最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●老人よ、前を向いて生きよう!

2011-11-07 04:31:46 | 日記
●老人心理(前向きに生きるvs後ろ向きに生きる)

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老人は、老人独特のものの考え方をする。
先の見えない死生観が、ものの考え方に
大きな影響を与える。
が、その考え方を大きく、2つに分けると、
つぎのようになる。

(1)開放型(前向き型)
(2)閉塞型(後ろ向き型)

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●年金で家?

 少し前、ある老人(男性)が死んだ。
2年近い、苦しい闘病生活のあとに、死んだ。
何かの難病だったと記憶している。

 その様子を、あるテレビ局が取材した。
レポーターが話しかけると、老人の妻が、こう言った。

「2年もがんばってくれたおかげで、娘の家が建ちました」(某テレビ局)と。

 つまり2年間生き延びてくれた。
その分の年金で、娘のために家を建てることができた、と。

 この話は以前にも書いた。

 私のBLOGに、その話を書いた(2009年9月)。
その記事をそのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【損得論】

●損と得

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60歳をすぎて、「損と得」についての考え方が、大きく変わってきた。
「損とは何か」「得とは何か」と。
それをしみじみと(?)、心の中で思いやりながら、
「老人になるというのは、こういうことなのか」と思う。
「老人」といっても、使い古された、老いぼれた人のことではない。
少し照れくさいが、「円熟した人」をいう。

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●何が損か

 この世の中で、「損かどうか」を考えること自体、バカげている。
どんなにあがいても、「死」というもので、私たちは、すべてを失う。
この宇宙もろとも、すべてを失う。
「死」を考えたら、それほどまでの「大きな損」はない。
たとえばあなたが地球上の、ありとあらゆる土地を自分のものにしたとする。
北極から南極まで。
一坪残らず、だ。
が、死んだとたん、すべてを失う。
つまり「死」にまさる(?)、損はない。

 これには、自分の死も、相手の死もない。
そのため「死」をそこに感ずるようになると、日常的に
経験する損など、何でもない。
損とは感じなくなる。

●「金で命は買えん」

 たとえば私の友人の中には、数か月で、数億円も稼いだ人がいた。
その友人は、数年前、死んだ。
莫大な財産を残したが、死んだとたん、「彼の人生は何だったのか?」
となってしまった。

私の母ですら、死ぬ直前、こう言っていた。
「金(=マネー)で命は、買えん」と。
あれほどまで、お金に執着していた母ですら、そう言った。

●得

 一方、「得」と思うことも多くなった。
昨日も、秋の空を見たときも、そう思った。
澄んだ水色の空で、白い筋雲が、幾重にも重なって流れていた。
それを見て、「ああ、生きていてよかった」と思った。

 ただ「損」とちがって、「得」という感覚は、実感しにくい。
大きな青い空を見たからといって、大きく得をしたとは思わない。
反対に、小さな花を見たからといって、大きな青い空を見たときに感ずるそれに、
劣るということはない。

 もちろん私も、金権教にかなり毒されている面もあるから、お金は嫌いではない。
たいていのばあい、金銭的な価値に置き換えて、ものの損得を考える。
たとえば予定外の収入があったりすると、「得した」と思う。
しかし同時に、そこにある種の虚しさを覚えるようになったのも事実。
「だから、それがどうしたの?」と。

●長生き

 では、長生きはどうか?
長生きをすればするほど、得なのか、と。
が、これについても、最近は、こう考える。
「それが無駄な生き方なら、長生きしても、意味はない」と。

 「生きることが無駄」と言っているのではない。
「どうせ生きるなら、最後の最後まで、意味のある生き方をしたい」と
いう意味で、そう言う。
もちろん、できれば、長生きしたい。
たった一度しかない人生だから、それは当然のこと。
問題は、どうしたら、意味のある人生にすることができるか、ということ。

●今のままで、よいのか

 未来は現在の延長線上にある。
とするなら、今の生き方が、未来の生き方になる。
となると、「今のままでいいのか」となる。
今、意味のある人生を送っていない私が、この先、意味のある人生を
送れるようになるということは、ありえない。

 言い換えると、今の生き方そのものが、大切ということになる。
「今日」という「今」ではなく、「この瞬間」における「今」ということになる。
「私は、この瞬間において、意味のある生き方をしているのか」と。

●命の換算

 この話は前にも書いたので恐縮だが、テレビでこんな人を紹介していた。
ある男性だが、何かの病気で、2年近い闘病生活のあと亡くなった。
その男性について、妻である女性が、こう言った。

 「がんばって生きてくれたおかげで、娘の家が建ちました」と。

 つまり夫であるその男性が、死の病床にありながらも、がんばって生きて
くれたので、その年金で、娘のための家を建てることができた、と。

 私はその話を聞いたとき、「夫の命まで、金銭的な価値に置き換えて
考える人もいるのだなあ」と、驚いた。
まあ、本音を言えば、だれだってそう考えるときがある。
私もあるとき、ふと、こう思ったことがある。

「1年、長生きをして、1年、仕事がつづけられたら、○○○万円、
得をすることになる」と。
しかしこの考え方は、まちがっている。
もしこんな考え方が正しいというなら、私は自分の命すら、金銭的な
価値に置き換えてしまっていることになる。

 仕事ができること自体が、喜びなのだ。
収入があるとすれば、それはあとからついてくるもの。
生きる目的として、収入があるわけではない。

●奇跡

 さらに言えば、アインシュタインも言っているように、「この世に生まれた
ことだけでも、奇跡」ということになる。
(あなた)という人間が生まれるについても、そのとき1億個以上の精子が1個の
卵子にたどりつけず、死んでいる。

 もしそのとき、隣の1個の精子が、あなたにかわって卵子にたどりついていたら、
あなたという人間は、この世には存在しない。
そのことは、二卵性双生児(一卵性双生児でもよいが)を見れば、わかる。
外の世界から見れば、(あなた)かもしれないが、それはけっして、(あなた)
ではない。
他人が見れば、(あなた)そっくりの(あなた)かもしれないが、けっして、
(あなた)ではない。

 つまり私たちは、この世にいるということだけ、この大宇宙を手にしたのと
同じくらい、大きな得をしたことになる。

●統合性の確立

 若いときは、生きること自体に、ある種の義務感を覚えた。
子育ての最中は、とくにそうだった。
働くことによって収入を得る。
その収入で、家族を支える。

 しかし今は、それがない。
どこか気が抜けたビールのようになってしまった。
生きる目的というか、心の緊張感が、なくなってしまった。
「がんばって生きる」とは言っても、何のためにがんばればよいのか。

 そこで登場するのが、「統合性」ということになる。
(自分がすべきこと)と、(現実のしていること)を一致させていく。
それを「統合性の確立」というが、この確立に失敗すると、老後も、みじめで
あわれなものになる。
くだらない世間話にうつつを抜かし、自分を見失ってしまう。
そんなオジチャン、オバチャンなら、いくらでもいる。
あるいは明日も今日と同じという人生を繰り返しながら、時間そのものを無駄に
してしまう。

 が、その統合性の確立には、ひとつの条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。
こんな話を、ある小学校の校長から聞いた。

●植物観察会

 ある男性(80歳くらい)は、長い間、高校で理科の教師をしていた。
その男性が、今は、毎月、植物観察会を開いている。
もちろん無料。

 で、雨の日でも集合場所にやってきて、だれかが来るのを待っているという。
そしてだれも来ないとわかると、そのまま、また家に帰っていくという。

 その男性にとっては、植物観察会が生きがいになっている。
参加者が多くても、またゼロでも構わない。
大切なことは、その(生きがい)を絶やさないこと。

 が、もしその男性が、有料で植物観察会をしていたら、どうだろうか。
月謝を計算し、収入をあてにしていたら、どうだろうか。
生徒数がふえることばかり考えていたら、どうだろうか。
同じ植物観察会も、内容のちがったものになっているにちがいない。
つまり、無私、無欲でしているから、その男性の行動には意味がある。
「統合性の確立」というのは、それをいう。

●変化

 損か、得か?
それを考えるとき、これだけは忘れてはいけない。
今、ここに生きていること自体、たいへんな得をしているということ。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 そして損ということになれば、「死」ほど、大きな損はない。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 つまり生まれたこと自体、大きな得。
死ぬこと自体、大きな損。
私たちは、その得と損の間の世界で、ささいな損得に惑わされながら生きている・

 ・・・というようなふうに、このところ考えることが多くなった。
私自身が「死」に近づいたせいなのか。
それとも「生」の意味が少しはわかるようになったせいなのか。
どうであるにせよ、「損と得」について、私の考え方が大きく変わってきた。
この先のことはわからないが、人は老人になると、みな、そう考えるようになるのか。
それとも、私だけのことなのか。
どうであるにせよ、今は、自分の中で起こりつつある変化を、静かに見守りたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 老後 損得論 損か得か 自己の統合性 統合性の確立 2年の闘病生活 おかげで 娘の家 建った)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「1円も渡したくない」

 冒頭にあげた老人の話は、原稿の内容からして、2009年の9月より、さらに以前の話ということになる。
それはともかくも、その妻の言葉は、老人心理をうまく表現していて、たいへん興味深い。
というのも、このタイプの老人は、たいへん多い。

 たとえば、ある老人は、1か月でも長生きをすれば得と考えている。
その分だけ、年金が余計に入るからという。

 また別の老人は、反対にそれまでもっていた土地(実家の跡地)を、市に寄付してしまった。
その土地は、現在、「記念公園」になっている。
理由を聞くと、「息子や娘には、1円も渡したくないから」と。

 一見、正反対の老人のようにみえるが、中身は同じ。
ものの考え方が、後ろ向き。
つまり閉塞型。

 が、こんな話は、どうだろう。

●失う

 ある老人(75歳くらい)は、マラソンが趣味。
若いころは、いろいろな大会に出ては、賞を取っていた。
そのこともあって、今でも、毎朝、1~2時間ほど、走っている。

 で、こういう話を聞くと、みなこう思う。
「健康のために走っている」「すばらしい老人」と。
しかしその老人のばあいは、中身が、かなりちがう。

 その老人は、失うことを恐れて走っている。
つまり「走れなくなること」を恐れて、走っている。
わかるかな?

 その中身は、金持ちが金(マネー)を失うのを恐れる心理と、同じ。
……と書いても、一般の人には、なかなか理解できないかもしれない。

●優越感

 その老人にとっては、「走れる」ということが、ステータスになっていた。
ちょうど金持ちが、貧しい人を見下すように、それでもって、いつも不健康な人を見下していた。
そしてその分だけ、優越感に浸(ひた)っていた。
「あいつは、もう歩けなくなった」とか、「あいつはもう車いすに乗っている」とか。

 その優越感を守るために、毎朝、走っていた。

●老人心理

 もちろん、みながみな、そうであるというわけではない。
またそうした損得感や優越感を、「悪」と決めつけて考えるのも、正しくない。
年金を1か月でも長くもらうために長生きするのも、人生。
優越感を保つために、毎朝走るのも、これまた人生。
人は、それぞれの人生を、それぞれの思いをもって生きる。

 が、先にも書いたように、老人の心理というのは、若い人たちが考えているより、はるかに複雑。
年季が入っている分だけ、複雑。
一筋縄では理解できない。
……というようなことを、年々、より強く感ずるようになった。

●開放型

 では、開放型の老人は、どうか?
それについては、ワイフが今夜、散歩の途中で、私に聞いた。
「どこで見分けるの?」と。

私「簡単だよ」
ワ「どこ?」
私「そのあとに、……だからそれがどうしたの?、という言葉をつなげてみるとわかる」
ワ「どういうこと?」
私「いいか、たとえば毎朝ランニングしている老人がいたとする。そういう老人に、『だから、それがどうしたの?』という疑問を、そのままぶつけてみればいい。前向きに生きている老人のばあい、答が直接、はね返ってくる。そうでなければそうでない」と。

 話が、入り組んできたので、話題を少し変える。

●Nothing(虚無)!

 イラクのフセイン大統領は死刑になった。
エジプトのムバラク大統領は、失脚した。
もっとも悲劇的だったのは、リビアのカダフィ大佐。
最後は下水管の中で発見され、射殺された。

 『すべてをもつ者は、すべてを恐れる』という。
あるいは『すべてをもつものは、失うことを恐れる』でもよい。
へたに余計なものをもっているから、失うことを恐れる。
何も独裁者だけの話ではない。
ある女性(70歳)の口癖は、いつも同じ。
「そんなことすれば、貯金が減る」と。

 貯金に異常なこだわりをみせている。

 つまり人生も、(もの)と考える。
(もの)と考え、失うことを恐れる。
(反対に、長生きすることを得と考える。)
そういう人は、万事において、生き方が後ろ向き。
表面的な様子にだまされてはいけない。

 一方、数は少ないが、「命」を別の人たちに還元しながら生きている人もいる。
そういう人たちは、(失うこと)を恐れない。
自分の命すらも、他人に捧げてしまう。
そういう人を、ここでいう「開放型の人」という。
(ネーミングがあまりよくないかもしれないが、ほかによい言葉を思いつかなかったので、「開放型」とした。)

 それを知るために、私は「……だから、それがどうしたの?」という言葉を思いついた。

 カダフィ大佐が、すべての権力を手に入れた……だから、それがどうしたの?、と。

 そう問いかけてみると、カダフィ大佐のばあい、そのあとに、何も残らないのがわかる。
つまり、Nothing(虚無)!

●「……だからそれがどうしたの?」

 わかりやすく言えば、生きる意味を、常に他人と結びつけていくのを、開放型という。
反対に自己満足のためだけに生きている人を、閉塞型という。
どちらがよいかといえば、開放型がよいに決まっている。
が、自分を開放型にするのは、並大抵の努力では、できない。
つまりそこらの、(私も含めての話だが)、凡人には無理。
ほとんどの人は、その一歩も二歩も手前で、その先に進むことをあきらめてしまう。
が、そうであってはいけない。

 そこでひとつのヒント。
何かを言ったり、したりしたら、すかさず、「だからそれがどうしたの?」と自問してみればよい。
前向きに生きているときには、そのとたん、ズシリとした答が返ってくる。
が、そうでないときは、そうでない。
スーッとそのまま答がどこかへ消えてしまう。

 たとえば……。
新しい車を買った……だからそれがどうしたの?
今夜はおいしいものを食べた……だからそれがどうしたの?
息子がよい大学へ入った……だからそれがどうしたの?、と。
 
 ……しかしこれについては、以前にも書いたことがある。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

書いた日付はわからないが、No.600となっているから、
10年ほど前(2000年ごろ)に書いた原稿ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(600)

●「xxxx」を読んで……

 どういうわけか、ポロッと、古い本が、出てきた。「アレッ」と思って表紙を見ると、20年ほど前に買った、単行本(新書版)だった。
タイトルは、「xxxx」。

 そのときは、1ページごとに、頭をハンマーでたたかれるような衝撃を受けた。
著者は、ST。
今まで気づかなかったが、M大学の元学長だったそうだ。
奥付を読みながら、ふと、「今でも生きているのだろうか?」と思った。

 ほぼ20年ぶりに、その本を読みなおす。「感動よ、再び……」と思って、読みなおす。が、読めば読むほど、「そうかなあ?」と思ってみたり、「私なら、こう書くのに……」と思ってみたりする。

 奥付から計算すると、ST氏が、60歳くらいのときに、書いた本ということになる。
当時は、週刊誌にも連載記事を書くなど、よく知られた評論家だった。
そのST氏の書いたことに、「?」をもつようになったのは、それだけ私に、「私」ができたためか。
それとも、私に、「クセ」ができたためか。

 本の内容より、そうした自分自身の変化のほうを知ることが楽しい。
その本は、いわば、私の心のカガミのようなもの。
20年ほど前の私の心を、その中に、映(うつ)し出してくれる。

 このところ、ヒマさえあれば、その本ばかり、読んでいる。

(追記)ST氏のことを、ヤフーで検索してみたが、同姓同名が多くて、消息を知ることができなかった。
多分、もう亡くなってしまったのかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●目的

 目的のない人生は、地図の上で、右往左往するようなもの。
へたをすれば、同じ場所を、ぐるぐると回るだけ、ということになりかねない。
 
 そこで、目的ということになる。
この目的が、その人を、前にひっぱっていく。進むべき、方向を決める。
が、ここで注意しなければ、ならないことがある。
つまり「だからそれがどうしたの?」という部分がないまま、我欲を追求する。
それは、ここでいう「目的」ではない。

 たとえば、おいしい料理を食べる。
 たとえば、すばらしい高級車に乗る。
 たとえば、きれいな服を着る。

 そのとき、ほんの一言でよいから、自分に問うてみる。
「だから、それがどうしたの?」と。

 ほとんどの人は、その時点で、がく然とするはず。
それもそのはず、ほとんどの人は、ほとんどの時間を、目的など考えないで、過ごしている。
「ただそうしたいから、そうしているだけ」「ただ、そうできるから、そうしているだけ」と。

 それが悪いというわけではない。
「生きる」ということは、そうした日常生活の積み重ねの上に、成りたっている。
が、それでは、満足できない。
そこで私たちは、その中から、自分の目的をさがし始める。もう少し、順を追って、説明してみよう。

 たとえばA氏は、車に、関心があった。
そしていつか、ドイツのBxx車を買いたいと願っていた。

 そこでA氏は、いつもより懸命に働き、そしてお金をためた。
ためて、念願のBxx車を手に入れた。

 つまりA氏は、Bxxを買うことを目的とした。
それで働いて、その車を手に入れた。A氏にすれば、A氏の目的を達成したことになる。
その車は、A氏のものになった。

 が、この段階で、もしA氏が、自分に、「だからどうしたの?」と、問うてみたとしたら、どうなるだろうか。

 毎日、ワックスをかけて、ピカピカにみがくのが楽しい。
 毎日、近くの行楽地を走ってみるのが、楽しい。
 毎日、知人や友人を助手席に座らせて、ドライブするのが、楽しい。

 それはわかる。しかし、それがどうしたの?

 昨日、子ども(生徒、小3)たちと、こんな会話をした。

私「おとなになったら、何になりたい?」
A「野球の選手」
私「野球の選手になって、どうする?」
A「有名になって、お金を稼ぐ」

私「お金を稼いで、どうする?」
A[ほしいものを買う]
私「ほしいものを買って、どうする?」
A「(ほしいものが、手に入れば)、うれしい」と。

 しかしそれで心の満足は得られるのだろうか。
……と考えたが、それは言わなかった。

私「がんばって、野球の選手になれよ。応援するよ」と。

 つまり、こうした我欲の追求は、「目的」ではない。
たとえば織田信長。
今でも、織田信長を信奉する政治家や、実業家は多い。
それはわかる。信長自身は、毛利遠征の途上に逗留した本能寺(京都市)で、家臣の明智光秀に襲われ、自害した。
そのため彼がめざした、天下統一が、何であったのかは、今では、知ることができない。

 私の印象では、ただがむしゃらに、殺戮(さつりく)、平定を繰りかえしただけの人物ではなかったかと思う。
信長が、商工業者に、楽市、楽座の朱印状を与え、経済を活性化させたとか、関所を廃止して、流通を自由にしたとかいうのは、あくまでも、自分の野望を完成させるためにした、その結果でしかない。

 信長が、日本人全体の、安寧(あんねい)と、幸福を考えて、天下統一をめざしたかというと、そういうことは、ありえない。
いくら歴史書を読んでも、そういう意図が、浮かびあがってこない。

 つまり信長も、結局は、明智光秀に自害を迫られるまで、「だからそれがどうなの?」という部分のないまま、生きたことになる。

 そこで再び、目的論ということになる。

 つまり私たちが「目的」としていることは、実は、目的ではなく、手段にすぎないということ。
そこに気づけば、これらの問題は、解決する。

 「Bxxの車を買う」「野球の選手になる」「天下を自分のものにする」というのは、実は、目的にたどりつくための手段にすぎない。

 では、目的は何かということになる。

 たとえばあのアンネ・フランクは、当時、ただの少女でありながら、こう、看破(かんぱ)している。

 We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same.
 (私たちは、みな、幸福になるという目的をもって、生きるのよ。みんなの生活は、みな、ちがうけど、目的は、同じよ、と。

 つまり、「幸福になるのが、目的」と。

 今朝は、ここまでしか書けないが、ギリシャの劇作家のソフォクレスは、こう書き残している。

 知恵のみが、幸福の最高の部分である。(Wisdom is the supreme part of happiness. )と。 

 モノや金ではない。知恵である、と。

 私は、このソフォクレスの言葉を、信じたい。
この原稿のしめくくりとして、そしてあえて(?)、自分をなぐさめるために。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。
その基盤と方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。
若い人たちは、真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。
その価値がわからないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。
そしてその価値にひれ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていればよし。そうでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。
そのときを予想しながら、子どもの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。
それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。
ものを書き始めたのが、40歳前後。
それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くようになったのは、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。
どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づかなかったのか。
どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。
本当に悔やまれる。
もっと早くスタートしていれば、頭の働きだって、まだよかったはず。
どこかボケかけたような状態で、そしてこれから先、ますますボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。
本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・善・美の追求を、今から始めてほしい。
30代でも、20代でも、早すぎるということはない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。
どんな本に目を通しても、出てくるのは、ため息ばかり。
「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。
と、同時に、「後悔」のもつ恐ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。
時間や健康、それに脳ミソの働きには、かぎりがあります。
余計なお節介かもしれませんが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これからの老人像

 もう答は出たようなもの。

 老人はけっして老人臭くなってはいけない。
後ろ向きになってはいけない。
そういう意味で、老人心理を知るひとつのヒントとして、ここで老人論を考えてみた。
あくまでも私自身の努力目標のひとつとして。

 明日こそは、その目標に、少しでも近づいてみよう……ということで、今夜はここまで。
ワイフが横へ来て、「寝よう」「寝よう」と言っている。
高貴な哲学者にでもなったような気分だったが、それが消えた。

 私のワイフは、どうしてこうまで俗っぽいのか?


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●子どもの心と、その発達段階論

2011-11-07 03:15:18 | 日記
●子どもの心とその形成期

=====子どもの心は、いつどのように作られるか=====

【第一の方向性】

【乳幼児期・信頼関係の構築期】(0歳~2歳前後)

●基本的信頼関係

 幼児の心は、段階的に形成されていく。混然一体となり、一次曲線的に形成されていく
のではない。たとえば0歳から2歳ごろまでの乳幼児期。エリクソン(※1)という学者は、
この時期を「信頼関係の構築期」と位置づけている。信頼関係…つまり母子の間における
信頼関係をいう。
 この信頼関係の構築に失敗すると、いわゆる心の開けない子どもになる。さらにひどく
なると、情意(心)と表情が、一致しなくなる。指導する側から見ると、「何を考えている
か、わからない子ども」ということになる。これは子どもにとっても、不幸なことである。
良好な人間関係を結べなくなる。そのためいつも孤独感にさいなまれるようになる。
 そこでその子どもは、外の世界で友を求める。しかし心が閉じているから、外の世界に
なじめない。その分だけ精神疲労を起こしやすい。ときに傷つく。それを繰り返す。
そうした心の状態を、ショーペンハウエルという心理学者は、『2匹のヤマアラシ』という
言葉を使って説明した。
 2匹のヤマアラシ…ある寒い夜、2匹のヤマアラシは、たがいにくっついて暖を取ろう
とした。が、くっつきすぎると、たがいの針が痛い。離れると寒い。だから2匹のヤマア
ラシは、一晩中、くっついたり離れたりを繰り返した。

●2匹の犬

 私はこのことを、2匹の犬を飼って知った。1匹は、保健所で処分される寸前の犬。こ
れをA犬とする。人間でいうなら、育児拒否、冷淡、無視、虐待を経験した犬ということ
になる。

もう一匹は、超の上に超がつく愛犬家の家で生まれ育った犬。私の家に来てからも、しば
らくは、私は自分のふとんの中で抱いて寝た。これをB犬とする。
 2匹の犬は、性格がまったくちがった。A犬は、だれにも愛想がよく、シッポを振った。
そのため番犬にはならなかった。おまけに少しでも目を離すと、家の外へ。道路で見つけ
ても、叱られるのがこわいのか、私からサーッと逃げていった。
 一方B犬は、忠誠心が強く、他人が与えた餌には口をつけなかった。私の言いつけもよ
く守った。もちろん番犬になった。見知らぬ人が庭へ入ると、けたたたましく吠えた。
 A犬と私の間には、最後まで信頼関係は構築できなかった。一方、B犬と私は、最後ま
で深い信頼関係で結ばれていた。

●性格

 が、それだけではすまない。心は性格として定着する。「私」がない分だけ、自分を偽る。
仮面をかぶる。おとなにへつらったり、相手の機嫌を取ったりする。おとなの前で、いい
子ぶったりする。イプセンの『人形の家』の主人公を例にあげるまでもない。
 …ということで、この時期は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)を大切
にする。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。つまり子どもの側から
すれば、「どんなことをしても許される」という安心感。母親側からすれば、「どんなこと
をしても許す」という包容力。この2つがあいまって、はじめて母子の間の信頼関係が構
築される。が、不幸にして不幸な家庭に育ち、信頼関係の構築に失敗すれば、基本的不信
関係となり、生涯に渡ってその子どもは、重い十字架を背負うことになる。

●親子の絆

 親子の絆にしても、そうだ。最近の研究によれば、人間にも、刷り込み(インプリンテ
ィング)(※3)に似たようなものがあることがわかってきた。孵化してすぐ二足歩行を始め
る鳥類は、最初に見たものや聞いたものを親と思い込む。それを刷り込みというが、その
とき親子の絆は、本能に近い部分にまで刷り込まれる。
 人間のばあい、生後0か月から7か月前後までが、その時期とされる。この時期を「敏
感期」と呼ぶ学者もいる。この時期における親子の絆作りがいかに重要かは、このひとつ
をとっても、わかる。

●子どもを愛せない母親

 その一方で、子どもを愛することができないと、人知れず悩んでいる母親も多い。東京
都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%
もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」
(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)。
 私が同時期に浜松市で調査したところ、「10%」という数字が出てきた。程度の差もあ
るが、「兄は愛せないが、妹は愛せる」という母親も含めると、10%になる。
 また虐待についても、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしていると
いう。(妹尾栄一調査)。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたり
しない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときど
きある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。
その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、
「虐待なし」が、61%であったという。
 母親だから子どもを愛しているはずと決めつけて考えてはいけない。

●世代連鎖

 ついでながら、虐待について一言。『子育ては本能ではなく、学習である』。とくに人間
のような高度な知能をもった動物ほどそうで、親に育てられたという経験が身にしみてい
てこそ、今度はその子どもが親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。あ
るいは親から受けた子育てを、そのまま繰り返す。これを「世代連鎖」という。
 つまり子育てとは、子どもを育てることではない。子どもに子育ての仕方を見せる。見
せるだけでは足りない。しみこませておく。「家族というのはこういうものですよ」「夫婦
というのは、こういうものですよ」「親子というのはこういうものですよ」と。
 それがよい世代連鎖であれば、問題はない。が、そうでなければそうでない。たとえば
昔から『離婚家庭で生まれ育った子どもは離婚しやすい』と言う。
 「離婚が悪い」と書いているのではない。離婚率も今や35%(平成19年)に達して
いる。(25万件(離婚届数)を72万件(結婚届数)で割ってみた。)離婚そのものは、
子どもの心にはほとんど影響を与えない。離婚に至る家庭騒動が、影響を与える。どうか
誤解のないように!
 とくに世代連鎖しやすいのが虐待ということになる。親が子どもを虐待するのはしかた
ないとしても、今度はその子どもが自分の子ども(孫)を虐待するようになる。それを見
て、そのとき親が、「しまった!」と気づいても遅い。つまり虐待はしない。

●心の病気の(種)も乳幼児期に

 さらに心の病気についても、その(種)は、乳幼児期に作られると説く学者もいる。た
とえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ども
は、『母親から保護される価値のない、自信のない自己像』(※4)を形成すると説く。
 さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になる
こともあるという。それが成人してから、うつ病につながっていく(同氏)、とも。

●自己中心性

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。ものごと
を、(自分)を中心にして考える。「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなもの
は、他人も嫌い」と。
 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思い
こむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。これをピアジェは、「アニ
ミズム」と名づけた。心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、
この時期の子どもの心理を説明する。
 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。風にそよ
ぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。
 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考
える心理をいう。ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、
心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外
の世界の区別ができない。
 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつ
くられたと考える心理である。人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。
ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そう
いう心理は、乳幼児の人工論によって、説明される。
 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されて
いく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには
青年期を迎えることがある。

●原始反射

 なお乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。たとえば、赤ち
ゃんには、赤ちゃん特有の、反射的運動がある。これを「原始反射」と呼ぶ。この原始反
射の多くは、生後3~4か月で、消失してしまうことが知られている。その原始反射には、
つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。
バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、
親指がそりかえり、足の指が開く現象をいう。赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、そ
れに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツのモローによって発見されたとこ
ろから、モロー反射と呼ばれている。口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを
指などで触れると、その指を口にくわえようとする現象をいう。自動歩行反射というのは、
脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そうとする。これを繰りかえ
していると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。マグネット反射というの
は、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象をいう(以上、同書よ
り要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2~4週間で、長くても、8~10か月で消失すると
言われている。で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。赤ちゃんには、
赤ちゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。もうひとつは、いわゆるネ
オテニー進化論の問題である。要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こ
うした現象となって、現れるのではないかということ。本来なら、こうした原始反射とい
ったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失しているべきということになる。
つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしまうということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の
時代からの進化の過程を、一度すべて経験するという。初期のころには、魚のような形に
もなるという。その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れるとも考えられる。

【第2の方向性】

【幼児期前期・自律期】(2~4歳児)

●マシュマロテスト

 1960年代に、スタンフォード大学で、たいへん興味深いテストがなされた。「マシュ
マロテスト」というのが、それである。そのテストを、同大学のHPより、そのまま紹介
させてもらう。

『…スタンフォード大学の附属幼稚園で、4歳児を対象に、マシュマロテストと題したつ
ぎのような実験がおこなわれた。実験者が4歳児に向って、「ちょっとお使いに行ってくる
からね、おじさんが戻ってくるまで待ってくれたら、ごほうびに、このマシュマロを2つ
あげる。でも、それまで待てなかったら、ここにあるマシュマロ1つだけだよ。そのかわ
り今すぐ食べてもいいけどね」と。
 その間、約20分。最後までガマンして、ごほうびにマシュマロ2個をもらった子ども
と、そうでない子どもに分かれた。その4歳児を追跡調査した、興味ある結果が出てきた。
 マシュマロ2個の子どもは1個の子どもに比較して、高校において、学業面ではるかに
優秀で、社会人になってからも高い社会性を身につけ、対人能力にも優れ、困難にも適切
に対処できる人間になっていた…』(同サイト)と。

 ダニエル・ゴールマンは、自著「EMOTIONAL INTELLIGENCE」の中で、この実験を
つぎのように結んでいる。いわく、「明日の利益のために、今の欲望を我慢する忍耐力は、
あらゆる努力の基礎になっている。きたるべき報酬を予期することで、現在の満足を得な
がら目標に向って長期にわたって努力しつづける持続力には、忍耐を要する」(同サイト)
と。

●決定的な差

 この実験を少し補足する。この実験は、1960年代にスタンフォード大学の心理学者
ウォルター・ミシェルが大学構内の付属幼稚園で始めたもので、その後も詳細な追跡調査
がなされている。
 その結果、すぐマシュマロに手を出したグループと、がまんして2個受け取ったグルー
プの間で、決定的な差が生じたことは先に書いたとおりだが、情動を自己規制できたグル
ープは、たとえば、学業の面でも、SAT(大学進学適正試験)(※2)で、もう一方のグル
ープに200点以上もの大差をつけたという(植島啓司著「天才とバカの境目」(宝島社)。

●忍耐力

 よく誤解されるが、この時期の子どもにとって、忍耐力というのは、「いやなことをがま
んしてする力」のことをいう。一日中、サッカーをしているからといって、忍耐力のある
子どもということにはならない。好きなことをしているだけである。ためしに子どもに、
台所のシンクにたまった生ゴミを手で始末させてみるとよい。背が届かなければ、風呂場
の排水口にたまった毛玉でもよい。そういった仕事を、何のためらいもなく、ハイと言っ
てできれば、その子どもはすばらしい子どもということになる。
 もちろんこのタイプの子どもは、学業面でも伸びる。というのも、もともと(勉強)に
は、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。

●自律期

 エリクソンは、この時期を「自律期」と呼んだ。この時期を通して、幼児は、してよい
ことと、してはいけないこと、つまり自分の行動規範を決める。前回教えたこととちがっ
たことを言うと、「ママは前にこう言ったじゃない」と抗議したりする。「幼稚園の先生は
こう言った」と言って、親をたしなめるのも、この時期の子どもの特徴である。それが正
義感へとつながっていく。
 そのためこの時期をとらえ、うまく指導すれば、あと片づけのしつけがたいへんうまく
いく。花瓶の位置がずれていただけで、それが気になり、元の場所に戻そうとする。そう
でなければそうでない。行動そのものが衝動的になり、生活態度そのものが、だらしなく
なる。

●では、どうするか

 子どもの忍耐力を養うためには、「使う」。家庭の中に、ある種の緊張感をつくり、その
緊張感の中に巻き込む。「自分がそれをしなければ、家族のみなが困る」という意識をもた
せるようにする。親がゴロゴロと寝ころんでいて、子どもに向かって、「おい、新聞をもっ
てこい」は、ない。
 ついでながら、この日本では、子どもに楽をさせること、あるいは楽しませることが、
子どもへの愛の証であると誤解している人は多い。あるいはより高価なプレゼントをすれ
ばするほど、親子の絆は太くなると誤解している人も多い。しかし誤解は誤解。そんなこ
とを繰り返せば、子どもはますますドラ息子、ドラ娘化する。やがて手がつけられなくな
る。
 そこでイギリスでは、こう言う。『子どもの心をつかみたかったら、釣り竿を買ってやる
より、いっしょに、釣りに行け』(イギリスの教育格言)と。

【第3の方向性】

【幼児期後期・自立期】(4~5・5歳児)

●暴言

 この時期の子どもの特徴は、生意気になること。親が「新聞を取ってきて!」と頼むと、
「自分のことは自分でしなと言い返したりする。生意気になりながら、自立をめざす。
 で、子どもの自立を促す3種の神器、それが(1)ウソ、(2)暴言、(3)盗み。
 ウソについては、2歳前後から始まる。ウソ寝、ウソ泣きがそれである。
 つぎに暴言。自立期に入ると、親の優位性を打破しようと、子どもは親に向かって暴言
を吐くようになる。「ババア」「ジジイ」「バカ」など。暴言を許せというのではない。暴言
を言えないほどまで、子どもを抑えつけてはいけない。適当にあしらい、あとは無視する。
私のばあい、つぎのような方法で、幼児を指導している。

私「……もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて!」
私「でも、この言葉は、使ってはいけないよ。園長先生とか、お父さんに言ってはだめだ
よ」
子「わかった。約束する」と。

 そこで私はおもむろに、こう言う。「ビダンシ(美男子)」と。それ以後幼児たちは、喜
んでその言葉を使う。私に向かって、「ビダンシ、ビダンシ!」と。
 盗みについても、同じように考えるが、子どもの金銭感覚(ふえた、減った、得した、
損した)は、年長児から小学2年生ごろまでに完成する。この時期に、欲望を金銭で満た
す方法を覚えると、あとがたいへん。幼児期には100円で喜んでいた子どもでも、高校
生になると1万円、さらに大学生になると10万円になる。
 さらに脳の中(線条体)に受容体ができると、条件反射的にものをほしがるようににな
る。買い物依存症がその一例ということになる。必要だからそれを買うのではない。欲し
いからそれを買うのでもない。(買いたい)という衝動を満たすために、それを買う。
 話しが脱線したが、盗みについては、それが悪いことということを、時間をかけ、ゆっ
くりと説明する。激しく叱ったり、怒鳴りつけたりすれば、子どもは、いわゆる「叱られ
じょうず」になるだけ。いかにも反省していますという様子だけを見せ、その場を逃れよ
うとする。もちろん説教としての意味はない。

●引き出す(educe)

 が、ここでも誤解してはいけないことがある。この時期、「自立心」は、どの子どもにも
平等に備わっている。そのため自立心は育てるものではなく、引き出すもの。が、かえっ
てその自立心をつぶしてしまうことがある。親の過保護、過干渉、溺愛である。とくに過
干渉が、こわい。
 親の威圧的、暴力的、権威主義的な育児姿勢が日常化すると、子どもはいわゆる「過干
渉児」になる。子どもらしいハツラツとした伸びやかさを失い、暗く沈んだ子どもになる。
発達心理学の世界には、「萎縮児」という言葉さえある。最悪のばあいは、精神そのものが
萎縮してしまう。
 (その一方で、同じ家庭環境にありながら、粗放化する子どももいる。親の過干渉にや
りこめられてしまった子どもが萎縮児とするなら、それをたくましくやり返した子どもが
粗放児ということになる。兄が萎縮し、弟が粗放化するというケースは、よく見られる。)

●原因は母親

 原因のほとんどは、母親にある。子育ての不安が、母親をして過干渉に駆り立てる。が、
簡単に見分けることができる。

私、(子どもに向かって)、「お正月にはどこかへ行ってきたの?」
子「……」
母、(それを横で見ていて)、「おじいちゃんの家に行ったでしょ。行ったら、行ったと言い
なさい」
子「……」
私、(再び子どもに向かって)、「楽しかった?」
子「……」
母「楽しかったでしょ。楽しかったら、楽しかったと言いなさい」と。

 子どもの心の内容まで、母親が決めてしまう。典型的な過干渉ママの会話である。

●過保護と溺愛

 過保護といってもいろいろある。食事面の過保護、行動面の過保護など。何か心配の種
があり、親は子どもを過保護にする。「アレルギー体質だから、食事面で気をつかう」など。
 しかし何が悪いかといって、精神面での過保護ほど、悪いものはない。「あの子は悪い子
だから、あの子とは遊んではだめ」「公園にはいじめっ子がいるから、ひとりで行ってはだ
め」など。
 子どもを、厚いカプセルで包んでしまう。で、その結果として、子どもは過保護児にな
る。いつも満足げで、おっとりしている。が、社会性がなく、ブランコを横取りされても、
それに抗議することもできない。そのまま明け渡してしまう、など。だから昔からこう言
う。『温室育ち、外ですぐ風邪をひく』と。
 また溺愛は、「愛」ではない。たいていは、親側に精神的欠陥、情緒的未熟性があって、
親は子どもを溺愛するようになる。つまり自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利
用する。
 ある母親は、毎日幼稚園の塀の外で、子どもの様子をながめていた。また別のある母親
は、私にこう言った。「先生、私、娘(年長児)が病気で幼稚園を休んでくれると、うれし
いです。一日中、看病できると思うと、うれしいです」と。
 親の溺愛が度を越すと、子どもの精神の発育に大きな影響を与える。子どもはちょうど、
飼い主の胸に抱かれた子犬のようになる。だから私はこのタイプの子どもを、「ペット児」
(失礼!)と呼んでいる。飼い慣らされた子犬のように、野生臭が消える。

●臨界期

 それぞれの発達段階には、臨界期がある。言葉の発達、音感や美的感覚の発達などなど。
それぞれの時期をはずすと、指導がたいへんむずかしくなる。あるいは努力の割には、効
果があがらない。心についても、そうである。
 たとえば自立期に入った子どもに、「自律」を教えようとしても、たいてい失敗する。先
に書いた、あと片づけのしつけも、そのひとつ。
 で、幼児期後期で、一度、精神が萎縮してしまうと、以後その改善は、きわめてむずか
しい。『三つ子の魂、百まで』というが、それがそのままその子ども(=人)の人格の「核
(コア)」になる。言い換えると、この時期を過ぎたら、子どもの心はいじらない。「この
子はこういう子である」と認めた上で、教育を組み立てる。へたにいじると、自信なくし
たり、自己評価力の低い子どもになってしまう。

【第4の方向性】

【児童期・勤勉性の構築期】(5・5歳~)

●日本人の勤勉性

 3・11大震災が起きたときのこと。栃木県にあるH自動車栃木工場の操業が不可能に
なってしまった。天井が落下した。その直後、この浜松市から250人もの応援部隊が、
栃木工場に向かった。
 一方、栃木工場にいた設計士たちは、浜松近郊の関連会社へ来て、仕事をつづけた。ま
た被災地においても、ほかの国であるような、略奪、暴動などは、起きなかった。日本人
が培った勤勉性、つまり(組織的なまじめさ)は、災害時においても、いかんなく発揮さ
れた。
 こうした勤勉性は、言うまでもなく、学校教育によって育まれる。いろいろ問題点がな
いわけではない。世界のすう勢は、自由教育。EUでも、大学の単位は共通化された。ア
メリカでは、ホームスクーラー(日本でいうフリースクールに通う子ども)が、2000
年には100万人を超えた。現在、推定で200万人はいるとされる。ドイツでは、午前
中は学校で、午後はクラブでという教育形態が、ふつうになっている(中学生)。カナダで
は、学校の設立さえ、自由である。
 日本もその方向に向かいつつはあるが、ともかくも、勤勉性の構築という点では、日本
の学校教育には、すぐれた面も多い。この(まじめさ)をさして、ある欧米の特派員は、
こう書いた。「これこそまさに日本人の美徳」と。この言葉に異論はない。

【青年期・同一性の確立期】(12歳~)

●同一性の確立

 児童期のあと、子どもは思春期前夜(精神的に不安定になる)、思春期へと進んでいく。
この時期の、言うまでもなく最大かつ最重要の課題は、「同一性の確立」である。
 「私はこうありたい」という(自己概念)。「現実に私はそれをしている」という(現実
自己)。この両者が一致した状態を、「同一性」という。
 児童期の勤勉性と同一性の確立について、エリクソンは、別個のものと考えているよう
だが、実際には、両者の間には、連続性がある。子どもは自分のしたいことを発見し、そ
れを夢中になって繰り返す。それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)
を一致させながら、自我の同一性を確立していく。
 自我の同一性の確立している子どもは、強い。どっしりとした落ち着きがある。誘惑に
対しても、強い抵抗力を示す。が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりんの状態」
になる。心理的にも、たいへん不安定となる。非行にも走りやすい。その結果として、つ
まりその代償的行動として、さまざまな特異行動をとることが知られている。
 たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい自分を
演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型(集団の中
で子分として地位を確立する、非行補助)など。
 もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。「タバコを吸ってみないか?」と声
をかけられると、「うん」と言って、それに従ってしまう。断ることによって仲間はずれに
されるより、そのほうがよいと考えてしまう。
 こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正された
りということは、ほとんどない。

●夢と希望、そして目的

 ただ残念なことにこんな調査結果もある。
子どもを伸ばす、三種の神器といえば、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふ
えた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがあ
る」と思って、一日を終える子どもは、男子で30%、女子で35%にすぎない(「日本社
会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。
 が、これではいけない。自我の同一性どころではないということになる。子どもの夢を
大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。

【終わりに……】

●『子どもは人の父』(ワーズワース)

 このように現在、幼児教育が、教育の分野のみならず、医学(大脳生理学)、心理学の3
方向から、見直され始めている。「幼児だから幼稚」「子どもだから幼稚」という偏見と誤
解が、いまだにのさばっているのは、残念としか言いようがない。むしろ事実は逆。
 幼児時代を「幹」とするなら、それにつづくもろもろの時代は、その「枝葉」にすぎな
い。かつてイギリスの詩人、ワーズワース(1770~1850)は、こう歌った。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれの日が
 そうであることを、私は願う。

 つまり『子どもは、人の父(A Child is Father of the Man)」と。この言葉のもつ重みを、
もう一度、心にしっかりと刻みたい。


注※1 エリクソン…エリク・ホーンブルガー・エリクソン(1902-1994)は、
発達心理学者、精神分析家。「アイデンティティ(自我の同一性)」の概念を提唱したこと
で知られる。ここではエリクソンの心理発達段階論を取りあげた。エリクソンは、心理社
会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように区分した。(1)乳児期(信
頼関係の構築)(2)幼児期前期(自律性の構築)(3)幼児期後期(自主性の構築)(4)
児童期(勤勉性の構築)(5)青年期(同一性の確立)

注※2 SAT…Critical Reading、Writing、Math が、それぞれ200点から800点の表示、
合計2400点満点で評価される。

注※3 インプリンティング…(すりこみ imprinting)とは、刻印づけのこと。コンラー
ト・ローレンツの研究で世界に知られるようになった。

注※4 九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11月)