が変わるのだろうか」と。

 このH市でも、中央から天下り官僚がやってきて、選挙に出馬する。当選する。そしてまた中央へと戻っていく。それが明治の昔から、慣例になっている。

 で、選挙が終わっても、生活は、何も変わらない。相変わらず、今日という「今」を生きていくだけで、精一杯。

 もっとも、これは「個人」の話だが、これが、「国家」の話になることもある。

 欧米先進国が、いくら高尚な民主主義を説いたところで、国によっては、今日という「今」を生きていくだけで精一杯という国もある。

 そういう国へ行けば、「何が民主主義だ!」となる。つまりこれが、民主主義の限界ということになる。

●弱者の論理

 こうした「限界」を乗り越えるためには、弱者の論理でものを考え、そのレベルで主義を作らねばならない。が、しかしそうした主義は、今度は、強者の利害と、まっこうから対立する。

 これも教育の場で考えてみると、それがよくわかる。

 「とにかく、この日本では、学歴のあるものが勝ち」
 「勝てば、官軍」
 「1点でも、点数をあげろ。すべては偏差値で決まる」と。

 講演などでも、「日本の教育の未来」という演題では、人は、集まらない。しかし「こうすれば、あなたの子どもを、目的の大学へ入学させることができます」と言えば、人は、集まる。

 現実の世界は、そこにある。

 しかし教育論を説く人が、そんな話をするわけには、いかない。先にも書いたが、「子ども」といっても、子ども、そのものが、ちがう。こんな私にしても、ものを書きながら、その限界を、毎日のように感じている。

●主義の限界

 つまりは主義には、限界があるということ。それがつまりは、共産主義にせよ、民主主義にせよ、資本主義の限界ということにもなる。

 もちろん限界があることが、悪いというのではない。またそれがあるからといって、それぞれを否定するのも、おかしい。

 大切なことは、いくら主義をもっても、それは強者の論理でしかないということ。弱者は弱者で、別の論理で動く。たとえば宗教、さらにはカルト、迷信、占い、まじないにしても、それを「おかしい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、そういうものに身を寄せている人を、「まちがっている」と言ってはいけない。

 そういうものに身を寄せることで、懸命に自分を支えている人だっている。

 それを忘れると、いくらすばらしい主義を唱えても、やがて矛盾を露呈し、ここに書いたように、ボロボロになってしまう。

 なぜあのイラクで、ブッシュ大統領が説く民主主義が定着しないかという理由も、こんなところにあるのではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 主義 はやし浩司 弱者の論理 貧者の論理 主義の限界 民主主義 経済学の限界)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●弱者の論理vs依存性

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弱者が必ずしも正しいというわけではない。
弱者の論理が、同じように、正しいというわけではない。
弱者の論理の根底を流れるのが、「依存性」。
弱者の論理を、依存性の観点から、考えてみた。
それがつぎの原稿。
日付は2009年の2月(BLOG)になっている。

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●依存性(Dependence)

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依存性には中毒性がある。
依存される側を、「主者」とする。
依存する側を、「従者」とする。
一度、二者の間で依存関係ができると、主者はいつも主者となり、
従者は従者となる。
途中で、立場が入れ替わるということはない。
これについては、前にも何度か書いた。
そこでここでは、もう一歩、話を進める。

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●親子の依存性

実は、親子関係においても、この依存性が生まれることがある。
親が主者となり、子が従者となるケースが多い。
が、反対に、親が従者となり、子が主者となるケースもある。
一般的に、精神的欠陥、情緒的未熟性があると、従者になりやすい。
親側にそれがあれば、親が従者になる。

で、こうした依存性を、自分の中に感じたら、できるだけ早い時期に、
依存性と決別したほうがよい。
自分の親や、自分の子どもに感じたときも、そうである。
主者はますます主者になり、従者はますます従者になる。

従者は、「助けてもらうのが当たり前」という考え方をする。
そのためお金やモノの流れが、一方的になる。

で、親子のばあいは別として、(親子でもそうなるケースは多いが)、
従者が主者にそれだけ感謝しているかというと、それはない。
立場が逆転したとき、その分だけ、今度は従者が、主者を助けてくれるかというと、
それはない。

こんな例がある。

●麻痺する感覚

A氏(50歳)は、実母の実家ということで、長い間、伯父を財政的に援助してきた。
伯父は実家を守っていたが、定職はなかった。
そこで「小遣い」と称して、実母はそのつど、伯父に渡していた。
もとはと言えば、A氏が実母に渡したお金である。
ハンパな額ではない。
合計すると、年間、数百万円にはなった。
それを10年近く、つづけてきた。

が、A氏が50歳になったとき、A氏の事業が行き詰った。
一時的に多額の借金を負った。
そこでA氏はそれとなく伯父に打診してみたのだが、伯父は、だんまりを決め込んだ。
A氏はこう言った。

「私の窮状を知りつつ、音なしの構え。そればかりか、それとなく『うちは貧乏』と、
そればかりを口にするようになりました。
それもズルイ言い方をするのですね。『この3年間、旅行などしたことがない』とか、
『家の改築費に、600万円かかった。ローンの返済で、たいへん』とかなど。
実際には、町に空き地を買い上げてもらっていたのですが……」と。

だからA氏はこう言う。

「依存関係ができたら、その人を援助しても無意味です。感謝されるのは、最初だけ。
しばらくすると、それが当たり前になり、さらにしばらくすると、援助しないでいると、
逆に請求されるようになります。
それに応じないと、かえって恨まれることもあります」と。

なぜか。

●弱者の立場で

従者の心理を理解するためには、一度、弱者の立場に自分を置いてみる必要がある。
弱者には、弱者の論理がある。
こんな例で考えてみよう。

あなたの隣に、金持ちが住んでいる。
大型の外車に乗り、大きな家に住んでいる。
毎日、ごちそうを食べている。
が、あなたは貧乏。
その日の食費さえ、満足にない。
子どもの学費もままならい。

そんなある日、隣人が、金銭的な援助をしてくれた。
あなたは涙を出して、それを喜んだ。
が、あなたは一時的には感謝するかもしれないが、その気持ちは、いつまでも
つづかない。

あなたはそれまでにも、そしてそのときにも、別の心で、隣人をねたみ、そういった
不公平があることについて、大きな不満を感じていた。
だから「隣人が自分を助けてくれるのは当然」とまでは考えないにしても、
助けてくれたからといって、それまでのねたみや不満が消えるわけではない。
そのねたみや不満が、それまでにもていった慢性的な(怒り)が、
感謝の念を消してしまう。
むしろ助けてもらったことによって、ねたみや不満を増大させてしまうこともある。

●日本政府の援助

よい例が、日本政府が外国に対してする、政府間援助。
日本は毎年、東南アジアを中心に、70~80億ドル規模の、援助をしている
(政府開発援助・06)。
しかしそういう国々が、日本に対して感謝しているかといえば、それはない。
中国にせよ、韓国にせよ、東南アジアの国々やアフリカ諸国の国々にせよ、
いまだかって、日本に感謝したという例は、ひとつもない。
「援助をやめる」と言っただけで、逆に抗議される。

あのK国にいたっては、核兵器で脅して、日本から援助をとりつけようとしている!

だから冒頭の話に戻る。
依存性には、中毒性がある、と。

が、それでもだれかを助けたくなったら、どうするか?
そういうときは、無私、無欲、自分とは関係のない人に対してしたらよい。
人間関係を破壊したくなかったら、そうする。

そうそうもうひとつ。
援助するならするで、相手をよく見極めてからするのがよい。
「逆の立場だったら、この人は、私を助けてくれるか」と。
そういう目で、相手を見ながら援助するのがよい。

●依存性の内容について

依存性にも、(1)攻撃型と、(2)同情型、(3)服従型がある。
ある親に向って、自分の努力なさを棚にあげて、「こんなオレにしたのは、お前だろ!」と
叫んだ男性がいた。
「だから、オレの責任を取れ」と。
これを攻撃型依存性という。

一方、弱々しい自分を演じながら、相手に依存する人もいる。
相手が援助しなければならないように、相手を追い込んでいく。
ある男性は、「あなたが助けてくれなければ、一家心中です」と言って、相手に
援助させていた。
これを同情型依存性という。

さらに相手に、「あなたにすべてを任せます」といった様子を売りこんで依存する
ケースもあります。
ある女性は、実弟が生活費を渡すたびに、こう言った。
「大切に使わせてもらいます」と。
つまり(もらう)のが当然という考え方をする。
これを服従型依存性という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
依存性 攻撃型依存性 服従型依存性 同情型依存性)

++++++++++++++++++はやし浩司

●弱者の論理

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最後に、私が好きな私の原稿。
この原稿を読むたびに、ジンと
胸が熱くなる。
(中日新聞発表済み)

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●尾崎豊の「♪卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。
そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。
「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。

「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。
現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。
尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。
「子どもたちよ、夢をもて」と。
しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。
ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。
大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。
尾崎はこう続ける。

「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。
目が上ばかり向いている。

たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。
しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。
それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。
そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。
「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。
彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。
年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。

いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。
こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。
そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。
「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった
。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。

この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 尾崎豊 卒業)

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●合理との対立関係

 人の心もゆがむときには、ゆがむ。
が、問題は、どうゆがむかではなく、なぜゆがむかということ。
そこにメスを入れないかぎり、この世の中は、ますますゆがんでいく。

 わかりやすく言えば、人間が原罪的にもつ(欲望)。
その欲望をどうコントロールしていくか。
そのあたりまで掘り下げないと、この問題、つまり弱者の論理(貧者の論理)は、解決しない。
いつまでたっても、合理と対立関係を維持したまま、私たちの住む世界を、ゆがめていく。
2011/11/21

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●貪欲に、それが燃え尽きるまで生きろ(貪欲は、老人が陥る、病気である)by John Milton

2011-11-21 09:23:40 | 日記
●老人心理と貪欲さについて(はやし浩司 2011-11-20)
(John Milton's "On Time")

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今夜の夕食は、私がインスタント焼きそばと白いご飯。
ワイフが、レトルトの牛丼。
息子が、インスタント・ラーメン。
まことにもって、質素な夕食。……でした。

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●運動2単位

 先ほど、ウォーキングマシンの上で30分、歩いた。
時速は6キロ(MAX)。
ダラーと汗をかいたところで、終了。
これで1単位。
(1単位=約30~40分。全身に汗をかく程度を1単位とする。)

●竹やぶ

 自宅の横に、大きな竹やぶがある。
その竹やぶの竹を、草払機で100本ほど、切り倒した。
放っておけば、自宅のほうまで伸びてくる。
壁をこする。

また枯れた竹や葉が、かなり積もっている。
だれかがタバコの吸い殻でも捨てたら、そのまま火事になる。
……ということで、毎年、今の時期になると、竹やぶの竹を切る。

 夏場は、ハチの巣があるので、それはできない。
切るなら、今ごろ。
毎年、それが恒例行事になっている。
で、今日はそのあと、庭の芝生も刈った。
その運動が、ちょうど1単位。

だから今日は、計2単位。
運動の量としては、まずまず。

●半眠状態

 脳みその健康のためには、運動は欠かせない。
とくに私のような低血圧気味の人間には、欠かせない。
運動をする前と、運動したあととでは、脳みその働きはまったくちがう。
ものを書いていると、それがよくわかる。

 が、今は、どこかぼんやりとしている。
集中力というより、(怒り)がわいてこない。
食後ということもあって、脳みそは半眠状態。
平和。
穏やか。
さて本論。

++++++++++++++++++はやし浩司

イギリスの詩人、ミルトンはこう書いている。
『老人が落ち込む、その病気は、貪欲である』と。

私は英語の原文を知らない。
「貪欲」というのは、「greedy」のことか。
卑しい意味で、「greedy」という。
「あなたはgreedyだ」と言われ、それを喜ぶ人はいない。
日本語で言うと、「むさぼる」という意味になる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●老人のこだわり

 ある老人が、自宅で倒れた。
たまたま隣人が医師だった。
それでその老人は隣人の家まで、這うようにしてやってきた。
が、ここからが常人には、理解できないところ。

 その医師が「救急車を呼びましょう」と声をかけると、「それだけはやめてくれ」と。
理由を聞くと、「近所に恥ずかしいから」と。

●見栄?

 こうした老人特有の(こだわり)は、あちこちでよく耳にする。
たとえばA氏、82歳。
A氏の妻も、同じく、82歳。
A氏は自宅に住んでいる。
A氏の妻は、有料老人ホームに住んでいる。

 ところが最近、A氏の体調が悪くなってきた。
10年ほど前に、前立腺がんの手術を受けている。
それが再発。
大腸がんを併発した。

 が、A氏は、どんなことがあっても、自宅の雨戸を閉めたまま、あるいは開けたままにしない。
A氏が自宅にいないときは、A氏の妻が有料老人ホームからタクシーでやってきて、その時刻になると、雨戸を開けたり、閉めたりしている。

 見栄なのか?
それとも虚栄なのか?

 これらの老人に共通しているのは、自分の弱みを人に知られることを、極度に警戒しているということ。
私の母にしても、そうだ。
兄と自転車店を経営していたが、60歳を過ぎてからは、めったに外泊すらしなかった。
店を閉める……ということを、極端にいやがっていた。
たとえば兄が胃潰瘍で入院したときも、医師とかけあって、1週間程度で病院から連れ出してしまった。

●恥?

 こういう老人特有の心理を、どう理解したらよいのか。
ふつうの常識のある人なら、ケース・バイ・ケースでものを考える。
若い人なら、なおさらであろう。
救急車を呼ぶことを、恥と考える。
自宅や店を閉めることを、恥と考える。

 他人の目の中で生きてきた人ほどそうかもしれない。
が、それだけでは、理解できない。
もうひとつ考えられるのは、そうした老人たちは、そういう目で他人を判断してきたということ。
たとえば近所の人が救急車で運ばれたりすると、それを喜んだり、笑ったりする。
店を閉めた人についても、そうだ。
あれこれとその家の事情を詮索し、それを世間話にして花を咲かせる。

 低俗な人たちだが、そういう人は、たしかにいる。

●他人の不幸をのぞく人

 義姉の母親が倒れた。
義姉の義母、つまり夫の母親だった。
その母親は2年間ほど、義姉の家にいた。
義姉が介護した。

 そのときのこと。
ある日突然、夫の従姉と従兄の2人が見舞いに来たという。
いろいろ事情があった。
その事情について書くのは、ここでの目的ではない。
簡単に言えば、「来るはずもない2人が来た」(義姉)と。

 義姉はこう言った。
「好奇心というか、物見見物といった感じです。義母が倒れたのが、よほどうれしかったのでしょうね。それを自分の目で確認するために来たのです」と。

 私にも似たような経験がある。
あるので、そのときの義姉の気持ちがよく理解できた。
世の中には、本当に残念なことだが、他人の不幸を酒の肴(さかな)にして、喜ぶ人がいる。

●人生の総決算

 老齢期になると、それまで奥に隠し持っていた醜悪な人間性が、そのまま表に出てきてしまう。
隠そうという意欲そのものが、薄れてくる。
(反対に若いときは、気力で、それをごまかすことができる。)
言うなれば、持病のようなもの。
それがどっと表に出てくる。

 老齢期というのは、そういう意味で、人生の総決算期。
老齢期の人間性を見れば、その人がどういう人生観をもっていたかが、おおよそわかる。
もちろんそれがよいものであれば、よし。
しかしそうでなければ、そうでない。
みなにあきられ、嫌われる。

●では、どうするか

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
「日々に鍛練あるのみ」と。
この鍛練にみによって、自分の人生観を変えることができる。
しかもその時期は、早ければ早いほど、よい。
30歳や40歳を過ぎてからでは、遅い。
50歳では手遅れ。
60歳では、先に隠された人間性のほうが表に出てきてしまう。

 つまり一度できた人間性は、簡単には改まらない。
ゆがんだ心となると、さらにそうだ。
ばあいによっては、(ほとんどがそうだが)、死ぬまでそのまま。

●縁を切る

 あなたの周囲にも、ずる賢い人はいくらでもいる。
小細工に小細工を重ね、善人ぶっている人はいくらでもいる。
ウソをつき、インチキを繰り返す。
大きな悪事こそできないが、平気で人をだます。

実のところ、私のまわりにもそんな人がいた。
が、50歳を過ぎるころから、私は心に決めた。
「縁を切ろう」と。

 そういう人たちとつきあっていても、得るものは何もない。
ないばかりか、しばらくつきあっていると、そういう人たちがもつ、あの独特の毒気に染まってしまう。
そういう人たちは、そういう人たち同士が集まり、独特の社会を形成している。
そういう社会に取り込まれると、それこそ私やあなたは、酒の肴にされてしまう。

 が、それが本当の被害ではない。
本当の被害は、時間を無駄にすること。
時間を無駄にすること以上の、「損」はない。

●総決算

 「救急車を呼ぶな」と言った老人。
毎日、雨戸をきちんと開けたり閉めたりする老人。
それがその老人たちがもつ人生観の、総決算ということになる。

 ……この話は以前にも書いた。
原稿をさがしてみる。

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「救急車を呼ぶな」と言った老人。
日付を見ると、2002年となっている。
今から9年前。
その前後に書いた原稿と併せて、再掲載する。

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●ある退職者


 退職してからも、現役時代の肩書きや地位を引きずって生きている人は多い。とくに「エリート」と呼ばれた人ほど、そうだ。そういう人にしてみれば、自分が歩んだ出世コースそのものが、自分の人生そのものということになる。Y氏(六七歳)もその一人。


 私に会うと、Y氏はこう言った。「君は、学生時代、学生運動か何かをしていたのかね? それでまともな仕事につけなかったのかね?」と。


 彼は数年前まで、大手の都市銀行で、部長をしていた。この浜松へは、生まれ故郷ということで、定年と同時に、移り住んできた。彼の父親の残した土地が、あちこちにあった。そこで私が、「本も書いています」と言うと、「いやあ、こういう時代だから、本を書いてもダメでしょ。本は売れないでしょ」と。たしかにそうだが、しかしそういうことを面と向かって言われると、さすがの私でもムッとくる。


 問題は、なぜY氏のような人間が生まれるか、だ。仕事第一主義などという、生やさしいものではない。彼にしてみれば、人間の価値まで、その仕事で決まるらしい。いや、それ以上に、なぜ、人は、そこまで鼻もちならないエリート意識をもつことができるのか。自尊心という言葉があるが、その自尊心とも違う。肩書きや地位にしがみつくのは、自尊心ではない。自尊心というのは、生きる誇りをいう。肩書きや地位とは、関係ない。彼のような人間は、戦後の狂った経済社会が生みだした、あわれなゾンビでしかない。


 もっとも彼にしてみれば、過去の肩書きや地位を否定するということは、自分の人生そのものを否定することになる。最後は部長になったが、その部長をめざして、どれほど身を粉にして働いたことか。家庭を犠牲にし、自分を犠牲にしたことか。それはわかるが、「では、Y氏は何か?」という部分になると、実のところ何もない。何も浮かんでこない。少なくとも私には、ただの定年退職者(失礼!)。


 別れぎわ、「今度、また自治会の仕事をよろしくお願いします」と言ったら、こう言った。「ああ、県や市でできることがあれば、私に一度、連絡してください。私のほうから口をきいてあげます」と。そうそう、こうも言った。「林君は、カウンセリングもできるのですか。だったら、国のほうでも、そういう仕事があるはずですから、今度、私のほうで、話してみてあげますよ。知事とも、懇意にしていますから……」と。


 おめでたい人というのは、Y氏のような人をいう。が、私は心の中で、Y氏とは、完全につながりを切った。「何かの仕事の話になっても、(そういうことはありえないが)、断ろう」と心に決めた。
(02-12-2)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●老後


 おととい、Pペイントという、日本でも一、二を争うペンキ会社で、会長をしていたというT氏が、久しぶりに我が家へ寄ってくれた。一五年ぶり? 玄関で会ったとき、「お元気ですか」と言いかけたが、思わず、その言葉がのどの奥に引っ込んでしまった。T氏は、すっかり老人ぽくなってしまっていた。


 居間でしばらく話していると、やがて年齢の話になった。私が「五五歳になりました」と言うと、「いいですねえ、これからですよ」と。私が驚いていると、こうつづけた。「ちょうどバブルのころということもありましてね。私が本当に自分の仕事ができたと思うのは、五六歳から六三歳までのときでした。頭も体も、すこぶる快調で、気持ちよく仕事ができました」と。


 実のところ、私は、自分でも実感できるほど、体の調子がよい。昨日も講演先の小学校で、階段を三段とびにのぼっていたら、あとから追いかけてきた校長が、「足がじょうぶですね」とほめてくれた。「はあ、自転車で鍛えていますから」と答えたが、そのおかげというか、健康には、これといって、不安なところはない。ダイエットしたおかげで、どこか頭の中もスッキリしている。


 私は年配の人が、私に向かって、「若くていいですね」と言うときは、いつもそれを疑ってしまう。「本当にそうかな?」「なぐさめてくれているのかな?」「お世辞かな?」と。五五歳になった私の印象としては、「先が読めない」という不安感のほうが強い。「これからはガンになる確率がぐんと高くなる」とか、「これからはすべてが先細りになる」とか、そんなことばかり考える。よくワイフは、「あなたは、見かけは若々しいけど、中身は老人ぽい」と言うが、本当にその通りだと思う。


 ルソー(フランスの思想家、一七一二~七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけている。多分、これを書いたとき、彼も今の私と同じ、五〇歳代だったのだろう。


 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。


 あのルソーですら、「貪欲に動かされる」と。いわんや私をや……と、居なおるわけではないが、五五歳というのは、ちょうど、「そうであってはいけない」「しかしそういう自分も捨てきれない」と、そのハザマで悩む年齢かもしれない。まだ野心の燃えカスのようなものも、心のどこかに残っている?


 T氏はさかんに、「まだまだ、これからですよ」と言ってくれたが、「これから先、何ができるのだろうか」という思いも、また強い。またそういう思いとも戦わねばならない。「貪欲さ」がよくないとはわかっているが、しかしそれがなくなったら、生活の基盤そのものが、あやうくなる。働いて、仕事をして、稼ぎを得て、それで生きていかねばならない。私のばあい、悠々自適(ゆうゆうじてき)の年金生活というわけにはいかない。いわんや「英知のみを追う」などというのは、夢のまた夢。


 そうそうT氏は別れぎわ、こうも言った。「林さんは、いいねえ。道楽が多くて……。私なんぞ、人間関係のウズの中で、自分を支えるだけで精一杯でした」と。しかしこれは、T氏一流の、私への「なぐさめ」と理解した。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●アンビリーバブル


 世の中には、信じがたい人たちというのは、たしかにいる。ふつうの常識では、考えられない人たちである。実は、先日も、こんなことがあった。


 その男性は、現在、八五歳。子どもはいない。大手の自動車会社の研究所で、研究員を長年したあと、筑波(つくば)の国立研究所で、一〇年ほど研究員をした。そのあと、しばらく私立大学の教壇に立ったあと、今は、退職し、年金生活を送っている。が、そのあといろいろないきさつがあって、このH市に住んでいる。


 ここまではよくある話だが、実は、その男性は、がんを患っている。もう余命はそれほど、ない。手術も考えたが、年齢が年齢だからという理由で、抗がん剤だけで治療している。が、私が「信じがたい」というのは、そのことではない。その男性は、莫大な資産家でもある。市内だけでも、大きなビルを、三か所もっている。それに大地主。市の中心部と郊外に、一〇〇〇坪単位の土地をいくつかもっている。ハンパな金持ちではない。


 が、だ。その男性、今、別の男性(五二歳)と、わずか一〇坪の土地について、民事調停をしている。本来なら、話しあいでどうにかなった問題だが、関係が、こじれてそうなった。先日も、その土地をはさんで、二人が道路で、大声で怒鳴りあう喧嘩(けんか)をしていたという。


 私はこの話を聞いて、「へえエ~」と言ったきり、言葉が出なかった。


 もし私ががんを宣告されたら、それだけで意気消沈してしまうだろう。何もできなくなるだろう。しかも八五歳といえば、私より三〇歳も年上ということになる。そういう人生の大先輩が、その上、大金持ちが、わずか一〇坪の土地のことで、言い争っている? 人間の「生」への執着心というか、はっきり言えば、愚かさというか、それが私には信じられなかった。あるいは何がそうまで、その男性を、駆り立てるのか?


 ここまで考えて、私はしばらく、あちこちの本を読みなおしてみた。で、最初に目についたのが、ミルトン(一六〇八~七四、イギリスの詩人)の『わめく女』。その中でミルトンは、こう書いている。「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。これだけを根拠にするわけではないが、どうも年をとればとるほど、人間的な円熟味がましてくるというのは、ウソのようだ。中には、退化する人もいる? そういえば、ギリシャのソフォクレスも、「老人は再び子ども」という有名な言葉を残している。


 私はこの男性の話を聞いたとき、「老年とは何か」、それを考えてしまった。あるいはこういう人たちは、その年齢になっても、まだ人生は永遠につづくとでも、思っているのだろうか。仮にあの世があるとしても、あの世まで、財産をもっていくことができるとでも思っているのだろうか。さらに「死」を目前にして、我欲にとりつかれることの虚しさを覚えないのだろうか。さらにあるいは、老年には老年の、私たちが知る由もない、特別の心理状態があるのだろうか。


 これは近所の男性(八〇歳)のことだが、こんな話もある。ある夜、隣の家の人に、その男性が「助けにきてほしい」と電話をしてきたという。そこでその隣の人が、その男性の家にかけつけてみると、その男性は玄関先で倒れていたという。隣の人がそれを見て、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、その男性は、こう言ったという。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」と。


 この話を聞いたときも、私はわが耳を疑った。その男性は、だれに対して、何を恥ずかしいと思ったのだろうか。


 さてさて、人はだれしも、老いる。それは避けることのできない未来である。末路と言ってもよい。そういうとき、どういう心理状態になり、どういう人生観をもつか。私は私なりに、その準備というわけでもないが、それを知りたいと思っている。で、こういう人たちが一つの手がかりになるはずのだが、しかし、残念ながら、私には、まったく理解できない。冒頭に書いたように、どれだけ、また何回、頭の中で反芻(はんすう)しても、理解できない。信じられない。つまりアンビリーバブルな話ということになる。この問題は、ひょっとしたら、私自身がもう少し年をとらねば、わからない問題なのかもしれない。


 ただここで言えることは、老人のなり方をまちがえると、かえってヘンな人間になってしまうということ。偏屈でがんこになるのならまだしも、邪悪な人間になることもある。そういう意味では、人間は、死ぬまで、前向きに生きなければならない。うしろを向いたときから、その人間は、退化する。釈迦も、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、それを説明した。「死ぬまで精進せよ(前向きに生きろ)」と。
(02-12-4)


●老人が、人生の大家であるというのは、まったくの幻想である。何と醜い老人が多いことか。またこの世の中に、のさばっていることか。……と書いて、私たちはそうであってはいけない。またそういう老人になってはいけない。一方的に老人を礼さんする人というのは、その人自身がすでに、その老人の仲間になっているか、前向きに生きるのをやめたということを意味する。本当にすばらしい老人というのは、自らが醜いことを知っている老人である。安易な老人美化論には、注意しよう!


●私の観察では、人間は、早い人で、もう二〇歳くらいから進歩することをやめてしまう。あるいは三〇歳くらいから、それまでの人生を繰り返すようになる。毎年、毎月、毎日、同じことを繰り返すことで、そのときどきを、無難に生きようとする。あるいは考えることをやめてしまう。が、なおさらに、タチが悪いことに、自らを退化させてしまう人もいる。そういう意味で、人間にとっては、「停滞」は、「退化」を意味する。それはちょうど、川の流れのようなものではないか。よどんだ水は、腐る。


●自らを輝かせて生きるためには、いつも前向きに生きていかねばならない。恩師は、一つの方法として、「新しい情報をいつも手に入れることだ」と教えてくれた。また別の恩師は、「いつもトップクラスの人とつきあうことだ。新しい世界にチャレンジすれば、自然と、自分が磨かれる」と教えてくれた。方法はいろいろある。山に登るにも、道は必ずしも一つではない。


●そこで考えてみよう。あなたのまわりには、老人と呼ばれる人がたくさんいる。あなた自身も、すでにその老人の仲間になっているかもしれない。そういう老人や、あなたは、今、輝いているか、と。実は、これは私自身の問題でもある。私は今、満五五歳。このところとみに気力が衰えてきたのがわかる。何かわずらわしいことが起きると、それが若いころの何倍も気になるようになった。チャレンジ精神も薄れてきたように思う。できるならひとり、のんびりと暮らしたいと思うことも多い。つまり私自身、輝きをなくしつつあるように思う。


●そこで、考える。どうすればいいのか、と。逃げるわけではないが、この問題は、これから先、私にとっては、大きな問題になるような気がする。今は、ここまでしか書けないが、この問題は、近々、決着をつけなければならないと思っている。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ルソーとミルトン

 ルソーもミルトンも、同じ言葉を使っている。
「貪欲」という言葉である。

(1)まず、ルソー。

 ルソー(フランスの思想家、一七一二~七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけている。
多分、これを書いたとき、五〇歳代だったのだろう。

 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳では貪欲に動かされる。
人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。

(2)ミルトン(一六〇八~七四、イギリスの詩人)は、『わめく女』の中で、こう書いている。
「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。

 ただしミルトンは、敬虔なキリスト教徒の立場で、「貪欲」という言葉を使っている。
そのことは、ここにあげる「On Time」という詩を読んでもわかる。

 ともあれ年を取れば取るほど、貪欲になっていく老人は多い。
少なくとも、加齢とともに、人は賢くなっていくわけではない。
多くは世俗に巻き込まれ、自分を見失い、強欲になっていく。
それを避けるために、私たちは何をすべきか。
何を準備すべきか。
結局は『精進』という言葉に行き着く。

 それがそのまま、このエッセーの結論ということになる。

●補記(John Miltonの詩より・「On Time」)

ON TIME(予定どおりに)

FLY, envious Time, till thou run out thy race;ねたましい時よ、燃え尽きるまで過ぎろ
Call on the lazy leaden-stepping hours,怠惰で、鉛にように重い時を訪ねよ
Whose speed is but the heavy plummet's pace;その速さは、恐ろしく遅い
And glut thyself with what thy womb devours,子宮がむさぼるもので、汝の食欲を満たせ
Which is no more then what is false and vain,それは失敗でも無駄でもない
And merely mortal dross;ただの死すべき無価値なもの
So little is our loss,失うものは、ほとんどない
So little is thy gain.得るものも、ほとんどない。
For when, as each thing bad thou hast entomb'dなぜなら悪しきものはすべて墓に葬られ
And last of all thy greedy self consumed,汝の貪欲さは、すべて消耗されるから
Then long Eternity shall greet our bliss,そのとき長い永遠が、祝福で私たちを迎える
With an individual kiss;それぞれの接吻で
And Joy shall overtake us, as a flood,喜びが洪水のように、私たちを包み、
When every thing that is sincerely good,誠実でよきものすべてが
And perfectly divine,完ぺきに神々しいものとなる
With truth, and peace, and love, shall ever shine,真実と平和と愛が、永遠に輝く
About the supreme throne神の最高位の王位の上に
Of Him, to whose happy-making sight, alone,そこに見えるのは、幸福な光景のみ
When once our heavenly-guided soul shall climb,ひとたび魂が天に導かれ昇るなら
Then all this earthly grossness quit,地上の世俗は、消え失せる
Attired with stars, we shall for ever sit,星々で飾られ、私たちは永遠にそこに座る
Triumphing over Death, and Chance, and thee, O Time死と運命と汝を乗り越えて。

(注:訳は私が直感的につけたので、かなり不正確。
ミルトンの基本的なものの考え方を知るにはよい。
ミルトンは、こう言っている。

『貪欲にやりたいことを、とことんやってみろ。
自分を燃やし尽くしてみろ。
それは失敗でも、無駄でもない。
やがてそれが無価値であったことがわかれば、
あなたも神の座に座ることができる』と。)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 「救急車を呼ぶな」 老人の見栄と体裁 貪欲 人格の暴露 人間性 邪悪な人間性)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司