最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●幼児にとって、自己主張とは何か(自立期の幼児)

2011-11-13 16:00:55 | 日記
●時間という砂時計

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ワイフの老眼鏡が、合わなくなった。
老眼の度が進んでいるという。
眼科医で調べてもらうと、ドクターがそう言ったという。
そこで近くのメガネ屋へ。

大通りに出て右に曲がると、やがて橋を越える。
橋全体が高くなっていて、一瞬だが、見晴らしがよくなる。
川幅は50メートル前後はあるだろうか。
近くの佐鳴湖から浜名湖へ流れる、人工の用水である。

時は晩秋。
明るい日差しを浴びて、川面が光っていた。
が、見ると、ちょうど釣り人が、ルアーを川に投げ込むところだった。
カラフルな服を着ていた。

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●人それぞれ……

 生き様は人、それぞれ。
私は私、あなたはあなた。
人は人。
しかしそれを見た瞬間、私はこう思った。
「ぼくには、できないな」と。

 ……こう書くからといって、魚釣りが、どうこう言うのではない。
また釣り人が、どうこう言うのではない。
先にも書いたように、人、それぞれ。
が、私にはできない。
そうでなくても、時間が足りない。
「忙しい」というのではない。
「時間が足りない」。

●レジュメ

 午前中は、今度浜北区の文化センターで講演をすることになった。
その資料をまとめた。
浜松市内では、今年度最後の講演会である。
総まとめ。
その日に向け、テンションを高めていく。
昨日から少しずつだが、運動量もふやした。

 そのため、つまり資料の整理のために、1~2時間ほどつぶした。
で、そのあと、もう一度、自動車G会の原稿に目を通す。
英文で要約説明文も、書かねばならない。
巻頭言で6ページ。
全世界で発行されるという。
それぞれの国の言語に翻訳されるという。
いろいろな原稿を書いてきたが、これほどまでの依頼は、はじめて。
気合いが入る。

●田丸謙二先生

 田丸謙二先生が、いかに偉大な人物であるかは、いまさらここに書くまでもない。
肩書(経歴)を並べたら、とても1枚の紙には収まらない。
その田丸謙二先生が、先日、ドイツで行われた「ハーバー記念講演会」に講師として招かれた。
全世界から1000人近い、科学者が集まったという。
ノーベル賞受賞者も多数、いたという。

 が、何よりも驚くのは、今年、田丸謙二先生が、88歳であるということ。
常識的に見れば、ヨボヨボの老人ということになる。
その田丸先生に、自動車G会の原稿を送った。

●裸で勝負

 「田丸謙二先生へ、
今度自動車G会のために書いた原稿を送ります。
年1回発行され、全世界で配布されます。

 先生にお会いしたのが、1970年。
そのとき私は心に誓いました。
『この先生と、裸で勝負してやる』と。
先生は東大で、30代で教授になったとか。
東大でも最年少で教授になったと、先生は自慢していました。

 で、以来、42年。
先生から見れば、ヒヨコみたいかもしれませんが、いっさいの組織に属することもなく、いっさいの肩書もなく、ここまでがんばってきました。
ぼくも、88歳までがんばってみます」と。

●魚釣り

 先にも書いたように、「とにかく時間がない」。
今の私は、その一言に尽きる。

 知りたいことは、山のようにある。
知らないことも、これまた山のようにある。
1冊の週刊誌を読んだだけでも、頭の中でバチバチと火花が飛ぶ。
だからといって、私の生き様が正しいとか、また人もそうであるべきとか、そんなふうに考えているわけではない。
私は私。
人は人。

 が、今の私には、仮に100歩譲っても、魚釣りはできない。
食べ物に困って、その食材にということであるなら、話は別。
しかしすぐ、こう考えてしまう。
「……だから、それがどうしたの?」と。
つまり「魚を釣ったからといって、それがどうしたの?」と。

 私に当てはめてみると、その答が返ってこない。
どうしても返ってこない。

●健康余命まで、あと4年

 命は砂時計のようなもの。
「……ようなもの」ではなく、「命は砂時計」と断言してもよい。
刻一刻と、命は短くなっていく。
その心境は大病で、死を宣告された患者と同じ。
「あなたはがんです。余命はあと半年です」と宣告されれば、だれだって慌てる。
が、「あなたの寿命は、あと14年です」と言われても、慌てる人はいない。
が、どうして?

 たったの14年だぞ!
私は現在、64歳。
日本人の平均余命(男性)は、79歳前後。
もっともそれまで元気なら、まだよいほう。
その前、平均して10年間ほど、病魔と闘わねばならない。
(平均余命)から10年を引いた年齢。
これを「健康余命」という。
つまり健康でこうしてがんばれるのも、あと4年。
たったの4年だぞ!

 それを思ったら、とても魚を釣って時間をつぶす余裕などない。
少なくとも、私にはない。

●だからそれがどうしたの?

 私はよく自分に問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。

 そのときズシリとした答が返ってくるときもあれば、そうでないときもある。
その答がないとき、私は深い悔恨の念にとらわれる。
「時間を無駄にした」と。

 先に『命は砂時計』と書いた。
命は、砂時計の砂のように、刻一刻と、下へ落ちていく。
「砂」といっても、ただの砂ではない。
それがわからなければ、「金」に置き換えてもよい。

 若い人にしても、そうだ。
時間給はそれぞれちがうだろう。
しかし同時に、命は、1時間ごとに減っていく。
金銭で置き換えることはできない。
しかしまさに「金(ゴールド)」。
あるいは、はるかにそれ以上。

●定年退職者?

 のどかな風景。
どこにでも見られる風景。
このところ、プラス気になるのは、私の年代層の人たちが、急にふえてきたということ。
見た感じでは、定年退職者?
本当に魚釣りを楽しんでいるというよりは、暇つぶし?

 こう書くとたいへん失礼ということは、よくわかっている。
あるいは本当は、そういう人たちでも、こう叫びたいのかもしれない。
「もっと仕事をしたい」「もっと意味のあることをしたい」と。

 書き忘れたが、用水といっても、全国でも汚染度ナンバー5前後を争っている。
そんな湖から流れ出てくる用水の魚を釣って、食べる人はいない。
だとするなら、なおさら、「……だから、それがどうしたの?」となる。

●老後は孫の世話?

 が、たぶん、若い人たちはこう考えるにちがいない。
「人生も終わったのだから、ゆっくり休んだらどう?」と。

 私も若いころは、老人たちを見て、そう考えていた。
「老後は、庭いじりと孫の世話」と。

 しかし私のその年齢になった。
なってみて、こんなことがわかった。
青い空は、やはり青い空。
白い雲は、やはり白い雲。
老人組に入ったからといって、色があせてくるわけではない。
自分の髪の毛の白さにしても、顔のシワにしても、自分では見えない。
つまり心は、若いときと、何も変わっていない。

 若い人たちが、「庭いじりと孫の世話はできない」と思うのと同じように、私たちだって、本音を言えば、それだけで時間をつぶすことはできない。
が、それよりも恐ろしいことが起きるようになる。

●底に穴のあいたバケツ

 これは推測でも何でもない。
医学的に証明された事実でもない。
しかし実感として、老人組に入ると、それがよくわかる。
つまり脳みその底に穴があいたような状態になる。
それがよくわかる。
その穴から、知識や経験、技術や能力が、どんどんと外へこぼれ出ていく。

 ほんの数か月前まで知っていたことが、消えてしまったり、ほんの数週間前までできたことができなくなったりする。
そんなことが連続して起きるようになる。

 ど忘れなど、日常茶飯事。
 
 それは恐怖以外の何物でもない。
が、闘う方法がないわけではない。
先に書いた田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を独学し、60歳のころ、中国の科学院(もっとも権威のある学会)で、記念講演をしている。
もちろん中国語、で!

 そういう先生を鏡にすると、一瞬一秒、無駄にできる時間はない。
が、もしここで今、現在の状態の上にアグラをかいてしまったら……。
それこそ死の待合室にまっしぐら。
たわいもない世間話か、兄弟親類のゴシップ話。
そんな話に花を咲かせるようになる。
しかも繰り返し、繰り返し、同じ話をするようになる。

●終わりに

 だからといって、繰り返すが、魚釣りがどうのとか、それを楽しんでいる人がどうのとか、そんなことを書いているのではない。
私は私。
あなたはあなた。
人は人。

 それぞれの人が、それぞれの人生を歩む。
大切なことは、それぞれの人がそれぞれの人の人生を認めあうこと。

わかっている!

 このエッセーを読んで、こう思っている人もいるにちがいない。
「はやし浩司もかわいそうな男だ」と。
「人生を楽しむことも知らない、あわれな男だ」と。

 しかし誤解しないでほしい。
今の私には、今の私が楽しい。
こうして日々に新しい発見をしていくことが、私には楽しい。

 ……こうして私に好き勝手なことをさせてくれるワイフに感謝しながら……。

(はやし浩司 2011―11―13日記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林 浩司

【自己主張する幼児】(年長5~6歳児)

●自己主張

 まずつぎのYOUTUBEを観てほしい。
前半は、ややかったるいレッスンがつづくが、やがて子どもたち(年長児)が造反し始める。
ワイワイと私に抵抗をし始める。
このYOUTUBEを観ていただければ、子どもの自己主張というものがどういうもか、よくわかってもらえる。

 ただ残念なことに、この日本では、子どもを判断する基準が昔と違ってきた。
国際的にも、かなり違う。
こうして自己主張を繰り返す子どもを、この日本ではむしろできの悪い子どもと位置づける。
が、それは世界の常識ではない。
とくにアメリカでは、「シャイな子ども」を、問題児と位置づけている。
小児うつ病の診断基準のひとつにもなっている。
それもあってアメリカでは、はげしく自己主張する子どもほど、できのよい子どもと考える。
またそういう子どもにするために、教育をする。
「教え育てワクに入れる」のではなく、「子どもの能力をエデュース(educe=引き出す)する」ために、教育をする。

 この違いは大きい。
その結果、日本人は、成人になるころには、キバを抜かれてしまう。
ハキのない、草食系人間になってしまう。
日本国内ではそれでよいとしても、このタイプの人間は、世界では通用しない。
日本を一歩外に出れば、そこは海千山千の世界。
盗賊と海賊が、食うか食われるか、血みどろの戦いをしている。

 ともあれ、子どもの自己主張がどういうものであるか、一度、このYOUTUBEを観てほしい。
年長児(5~6歳児)の子どもたちである。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 幼児の自己主張 幼児期後期の子どもたち 幼児期後期 自立期の子ども 2011/11/13記)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●それでも宇宙人は存在する・・・というささやかな証拠byはやし浩司

2011-11-13 11:45:39 | 日記
●「宇宙人の存在」(はやし浩司がつかんだ、ささやかな証拠)

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 MSN・ニュースサイトに、こんな興味深い記事が載っている。

 ノーベル科学賞を受賞した、ポール・クルーグマン氏が、11月10日、自身が担当する米ニューヨークタイムズ紙のレギュラーコラムで、先日ホワイトハウスが宇宙人との接触を否定した発表について、厳しく批判したというのだ。

 「Fools」「Fools」と冒頭から冗談か真剣からともかく激しい批判の口調で書き始めている「Space:The Final Stimulus」と題して論を展開している。

 「宇宙人の存在こそが、次の経済の希望になるということをわかっていないのか」と政府を批判したという(以上、MSNニュース・サイトより)。

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●宇宙人の存在

 私は気がつかなかったが、この記事によれば、ホワイトハウスが、宇宙人との接触を否定したらしい。
それについて、ノーベル科学賞を受賞した、ポール・クルーグマン氏が、「バカ、バカ!」と一蹴。
その上で、「宇宙人の存在こそが、次の経済の希望になるということをわかっていないのか」と政府を批判した、というのだ。

●希望

 宇宙人の存在は、たしかに大きな希望である。
恐ろしい宇宙人もいるそうだが、逆説的に考えるなら、そういう宇宙人は少数派。

もし宇宙人がいて、その宇宙人が邪悪で、攻撃的であったとするなら、その宇宙人はとっくの昔に自滅していたはず。
破滅的な兵器も、同時にもっているはず。
その兵器で、自滅していたはず。

 宇宙を自由に行き来できるような科学力をもっている宇宙人がいるとするなら、その宇宙人は、同時に、穏やかで平和的。
そうでなければ、……たとえば人間のように半世紀ごとに大きな戦争を繰り返すような宇宙人なら、この宇宙では生きてはいかれない。
とっくの昔に自滅していたはず。

 もしそこに宇宙人がいるとするなら、穏やかで平和的。
そういう宇宙人に接触することは、希望以外の何ものでない。

●宇宙人がいるという証拠

 それにしても不思議なのは、なぜこの場に及んでも、アメリカ政府やNASAは、宇宙人の存在を否定するかということ。
もうここまでわかっているのだから、いいかげんに事実を認めたらよい。
繰り返しになるが、私がつかんだ、「ささやかな証拠」をここに再掲載する。

 なおここに紹介する「火星上空を飛ぶUFO」について、知人の1人は、「カメラのレンズについたゴミ」と評している。
が、カメラをいじったことのある人なら、みな知っている。
レンズについたゴミは、こんなふうには、写らない。

 さらにおかしなことに、その後発表された写真には、このUFOは写っていない。
消されている。
NASAはなぜ、そんな小細工ばかり、繰り返すのか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宇宙人はいる!(2011年5月に書いた原稿より)


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「はやし浩司」という1人の、小さな人間が住む、
そのまた小さな世界。
その中で、はやし浩司ははやし浩司なりに、
宇宙人の存在を確信した。


それは私の人生の中でも、特筆すべきできごと
といってもよい。
「他人を介していない」という意味において、
また私自身が確信できるという意味において、
特筆すべきことできごとといってもよい。


小さな、そのまた小さな証明だが、しかし
それ以上の証明が、この私にできるだろうか。
組織力も、調査力もない。
どこまでも小さな私である。
あなたと同じ、小さな人間である。


何はさておき、ここに新聞のコピー(1)と、
火星で撮影された写真(2)を、並べて掲載する。


(1)の記事は、私が2000年11月25日(土)に、
中日新聞に寄稿したエッセーである。
「2000年」という年号に注意しておいてほしい。


(2)の写真は、2003年6月10日に打ち上げられた、
アメリカの火星探査機「スピリット」が、地球に
送ってきた写真である。
スピリットは、2004年1月3日に火星に到達している。
つまりこの写真は、どんなに早くて、2004年1月
3日以後に撮影されたものということになる。


この「2004年」という年号に注意しておいてほしい。
その上で、私自身が描いた新聞上のイラストと、
スピリットが送ってきた写真を見比べてみてほしい。


もし逆、つまり私が描いたイラストがスピリットが
送ってきた写真よりあとということなら、私が
スピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたと疑われてもしかたない。
しかし私のほうが、先に書いている。
2000年の11月である。
スピリットがこの写真を送ってきたのは、少なくとも
2004年1月以後である。
私がスピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたということは、ありえない!


つまりこれが、私という小さな人間の、ささやかな、
実にささやかな「証拠」ということになる。
「宇宙人は存在する」という、ささやかな証拠
ということになる。


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(1)


2000年月1125日発表の原稿
★2000年、私が発表したコラム


★原稿より(上、写真版の読みづらい人は、どうか下をお読みください。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●見たぞ、UFO!(中日新聞記事より)(2000年11月)


見たものは見た。巨大なUFO、だ。
ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。
見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。


 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。


そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。
あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。
その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。
私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。
「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。


 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。
その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。
もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。
私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。


が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。
当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。
矢追氏はその番組のディレクターをしていた。
あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。
私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。


 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。
人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。
そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。
もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。


 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。
この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と言う人もいる。
しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論だけではない。
小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。


そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。
たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


イラスト拡大図(2000年11月の記事より)
★コラムの中のイラストの拡大図


d88cbd81.jpg
★火星探査機「スピリット」が送ってきた、火星上空を浮遊するUFO(2004年)


●火星上のUFO.jpg
★(UFOの拡大写真)


2004年に火星探査機「スピリット」によって撮影された火星上空のUFO
★別の本に紹介された、火星上空のUFO(「世界のUFO現象」(学研))


●宇宙人は、確かにいる!


 私はあの夜のことを忘れない。
あの夜、私とワイフは、UFOを見た。
が、当初、私は、それをUFOとは思わなかった。
私が聞いていたUFOは、円盤形のものをいう。
「く」の字型(ブーメラン型)のUFOなど、知るよしもなかった。
しかも、巨大だった。
天空をぐいと横切るほど、巨大だった。
新聞記事の中では、1、2キロと書いたが、実際のところ、よくわからない。
それよりも大きかったかもしれない。
あるいは小さかったかもしれない。
が、飛行機とは比較にならないほど、巨大だった。


 あの夜見たものを、もう一度、整理しておきたい。


(1)窓


 私もワイフも窓らしきものを目撃している。
大きな丸い窓(?)で、よく見ないとわからないほど、淡い橙色のものだった。
私はそれはジグザグに並んでいたように思うが、ワイフは、一直線だったと言っている。


(2)黒いシルエット


 私は黒いシルエット(輪郭)を見ているが、ワイフはよく覚えていないという。
最初はそのシルエットは見えなかった。
少しずつ黒くなって、真上にきたとき、黒いシルエットとなった。
黒いシルエットが、その背景の夜空よりも黒く、夜空に浮かびあがった。
月は出ていなかったように記憶している。


 私が記憶しているシルエットは、中日新聞紙上で発表したとおりである。
私はその形を忘れないように、当時、何かにメモした記憶がある。


(3)消え方


 私が見たそのUFOは、西の方角からゆっくりやってきて、真上に来たとき、突然
スピードをあげ、東の方角へ飛んでいった。
スーッという感じだった。
そのときのこと。
そのUFOは、遠ざかって消えるというよりは、空に溶け込むようにして
消えていった。
大きさは遠ざかるにつれて小さくなったように感じたが、そのまま透明になり、
消えていった。


 その先に白い小さな筋雲がいくつかあったように記憶している。
そのUFOは、雲の中に消えたのではない。


(4)自衛隊に電話


 その直後、私は電話帳で自衛隊基地の番号を知り、電話をかけた。
何度もかけたように記憶している。
その夜は、ほとんど一睡もせず、朝を待った。


 電話がやっとつながったのは、午前8時30分だったように記憶している。
つながった先は、たしか「管制室」だったと思う。
電話口の向こうの男性は、「そういう報告はあがっていません」とだけ、何度も
繰り返した。
私は「そんなはずはない!」と、何度も押し問答を繰り返した。
「あんな大きなものが上空を通過したのに、レーダーに映っていないはずがないだろ!」
と言った記憶がある。


(参考)(豊田ひろし氏のHPより抜粋)


『……火星の表面を移動し、水が存在した証拠を探る米航空宇宙局(NASA)の無人探査車「スピリット」が米太平洋時間3日[2004年1月]午後8時35分(日本時間4日午後1時35分)、火星に着陸、周囲の写真撮影に成功しました。


 スピリットは、火星の大気圏に時速1万9000キロ以上の高速で突入。パラシュートとロケット噴射で減速するとともに、24個のエアバッグを膨らませて本体を包み、着陸後バウンドを繰り返した末に無事停止しました。専門家が「地獄のようなもの」と呼ぶ、1400度を超す高温と接地時の激しい衝撃に耐え、探査車は生き残りました。


 スピリットは2003年6月10日MER-A 1号機によって打ち上げられ,約7ヶ月弱で火星に到着しました。


スピリットは今後約1週間かけて観測機器の機能を確認。その後約3カ月間、周囲を走り回り、カメラや試料採取装置などを使って岩石や土壌の組成を分析、水の痕跡を探ることで、生命の有無を確かめます。いままでは,すべてモノクロ写真の地上撮影でしたが,今回は地上のカラー写真もはじめて撮影しました』(豊田ひろし氏のHPより)。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●希望論(2000年ごろ書いた原稿より)

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。
『希望とは、めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。
『絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。
『私のばあい、希望をなくしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがいる。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう一〇年にもなるだろうか。
「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子どもたちの世界で流行した。
その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。
そのときその女の子(小一)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。
ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よくわかる。
希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。
それにまつわる人間たちが、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、ときに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。
もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつくらなかったのか」と。

それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」と。
 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに転載する。

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子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。
時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。
あるいはそういうワナにハマりやすい。
ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。
社会に対しては、そこまできびしいのか。
親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
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●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。

「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
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●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。
高校生の娘もいる。
そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。
それが問題なのだ。
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●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。
そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

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 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。
その中に、「希望論」を織りまぜた。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。それが希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だらく)」という言葉を使って、それを説明する。
もちろんこれはキリスト教の立場にそった、希望論であり、絶望論ということになる。
だからほかの世界では、また違った考え方をする。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶望論を説いた。
が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひかれる。
「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。
だからいきなり、「そういう人間になるのが希望だ」と言われても困る。
しかし何となく、この説話は正しいような気がする。
言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。
つい先日も、私は生徒たち(小四)にこう言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。
強いカードをもっていると、心はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。
幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線を引かないと、時間をムダにすることになるよ。
カードなんかより、自分の時間のほうが、はるかに大切ものだよ。
それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否定するのは、正しくない。
もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、心を休めたり、癒(いや)したりする。
が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではない。
またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。
大切なことは、どこかで一線を引くこと。
でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ポール・クルーグマン氏(ノーベル科学賞受賞者)

 ポール・クルーグマン氏について、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『ポール・クルーグマン(Paul Robin Krugman、1953年2月28日)は、アメリカの経済学者、コラムニスト。
現在、プリンストン大学教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授を兼任。
1991年にジョン・ベーツ・クラーク賞、2004年にアストゥリアス皇太子賞社会科学部門、2008年にはノーベル経済学賞を受賞した。

専門の国際経済学の分野以外でも積極的に発言しており、反ジョージ・W・ブッシュの旗手としても知られる。

また、2008年の民主党大統領候補指名のキャンペーンでヒラリー・クリントン候補のメディケア政策を擁護し、一時的にバラク・オバマ陣営から批判が出たものの、結果的にはメディケアに対してオバマ陣営が当初表明していた共和党寄りの方針を撤回させ、民主党の本流の政策に転換させることに成功している。
ただし、この論争がしこりとなりクルーグマンは民主党の要職から外れることになった』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。

 ポール・クルーグマン氏については、そういう人であるということがわかった。
MSNニュースにあるように、「ノーベル科学賞」ではなく、「ノーベル経済学賞」。
そう言えば、「ノーベル科学賞」というのは、聞いたことがない。
正しくは「ノーベル経済学賞」。

 ともかくも、そういう人の発言であるだけに、たいへん興味深い。

●宇宙人はいる!

 宇宙人論では、私はかなり叩かれた。
事実、教育の世界で宇宙人を口にすると、即、変人扱いを受ける。
(ただし私は教室で、子どもたちに宇宙人の話をしたことはない。念のため。)

 「君は教育者を名乗るのだから、そういうことは口にしないほうがいい」と忠告してくれた人もいる。
(私自身は、「教育者」を名乗ったことは、一度もないのだが……。)

 が、ここに書いたコラムのように、「見たものは、見た!」。
たったそれだけのことだが、この日本では、それすら、自由に言ったり書いたりすることができない。

 ……つまり、こうして一歩、一歩、アメリカ政府やNASAを追いつめていく。
彼らは、何かを隠している。
つまり何かを知っている。
それを知るのは、人類全体の「希望」でもある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ノア 人間を滅ぼすくらいなら ポール・クルーグマン はやし浩司 火星上空のUFO ブーメラン型UFO)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司






●優越感について考える

2011-11-13 10:32:29 | 日記
【R631】【映画「1911】【優越感vs劣等感】

●秋の夕暮れ時

 夕方になって、やっと少し時間ができた。
……できたというか、今現在、TOSHIBAのR631の初期設定を進めている。
その第一。
アンチ・ウィルス・ソフトのインストール。
そのアンチ・ウィルス・ソフトには、「Microsoft Security Essentials」(無料版)を使うことにした。

無料ながら、ほかの有料ソフトにひけをとらない(Mr. PC誌)。
Microsoft社製ということからもわかるように、安心して使える。
が、さらにすごいことができる。
エクスプローラーで調べたいファイルを選び、そこで右クリックをすると、そのファイルだけをチェックしてくれる。

それと目下、WINDOWのUPDATE中。
この2つだけで、すでに1時間ほど時間を無駄にした。

 外はすっかり夕暮れ時。
庭のクルミの木の葉が、冷たい冬の風の中で、ヒラヒラと揺れている。
今にも落ちそうな、ボロボロの枯葉。
私は子どものころから、こういう景色が苦手。
気分まで落ち込む。

●パソコン作法

 パソコンをネットにつなげるためには、この先、無線LANの設定をしたあと、メールの初期設定をしなければならない。

作業そのものは、たいしたことない。
10~20分前後ですむはず。
しかし今は、それがもどかしい。
言い換えると、こういう作業がつづくから、パソコンはただの電気製品ではない。
この段階で、パソコンを投げ出してしまう人も多い。

 では、だれかに設定を手伝ってもらえば、それでよいかというと、そうでもない。
パソコンを使いこなすには、それなりの知識と経験、それに失敗が必要。
冷や汗をかきながら、人は、パソコンの使い方を学習する。
「ウィルスが入った」と平気な顔をしていられる人は、まったくの素人か、それなりのプロ。
そのどちらか。

 そういうこともあるから、重要なファイルは、いつも二重、三重に保存しておく。
それはパソコンを相手にするときの、大鉄則。

●遠鉄デパート

 JR浜松の駅前に、今度、遠鉄デパートが、新しいオープンした。
南側に旧館。
北側に新館。
「冥土のみやげに」ということでもないが、今夕、ワイフと行ってみた。

 私の印象としては、電車の乗客を、どこまで取り込めるかで、成否が決まるのでは?
車でやってくる人もいるが、それだけでは各フロアを客で満たすことはできない。
やはり電車の乗客。
が、それ以上に驚いたのは、人通りの多いこと。
土曜日の夜ということもあって、人がゾロゾロと歩いていた。

 浜松市は、町(=駅前)の活性化ということで、毎年、億単位の予算を組んでいる。
その効果はあるのか、ないのか。
たとえば遠鉄電車のガード下に、「べんがら横丁(ラーメン横丁)」というのがある。
が、5、6年を経た今は、閑古鳥が鳴いている。
半数は、店をたたんでいる。
正確には13店舗中、5店舗が厚いボードで覆われている。
遠鉄デパートから、歩いて1分もない。
そんなところでも、このあり様。
理由は、本気度の欠落。
店の作りからして、お粗末。

 で、成否を決めるのは、本気度。
遠鉄デパートでは、その本気度を感じた。
……というか、今、全国、どこへ行っても駅前は元気がない。
みじめなのは、郷里の岐阜市。
JR岐阜駅の前。
シャッター街がずらりと並んでいる。
最近、駅前の2つのデパートですら、閉店したと聞いている。
だから浜松くらいは……というふうに、最近は考えるようになった。
「浜松くらいは、がんばってほしい」と。

 で、その遠鉄デパート。
私が見たところ、高級店をねらっているよう。
どの階でもワイフがこう言った。
「高いわねえ」と。
つまり値段が高い、と。
松菱デパートの失敗もある。
浜松の松坂屋をねらったが、数年で倒産した。

現在のバブル経済がはじけ、この先、大不況の荒波が押し寄せたとき、果たして遠鉄デパートは、生き残ることができるのか?

 がんばれ、浜松!
がんばれ、遠鉄!
……と書いてみたが、私自身は、リピーターになることは、まずない。
モノを買うこともない。
あれほどの高級店は、私には縁がない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●映画『1911』

 街へ行った帰りに、劇場で、映画『1911』を観てきた。
断言はできないが、台湾製の映画かと思う。
それとも香港製?
孫文をこの上なく、称えている。

 が、イマイチ、主題がどこにあるのか、よくわからない映画だった。
編集が甘いというか、的をしぼりきれていなかった。
孫文の歴史映画なのか、ジャッキー・チェンの映画なのか、それとも革命映画なのか?
恋愛映画のようでもあり、政治的プロパガンダ映画のようでもあった。
映像そのものは、『赤壁』に優るとも劣らない映画であっただけに、残念。
……というか、「台湾映画、恐るべし!」という印象をもった。
星は、3つの、★★★。
ジャッキー・チェンの演技がすばらしかったので、おまけに(+)の★★★+。

 楽しんで観る映画というよりは、歴史の重みをズシリと感ずる映画だった。

(注)ネットで調べてみたら、「製作国、中国」となっていた。
漢字が簡略体になっていたので、「?」と思っていたが、中国映画だった。
中国もすごい映画を作るようになった。
中国映画、恐るべし!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●SSDパソコン

 R631には、ハードディスクは搭載されていない。
SDメモリーのみ。
そのため、起動がめちゃめちゃ速い。
スイッチONから、デスクトップ画面まで、10秒もかからない。
「速い」「速い」と喜んでいたら、こんな弊害も現れた。

 私はほかにも、TOSHIBAのダイナブックを4台使っている。
が、そのどれもが、使い物にならなくなってしまった。
遅いのなんのといったら、これでは勝負にならない。
モタモタというより、モッタリ、モッタリ……という感じ。

 この先、パソコンは、SSDが主流になる。
一度、SSDパソコンを使ったら、ほかのパソコンが使えなくなる。
まちがいなく、そうなる。

●人生は一度でたくさん

 人は先へ行ってはじめて、うしろが見える。
自分が利口になってはじめて、それまでの自分がバカだったと知る。
R631を使ってみて、改めて、それを確認した。
つまりより性能のよいパソコンを使ってはじめて、それまでのパソコンがいかに性能の悪いものだったかがわかる。

 映画『1911』の中に、こんな気になるシーンがあった。
若い男性が、ジャッキー・チェンに向かって、こんなようなことを言う。
「あなたはもう老人だから、未来はない」(記憶)と。

 しかし本当に、そうか?
自分が老人組だからというわけではないが、私たちには過去があり、その分だけ、若い人たちの未来がよく見える。
が、若い人たちには、それが見えない。
私たち老人組は、みな、バカと思っている。
しかし私たち老人組からみると、若い人たちは、みな、バカに見える(失礼!)。
私たちがしてきたのと同じ過去を繰り返しながら、自分では自分の人生を歩んでいるつもりでいる。

 つまり老人には未来がないのではない。
若い人たちが言う「未来」は、すでに経験済み。
その上で、私たち老人組は、自分の人生を生きている。
少し回りくどい言い方をしたが、平たく言えば、こう。

 「私たちには未来がある。老人には未来がない」と、優越感に浸(ひた)ってはいけない。
明日のことはわからない。
あなたは老人になる前に、命を終えるかもしれない。
事故や病気は、運と確率の問題。
さらに言えば、「命」は、「生き様」の問題。
無益にダラダラと時間を無駄にするかもしれない。
年齢という数字の問題ではない。

 優越感に浸れば浸るほど、いつか、逆の立場になったとき、あなたが今度は追われる立場になる。
これは何も、(年齢)にかぎった話ではない。

 だから私自身は、こう思う。
神様か何かが現れて私にこう言ったとする。
「君を、40年、若くしてあげようか」と。

 もし今のままの知識と経験をもったまま、40年、若くしてくれるならよい。
しかし脳みそも一度、リセットされるというのであれば、私は断る。
人生は一度で、たくさん。
こりごり。
またすべてをイチから始めろと言われても、私には、できない。
だから断る。

 相手の命の短さを理由に、優越感に浸ってはいけない。
浸れば浸るほど、今度はその人生観で、いつか自分が苦しむことになる。

●人間の価値

 もし優越感があるとするなら、(その反対に劣等感でもよいが)、こんなとき。
たとえばだれにもまねできないような、偉業をなしたとき。
あるいは反対に、だれにもまねできないような偉業をなした人に出会ったとき。

 一度、ワールドカップ・日本代表だった選手と、2時間ほど、話したことがある。
私の教室の生徒の親だった。
そのときのこと。
対峙して座ったとたん、身がひきしまるような緊張感を覚えた。
同時に、別の心でこんなことを考えた。
「私は20代の男性を前に、大きな劣等感を覚えている」と。
「私は彼の年齢のとき、何をしていたのだ」とも。

 そういう過ごし方をした人なら、反対に私に対して優越感をもったとしても、おかしくない。
しかしそういう人にかぎって、おおらかで、穏やか。
人を包み込むようなやさしさを、併せもっている。

 つまりその人の価値は、(何をした人か)(何をしている人か)で決まる。
肩書や経歴など、腸から出るガス程度の意味もない。
もちろん(年齢)ではない。

 ……こう書くからといって、私はけっして自己弁護しているわけではない。
私は先日、64歳になった。
若い人たちからみれば老人組だが、私自身は、自分が老人と思っていない。
まだまだ若い……という意味で、「ヤング・オールド・マン(Young Old Man)」と位置づけている。
仕事も健康も、快調。
「仕事がない」と言って、そこらでショボくれている若い人たちよりは、ずっと意気軒昂(けんこう)。

 そういう私だから、年配の人にも、年齢に関係なく、敬意を払っている。
どんな老人を見ても、「この人には未来がない」などと思ったことはない。

●優越感

 要するに優越感にせよ、劣等感にせよ、そういったものには、意味はない。
ナンセンス!
そう言い切ってもよい。

 ……というようなことを、映画『1911』の1シーンを観ながら、考えた。
本物をベースにした映画だけに、迫力もあった。
次回は、ブラッド・ピット主演の『マネー・ボール』。
あるいは『インモータルズ』。
楽しみ。

●11月12日夜

 こうして2011年11月12日も終わる。
家に帰り、寝支度がすんだのが、午後11時40分。
明日の午前中は、とくに予定がない。
早起きして、思う存分、R631を叩いてみたい。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司